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Stage 4. 春雨攻防戦 10 


 その言葉で。
(あぁ)
 遊はようやく状況を飲み込むことができた。
(認められたんだ)
 気が抜ける。まもなくその場にへたり込んだ遊は、床に両手を付いて項垂れながらマナの声を聞いた。
「客には話、通しておいてやる、これからあんたは堂々とフロントやってればいい。女のごたごたはあたしが請け負ってやるから安心しとけ」
 面を上げれば、楽しそうなマナの顔。先ほどの彼女の発言に疑問を覚え、遊は思わず挙手していた。
「あのぉ」
「なにか?」
「客ってそんなに少ないんですか?」
 話を通すといっても、いつなんとき来るか判らない客に、彼女一人が話を付けていくというのは土台ムリな気がするのだが。
 遊の疑問を解消したのは、曲を提案してくれたあの少女だ。
「なぁに貴女、働いてるのに知らなかったの?」
 いつの間にか、彼女は遊の傍らで身をかがめていた。その口に浮かぶのは、呆れ交じりの忍び笑い。首を捻った遊に、彼女はさらに笑いを大きくして言葉を続けた。
「ここは会員制のお店よ。一見さんお断りなの。古いお客さんの紹介なしには絶対入れないんだから。ここに来るっていうのは、結構大変なことなのよ」
(あ…)
『あそこはそういう店だからな』
 ふと遊は、春先どうしてこの店が未成年をアルバイトとして雇うことがばれないのか、と音羽に尋ねたことがある。
 そのときの彼の回答が、それだった。
 つまり、身元を保証できる人間しか、来てはならない。そしてどこかに、顧客リストもあるのかもしれない。マナが鶴の一声を発すれば、客はそれに従うのだ。
 さっきからマナがマトノのことを馬鹿女と連呼していたことを思い出す。それは単なる罵りの言葉ばかりだと思っていたが、もしかしたら彼女を見知った上での、悲嘆の声なのかもしれない。
「ねぇ立って。コレから私とデュエットしましょう」
「おやコトコさん。つれないなぁ僕とはデュエットしてくれないのかな? 妬いてしまうよ」
「やだリオン君。女の子に妬いたりしないで。なんなら三人で歌いましょ」
 少女とホストの兄さんの会話を耳に入れつつ、遊はえいや、そいや、と身体を左右に揺すっていた。他者が見れば奇妙な運動に見えるかもしれない。その遊の姿を認めた少女が、おかしそうに笑う。
「やだ、なにやってるの?」
 遊は真顔になった。頬が紅潮していくのを感じる。視線を思わず床のほうへとそらして、口の中でもごもごと言葉を転がした。
「……た」
「え?」
「腰、ぬけた」
 きょとん、と少女とホストが目を丸める。
 そして一瞬後、顔を見合わせた彼らの狭間に弾けたのは、爆笑だった。
 頭上で弾ける笑いに、遊は渋面になる。なにもそんなに笑わなくとも。こちらだって必死だったのだ。抗議の声を上げようとしたところで、頭にかかった影に、遊は面を上げた。
「……隻兄?」
「お疲れ様」
 穏やかな微笑を浮かべて佇んでいたのは、隻だった。
 彼はそのまま腰を屈め、遊の両脇に腕を差し入れた。まるで赤子でも抱き上げるかのような容易さで、遊の決して軽くはない身体を彼は抱き上げる。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。重力を感じて、足場の不安定さと突然の状況に、思わず遊は思わず蒼白になった。
「せせせ、隻兄!」
 狼狽に上ずった声を上げる遊を、隻はこともなげに抱きなおす。
「大人しくして」
 ぞく、となるような、甘い声。
 思わずひっとしゃくりあげたような声を漏らすと、隻は愉快そうに笑った。その反応が気に食わず、遊は眉根をきつく寄せて彼を睨み据える。降参だよ、とばかりに肩を軽くすくめた隻は、笑いを含んだ声で言葉を続けた。
「今日の主役は君に決定したからね。何せ、ドンペリ十二人分を入れてくれたわけだし」
 が、そんなものはどうだっていいのである。
「いいい、いやそんなの関係ない関係ない。おろしておろして!」
 意外に抱き上げられるというのは怖いものだ。遊は早急に、迅速に、イミーディエタリーに、地面に両足を付けたかった。
 だが隻はいっこうに遊を解放する素振りを見せない。どこか悠然とした表情で、彼は腕の位置を整える。細身の癖に、意外に力があるものである。いやいや感心している場合ではないが。
「今日のラストソングはお前だからな」
 そういって歩み寄ってきたのは音羽だった。彼は詰まらなさそうな表情を浮かべてはいる。が、どこかその声には笑いが含まれていなくもない。
「客の一番とホストの一番を、今日はお前が演じるわけだ。出世だぞ。フロント見習いから、一日だけな」
「……ナニソレ」
「お店の最後に歌うラストソング、ホストで指名一番の子が歌うのよ」
 立ち上がった少女が、うきうきと言った。
「そしてドンペリコールを入れたお客は、お姫様扱いなんだ遊」
 遊の直ぐ下にある顔が、柔らかな微笑をたたえて付け加える。
「正確にはマナ姐がコール入れたんだけど、君のおかげだしね。今日は君がお姫様」
 間近で見る隻の顔は、今更であるが惚れ惚れとするほどだ。うーんなかなか役得かもしれないと唸っていると、音羽が冷水を浴びせかけるが如くの一言を吐き出した。
「もう少し店のことを勉強しておけ。お前働いている店のことを知らなさ過ぎる」
「……だってフロント業のことを覚えるので精一杯なのよ」
 なんだっていらんときにばかり声をかけてくるんだこの男は、という遊の叫びは音羽の胸中に届かなかったのであろう多分。
「ノウミソに皺がないんだろう」
 さらりとした音羽の一言に、脳裏でかちんという金属音が響き渡るのを遊は耳にした気がした。
「あ、あんたねぇ!」
 身を乗り出して拳を振り回す。だが、その被害を被ったのは音羽ではない――隻だ。
「うわ! ユトあぶなとととっ、あ」
 彼は遊を抱えたままどうにか体の均衡を保とうと奮闘していた。そのバランス感覚たるや、体操選手にも負けないぐらいなのではないか。
 しかし哀しいことに、彼のその涙ぐましい努力は、ボーイの体の一部分をうっかり衝突させるという行為によって微塵に打ち砕かれた。
 あ、と呻いても、もう遅い。
「きゃぁ!」
 気がつけば、周囲の人間を巻き込んで、遊たちはその場にドミノ倒しに転倒していた。


「面白い子だ」
「一億三千万円税別の子ですから」
「……はぁ?」
 煙草をくわえたマナは、集が口にした言葉の意味を図りかねて、首をかしげた。この男とは長い付き合いだが、相変わらず言動が突飛だ。まぁだからこそ、あの緑子の夫になれたのだろうが。
「価値はありましたよ。ご覧の通り」
 集が顎で指し示した先には、笑う人だかり。その中心には遊、と呼ばれる少女が据えられ、囲む人々の中には隻や音羽の姿も見える。
「兄弟に気に入られてんのかよ珍しい」
「華やかですよ女の子っていいものですねぇ」
「オーナー、あたしの話を聞きやがれ」
 しみじみうっとり呟く集の脇腹に、マナはごすっと拳を入れてみた。周囲の人間がぎょっと目を剥いていたが、当の本人である集に、気にした素振りは見られない。つまらない、と拳を引き戻すと、おっとりとした口調で集が答えた。
「棗なんか妹のように可愛がっていらっしゃいますが」
「……ちゃんとあたしの話きいてるんじゃねぇかオジサマ」
 先ほどの質問に対するきちんとした返答。集はいつもこんな調子だ、とマナは思い返した。しばらく面と面つき合わせて会話することがなくなっていたので、この感覚を忘れていたのだ。
「棗まで、気に入ってんの」
 感嘆は、言葉に混じってその抑揚を削り落とす。
 ホストの一人が差し出してくれたライターの火に、本日何本目だかわからない煙草をくわえた顔を寄せた。ぱちんというライターが閉じられる音と共に再び身体を起こして、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
 白く濁る視界の向こうで、笑う男女。その中心に居る娘。
 そこに、被る面影がある。
「真砂に似てるね」
 紫煙に混じるように吐き出された言葉は、きちんと集の耳に届いたようだ。
「そうですか?」
 へらり、と笑って訊き返してくる集にふっと紫煙を吹きかける。距離があるので、その顔に直接、には至らなかったが。
「すっとぼけんなよオジサマ」
 自分でも鋭い、と思う声で、呻く。
 目を閉じると、思い描くものがある。
 黒髪の少女。向日葵のようにはじけるように笑っていた娘。
 そのようにあろうと、必死に背伸びをして、努力していた娘。
 必死に。
 必死に。
 そんな部分が、少し似ている。
「真砂と同じ?」
「えぇ。ワタクシが連れて帰りました」
 その一言で、全てを知る。
「あとで詳しく話せよ」
 嘆息交じりにそう請えば。
「かしこまりました」
 面白がるような含みを持たせた口調で、集が承諾した。
 最高級のドンペリニョンロゼとゴールド。それらの乗った台車を携えて、ボーイの少年がやってくる。やがて響いてくるドンペリコール。しばらく集と自分の間には沈黙が流れていたが、弾かれたように突如面を上げた集が、困惑の声を漏らした。
「しまった」
 ん? と面を上げたマナに、これほどない真剣さを込めて彼が低く呻いた。

「ドンペリ、足りないかもしれません」


「いつからだ?」
 冷蔵庫の稼動音のみが静かに響くキッチンは、綺麗に片付けられている。最初はずいぶんとまごつきながら片づけを行っていたようだが、一月も毎日同じことを繰り返していれば慣れるのだろう。寝ぼけながら片付けたにしては、上出来だ。
 誰もが寝静まる、夜更け。
 静寂の中に自分の声は馬鹿馬鹿しいぐらいによく響いた。それは目の前で壁に背中をもたせかけながら薄く笑う男の声も同じことだ。自分たちの声、容姿、所作、ありとあらゆるものには影響力がある。自分たちは、それを知っている。
 音羽は、渇いた喉を唾で潤して、子供に対して問いただすように、ゆっくりと言葉を繰り返した。
「何時から、お前は、遊と、そう呼ぶようになったんだ?」
「さぁ何時からだろう」
「ふざけるなちゃんと答えろ」
「俺だって覚えてないよ」
「嘘をつけ」
 腕を組んだ隻は、その指先に挟んでいる煙草をゆっくりと口元へと持っていった。ふっと吐き出される白い煙は、虚空にゆらめき、そして霧散していく。
 睨み据えているつもりだが、棗の鋭い眼光をいなすことが自分には可能なように、彼もまた自分の睨め付けなどには慣れているのだ。
 隻がもう片方の手に持っていた灰皿に、まだ火をつけたばかりの煙草を押し付ける。彼の退室の気配を察して、音羽は廊下側の扉の前に回りこんだ。
「オイ」
「はいコレ上げる」
 ぽん、と音羽の手に押し付けられたのは、封切されたばかりの煙草だった。まだ、二、三本しか吸っていないのではないか。驚きに面を上げると、隻の、薄笑いが眼前にあった。
「強いて言えば、ゲームにまけた、そのときからだよ」
「……は?」
「何時からって、今俺に訊いたばかりでしょ。音羽」
「え、あぁ、で、なんで煙草」
「もう吸わないから、あげる」
 飛び上がりそうな勢いで、音羽は驚いた。隻はあまり人前では見せないが、ヘビースモーカーである。一日にいくつも箱をあける姿を、音羽は見てきていた。それをあっさりやめるというのだ。
 その意味を、一瞬のうちに音羽は悟り、驚愕の声色で問いただした。
「本気か?」
「うん」
 隻は即答した。
 雷で打たれたような衝撃とはこのようなことをいうのだろう。知り得た事実に、音羽は眩暈がした。
 相手は、ただ、家に転がり込んできた小生意気な小娘に、過ぎないのに。
「お前、だ、大体、いくつ、年が離れていると思って」
「あぁでも十年と半分ぐらいじゃん平気平気。今は駄目でもちゃんと成人したらいけるよ。四十年離れた相手に入れ込む好色爺も世の中にはいるぐらいだし?」
「隻」
「ゲームの第二ラウンドだよ。今度は負けない――負けるつもりはない。参加しないなら、黙っていて音羽」
「……誰が、参加なんてするか阿呆」
「だよね。よかった」
 その、兄が浮かべる微笑は確かに微笑だが。
 明確な、威嚇の色があった。
 沈黙の帳が、下りる。
 ふと隻が顔を窓のほうへと向けた。昨日から降り続く霧雨で、しっとりと濡れたそれ。彼は目を細めてその向こうを見つめて、ポツリと呟いた。
「春雨だね」
「馬鹿。今は五月だぞ」
 突然何を言い出すかと思えば。
 春雨は新芽が芽吹く季節。二月か三月に降る霧雨だ。
 色ボケて頭まで悪くなったか。眉間に皺をよせて隻を眺める。彼は自分にくるりと背を向けて、静かに、確固たる自信を持って言葉を繰り返す。
「春雨だよ」
「だから隻」
「音羽」
 こめかみを軽くおさえ、嘆息しかけた音羽は、変化した兄の声色に、訝りの表情を浮かべて面を上げた。
 刹那、響く、冷ややかな温度を宿した、追求。
「君も、何時から彼女を遊と呼ぶようになったの?」
 隻がわずかに首を傾げてこちらを返り見る。細められた瞳は、普段の彼からは想像も付かぬような冷ややかさを宿している。それはほんの時たまに、彼の機嫌を損ねた不特定多数に向けられるものだ。
 思わず、立ちすくんだ。
 苦虫を噛み潰した表情を浮かべて、胸中で呻く。
 ――聞かれて、いたのか。
 ぐっと言葉に詰まりながら、音羽は拳を握り締めた。
「歌を歌う瞬間、アガった遊を戻すために、彼女を呼んだね」
「隻」
「珍しいことだよ。君が、きちんと名前を呼ぶ人間は、この世に何人いるの」
 振り返った隻は笑っていなかった。まるで、氷の彫像のような冷ややかさを宿して、瞳を細めている。
「君の中に、何か、新しく芽吹くものはあった?」
 その感情を、どう説明していいのかわからない。
 ただ、染みのように広がっていく何か。苦い、痛み。まだ名づけるべきではない。気づくべきでもない。だから、沈黙で以て答える。
 隻が、噛み締めるように断言する。
「俺にはあった」
「……隻」
「だから」
 彼は何かを吹っ切ったような綺麗な笑みを浮かべて、小さく言った。
「春雨だ」


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