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Stage 4. 春雨攻防戦 9 


「えーテステス」
 マイクテストを行いながら、ちらりと傍らの機器を見やる。さすがは棗曰く一流のホストクラブ。設置されているカラオケマシーンは最新のもので、新曲も最新PVもきっちり揃っている。カラオケボックスが懐かしい。前の学校では所属していたコーラス部の面々で、何かあると決まってカラオケボックスに繰り出していたし、一人で泣きたいとき、鬱憤を晴らしたかった時もあの場所だった。
 もうそんな金銭的余裕も時間もなく、マイクなんて握るのは久しぶりだった。そういえば、歌を歌うこともここのところ忘れていたな、と思った。前は、学校の帰り道自然と鼻歌を歌って、笑われるぐらいだったのに。
「えーっと、何歌ってほしいですか?」
「蛙の歌なんか歌って一芸ですなんていわないでくれたらなんでも」
 客たちの只中にひときわ目立って腰を下ろすマナが、肩をすくめて即答する。
 すると今まで黙っていた客たちが、ぽつりぽつりとリクエストの声を上げ始めた。
「あ、ねぇアレ歌って欲しい華南のROSE」
「祢音の繭玉は?」
「トムソンズのアップルパイ!」
「あたしMARIAの天使の鍵がいい〜」
「あ、すみません最近の曲全く知らないので、えー二、三ヶ月より前の曲でお願いしたいなぁと」
 両手の人差し指同士をちょんちょんとつき合わせながら遊は弁解した。遊がCDを所有し、曲を口ずさんでいたのは、まだ怠惰な平和を貪っていたころの話だ。当然最近の曲なんて、覚えているはずがない。
「あ、ねぇアレは? ちょっと古いけど、流依の神声」
「えーそれって切ない系じゃない?」
「いやでも難しいし。コレ歌い上げたらたいしたもんだと思うけど」
 歌える? と訊いて来る娘は遊とそう変わらない年頃に見えた。開店時の客層はキャリアウーマンのような女性が多いが、時間が経つにつれて水商売の人間がちらちらと姿を見せ始める。中には年を誤魔化して働いている少女も居るぐらいだ。自分は、かなり幸福な立場にいるよなぁとしみじみ思った。だから、髪の毛を切られたことぐらい、こんな風に、人の前で一芸を披露するぐらい。
 なんでもない。
 遊は、自分にそう言い聞かせながら頷いた。
「はい。歌えます」
「じゃ、それで。じゃぁお兄さんセット頼むよ」
 ホストのお兄さんが、はい、と頷いてぴこぴこリモコンを操作する。画面上に番号と曲名が表示された。
 にこやかだった人々の目が、夜の人々の目になる。
 相手を品定めする、冷たい眼差し。
 それを見てしまったその刹那。
 かっとなった。
(あ、アガった!)
 急に、怖くなった。
 いくら特技だからといっても歌は歌。しかも近年カラオケの普及で遊程度に歌える人間は吐いて捨てるほどいるのだ。これしかないから、と開き直ったつもりで申し出たのだが、いささか考えが浅はかだったのではないか。
 もし、これでその程度か、と嗤われたら。
 自分は、どうなる。
「遊」
 その声に。
 遊はふと我に返った。
 誰の声だったのかはわからない。ただ抑揚を殺した低い響きは、遊の意識を引き戻した。狼狽している暇はないと、冷静な意識が警告を発する。響流依の“神様の声がきこえる”は、イントロが短いのだ。スピーカーから音が響けば直ぐに、声を出す必要がある。マイクを口元に寄せた遊は、震えながらどうにか息を吸い込んで、タイミングを合わせた。

――神様の声が、きこえる――

 マイクを通して鼓膜を振るわせた自分の声に、遊は思わず歓喜の笑みを漏らした。
(歌えた!)
 胸中で感嘆の声を漏らす。久しく歌っていなかった割に、自分の唇からもれ出た声は、悪くないように思えた。
 身震いする。
 声が出る。
 音律が紡がれる。
 これだ。この感じだ。コレが、ずっとずっと好きだった。

愛しい貴方の声がきこえる
惑わせないで
もう二度と
あの頃に
戻りたく、なるから

 ドラムセットとギターのサウンドが流れ出す。間奏である。ほんの冒頭を歌っただけなのに、汗が噴出し、額にうっすらと滲むそれを遊は無意識のうちに手の甲で拭っていた。
 だが周囲の反応をうかがっている余裕はない。間奏が終わり、ゆったりとしたメロディに移る。もう長いこと、口ずさんでいない歌だったのに、歌詞が口をついて出るのは、とても不思議だった。
(気持ちいい)
 段々メロディに身体が乗ってくると、遊は陶然となった。嫌なことを一切忘れてしまえる。ただ音楽と声の世界に没頭できる瞬間。これが好きで、遊は歌を歌い続けてきたのだ。
 最後に、もう一度サビを歌い上げる。気持ちいい。脳裏をその一言が塗りつぶす。嫌なことも、泣きたいことも全部忘れて歌うというのは、なんて気持ちいいのだろうと思った。
 そして最後に、少し泣けた。
 この歌は、別れた恋人と過ごしたころの思い出が、消えないと訴える曲だけれども。
 それは幸せな頃を懐かしむ曲でもあって。
 ほんの少し、借金も何もなかったころの、昔を思い出した。
 肩車してくれた父。
 家で、いつも食事を用意してくれていた母。
 ――思い出すだけでむかむかする。馬鹿野郎。子供に内緒で借金なんかこさえおってからに。大体ギャンブルが趣味だったなんて聞いていないぞ。本当か?
 憎んではいない。憎んではいないのだ。今もちょっと違う形で共感できる歌を歌うだけで、泣きそうになるのだから。
 ただ、罵っていないと。
 弱くなりそうで。
 過去を懐かしんで自分で立つことのできない、それこそ小娘に成り下がりそうで。
 ギターの、音が途切れる。
 画面に表示される、曲終了の文字。
 遊はため息をついて、シャンデリア輝く天井を、眩しさに目を細めながら仰ぎ見た。
 かち、とマイクを元のところに戻す。緊張に唾を嚥下するのは不可抗力である。身体を強張らせながら、遊は恐る恐る客席のほうを振り返った。
 自分でも阿呆だとは思うのだが――正直言って、彼女らのことをすっかり失念していたのだ。
(ん?)
 遊は眉をひそめて、客席を見回した。誰もが険しい顔をして、口を噤んでいる。待てども待てども、彼女らは微動だにせず、一言も口をきこうとしなかった。とうとう痺れを切らした遊が口を開きかけたその際に、曲を指定したあの少女が唐突に声を上げた。
「やだ、私前の彼氏のこと、思い出しちゃった」
 その声は、震えていた。
 泣いているのだろうか。ずっと鼻をすすった少女の意外な反応に対する怪訝さに、思わず眉根を寄せる。
 そして次の瞬間。
 弾ける、マナの高らかな哄笑に、遊は一歩身を引くこととなった。
「あははははははははははは!」
 マナのその笑いに釣られて、周囲もまた忍び笑いを漏らし始める。鼻をすすりながら笑うものも居れば、苦笑いを口の端に浮かべるものもいる。ただ当事者である遊のみが完全に蚊帳の外だ。
「いやぁ。あんたってば、なかなか、面白いねぇ」
 息も絶え絶えに、マナが呻いた。
「掘り出し物の買い物でしたよ?」
 頭と腹を抱えて、まったく外見にそぐわない笑いを漏らす彼女に、微笑んだ集が言葉を返した。それを皮切りに、次々と歓声と拍手が漣のように場内を満たし、呆然となる遊を圧倒した。
「すごいすごい上手だった!」
「難しい曲なのによくあんだけ歌えるなぁ」
「ね! 次アレ歌ってよTUNEの〜」
「ドンペリコールは、どうしましょうか?マナ姐さん」
 隻のよく通る声が、賑わいの中に響いたのは、遊の周りに人だかりが出来始めた頃だった。
 ドンペリコール。
 さっきも聞いた言葉である。それを耳にしたホストやボーイたちの血相が変わったことを、遊は思い出した。今もまた、隻の声を聞きつけた彼らの表情が、緊張にだろうか順々に強張っていく。
 が。
「入れてやって」
 マナが気だるげに片手を振った瞬間、全ては塗り替えられた。
 わっと、歓声が沸いて。
 誰かが、叫んだ。
「ドンペリコール入ります!」
 ボーイたちがばたばたと厨房やワインセラーのほうへと駆け出していくのを、遊は呆然と視界の端に捕らえた。人は遊の周囲に壁を形成する。髪を滅茶苦茶にされながら伸びてくる手と手の狭間から、遊は放心状態でマナを見つめた。
 やがて、遊と目を合わせた彼女が、紅塗られた美しい唇をあの不敵な微笑で彩った。
「自己紹介がまだだったな」
 ホストの一人が差し出したジッポライターの火で、悠然と煙草に火をつける様は堂に入っている。思わず見ほれてしまうほどだ。彼女自身、その魅力を理解しているのだろう。十分に遊の視線を引き寄せて、もったいぶるように彼女は一つ一つ音を紡いでいく。
「私の名前は紫藤真。紫色の藤に、まことと書いて、シドウマナ」
 ふっと紫煙が吐き出された。その形はドーナッツ。器用に輪をいくつも組み合わせた煙を吐き出したマナが、思い出したように付け加える。
「面白い余興をありがとうよお嬢。また今度、場がしらけたときには歌ってもらいたいね」


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