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Stage 1. 赤字か波乱万丈か 1


 返済義務は遊にあると一方的に告げられ、弁護士に会うこともできず強制連行された先は言わずもがな、夜の街、と呼ばれる場所の一角だった。
 鬱陶しいほどにまとわり付いてくるカラフルな光の洪水。化粧と香水の匂い。往来する人々は、笑うことに疲労を見せて、それでもなお声をあげてけたけた笑う。なんだかとても滑稽だ。寝不足の道化師みたいだった。
「すみません家とかどうなるんですか?」
 傍らで運転する糸目に尋ねると、彼は一言で応じた。
「差し押さえですよ?」
 つまるところ、遊にはもう帰る家がないということだった。


「はい、じゃぁこれとこれね」
 夜の街の一角にあるネオンサイン派手なビルに到着すると、まず、顔を洗ってきなさいといわれた。洗面道具を押し付けられて、洗面所に押し込まれる。部屋はしんと静まり返り、遠ざかる足音だけが大きく反響する。逃げようとしても、扉には鍵がかかっていた。
 ぐすぐすちょっと泣いてしまった。泣いて事態が変わるものなら、大いに人前で号泣して見せるが、そんなことをしたところで神様の救いはやってこないことを、遊は知っていた。むしろめそめそ泣いてみよう。ちょっと同情さそう感じで。赤く腫れた目をこすりながら鏡を覗き込んで、上目遣いの練習をしてみる。が、化粧とファッションの研究に余念がない同級生と違って、自分はむしろ少年のようだと思う。肌は浅黒く、身体は痩せて、女の子らしい丸みとかいうものの理想系からは程遠い。来たままの制服の胸元を引っ張って、遊は自分の胸を覗いてみた。なんだか今の状況とは別の意味で号泣したくなる理由がそこにある。
 女らしさを残すのは肩を過ぎた辺りまで伸びている黒髪だけだ。身体は痩せているのに、多くの乙女を悩ませている下半身太り、主に足、が自分には当てはまる。これもまた泣きたくなる理由だった。
 とりあえず顔を洗って外に出ると、くるくるの金髪を掻き揚げて見知らぬオネエサマがあごで指示してきた。
「ついてきなさい」


 次の連行先は化粧室。芸能人の控え室よろしく、壁際にずらずらと並ぶ化粧台の一つから、オネエサマは気だるげに紙袋を取り上げた。「着替えなさい」という命令とともに押し付けられて、その紙袋の中身をのぞいてみる。
「……これにですか?」
「そうよ」
 煙草を取り出したオネエサマは、すぱーと紫煙を吐き出しながら頷いた。
「着替え終わったら化粧してあげるからさっさとしなさい。あんたが遅くなって怒られるの私なんだから」
「はぁ」
 頷きながら、出て行く気配のないオネエサマに、視線を送ってみる。
「……何?」
「……あの、着替えたいんですけれど」
「それで?」
「……部屋から出てくださいませんか?」
 あぁこんなところで敬語なんか使わなくてもいいんだろうにわざわざ使っちゃうなんて育ちがいいんだから自分ってば!
 そんなことを思う自分は、やっぱり錯乱しているのかもしれない。
 オネエサマは女である遊の目からみても妖艶と取れる微笑を浮かべて、指先でくいっと遊のあごを上げさせた。そして近づけられる顔。動きを凍てつかせていると、顔面に紫煙が吹き付けられた。
「……! ………ごほっ……ごほ!」
「何いってんのよ女どうしなのに着替えられなくてどうすんの? あんた今からまったく見知らぬ男のまえで素っ裸になるのよ?判ってますかぁ子猫ちゃん」
 咳きむせながら身体を圧し折り、お腹を抱えて上目遣いに見上げると、オネエサマは冷たい視線を遊に向けて、ひとつ言葉を吐き捨てた。
「あまっちょろいこといってんじゃないよ」


「やぁなかなか見られた姿になってるじゃないか」
 と、糸目のお兄さんは笑顔でいった。
 冗談ではない。
 何が見られた姿、だ。
 胸中で悪態をついてみても、自分の運命は変わらない。鏡に映った自分は、まず人前には出られないような青のワンピースを身につけている。縁にレースがついたそれはとても薄い生地で、キャミソールに毛が生えたようなものだ。足は同じ色でそろえたミュール。オオイヌノフグリをあしらったそれ。なかなか可愛らしいとか思ってしまった自分が、とってもニクイ。
「さて、喜ばしいことにさっそくお客様が一名いらっしゃいました」
「喜ばしくないです……」
 低く呻いたが、それはさらりと無視された。
「なかなか滅多に現れる方ではないのですよ。どうもこのような場所を嫌っていらっしゃるようですからね。ですが珍しく、買ってくださるようで。初めての方があのような方で嬉しく思わなければ」
 がっくりと項垂れ沈黙していると、おや、と糸目は眉をひそめた。
「もしかして初めてでない? いや今昨今の女子高生は進んでいますねぇ」
「は・じ・め・て・で・す!」
 丁寧に一文字一文字区切って反論してしまい、そうですか、とにやりと笑った糸目を見て遊は体中の血液が沸騰したかのような恥辱、もしくは憤怒を味わった。きっとそのどちらもだろう。もう何も言うまいと、口を噤んで押し黙る。
 糸目はもう何も言わず、遊を寝台しかない狭い部屋に押し込んだ。照明が落とされた、カラオケボックスのような広さの部屋。壁は全てピンク色。けばけばしいことこの上ない。
「じゃ、ごゆっくり」
 なにがごゆっくりだ。ばたんと閉じられた扉に、遊は中指を立ててやった。
 しんと部屋が静まり返れば、薄い壁からもれてくる声にびくりと身体を震わせなければならない。それなりに知識はあっても、実際その声を聞くのとでは全てが異なってくる。得体の知れない女の嬌声を聞きながら、遊は部屋の壁際に押し付けられているダブルベットによじ登って膝を抱えた。安っぽいつくりをしているくせに、思いのほかベッドはふかふかで寝心地よさそうだった。

 異様だ。

 なんなのだろうこの異様さは。きちんとした現実世界。別に化け物が出てくるわけでもないし、魔法が使えるようになったわけでもないし、青狸に似た猫型ロボットがやあこんにちは、と未来からやってきて、あのダミっぽいそれでも親しみのわく声で話しかけてくれているわけでもない。
 けれど、異様なのだ。両親が死んだ。祖父母も親戚もいない自分は天涯孤独の身の上なわけだ。その両親の死を悲しむ暇も与えられず、法的な手続きも一切無視されて。
 自分は今こうして、薄っぺらい服に身を包み、両隣の壁から得体の知れない、快楽に溺れているのか、それとも悲鳴なのか判別が付かない女の声に耳をふさぎ、じっと自分を買うという男を待っているのだ。
 これを異様といわずして何というのだろう。
 家があって、ちょっと退屈で、勉強にうんざりしていて、教師の目を盗みながらお菓子を食べたり漫画を読んだり、友達とふざける。いずれ大学に行くのかもしれない。そのあとどこかに就職する。結婚するかもしれない。日常に身をゆだね時を消費し、漠然とした未来に思いを馳せる。それが、遊にとっての現実世界だった。

 なのに。

 なのにここは。

 テレビの向こう側の世界だった。小説の世界だった。自分の身に降りかかるとは到底思っていなかった。
 お涙頂戴の三文小説の舞台。
 それが今の、遊が立たされている舞台であり、演ぜられるシナリオが遊の現実だった。
(なんなの一体)
 気が狂いそうだ。
 ここに集められた女たちもおそらく遊と同じ身の上の少女たちが居るに違いない。漠然とそう思った。糸目を含む関わった人々は、皆手馴れていたからだ。恐ろしいというよりも危機感がある。このまま行けば、おそらく自分は病気をもらうまで、もしくはそれ相応の年齢になるまで、ぼろ雑巾のようになってもこき使われる。もしくは、お客とやらが自分につかなければ、そのまま殺されるのだ。
 おぼろげな未来は存在しない。明確な未来しか。そのどれもが、鳥肌立つことを余儀なくされるほど残酷だ。
 遊は急に思い立った。立ち上がって寝台から勢いよく降りた。飛び降りた数歩の位置にある扉にしがみつく。ノブを回しても扉は開かない。遊は力の限り扉を叩いた。
「あけて!」
 夢であればいいのに。ためしにあの寝台の上で目を閉じてみようか。目が覚めれば、母親の陽気な声が自分を起こしてくれればいい。けれども扉を叩く手にはじんと痺れが広がり、それが遊に、全てを夢でないのだと告げていた。
「お願いあけてよ!」
 扉は音をたてて震えるだけで、なんの反応も示さない。
 扉にかわって応答があったのは隣の壁だ。どがん、という蹴り飛ばしたような音と共に壁が少し跳ねた。なんという薄い壁だろうと目をむいていると、女の怒鳴り声が響いてくる。
「ちょっと隣! うるさいわよ!」
 遊は扉を叩く手を止め、扉から一歩下がり、腰をその場に落とした。
(泣かない)
 零れてくる涙を手の甲で拭いながら、遊は唇を噛み締めた。
(泣いてなんか、やるものか!)
 と。
 がちゃ
 あれほど遊を拒絶していた扉が、突然唐突あっさり開いた。
 すらりと伸びた脚が見えて、硬直する。男の脚だ。磨きぬかれたこげ茶の革靴に、ちょっとシックなブラウングレーのスーツ。
 遊は硬直した。
 自分が買われる身分であることを思い出したからだ。
(立たなくちゃ)
 だが自分の意思に体中の神経は、徹底的にストライキを決行していた。指一本動かせない。ただ唇を噛み締めて男の脚を睨みつけていると、思いのほか能天気な声が空から降ってきた。
「アラララ、お嬢さん泣いてるのですか?」
 遊は、恐々と上を見上げ。
「……は?」
 その男の格好に、まず遊は度肝を抜かれた。
 ケンタッキーでもらえそうな、赤と白のパーティー用三角帽子。
 鼻つきサングラス。
 そして男組、と金色で縫い取りがされた羽織。
 ……えーっと。
 凝り固まっている遊を見下ろしたその男は、おかしなサングラスをはずしながらにやりと笑っていった。
「Are you happy?」
 その態度はとことん腹立たしく馬鹿げていたが、サングラスを取り外した顔は、ちょっとやそっと拝めないくらいに整った顔をしていた。


「まぁお嬢さん。とりあえず座りましょうか」
 男は寝台に腰を下ろし、ぺしぺしと横を叩きながら横柄に言った。
 遊は言われるままに腰を下ろした。無論隣ではなく、彼の足元に一歩分の距離を置いて正座だったが。
 だって、これからとって食われるんだろうし。
 相手も、そのつもりでこの部屋に来ているんだろうし。
 ひとまず遊は、そうして膝に両手をそろえておいたまま、まじまじ上目遣いに男を観察することにした。
 年は二十代後半から三十前半にかけてといったところだろう。綺麗に撫で付けられた黒髪に、愛嬌のある黒い瞳。彫りの深い端正な顔立ちをしている。芸能人を遊は生で見たことが無いが、きっとアイドルを間近で見れば、今のこの瞬間と同じ感銘をうけるのだろう。顔だけみれば、だ。
 けれども身につけている派手な羽織と、膝の上にちょこんと乗っている三角帽子、そして鼻つきサングラスが全てを台無しにしてしまっていた。
 男は肩をすくめて言った。
「お嬢さん。一応お客さんのいうことは聞かないと糸目さんに怒られるでしょう?」
「……糸目?」
「糸目さん。おや会っていない? いっつも黒の三つ揃えを着た食えなぁい笑顔の糸目のお兄さん」
「……知ってます。だけど糸目っていうんですかあの人」
「いや名前おぼえるの面倒ですからね。便宜上糸目さんで」
「……ぷは。いいんですかそんなんで」
「あぁようやく笑いましたね」
 噴出し笑いをしながら呻いた遊は、男の言葉にはっとなる。まだ少し赤く腫れた目元をこすり、口元を引き締めて男を見返した。
男はにこにこ笑っている。同級生がこの場に居たら、きっとめろめろだろう面食いだもの。
 小学校から一緒だった友達を思って少しへこんだ。ここから出ない限り、自分はもう彼女らには会えないのだ。
 すると男はするりと寝台からおりて、遊の前に正座した。
「ほらお嬢さん。とりあえず泣くか笑うかどちらかにしてください。仏頂面は対処の仕様がないからやめてほしいですねぇ。とりあえず接待でワタクシここからある程度の時間はでられないものですから。お偉いさんがでてくるまで。暇なら現在の状況はなしてみます?糸目さんへの悪口なら拍手付きで賛同できると思いますけれども?」
 男の声音は思いのほか優しかった。ぽんぽんと下心とかそういうものとはかけ離れた次元で背を叩かれて、こみ上げてくるものがある。遊は拳を握ることによって、感情を抑え、かみ合わせた歯の狭間から搾り出すように問うた。
「なんか言って……変化、あるんですか?」
 言って何かが変わるわけでもない。泣いて何かが変わるわけではないのと全く同じで。
「さぁ」
「さぁって」
「だけど愚痴を言うだけでも君の心は軽くなるでしょう」
 その言葉には、まるで子供をあやしているかのような柔らかい響きがあったので。
 頭を撫でられる手が、思いのほか温かかったので。
 結局遊はそのまま男の膝の上に顔を埋めて号泣してしまった。


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