BACK/TOP/NEXT

Stage 4. 春雨攻防戦 7 


 ざん、と。

 切り落とされたのは髪だった。はらはらと零れていく黒髪は、自分が時間をかけて伸ばしたものである。落下に要した時間は、ほんの刹那ほどであったはずだ。だが切り落とされた髪の束は、ゆっくりと緩慢な速度で遊の目の前を通り過ぎた。
 時が、一瞬止まって、静寂の中荒い呼吸音だけが反響している。遊は床に散らばり溜まっていく、黒髪を見つめた。
「……あ」
 だんっ
 フロントデスクを乗り越えもう一人が狭い空間に飛び込んできたのは、遊が髪の束を認め、呻いたのとほぼ同時だった。
 黒い髪と切れ長の目。
 音羽だ。
 彼はハサミを握ったままのマトノを、手加減なしに蹴り飛ばした。アルバイトの足元に彼女の身体が跳ね飛ばされ、二人分の苦痛の呻きがもれる。見ている遊のほうが、彼女に同情してしまうほどの勢いだった。
 マトノの手を離れたハサミが回転しながら床をすべり、壁の一角に当たって、止まる。
 壁にぶつかった拍子に震える金属の刃を、遊はぼんやりと眺めていた。
「オイ」
 ぱちん、と頬を叩かれる。結ばれた焦点のその先では、険しい表情の音羽の顔があった。ゆっくりと首をかしげると、彼が低い声音で尋ねてくる。
「大丈夫か?」
 その真剣さに、遊は思わず笑ってしまった。
「……めずらし。あんたが、私に大丈夫か、なんて」
「遊」
「隻にーさん」
 屈んでいる音羽の背後で、ゆらりと立ち上がった隻が顔をしかめていた。肩を押さえているところをみると、ぶつけたところが痛むのだろう。慌てて上半身を起こし、遊は尋ねた。
「肩、大丈夫? 隻にいさん思いっきりぶつけてたけど」
「違う! そうじゃない!」
 地団太を踏む勢いで、隻が遊の問う行為そのものを否定する。
「君が、大丈夫かって」
「私? 大丈夫ですよ?」
「でも髪」
「たかが、髪じゃないですか」
 あはは、と笑って遊は立ち上がった。引っかかれた部分が傷む。服装も滅茶苦茶だ。着替えを持ってきているわけではないから、今日はもう仕事にならないな、と思った。
 立ち上がって初めて、戸布の向こうから客とホストとボーイが、顔を見せていることを遊は知った。一度奥へ戻ったと思っていたのに。おそらく悲鳴や、騒音を聞きつけたのだろう。遊はマトノがボタンを引きちぎったシャツとベストの前を素早く隠した。が、おそらくは下着を見られただろう。舌打ちせざるを得ない。
 あまり、自分が女だということを知られてはいけないのに。
 それはここが女に夢を見せる場所だから。だからこそ男だけで構成される職場。女が一人でも混じっていると知れば、興ざめしてしまうだろうから。
 しゃがみこんで散らばった文房具を適当にかき集め、元の位置に直した。髪も出来るだけ手に持って、ゴミ箱へ。ハサミを拾い上げた遊は、にっこりと笑って無言で佇む妹尾家兄弟に言った。
「髪、切ってきます」


 一部分だけ切られた髪は不ぞろいで。しかも根元からざっくりと切られてしまったものだから、ショートカットにするより他なかった。美容院に行くお金、ないのになぁと苦笑いを浮かべながらとりあえず人前に出られる程度に切りそろえていく。
 お手洗いのゴミ箱の中に、さらさらと溜まっていく髪をみて、あぁそういえば、親がこの髪だけは褒めてくれてたなぁと思ったりした。



 髪の毛がゴミ箱に溜まっていたら、後で入った人が気持ち悪かろう。遊は業務用のゴミ集積場へ歩き出した。地下にある店舗から地上の路地裏に位置するそこに向かうためには、奥のエレベーターに乗らなければならない。ごみを出すときにだけ使われるエレベーターは旧式で、モーター音が五月蝿く、けれども外の世界を遮断してくれる分静かに感じられた。
 ちん、と音を立てて扉が開いたとき、バケツの水をひっくり返したような雨音が聴覚を圧倒し、遊は驚きのあまり身をすくませた。
(まだ降ってたんだ)
 朝方から降り通しだ。だが朝のような土砂降りではなかった。霧雨というにはすこし大粒の、けれども静かに降る細かい雨だが、雨どいに水が溜まっていたのだろう。それが滝のように水をアスファルトの上に零して、音を立てていたのだ。
 梅雨にはまだ少し早い。雨。
 遊はこん、と空になったゴミ箱をエレベーター脇において、誘われるように雨の中に身をゆだねた。
 時折雨どいから滑り落ちてくる水が、遊を頭から濡らす。さんばらに切りそろえたばかりの髪が頬に張り付き、濡れ鼠になった後で、服そういえば着替えがないのにと舌打ちした。
「誰かにジャケットでも借りればいいかなぁ」
 空を仰ぎながらぼんやりと呟く。路地裏の空は、細長く、暗闇に開いたスリットのようだ。ほんの少し明るいだけで、灰色ではあるのだけれども。
 ぼんやりと天を仰いでいた遊の耳に、ぱしゃん、と、水溜りを踏み抜く音が届いた。
「おい」
「こっち、こないで」
 背後からかけられた声に、遊は即座に言い返した。
 声から、相手は誰だかわかっている。音羽。よりによってなんでコイツなんだと遊は腹立たしく思った。荒い呼吸をどうにか整え、震える体を押さえようと己で自分の体を抱く。乾いた喉を潤すため唾を嚥下し、遊はもう一度告げた。
「こないで」
 ぱしゃ。
「お前」
 ぱしゃ。
「こな」
 ぐっと肩を強く引かれる。所詮は狭い路地裏だ。男の数歩分の距離しかない。逃げ場はなく、強引に正面を向けさせられた。
 黒い瞳と、目が合う。
「……泣いてるのか」
「泣いてない」
「だったらその頬を伝ってるもんは何だ」
「雨」
 ぬばたまの黒目を真っ直ぐ見返し、遊は断言した。そう、コレは雨だ。鼻がつんと熱いのは気のせいであって、身体が震えているのは、水で、身体が冷えているせいだと。
 眉根を寄せて、困惑とも狼狽とも取れる表情を、音羽が浮かべる。
「ホストクラブって、怖いね」
 遊は笑いながら、彼に呻いた。これ以上黙っていても、この男は目の前からいなくならない。普段邪険に扱っているくせに、一人になりたいときに限って目の前に居る。いや、だからこそか。これこそ、真の嫌がらせだ。
「まったく、本当に、だいたいねぇ」
 一度言葉が滑り出した口は、止まりそうもなかった。苛立ちを隠すように髪をくしゃくしゃにかき混ぜて、遊は震える声を、考えもなく搾り出し続けた。
「あんたたちって絶対、女の子を物としか考えてないんでしょ。自分の思い通りになる、おもちゃとかなんとか。自分が割り切れてるから相手も割り切れてるんだとか、冷めた目でいっつも相手のこと見下したりとか、そんなふうにし続けてきてたんでしょ。かっこいいもんね。誰もが振り向くよね。しかも頭いいし。運動神経だって悪かないみたいだし、いうことないじゃん。しかもお金持ち? まぁ会社の御曹司とかじゃないけど、でも、自分の思う通りになんでもなるよね」
 こんなこと、言うべきではない。
 美人に生まれついたのも、頭がいいのも、家が少々お金持ちなのも、彼らのせいではないから。
「まぁ、多少嫉み妬みうけるだろうけど」
 棗や、隻の告白からもわかる。そのせいで、色々あったのだろうことはわかる。
「その容姿とかで、きちんと自分を、見てもらえなかったりするんだろうけど」
 マトノもそうだ。隻がどれだけ冷たい人間か、きちんと見ていなかった。表面だけみて。勝手に自分の理想像を作り上げて。勝手に嫉妬して。馬鹿な女。いい迷惑だ。
「だけどだからって」
 他人を、何かのはけ口のように扱っていては。
「いつも、いい加減に、相手のこと、あしらっているから、痛い目あうんだよ」
 音羽の表情が少し歪む。伸ばされる男の手に、遊は思わず身を引いた。
 けれど次の瞬間には、音羽の腕の中だった。
 こんな。
 こんな風に甘さで誤魔化されたくないと思った。こんな形で男に抱きしめられて、乙女のように胸をときめかせることなど、とてもではないが出来なかった。嫌悪感ばかりが募る。胸を叩きながら遊は呻いた。
「放せ馬鹿やろう」
「痛い目にあったのは、お前だろう」
「放してよ。仕事にもどらなきゃ」
「仕事なんてもう今日は休みに決まってる。傷害事件だぞ。ほとんど」
「人の話いいかげんにきいたらどうなの! 私は放せといってるんだ。開放して。いい? 日本語わかってる? は・な・せ!」
 さらに、腕に力が加わったのを感じ取って、あぁこの男は、ホント嫌味な男だと遊は思った。
 こうやって、いつもいつも、嫌がらせばかりしてくるのだ。
「私はねぇ」
 ひく、としゃくりあげて、遊は鼻をすすった。
「早くもどって仕事しなきゃならないの。あんたらが望まずも美人に生まれてしまったように、私だって、ギャンブルかなんだかしらないけど、娘に黙って一億三千も借金こさえるような、馬鹿野郎の両親の元にうまれちゃったんだから。どうにかするには与えられた仕事こなさなきゃなんないのよ。せっかく、ソープ嬢にならなくて、すんだんだから。これで、しご、しごと首になったら、あ、あんたのせい。せいだから。わ、私だってねぇ。わたし、わたしだって」
 強く、拳を握り、もう一度だけ胸を強く叩いた。このちっとも放してくれない馬鹿を、本当は腹いせに蹴りつけたい気分だった。
「私だって、しんどいことや怖いことだって、あるんだ馬鹿やろう」
 完全に八つ当たりだった。
 けれども言わずにはいられなかった。
 怖かった。
 あの、振り下ろされるハサミを視界の端に捕らえたとき、殺されると一瞬思った。
「私を巻き込むな! 自分でケリつけろよ!」
 そう、吐き出しながら、あぁ今自分を抱きしめて黙っているコイツも、多分自分にそう思っていたのだろうなと、遊はそう思った。
 勝手に転がり込んできて。
 一家を巻き込んでいる。
「音羽」
 遊はふと顔を上げた。音羽もだ。何時からそこにいたのだろう。巨大なゴミ箱の傍らには腕を組んだ隻が立っていて、薄く笑っていた。
「そんなところで抱きしめてたら、ずぶ濡れ。二人揃って風邪を引くでしょう。音羽が風邪引いても俺はなんとも思わないけど、遊にこの上風邪でも引かれたら、俺どうしたらいいの」
「勝手にうろたえてろ」
「相変わらず冷たいお言葉だねぇ兄上に向かって」
 苦笑した隻は、ようやく音羽の腕から開放された遊の腕を強く引いた。建物の中に引っ張り込まれる。顎をつかまれ強引に顎を上げさせられ、痛みに遊は顔をしかめた。
 ふわ、と何かが肩に掛けられる。
 隻の、スーツの上着。
「せ、隻兄スーツ濡れちゃう!」
 慌てふためきながら遊は叫んだ。白いスーツは上物で、濡れでもしたら一気に駄目になってしまう。だが隻は遊のそんな訴えは意に介さないようだった。左手で遊の肩を固定し、大きな右手のひらが、遊の髪に触れてくる。
「ちゃんと、美容院にいこうね」
 泣きそうに顔を歪めて、隻が言った。
「ごめんね。遊」
 こつんと、隻の額が、肩に当たった。
「ごめん」
「……隻にい」
 肩を握って来る手に力が篭っている。その手は、かすかに震えていた。
 しばし沈黙した後、隻が再びくぐもった声で再び囁く。
「俺、棗が君の事をどうして大事にするか判った気がする」
「……は?」
 思わず聞き返したが、隻は何も言わない。顔を遊の肩に押し付けたまま、微動だにしなかった。
 狼狽しながら、どうするべきか考えあぐねている遊の頭を、音羽の手がぽんと叩く。
「店に、戻るぞ」


 店に戻った遊がまずしたことは、着替えだった。同じフロントについていたアルバイトの青年が、着替えのポロシャツを貸し出してくれた。申し訳なく思いながらも、大人しくそれを身につけていると、連絡をうけてやってきたのか、集がひょっこり顔をだした。
「お着替え終わりました?」
「あ、集おとーさん」
「はい集おとーさんですよー。いやぁお父さんと呼ばれるのもたまにはいいものですね今度子供たちに呼ばせてみましょうか。ところで髪の毛さっぱりいたしましたね。よくお似合いです」
 にこにこと笑いながら、集は遊の散髪の腕前を褒めた。友達の髪の毛切ったことがあるんですか? いや上手ですねワタクシ感心いたしましたよ、とかなんとか。
「はぁ」
 いや言うべきコメントはそれじゃねぇだろ、とか思いながら、つらつらと語られる集の世間話に遊は生返事を返した。
「それでですねユトちゃん」
 そして最後に。
「はい?」
 にっこりと笑った集が、さらりと死刑宣告にも似た一言を告げた。
「お客様がたが、ユトちゃんにちょぉおおおっと仰りたいことがあるそうですよ」
その言葉に、遊はぴしりと石化する。
 へぇ。
 お客のお姉さま方が。
 ダッシュで逃亡してもよろしゅうございますか。
 今すぐ高熱だして倒れないかな、とちょっと濡れ鼠になった程度では風邪など引くはずもない頑丈な身体を恨みつつ。
 遊は問答無用で集にずるずると引きずられ、そのまま普段入ることのない店内へと連れて行かれたのだった。


BACK/TOP/NEXT