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Stage 4. 春雨攻防戦 6 


「いや、あの、ですね。何の話だか私にはさっぱり」
 とりあえず、へたくそでも他人のふりをし続けるしか方法はないと遊は判断した。双子の弟でも装ってみようか。今の自分は仕事のために男装しており、髪も綺麗に撫で付けてポニーテールにしてある。暗めの照明も手伝って、傍目には少年のようにしか見えないはずだった。
 女は顎に手をあて、思案のポーズをとると、冷や汗だらだらの遊ににっこりと微笑んで見せた。
「ごめんなさいね。人違いかしら。私、貴方にそっくりの女の子を探しているんだけれども、存じ上げませんこと?」
 一体こういう時はどういう返事をすればよいのでしょう。
 遊は、言葉がどもらないように細心の注意を払いながら、顔の筋肉を動かした。笑え。笑うんだ。こういうときこそ誤魔化し笑いだ遊。
「も、うしわけございませんが、存じ上げませんですはい。どどど、どれぐらい私めに似ているのかご説明いただけますでしょうか」
「双子かトッペルゲンガーかもしくは本人かしらと思うぐらいそっくりよえぇ」
「あ、あはははじゃぁドッペルゲンガーにお会いなさったんではないでしょうかぁ」
「というか貴方男の子?」
「は? え?」
「男ですよ」
(ばか!)
 横から口出ししたのは、同じフロント業務についている大学生のアルバイトだった。私事には口出ししないのがこの店のルールだ。事情を何も知らない彼は、おそらく遊のことを同じ男だと思い込んでいるに違いなかった。
 男でも化粧をして、可愛らしかったりするご時世だ。全く化粧っけがなく、行動もどこか粗野な感のある遊は、男装しているだけで十分に少年に見える。しかも、まだ遊はこの仕事を始めて日が浅い。四六時中一緒にいるのならともかく、薄暗い店内ではたとえ狭いカウンターのなかで共に仕事をしていたとしても、あまり気づかれない。
 が、彼に、遊の性別について言及して欲しくはなかった。
 とりわけ、今は。
 ふぅん、と唸った女は、おもむろに手を遊のほうに伸ばすと、その成長慎ましやかな胸を、がしっと鷲づかみにした。
「――――@*+%$#&###*@?!?!!!?!?!!!?!?!?!」
「あらヤダ女の子じゃない貴女」
 状況が状況なだけに、何をするんですか、と叫ぶこともできない遊は、びしりと硬直したまま金魚ヨロシク口をぱくぱく動かすのみだった。その横では、「え」とアルバイト君が呻きを上げている。ヤバイ、と硬直したまま遊は思った。
 すでに女が店内に入らないことで、ホストのお兄様が様子を見に来ている。手洗いから出てきた客が、何事かしらと眉をひそめて佇んでいる。下手に騒ぎ立てることもできない。しかも相手は一応客で、上司の許可なくあしらって追い返すわけにもいかず。
 だが、この客をどうにかしなければならないのは、確かだ。
 もし、皆に遊の事情が広まれば、これから働きにくくなる。下手をすれば。
 クビ、だ。
(それ、それだけは勘弁して欲しい!)
 借金一億三千万円。それを返金するためにここにいる。
 もしここで働けなくなった場合どうなるのだろう。他に働く場所はあるのだろうか。それともソープ嬢に転職か。身体が貧相かどうかはあまり関係なく、ただ突っ込む穴があるかどうかなのよ、と、妹尾家に来る前数時間だけ過ごしたあの店で、遊に甘えるなと言葉をかけたお姉さまがそうおっしゃっていた。つまり、一応遊にもソープ嬢としての価値はある、らしい。
 そんな未来、嫌です。
「あ、副店長」
 暗雲立ちこめる未来に胸中で手を伸ばしていた遊は、隣のアルバイト君の声に我に返った。
 ぱっと面をあげると、薄い微笑を浮かべた隻が悠然と歩いてくるところだった。目の前の女も隻に向き直り、にっこりと笑う。
「こんばんは茜くん」
「いらっしゃいませ今晩はマトノさん。先日はどうも」
「いぃえぇ」
 甘ったるい声で隻の源氏名を呼んだ女――マトノ、は、微笑みながらも不穏な空気を身に纏っていた。隻も同じくだ。遊と目があったが、それは一瞬だった。彼の背後には猛吹雪が出現していて、なんとなく気配でそれを悟った野次馬が、じり、と一歩後退する。
 冷笑を浮かべる二人を後退しつつ眺めながら、遊は二人の狭間に散る青白い火花を見た。
「何か騒がしいけれど、うちのフロントが何か問題でも起こしました?」
 子供に言い含めるような口調で、隻が問う。対してマトノは、遊をびしりと指差して糾弾した。
「えぇ今日じゃなくて先日ね。……私のことお母さん呼ばわりしてくれた、この子が」
 会話の様子が見えない野次馬たちは、はぁ? と首をかしげている。ただ当事者である遊と隻だけがそれと異なった動きをしていた。
 隻が、やんわりとマトノに提案する。
「よく判らないけれど、本日はお客としていらしてくれたのでは?」
「すっとぼけないで!」
 ばん、とフロントデスクを叩いてマトノが叫んだ。音は対して響かなかったが、それでも目の前で振り下ろされた女の手は、遊を怯ませるには十分である。
 遊は震える身体を己で抱きながら唇を噛み締めて、怒りの眼差しでもって隻を見据える女を凝視した。
「散々私をコケにしてくれたのはこの小娘もそうだけど――むしろ貴方のほうだわ! あんなにいつも私のこと愛してくれていたくせに、そうやって都合が悪くなったら突き放すわけ!?」
 隻は片眉を歪ませ、目を細めた。そして小さな笑みを漏らし、彼は背後を振り返って軽く手を振った。他のホストたちに、客を奥へやるように。ボーイ役の音羽が頷いて率先して下がり、それに続いてざわざわと野次馬が散っていく。奥の部屋への入り口には、貸切りのときだけに使用される戸布が下げられた。
 その場にアルバイトと遊、マトノだけが残っていると確認した隻が、次の瞬間表情を消した。まるで、手品のような素早さで。
「お言葉だけどねマトノさん。たしかこの間もいったと思うけど――俺はホスト、貴方はお客。俺の仕事は貴方に甘い夢を見させること。夢と現実の境界線もわからない人には、俺は、いくらお客様といえども容赦はしないよ?」
 腕を組み、冷笑を浮かべて隻が宣告する。まるで愛を囁くような甘さで。けれども絶対零度の冷たさで。
「貴方は他のお客様にまで手を上げたね。俺は忠告したはずだよ。昨日も。その前も」
「でも貴方は!」
「はっきり言おうかマトノサン」
 無邪気な笑顔を浮かべて彼は言う。
「……しつこい女は、俺は嫌いだよ――特に、貴方のような、わからず屋はね」
 部外者の遊でさえ、その声音の鋭さには、ぞっとした。
 当事者の絶望はいかほどだろう。
 事情は詳しくは判らない。だがおそらく、マトノは隻に必要以上に入れ込んでしまい、その優しさを自分だけに向けられるものと勘違いしたのだろう。そうして、嫉妬して、他のお客に嫌がらせをしたか手を上げたか、何かをしたのだ。先日のホテルラウンジでの彼らの会話は、十中八九、それについて。
「……この、女?」
「え?」
 俯いて肩を戦慄かせた女の低い呻きに、隻が訝りの声を上げた。
「この小娘? この小娘が、貴方を惑わしたわけ?」
「……だから、何度言わせれば」
 隻が、ため息混じりにもらした呻きを遮って、弾かれたように顔を上げた女は遊を睨み据えた。
 嫉妬に狂った女は夜叉になるという。
 そんな言葉を、遊は頭のどこかに思い浮かべた。まるでドラマのワンシーンのように、フロントデスクを乗り越えて飛び掛ってくる女の動きが、スローモーションで遊の目に映る。
 襟首を捉まれた衝撃と、隻の声に遊は我に返った。
「遊!」
 がん、と、頭に衝撃が走った。壁にぶつかったのだ、と、思考は驚くほどに冷静に状況を把握していた。強く掴まれた襟元ではボタンが弾けとび、女の指によって髪がぐしゃぐしゃにかき回された。耳元で、女の哄笑が響いている。
「いった! はな、放してよ!」
 ようやく抵抗の声をあげることが出来たのは、女の鬼気迫る様子に身がすくんだのか、傍らのアルバイト君が立ちすくんで動かないことを認めたからである。自分の身は自分で守るしかない――遊を突き動かしたのは、獣じみた防衛本能だった。
 引っかきにかかってくる女の爪をよけ、その顔を押しのけながら、足をばたつかせる。狭い空間だから、その拍子に足をあちこちにぶつけて泣きそうになった。だん、と真横に男の身体が落ちてくる。フロントデスクを乗り越えてきたのだろう。隻だ。一瞬遅れて、鉛筆立てが落下したらしい。文房具の散乱する音が、遊の耳朶を叩いた。
「やめろ! いい加減にしろマトノ!」
「やめぇ! 放してぇ! 放してこの小娘! この小娘が!」
 逆恨みもいいところだ。
 荒い呼吸を繰り返しながら、遊は隻に拘束されたマトノをみた。彼女はしばらく暴れていたが、徐々に大人しくなり、やがて糸切れた人形のように動かなくなった。
 場が静まったかのように見えたのは、一瞬だ。
 隻がほっと息をついたその刹那だった。火事場の馬鹿力でもってマトノが彼を突き飛ばした。不意をつかれた隻が、身体のバランスを崩してフロントデスクに肩を打ちつける姿が、遊の視界の隅をよぎった。
「隻に――っ?」
 遊はなんとか上半身を起こそうともがいたが、それよりも先に髪が不自然に引っ張られた。顔を無理やり、引っ張り上げられる。痛い、と思った遊の目に、床に散乱していた文房具のうち一つ、ハサミを手に握って笑う女の姿が見えた。
「やめ」
 呻く遊の目前で、ハサミが振り下ろされる。
「遊!」

 隻の絶叫が、聞こえた。


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