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Stage 4. 春雨攻防戦 5 


「じゃなきゃ私をオトすなんて、ゲームじみたことやったりするはずがないでしょ? そうやっていろいろやって、女の子が自分の思い通りになることを知って、楽しんでるんでしょ? それなのに今更そんなこと言い出すなんて、卑怯だよ。隻兄さん」
 言ってしまった、という感はある。
 けれどもかねてより思っていたことだ。いつか言わなくては、と思っていたし、自分は思い通りになったりはしないという宣言の意味もあった。
 隻は色を失い、沈黙した。遊は彼から目を逸らすこともできず、ただ次の言葉を待つしかなかった。
 かたん、と音がする。
 食器が揺れる音だ。殴られるかと思った。それだけのことは言ったし、一応それも覚悟してのことだった。
 だけど次に響いたのは押し殺したような笑いだった。一瞬、眉をひそめる。まもなく周囲の注目を集める高らかな笑いが、堂々と爆発した。
 遊はこめかみを押さえながら低く唸った。
「……隻兄、今日ソレ二回目」
「あははははああふっつくくくく、いやうんそうだ。そうだ二回目だったね。二回も笑わせてくれてありがとうユトちゃん」
「一度目も二度目もついでにいうなら未来あるかもしれない三度目も、決して隻兄を笑わせようと思っていないことを私は断言します」
「うんでもとってもなんかしらないけど、面白かった」
「私は隻兄の笑い製造機じゃないんだけど」
「ねぇ遊――……」
 眉間に皺を刻み続ける遊を、からかうような声音。
 仕方なく面を上げた遊の視線の先には、少し泣きそうな顔で笑う人が居た。
「そんな風に全うに意見した人、君が初めてだ」
「……そう? ずっと思ってたよ。隻兄は、なんだか自分を特別って意識しすぎて、相手遠ざけてる感じがするけど」
 それは棗にも通じることだと思う。自分は皆と違うということを痛烈に意識させられるのは、どんな形であれ辛いことだ。一人仲間はずれにされているみたいではないか。
「皆上手い下手美醜の違いがあって、いちいち自分は他人と違うんだって、意識してたら疲れるよ」
 今の状況なら普通は慰めの言葉をかけるだろう。
 遊はなんとなくそれが出来なかったし、それをしたくなかった。この辛辣なものいいのせいで、友人の数が少ないことは自覚していたが。曖昧に慰めの言葉をかけて、納得するような人種でもないような気がした――隻は。
 だからといって、もうちょっと別の言葉で気遣いできるかと問われれば、遊はそこまで器用でもないし、言葉達者でもない。遊に出来ることは、ただ正直に思ったことを告げることだけだった。
 くくっと喉の奥で小さく笑った隻が、綺麗な髪を指でかき上げる。染められた髪はきらきらと、照明の灯りを照り返す。
 その一方で手の影に隠れて表情がうまく見えなかった。
「大丈夫? 隻兄さん」
 なんとなくそんなことを口にしていた。意味はない。
 ただ、ほんの少し。
 ほんの、少し。
 隻が泣いているように見えた。
「俺は女の子好きだよ……温かいからね」
「……う? うん」
 唐突に切り替わった話についていけない。遊は顔をしかめて、とりあえず頷いた。
「寂しいとね、寒くなるんだ」
「うん」
「笑顔と愛嬌振りまいて、たとえかりそめでも、それで暖が取れるなら、それでもいいと思ったんだ」
「……うん」
 頷きながら、思い出す。
 棗を思い出す。きちんと向き合える人が少なくて、とても寂しい女の人。
 一人で、部屋に閉じこもって、抱え込んでしまうような。
 綺麗なのに、寂しい人。
 隻も、同じだ。
 膝の上に揃え置いていたはずなのに、いつの間にかテーブルの上においてしまっていた遊の右手を、隻がするりと自然な動作で手に取った。
 包み込むようにして握りこんでくる。突然のことで慌てる遊を他所に、その手をそのまま額に触れさせ俯いて、隻がくぐもった声で言った。
「君は、特別あったかいねぇユトちゃん」
 その頬に触れている手に、水滴の感触はないので。
 泣いているのではないのだろう。
 俯く人の胸に落ちる感情など、遊には到底理解できないけれども。
 とりあえず今は黙って手を握ってやられているべきだ。
 料理が冷めることを心の端でほんの少し口惜しく思いつつ、遊はもう片方の手でそっと綺麗な金髪を撫でた。


 しんみりと場を占めることが出来ないのが、どうも妹尾家の人間と自分らしい。
 遊は隻と、冷めかけても大変美味な料理をガッツリたべて、閉店間際まで居座った。遊に遠慮してか、煙草を吸わなかった隻は気持ちよく料理を平らげたし、遊も食した量は成人男性に負けじ劣らずだった。猫が舐めたような綺麗な皿を指差して、隻は大笑いしたものだ。それがその日三度目の隻の爆笑となった。


 隻の運転する車で帰宅し、遊がまずとりかかったことはお茶っぱの補給と米とぎだった。風呂は叶がしてくれていた。炊飯予約のスイッチを入れ、朝ごはんの下ごしらえを簡単に済ます。眠い目をこすりながら宿題に取り掛かろうとしたが、無駄だった。満腹も手伝って、そのまま炬燵の天板に突っ伏した、らしい。
 らしいというのは、確証がないからだ。
 気がつけば遊は夢の中だった。
 父親の背中に揺られて夕暮れのあぜ道を散歩した、とてもとても古い記憶。

 それを、夢見ていた。

 小さい自分の足がぶらぶら揺れていて、ツクシを手に握っていた。お父さん、と呼んだらちゃんと返事があって。
 お腹いっぱい美味しいものを食べたからだろうなと思った。
 自分の家があって母さんがお帰りっていって。
 そんな。
 馬鹿みたいな普通を享受していた昔の夢をみるのは。


 人生山あり谷ありと申しますが。
 何で自分の人生はこんなにもでこぼこしているのだろう。遊はじっくり考えてみる。どう考えても神様の悪戯だ。あの世にいったらまず一発殴らせてもらおう。最近、この考えが信条のようになってきたような気がする。
 今日は起きたときから、不幸のニオイが漂っていたのだ。汚物汲み取りのトラックが近所に止まっているのではないだろうかと思うほど。
 まず早朝。久方ぶりに、遊は寝坊した。バケツの水をひっくり返したかのような雨の音で起きた遊を待っていたのは、朝食にしましょう時刻十分前を指し示す目覚まし時計だった。いくら一ヶ月たって多少朝食の支度に慣れたとはいえども、そのわずかな時間で全ての支度を終えられるような超人的な技を遊は身につけているわけない。何時の間に居間から自室の布団の上へ移動したのだろうとか考える間もなく、部屋を飛び出せば、階段で滑って転んで尻をしたたかに打ちつけた。痛さに蹲っている間にも時間は消費され、まともに用意する暇が本気で零だった。そんなわけで朝食をお茶漬けにしたら、お約束のように音羽にお小言を言われた。
 昨晩遊んだツケで、洗濯物掃除もろもろをしなければならなかったし、宿題もたんまり残っている。ひぃひぃ言いながら朝から教科書に向かい合う羽目になり、さらに集が「一緒にやれば効率よいでしょう。音羽、ユトちゃんを手伝ってあげましょうネ」などと笑顔で命じたものだから、下校後の学習には妹尾家次男もといスパルタ家庭教師がつくことになった。
 そして極めつけは夕方である。
 慌しく出勤し、フロント業務について。
「……だれが、あんたの母なんだか言ってみなさい?」
 災害は降ってきた、というよりも訪れてきた。
「あ」
 と呻いて凍りつく。笑顔で表情を凍てつかせたまま、だらだらと冷や汗をかいた遊は、心の中で絶叫した。
(ホントにホント、あんたを一度殴らせろ! 神様!)
 フロントデスクに頬杖をつき、ネイルサロンで磨かれたと思わしき爪が縁取る指で、緩いウェーブがかった髪を耳にかけながら、訪れた災厄――見覚えのある女は、にっこり笑った。
 親しみ溢れる微笑に反し、その目に宿るのは青白い怒りとでも名付けられそうな猛吹雪だ。
 細い手首にはロレックス。ベージュ色のパンツスーツ。赤いシャツ。出来る女。その見本。
「は、はは、母? でいらっしゃいますか?お客様」
 冷や汗をかきつつもそう返答できた自分天晴れ。
 だが昨日ホテルのラウンジで、遊が大芝居をうった相手は、そんなことで誤魔化されたりはしなかった。
「双子とかそういうオチだとかいって誤魔化したら、許さないわよ?」
 ピンチ続きでそのうち本当に神経衰弱死するのではないでしょうか。
 卒倒したい気分を堪えながら、遊は極寒の微笑を浮かべる女の視線を一身に受け止めるよりほかなかった。


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