Stage 4. 春雨攻防戦 3
就学と勤労の同時進行はなかなかきつい。
仕事と学校が重なるようになって、早くも一ヶ月が経とうとしている。ゴールデンウィークを明日に控えて、浮き足立つ新しい友人たちを尻目に、遊は机の上にノートと教科書を広げつつ、出された宿題を黙々と片付けていた。予習もだ。短時間で全てが終わるわけではないが、ある程度のめどをつけることが出来る。かりかりかり、とシャープペンをノートに走らせ、教科書と参考書をめくっていく。全く、こんなに自分が勉強することになるなんて、と遊はため息を吐いた。
集の一言があるために、このままだと強制的に大学を受験することになる。が、借金は出来る限り増やしたくはない。すでに一億三千万円。一ヶ月働いても、欠片ほども減らない金額。現在遊の貯金通帳には、新しく口座を作る際に入金した千円だけが明記されている。
棗が便宜を図ってくれているおかげで、お小遣いと称した雑費は手に入る。が、それを貯めたところで大学の学費には到底届くわけもなく、最も安上がりに大学へ行く方法を考えると、やはり学生の本分――勉学にいそしむことが一番だった。
「頑張るねー」
学級委員、遠藤美紀が、ひょい、と覗き込んでくる。遊は行き詰っていた数学の関数図形から、面を上げた。
「あははは。うんまぁ。全然進行速度前の学校と違ってて、やんないと追いつけないから」
「そんなことないでしょ今日だって先生褒めてたじゃない」
「あーアレね」
化学の時間でのことだ。居眠りをぶっこいていたところあてられて、クラスメイトがだんまりを決め込んでいた問題を、遊はどうにか解くことができた。それもこれも、昨夕、集の命を受けた音羽のスパルタがあってのことであったが。
「すごいね。家の家事手伝いも引き受けてるんでしょ?」
「うー? うんまぁ、光熱費代わりに」
全て嘘をつくには無理がある。現在、両親を事故でなくして、親戚の家に居候している、というふれこみだった。家に厄介になる代わりに、家事手伝い全てを引き受けている。そういうことになっている。
しきりに大変ね、と美紀は遊を褒めた。褒められても感心されても嬉しくはない。遊は苦笑しながら、ここがわからないのだけど、と、学年の才女に尋ねるべく教科書の問題を指差した。
同情してもらおうとは思わない。
けれども、確かに大変だ。大変、と口に出すことすら憚(はばか)られるような。自分はつくづく温室の花だったのだなということを思い知らされる。家事と学業と仕事の両立。忙しいって充実している。そんなレベルではない。
ただ、何も考えないようにしている。考えるべきなのだろうが、今はとても億劫。
最近、鬱になっているのかもしれない。
早朝、食事の準備の手伝いをこなし、洗濯物を干す。隻が昔使っていたらしい、倉庫に眠っていた自転車で登校する。学校で授業を受けて、休み時間は勉強に費やす。友達づきあいも出来る限りおろそかにしないようにして。
夕刻、終業と同時に下校して、必要なものがあればこのときに買い物。洗濯物を取り込んで同時進行で夕食の準備をして。空いた時間に勉強を済ます。そして店に出勤。家に戻るのは真夜中。倒れこむように眠りについて、また、次の日の繰り返し。
そしてその間に最近挟まれるようになった、妹尾家長男主催のラブゲーム。
いや主催というか、参加者は彼と自分のたった二人なのだが。
『ちょっとオトしてみようかとか思いました』
(なぁにがちょっとだ!)
ぐっと手に握るシャープペンに力を込めた拍子に、折れた芯がまるで変に力を入れるでないと叱咤するように、ぱちりと遊の頬に当たった。てんてんてん、と机の上に転がった折れた芯をぺいっと手で払って、またため息。
ゲームの内容は実に簡単である。遊が隻に惚れるかどうか。漫画などでよく見かける単純な恋愛攻防戦だ。隻は百戦錬磨の手練手管をフル活用し、遊を文字通り“オトしに”かかってくる。まず早朝は朝一に起きて朝食の支度をする遊を手伝いにやってくる。その他の家事手伝いも、時間が空いてさえいればヘルプしに来てくれる。勉強も音羽が居なければ見てくれるし、仕事の教え方もこれ以上ないほどに懇切丁寧。そして人目を盗んでセクハラ行為に及んでくることはなく、女性を引き立てる最高の紳士然としている。
はっきりいって、普通の乙女なら一もなく二もなく、即行でオチている。遊は白いノートにぐりぐりと落書きしながら思い返す。
遊が疲労困憊になりながら細心の注意を払って彼のモーション全てを突っぱねるのにはわけがある。
まず年齢だ。隻は遊より一回り以上も年嵩だ。下手すると隻は犯罪者である。ソレを自覚しているのだろうか。隻は愛があれば年の差なんて、ねぇ? と笑顔で遊に同意を求めてくれたが、ちっとも笑えない。
次に、どう考えても、しばらくは居候しなければいけない家の人間と恋愛関係に陥るのはよろしくない。もしその関係が縺れてしまったら、遊は直ちに家無き子だ。今度ばかりはソープ嬢にならざるを得ないかもしれない。
その三、そして最大の理由なのだが――隻は、ホストである。ホストの前に、色男である。俗に言うモテ男君である。たとえ付き合ったとしても、その周囲には他の女の影が絶えず、その度に遊は精神的苦痛を味わうことだろう。
磯鷲遊はごく普通の恋愛をしたい女子高校生だった。
相手はかっこいいに超したことはない。が、べらぼうにゴキブリホイホイならぬレディーホイホイ男と付き合って精神的にダメージを食らう恋愛を体験するぐらいなら、まぁそこそこ普通かな、の男の子とお付き合いをし、のほほんとした恋愛を享受したい女子高生。ドラマティックよりも堅実平凡。それが遊だ。
ただでさえ明日の生活に不安を抱いているこの時期、いらんごたごたはご遠慮願いたい。それでなくとも妹尾家には騒動が絶えないというのに。
ちなみにこのことを集に相談してみたのだが、笑顔で「がんばってくださいねぇ遊さん。ワタクシ応援いたしておりますので」の一言の元に切り捨てられてしまった。とことん放任主義の家庭である。家にごたごたが持ち込まれても一向に構わないといった感じだった。問答無用で遊を家に置くことを決定した時点で、その気配は濃厚であったが。
「ねーゴールデンウィークどこかいく?」
「へ? ゴールデンウィーク?」
美紀の一言に我に返れば、ノートにはもじゃもじゃパンチパーマが描かれていた。消しゴムで慌てて消しながら、面をあげれば机に手を突いて機嫌よくにこにこ微笑む美紀の姿。
「あー私は、別に」
ゴールデンウィーク中、店は特別感謝祭を開くらしい。明日は準備で潰れる予定だ。今日はその感謝祭を前に簡易改装工事をするらしく店は休みだが、多忙に備えてたっぷり出されるであろう課題はある程度のめどをつける必要があった。遊ぶ暇など爪の垢ほども、だ。
「どこにも行かないの?」
「うん。お金ないし。あー美紀さんは?」
「映画とか。ほら、新作の映画いろいろでてるじゃない? 制覇してこようかなとかって思って」
映画かぁ。どんなものがあったかな、と思考をめぐらしたものの、今一体どんなものが上映中であるのか、ちっとも思い浮かばなかった。最近テレビもほとんど目にすることがない。妹尾家は食事中にテレビをつけることがない。妹尾家にはいくつか家訓があって、そのうち一つがテレビについて。各私室にテレビを置かないことと、食事中にはつけないことが集の宣言の下、取り決められている。
しかしながら、勉強のときを除いて遊が腰を落ち着けるのは、その食事中ぐらいのものなのだ。と、なると遊は全くテレビを見る時間が持てないことになる。世俗の流行をキャッチするアンテナは、最近棗から譲り受けた小型ラジオだった。
「感想教えてね」
差しさわりのないように相槌を打った遊は、うきうきと笑う美紀が少しうらやましかった。
部活に所属していない遊はホームルームが終われば、いつも夕食の買い物をし、真っ直ぐ家に帰宅する。しかし今日はほんの少し勝手が違っていた。集が夕食後に欠かさず飲む緑茶の茶葉が切れていたのである。真にメンドクサイことに、一番近い取り扱い店舗が入るデパ地下には、電車に乗っていかなければならない。電話で在庫を確認した後、遊は制服のまま遠出を余儀なくされた。
たどり着いた時刻は夕方で、大分日が長くなったせいもあってまだ外は明るい。買い物籠を提げたおばちゃん集団とおしくらまんじゅうをしながらどうにかお茶売り場までたどり着き、量り売りをしてもらう。手のひらにちょこんと乗ってしまうような量に諭吉がぱたぱた飛んでいくことについては、精神的にクルものがあったが、これは遊のお金ではない。妹尾家の家計から出ているのだ、と気を持ち直した。
お茶の缶を鞄の中に仕舞いなおして、すぐに駅へと歩き出す。お茶を買いに行くと知った叶が、せっかくだからゆっくり遊んできなよと天使の笑顔で提案してくれたが、そんな余裕は遊にはなかった。お財布の中身もそうだが、数々の誘惑を突っぱねるだけの精神的余裕がない。きゃぴきゃぴはしゃぐ同年代の少年少女たちを尻目に迅速に帰宅し、宿題に取り掛かるべきだ。理性がとても冷静に選ぶべき答えをはじき出していた。
その遊がふらふらと駅前の映画館へつい足を向けてしまったのは、美紀の一言があったからだろう。今上映中の映画をチェックするぐらいいいのではないかね? 悪魔が囁く。いやだわ行ったら見たくなるわよやめなさいよ。天使が反論する。結果はいわずもがな、悪魔の勝利だった。
「あれ?」
ホテルの前を通りかかった遊は、そのコーヒーラウンジの席に着く、妹尾家長兄の姿を認めた。しかも向かいの席には女性の姿がある。ダークグレイのスーツに薄桃色のシャツでぱしっときめた相手は、一見、隻と同い年に見える妙齢のご婦人だった。アクセサリーは控えめだが、さりげなく煌く腕時計はいかにも高級そうである。
デート中かなぁと思った。サービス的なものとして、ホストのお兄さん方が休日に客とデートをすることがあると、遊は耳にしていたからだ。隻に特定の彼女がいるとは聞いたことがない。今日は店が休みなので同伴もないはずであるし、お客さんとのデート、が一番可能性としては高そうだった。
映画をチェックする気も萎えて、気づかれないうちにさっさと帰ろうと踵を返しかけた遊は、その女性が隻に腕を上げる姿を視界の端に入れた。隻はあっさりと手を受け止めてみせ、女性に何かを諭そうとしている。しかし女はただヒステリックに叫んでいるとしか思えない様子でテーブルを叩き、隻に怒鳴り返していた。
せっかくなかなかの美人さんなのに、怒るともったいない。怒っても美人なのは、棗のような超絶的な美人のみである。平凡な美人がヒステリーを起こすと、ただソレは美しさを損ねるだけにすぎない。
ちなみに遊のような平凡な人間が怒るとそれは単なる怒った顔であるあしからず。
隻は余裕綽々といった微笑を浮かべてはいたものの、瞳の奥に困惑の色が見え隠れしていることに遊は気がついていた。駅のほうへと歩きながらちらちらと背後を振り返るが、女性の怒りはどうも収まりそうにない。遊はため息をついて、駆け足でホテルの回転扉を潜り抜けた。
「御免ねお兄ちゃん待たせちゃった?」
出来る限りかわゆい妹を演じて遊はにっこりと微笑んだ。
「あ、え、あ、あれ?」
遊の突然の登場に珍しく隻が狼狽する。遊は隻から、突然の来訪者に硬直している女性に顔を移動させると、とりあえず深呼吸した。ちょっとした度胸と勇気と思い切りが必要だったのである。
「お久しぶりですお母様」
きし、と空気が凍った。
それがなんとなく判った。笑顔を浮かべながら冷や汗が背中を滑り落ちる。女性が何かアクションを起こす前に、とりあえず全て頭の中で考え付いた科白を言ってしまわなければ。
「ですが酷いです私ではなくて兄さんを呼び出して私の進路のことをあれこれいうなんてお仕事で居ないお母様の代わりに兄さんがあれこれ便宜をはらってくれているというのに口出しばかりしないでください私の進路は自分で決められます」
拳を握り締め丹田に力を込めて一息に言った遊を、ぱちくりと目を瞬かせてキャリアウーマンは見ていた。無論様子を新聞の影からこっそり観察していた他席のサラリーマンの方々もだ。今の遊の気分は、コンサートホールいっぱいの大観衆の前でソロパートを演じるときのそれである。
「そういうわけでお兄様はつれて帰りますので文句は私に直接いってください!でぃわ!」
でわ、の部分が上ずっていたのはご愛嬌である。
遊はがし、と隻の腕を掴むと、オリンピックのスプリンターもビックリの勢いでコーヒーラウンジを飛び出した。
「くははははははははははあはははははははひひひひひっはははははは」
「……笑いすぎです隻兄さん」
「いや最高本当最高素敵な演技だったここ最近一番の笑いをありがとうユトちゃんあはははははは」
「殴ってもよろしいっすか」
「やだなぁ女の子がそんな乱暴なことをしたらだめだよ」
とかなんとか言いながら。
駅の噴水前で隻はひたすら腹を抱えて笑っている。ただ立っているだけで人目を引く顔立ちをお持ちでいらっしゃるのに、馬鹿もビックリ馬鹿笑いをかれこれ十分以上続けているものだから、その集まる視線の痛いこと。立ち去ろうと試みても、がっちり手首をつかんでくれちゃっている手がそれを許してくれない。仕方なく遊は身から出た錆、と己を無理やり納得させて、天を仰ぎながら盛大にため息をついた。
おお神よ! いらぬお節介を焼いた過去のワタクシにどうか裁きを!
「あー面白かった。いやぁユトちゃんなかなか最高だねぇ」
「笑いすぎですってかその科白さっきもききましたというか私帰ってもいいすか晩御飯の支度まだなんで」
「なんでユトちゃんここにいるの」
「人の話聞きましょうよ隻兄さん」
集が人の話を聞かず強引に話を進める性格は、きっちりムスコにも受け継がれていた。
遊はがっくりと肩を落とした。
「いやでも本当に助かったよユトちゃん。ちょっと困ってたの」
「お客さん? あの人」
遊の質問をはぐらかすように、隻は曖昧に笑って肩をすくめる。
「まぁね。ちょっとめんどくさいことになっててねぇ。ま、ユトちゃんが気にしなくてもいいよ」
ぐりぐりと遊の頭をなでてくる隻の手を、遊は眉間に皺を寄せながら払い落とした。髪の毛がぐしゃぐしゃになるではないか。
隻は苦笑を浮かべて腕時計にちらりと視線を落とした。ぱっと顔を上げた彼の顔はいたずらっ子のように輝いている。思わず身構える遊に、隻は満面の笑顔で提案してきた。
「それはおいておいて、ユトちゃんおなかすかない? どう? おにーさんと美味しい中華でも食べに行かない?」
「いやだからね隻兄さん私夕ご飯の支度まだなんだってば。無理無理ってえーっと、何やってんの? おーい」
ぱたぱたと手を振りながら注意を引いてみるが、隻は胸ポケットから引き抜いた携帯電話に視線を注いでいる。女子高生と競えるぐらいに手早くぴぽぱとメールを打ちった彼は、眉間に皺を寄せたままの遊の横で相手からの返答を待ち始めた。一分と経たず、着信音が鳴り響く。ぱちん、と再び携帯電話を開いて耳に当てる。
怒鳴り声が響いた。音羽だ。
「あははは怒んない怒んない。やだなぁカルシウム最近足りないんじゃないの音羽。棗以上に怒りっぽいえ? 比べるなって?うんだったら素直に健康ホネッコかって食べようね」
俺は犬じゃないという音羽の怒鳴り声を耳に入れながら、なんだか、嫌な予感がする。遊は思った。
「ところで音羽。俺ねー今ユトちゃんと一緒なの。いいでしょぉ。そんなうらやましがらなくても」
音羽はうらやましがってないとひたすら怒鳴っておいでですよ隻兄さん。
だが音羽の剣幕をさらりと受け流し、機嫌よく隻は続けた。
「そんなわけで俺ユトちゃん拉致ったから、彼女晩御飯の支度今日は無理。今日は叶と音羽で店屋物でも頼んでねー。集にもそういっておいてね。じゃっ」
ぷち。
呆然とする遊の目の前で、携帯電話はぱちんと閉じられ、隻の胸ポケットへとするりと収まる。通信が切られる寸前、そのマイクからは遊を非難する音羽の声が聞こえてきたのは気のせいだったのだろうか。
というか、気のせいであって欲しいむしろ。でないと家に帰ったときまたねちねち嫌味を言われる。
「というわけでユトちゃんが今夜夕飯の支度をする必要は全く無くなったわけです」
「……はぁ」
「あ、中華嫌い? フランス料理がいい?」
「いや、あの」
助けてもらったお礼になんだっておごっちゃうよーとお兄さんは気安く言う。だが遊が切に願うのは速やかに帰宅させてくれることだ。遊が帰りたがっている理由は何も夕食の支度だけではない。というよりはむしろ、大量に出された宿題を片付けたいという理由のほうが大きい。
だが、手だけはどうあっても離してくれないようである。
心労に痛み始めたこめかみを思わず押さえた。
「……晩御飯食べたら真っ直ぐ帰るよね」
「そりゃぁね。明日俺も朝からお仕事だしね」
「判りました。好きにしてくださいよ」
夕食に付き合うだけなら、と仏心を出したのは間違いであった。遊は言ってしまった後で大いに後悔する。
悪魔的な微笑をにやりと口元に刻む隻を目にしてしまい、もしかして変態と叫んでもこの手を振り払うべきであったのではなかろうかと、遊は一瞬血の気の引く感覚を味わっていた。