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Stage 4. 春雨攻防戦 2 


「うーうーうー」
 自分がどうしてこの高校に受かることができたのだか、毎日のように不思議に思える。
「大丈夫? 磯鷲さん」
「……大丈夫」
 所属するクラスの委員長、遠藤美紀が、教科書にかじりつく遊の顔をひょい、と覗き込んできた。縁なしの眼鏡がチャームポイントの、なかなか可愛らしい少女である。長い猫っ毛は地毛かそれとも脱色しているのか、遊のそれと比べるとかなり明るい。それでも教師が取り立てて忠告する気配を見せないのは、彼女が学年で一桁をキープし続ける才女だからだ。はきはきと物事をいい、機敏に行動する姿には好感が持てる。
 人懐っこく笑う彼女に、遊はどうにか笑顔を取り繕った。
「でも御免、ここわからないんだけど教えてくれるかなぁ?」
「どれどれ? あーこれね」
 ノートと教科書二冊を並べて即座、彼女は余白に解答解説なるものを書き込み始めた。
 頬杖をつき、感心と尊敬の念でもって美紀を見つめる。どうやったらこの難解な二次関数が解けるようになるのだろう。
 前の高校において、遊はそこそこの成績を収めていたが、それがいかに低レベルな競争であったのかをこの学校に来て初めて知った。美紀の教え方は前の学校の数学教師のそれよりはるかにハイレベルで、理解しやすい。もし前の数学教師がこの場にいたのなら、美紀に平伏して数学を教えてくださいと頼み込まなければならないだろう。
(そういえば)
 ふと、遊は思った。
(あいつ、も頭いいよねぇ?)
 あいつ、とは春休み中、父上である集の命によっていやいや遊の家庭教師を引き受けていた音羽のことである。
 不幸なことに所属するクラスが同じで、これはどうやら事情があって同じ家に住んでいると知っている教師が、知り合いがいたほうがなじみやすかろうという、いらぬ配慮を講じた結果と思われる。同居していることを語るなどもってのほか。話しかけるな目を合わせるなとの次男様からの言いつけに従おうとはしているが、嫌でも目に付くことはある。
 たとえば。
「あ、妹尾君」
 今である。
 まだ名前を覚えていないクラスメイトの女生徒がほんのり頬を染めて、教室に入ってきた男の姿を認める。男。少年ではない男だ。制服がブレザーであることに彼は感謝すべきであろう。学ランなどを身につける羽目になったなら、そのアンバランスさが周囲の笑いを呼び起こすに違いない。遊はそう確信していた。
 妹尾音羽は、際立っていた。彼は異性誰をも惹き付けてやまない、完全な男だった。
 他の少年たちが男でないという意味ではない。だが決定的な何かが、音羽との間に引かれていた。音羽と拮抗するのはただ一人、彼の真横に立っている、守里笠音ぐらいなものであろう。音羽とは対照的な、陽気な光を背負う伊達男。見ていると本当に絵になるものだから、クラスの半数――無論女子である――はうっとりとその光景を眺めている。例外は遊と、斜め前で黙々と本を読んでいる少女ぐらいなものだった。頬杖を付く遊の視界の隅で、細い少女の肩と髪が、時折震える。読んでいる書籍のなんらかが、少女を笑わせているらしい。
「気になる?」
「……は?」
 何のことだか判らずに、遊は面をあげて美紀に問い返した。
「かっこいいでしょ。うちの学校の王子二人」
「……あーおと……妹尾君と守里君?」
「そうよ」
 美紀はさも当然というふうに笑いを上げた。他に一体どんな返答があるというのか、そんな意の込められた笑いだ。
「二人で並ぶと本当、アイドルみたいよねー」
 そういわれた遊は、アイドルというよりもただ胡散臭いと思った。あんな常識外れの美貌をした男二人に並ばれると、逆に腹立たしさがこみ上げてくる。神様って不公平! 美人なお姉さんは好きであったが、美人な男はそれほど好きではない。自分の不恰好さが、際立つのが嫌だった。
 特にその男が、自分にひたすら冷たく当たってくる妹尾家次男ならなおさら。
 むっつりと口を閉ざした遊の心中を、学年の才女は慮ってはくれなかった。
「それに二人とも頭いいし。狙ってる子はたくさん居るみたいよね。みんなお近づきになりたがってるみたいだけれども、守里君は気安いけど、妹尾君はねぇ」
「ね、二人とも頭いいの?」
 これ以上おばちゃんの井戸端ヨロシク噂話を聞きたくはなかった遊は、話題転換を試みた。丁度遊自身も気になっていたことだ。美紀はにっこりと微笑んで、えぇ、と頷いた。
「二人とも一桁をキープしていると思うわよたしか。守里君は文系で、妹尾君は理系で一番だったんじゃないこの間。すごいわよねーどんな勉強してるんだろ」
 同じく学年で一桁台にいらっしゃる人に言われてもまったくもって嫌味にしか聞こえない。そこを遊は超人的忍耐力でもって笑みを作り、受け流した。
 教室から出て行く背中二つを、頬杖をつきながら見送りながら、美紀が言う。
「でもたとえ頭が悪くっても、あの顔ならね。一晩だけでも、一緒に居られないものかしらね」
 遊はふと、そういえば今夜は一緒に仕事に就くのだ、ということを思い出した。
 そして来るスパルタの宵を想像し、げんなりぐったりその場に突っ伏したのだった。


「阿呆」
 その口からはそんな言葉しかでてこないのでしょうかお兄様。
 遊は口元を引きつらせながら音羽を見返した。本日のフロント業務担当は遊と音羽である。機嫌が悪いのは遊だけではなく音羽も同じだった。昨夜急遽休みを申し出てきたもう一人のフロント業務員の穴を、彼が埋めることになったからである。
(どうしてこんなに嫌われてるんざましょ)
 はぁ、とこっそりため息をついてみる。美紀が代わってくれるというのなら、遊は慎ましやかにこの音羽の隣を差し出す次第であるのに。
 けなされる理由はきちんとある。先ほども退店していく客に預かっていた上着と別のそれを渡してしまったのだ。誤りないように札が付いているにもかかわらず、慌てて間違ってしまったのは、当の遊だ。
 だが。
 ここまで辛辣に叱らなくてもいいのではないかというぐらい、音羽は仕事の合間に細々お小言を並べ立てる。一方で彼は客の気配が近づくと、その表情を穏やかな微笑に転じて見送りにでるのだ。その変わり身の早さたるや、忍者もびっくり仰天である。
 段々と苛立ちよりも物悲しさがこみ上げてきた遊は、目頭の熱さを感じて唇を引き結んだ。このままでは、笑顔で客に対応することができない。というよりも、客の目の前でぶちりと音羽に対しての堪忍袋の緒が切れてしまいそうな気配があった。
「おいどこへいく」
 低く呻くように尋ねてきた音羽に、遊はにっこり微笑み、慇懃無礼に返答する。
「少々お手洗いに行ってまいります」


 クラブ、<ホストファミリー>はとても小さな店だ。一般的なホストクラブというものがどのような造りになっているのか遊は知らないが、とりあえず妹尾家の経営するクラブはとても小さなものであった。煉瓦造りの洒落た宝石店の地下が店舗となっている。中央にはどん、と、どうやって持ち込んだのだかわからないグランドピアノが鎮座し、ボックス席が三つだけ角に並んでいた。あとはカウンターと個室。個室の数も二部屋だけである。
 規模は小さな割に、スタッフの数はやたらめったら多い。
 一つのボックスにつき、ホストが最低二人は入っている。たとえ客が一人であってもだ。フロアを動き回るボーイが三人。カウンターに二人。キッチンに二人。そしてフロントに二人。
 その人数にもかかわらず。
 スタッフ用手洗いはたった一つなのである。
「うーげー」
 遊は手洗いの扉の前に立ちながら、その中で今日も誰かが嘔吐する音を耳にしていた。店のフロント業務を始めてそろそろ一週間目。こういったことは日常茶飯事だった。ホストの誰もが酒に強いというわけではない。いや、確かに強いのであろうが、飲む量が半端ないのだ。彼らは時に客の要望によって急性アルコール中毒になってもおかしくはないような飲み方をする。このクラブにはあまり質の悪い客はよりつかず、これでもまだましなほうだとか。それでも、何時肝臓を潰してもおかしくはないような気がしていた。
 怖い世界だな、と思った。
 まだ中のホストは吐いている。遊は仕方なく客用の洗面所に向かうことにした。無論、こっそりと人目を避けて。


 綺麗な赤いタイルを敷き詰めた客用トイレ。遊は女性客が一人出た頃合を見計らって水を流し、外をうかがいながら外に出た。そして。
「おや」
 ひょっこりこの店の看板男と遭遇した。
 隻である。
「磯鷲さんどうしてこんなところに?」
「あ、すみません」
 遊は居住まいを正して一礼した。家では気安い人間の一人であるが、店では上司に他ならない。先輩という意味で音羽にも敬意を払うべきだという意見は、とりあえずこの際無視しておく。
「いいけど、お客様のものを勝手に使ったら駄目だよ」
 表情が笑っていて、遊がこちらを使わざるを得なかった理由は察しているようだった。案の定、たとえスタッフ用が使用中であったとしても、と付け加えられる。殊勝に遊は頷いて、急いでフロントに戻ろうとした。
 が。
「くぉおっ」
 縛ってある髪を根こそぎつかまれ、背後に引っ張られる。遊は、痛みから涙目になりつつ背後を振り返った。何時客が通るかもしれない手前、叫ぶわけには行かなかったが、低めた声音で抗議する。
「な、何するんですか」
「え? あぁいや。ついつい」
「ついじゃないです! あー髪直さなきゃいけない」
 頭部を触ると引っ張られたせいか、うなじの辺りがもっさりと膨れ上がってしまっていた。遊はため息をつきながら、髪をといて手早く纏めた。骨格はっきりした少年寄りの顔立ち、体格の補正、男物の服装、そして地下室特有の暗い照明も手伝って、フロントに立つぐらいならば性別を匂わせることもないが、女の背格好をしているに変わりはない。髪型一つで女らしくみえることもある。
「あ、俺直そうか」
 遊に代わって髪に触れた指を、遊は退いて遠慮した。
「大丈夫です。アカネさん、それより戻らなくていいんですかお客さん」
 アカネというのは隻の源氏名である。敢えて呼んで、仕事中だという忠告を言外ににおわせる。判っていないわけでもないだろうに、隻はそれを受け流した。
「いや戻らなきゃならないんだけどね今お客帰ったばっかで気分転換中。お散歩」
「でもすぐに次指名入ってるんじゃないんですか?」
「入ってるよ」
「だったら」
「音羽にいじめられているらしいから、磯鷲さんを慰めようかなと」
 その隻の発言に、遊は眉をひそめた。嬉しいという感情よりも警戒心が先に立つ。奥から玄関に面するフロントは見えないはずだから、単に想像力を働かせただけのことであろう。だからといって、こんな場所でこの男は何を言い出す。
「それよりもお仕事に疲れて高いお金を払ってきているお客様が大事でしょう」
 平静を装い、彼のお遊びを[たしな]める。
「おや意外に真面目だね」
 少し小馬鹿にしたような言い方は珍しい。遊はむ、と口先をまげて低く呻いた。
「一億三千万背負っている身なんで」
 一つ言及しておきたい。遊は真面目な学生である。
 借金を背負っていなかったらこんな場所で働いたりもしないだろう。法律違反すれすれなのかそれとも完璧法律違反なのか、遊は知らない。だが今は妹尾家大黒柱に借金がある身だし、居候させてもらっている借りもある。いわれた仕事はきちんとこなすつもりだ。
「隻兄さん」
 動く気配のない隻は、明らかに自分をからかっていた。肩を落とし、嘆息して遊は呻いた。
「怒りますよ」
「どうぞご自由に」
「隻……」
「俺ちょっと気になってるんだよね」
 壁にとん、と背を預け、腕を組んで見下ろしてくる隻の目には、愉悦の笑みが浮かんでいる
 これから楽しくて仕方がないゲームに興じる――そんな笑みだ。
 少し嫌な予感がして、その目から目線を外さず遊は一歩、足を後ろに引いた。
「な、にをですか?」
「棗ってさ。結構気難しいのは前も話したと思うけど、一体どうして君にあんなふうに甘いのかな、って思って」
「甘い?」
「そう。比べもんにならないぐらい。実の妹ですっていう可愛がりようだしね」
 自分が棗に可愛がられている自覚は、そこそこあった。だがその中には彼女の不機嫌二日酔いその他諸々に付き合わなければならないというおまけが付いてくる。辛辣な言葉を遊相手にも彼女は吐くし、それは他の誰に対しても同じだった。
「特に、四月初め、から。その秘密はなんなのかな、と思いまして」
「はぁ」
「……というわけで、ちょっとオトしてみようかとか思いました」
「……何、落とすんですか」
「君」
 ハイ?
「そうしたら君のことが、少し判るかな、と思って」
 何を落とすんだというという質問を飲み込む遊の頬を、隻の指がふっと掠める。にっこりと隻は微笑み、ふと顔を上げた。
「すみませーん指名はいりましたのでおねがいしまーす」
「わかったすぐ行くっていっておいて」
 遊は決して小柄ではないが、大柄でもない。すらりとした、それでいて肩幅の広い隻の身体は遊の身体を隠すには十分だった。隻を呼びにきたボーイは、遊の存在にも気づかず奥へとすぐ引っ込んでいく。
「楽しみにしておいて」
 毒なのだか蜜なのだか麻薬なのだかわからない、けれどもとにかく相手をひきつける微笑一つを置き土産に、隻が客席へ戻っていった。
 遊は壁にとん、と背中をつけて、そのままその場で膝を抱える。
 攻防戦の、始まりの鐘が、どこかで密やかに鳴り響いた。


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