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Stage 4. 春雨攻防戦 1


「ねぇ」
 玄関口で珍しく呼び止められた。
 口元を引き結びつつ振り返る。背後、靴箱に身体の重心を預けるようにして立っているのは姉の棗だった。身につけているものは白のスラックスに銀ストライプのシャツ。長い足を組むようにして佇み、腕を組んで自分を見下ろしている。年上の歴戦の男たちを圧倒するに足る、戦闘服に身をつつんだ彼女は、物言わずともそれだけで威厳と貫禄がある。
 沈黙して見上げていると、ルージュを塗っているわけでもないのに赤く濡れる唇が開いた。
「あんた、もしかして真砂と重ねてみてるわけ?」
 冷ややかな声だった。睥睨する眼差しと共に吐かれた言葉は、絶対零度の温度を持ち合わせる。もしこの場にいるのが一般の人間であるのなら、足がすくんでその場から動くことができなかったであろう。
 幸いにも自分には耐性があった。
 口を閉ざし、靴紐を結ぶ。素早く結ぶつもりであったのに、どうして自分の指はこうも緩慢にしか動かないのだろう。痙攣するその先。背後からの圧力に抵抗するその代償に、頬を滑り落ちる、冷や汗。
「ねぇ」
「重ねてなんか見るか」
 ようやく靴紐を結び終え、立ち上がる。学生鞄を小脇に、リュックサックを肩に掛け、くるりと振り返る。
「音羽」
「棗。俺はそこまであいつのことなんざ気にしちゃいない」
 じゃぁ、と手を振って玄関の扉を開ける。
 まだ光度の弱い朝日が、視界いっぱいに自分を迎えた。


 妹尾家の生活には、慣れるということがない。
「にいさ―ん。隻にいさん朝でっすよ―」
 棗の命に従い、隻を起こしに彼の寝室に侵入した遊は、揺さぶっても起きる気配のない彼に腕を組んでため息をついた。どうしたものかと思案する。
 前回は、結局隻は遊の手によって眠りの世界から帰還せず、代わって棗が豪快に彼の頭を蹴り飛ばしたのだ。さすがに今回もその形よい頭を足蹴にされるのは忍びなく思い、遊は強硬手段に出た。つまり、布団の引き剥がしである。
 自分の父親が起きないとき、布団をよく引き剥がしていた。その経験に基づいての行動である。
が。
 一瞬後には凝り固まった。

 裸。

 寝台の上に寝そべっていたのは、一応ボクサーパンツ一枚を身につけているとはいえ、成人男性の裸であった。うっすらと浮く筋肉の筋。滑らかそうな肌。引き締まった綺麗な身体をお持ちで、と感心している場合ではない。はっきりいってしまえば、遊には免疫がない。ぎくしゃくと布団を再び身体の上にのせようとした遊は、もっそりと起き上がった隻と目が合い、引きつった笑みを浮かべた。
「お、オハヨウゴザイマス……」
 後ずさる遊の腕を掴んだ隻は、営業スマイルを遊に向けてきた。その艶やかさ。一般の乙女が見るのなら思わず陶然となること確定の微笑であるが、遊を支配するのは肉食動物に射止められた小動物の感じる危機感のみだ。
 そして一瞬後。
「ぎゃ――――っ!!!!」
 隻の腕のなかで遊は悲鳴を上げていた。
 食虫植物のごとき素早さで遊の身体を腕の中に閉じ込めた隻が、寝ぼけ眼の顔を傾ける。
「ん―?」
「んー! じゃないんーじゃ!せせせせ、隻兄さん服着て! 服! いやその前に離して!」
「きもちいいからやだー」
「やだじゃないやだじゃ!」
 と、応酬を続けているその間に、いつの間にか遊の身体は完全にシーツと隻の間に挟まれていた。のしかかってくる体重と、甘い匂い。男の癖にどうしてこんなに蜜みたいな匂いするんですか。
 磯鷲遊十六歳。貞操の危機です。
 ぎゅ、と力強く抱きしめられ、遊の頭は大災害に襲われた街のような状態であった。思考回路が完全に断絶。身体は硬直。意識をふっと手放しそうになる寸前、がん、という金属音と棗の声が狭い部屋に響き渡った。
「あさっぱらから何やってんのこの万年発情兄貴ぃ―――っ!!!!」
 仰ぎ見ると、お約束のようにフライパンを携えた棗が仁王立ちしていた。


 騒動の絶えることのない妹尾家。つまりはとても平和で皆が健康ということである。
「あはははごめんごめん」
 朝食の席には集と音羽を除いた四人のみが着いていた。そこで髪を掻きあげながら、のんきに謝罪してくるのは無論、隻だ。今はきちんと衣服に身を包んでいる。今日は午前中は休みなのか、ジーンズとトレーナーというラフないでたちだ。金色に染められた綺麗な髪、その下の整った顔をマトモに見ることのできない遊は、ご飯を口に運びながら俯いて呻いた。
「……もうあんなことしないでください心臓止まります」
「あ、でも俺的には気持ちよかったよユトちゃんの体。どう? こんど夜のお相手してみるっつだ!」
 ごん、という音と共に、棗の拳が容赦なく隻の頭に振り下ろされる。その遠慮のなさ。時々どちらが兄でどちらが姉なのかわからなくなる。
 にっこりと、けれども目だけ笑っていない冷ややかな笑顔で棗が告げる。
「そういうからかい方やめなさい隻」
「いぢめてない本心なんだけど。あーいたっ。まだ殴り足らんの俺のこと」
「そうね。足りないわ。裸で寝てようが女と寝てようが私はかまわないけれども、ユトちゃんを襲うのはやめなさい」
 ぴしゃりと言い放ってくれる棗に、遊は少し感動する。目があうと、棗はにっこりと微笑んでくれる。それは先ほどの冷笑ではなく、親愛の篭った微笑だ。つられて遊もへにゃりと笑い返す。と、茶碗をもつ左手の袖口が引っ張られた。
「ん?」
 にこ、と無邪気な微笑をむけてくるのは叶。小学生らしいあどけない微笑だ。天使というものが実際いるのなら、かくあろう微笑。
「今度は僕も起こしてね。ユトちゃん」
「え?」
 母親にものをねだる子供のような叶の視線に硬直していると、耳に厳しい棗の声が飛び込んだ。
「ちゃんと自分で起きる習慣つけなきゃ駄目よ叶。隻みたいになるわ」
「……なーつーめー。俺一応おにーさんなんですけれど」
「そう。だったらソレ相応の威厳を身につけて見せるのね」
「厳しいお言葉」
「反論は?」
「アリマセン」
 言葉の応酬を聴きながら、遊は朝の食事を再開する。
 前回、隻の言葉から、突き放した関係だなぁと寂しく思ったものであるが。
 なんだかんだ言って、この兄妹は仲がよい。こうやって、毎朝の食事時に軽口の応酬を絶やさないからだ。
 この兄妹は、対等なのだと思う。年齢というよりもお互いの能力でもって判断している節がある。貶す部分はとことん貶すが、一角の敬意を払う部分は忘れていない。まぁ蹴り飛ばしたり殴り飛ばしたりする部分に敬意があるのかといえば言葉に詰まるが、相手を尊重している部分がある。それは確かだ。名前の呼び方も、その一端である。
 冷たいと思ってしまったのは、遊の気のせいだったのだろうか。
 じっと観察していると、隻と目があう。綺麗、という言葉はとてもありきたりだが、それ以外に隻をあらわす言葉はないと思う。隻だけではなく兄妹全員にいえることだけれども。それぞれ少しずつ個性があって、隻の顔は少し甘い。柔らかな金に染められた髪に、薄い色素の瞳。あぁこういう人がホストという職に付くのだ、と納得できる。
「あ、でも合意だったら襲っておっけ?」
「は?」
 一瞬何を言われたのか判らず、隻に聞き返す。
「僕がガードに入るから無理だよ」
 という叶の言葉と。
「全然懲りてないわねあんた」
 という棗の言葉が、彼女の拳を振り下ろす音と共に部屋に響いた。


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