BACK/TOP/NEXT

Stage 3. そんな美しい貴方の事情 6


 外に出ると、ほんの少しひやりとした風が心地よい。うっすらと海の表面を霧が覆っている。まだそのものは姿を現していないものの、太陽が纏う光の衣は水平線から覗いていた。
 清少納言も詠った、美しい春のあさぼらけ。
 もっとも、彼女が詠ったのは山についてであったが。
「あーっ、たくあったま痛いわぁ」
 砂の上に腰を落とした棗が、頭を押さえながら声を上げた。
「一体どれぐらい飲んでたんですか…? お酒」
「覚えてないわ。多分一升は空けてたと思うんだけど……」
「……日本酒ですよね」
「大吟醸よ」
 しれっという棗は、酒豪なのか果たして。
 日本酒は普通一合でもきついような気がするのだが、それは酒の味がわからない遊だからこそ思うことなのだろうか。というか、そもそも本当に一体いつ飲んだのだ。
「ありがとうねユトちゃん」
「はい?」
「色々と付き合ってもらって」
「……いえ」
 大丈夫ですよ、と口にしかけた言葉を、遊は唾と共に嚥下した。
 棗の横顔からは、感情の色が消えていた。その瞳は穏やかながらも、どこか哀切の色があった。形のよい彼女の下唇は、強く噛み締められている。遊は躊躇いを覚えつつ、疑問を口にした。
「……棗姐さんは」
「ん?」
「妹尾家に生まれたこと、嫌、だった?」
 棗は一瞬目を細めたが、怒ったわけではないようであった。彼女は小さく笑う。自嘲の笑みだ。
「さてねぇ。家族の面々は、嫌いじゃないけれどね。どうして?」
「……好きで、生まれたんじゃないって、そういってたし」
「あぁ……なるほどね」
 棗は遊の言葉に小さく頷き、一拍置いて言葉を続けた。
「恨んだこともあるわ。今じゃ市民権得たようになってるホストクラブも、昔はイカガワシイ店の一つに過ぎなかったわけだし。いえ、今もそういうお店があるのは確かだけれどね。私自身、かなり派手な顔だという自覚もあるし。おかげさまで、まともに愚痴いえる相手も、片手の指で足りてしまう人数だしね」
「それとこれとは関係ないと思うけど」
「関係あるわ」
 棗は一変し、遊の語尾を半ば遮るようにして、鋭い口調で断言した。
「誰が家が水商売の家の娘と好き好んで付き合いたがるもんですか。普通じゃない家の人間と」
「……そうかなぁ」
「そうよ」
「じゃぁ何で、昌穂さんや、えーっと、智紀、さん? たちは、棗姐さんと普通に付き合ってるの?」
 智紀とは棗の恋人の名だ。俳優としても活躍している、某有名アイドルグループのヴォーカリスト。
「それは……」
 棗は面を上げて幾度か唇を動かしたものの、そのまま口を噤んでしまった。
 子供のように抱えた膝に、彼女は顔を押し付ける。
「ちゃんと私を見てくれる人間だと、思うから、よ。……だから今頃、持ち出して欲しくなかったのよね。家のことなんか」
「ひどいよねぇ。棗姐さんの家は姐さんが選択できたものじゃないんだから、そっちこそ芸能界やめればいいって話だと、私は思うけど」
 芸能界に彼が入ったのは、自らの選択だったはずだ。それなのに、棗に彼女が選択できなかった事項を責めるのは間違っている。
「そうね」
 棗は苦笑した。
「だけどやめて欲しいとは思わないのよ」
「そうなの?」
「そうね。やっぱり歌ったり演技したりカメラの前で馬鹿やっているのが、楽しそうだから」
 結局は、それを許せるのだと、困ったように棗は笑う。惚れた弱みという奴か。遊にはまだ未知の感情だった。
「でもすっきりしたでしょう?ねーさん。なんか大騒ぎして」
 遊にとっては悪夢のような流れではあったが、楽しくないわけではなかった。棗の意外な――ある意味、末恐ろしい一面を見れたわけであるし、今朝の彼女は先日までの険がそぎ落とされて、すっきりとした表情を浮かべている。
「そうね」
「やっぱり一人で部屋に篭って鬱々したりするよりも、誰かと一緒に、騒ぐのが一番良いよ」
 んーと背伸びしながら、遊は言った。今日はいい天気になりそうだった。
 棗が、微笑んでそうね、と頷いた。
「私、棗姐さんのこと好きだよ」
 遊は徐々に、水平線の向こうから顔をもたげる太陽を、目を細めながら眺めて言った。
「どうしたの突然」
「家業がホストクラブとか言われて驚いたのは事実だけど。でも棗ねーさんは美人だし、優しいし、私にいろいろと気を遣ってくれて。棗姐さんのざっくばらんだけど不器用に優しいところとか、私好き」
「……やぁねぇ褒め殺ししても何もでないわよ」
「いや、んーそんなんじゃなくてね。まだ、ほんの短い間しか一緒にいないけど、でも家のこととかそんなん抜きにしても私は棗ねーさんが好きなわけで。やっぱり、智紀さんも、家とか抜きにして棗姐さんが好きなんだろうし」
 棗は、美人でこの気性。仕事もできる。一見完璧である人間は、他者の嫉妬を受けやすい。
 自分のことを話したい。けれども特異さゆえに話すことのできない、そのジレンマ。
 遊が容姿能力諸々で嫉妬を受けることはまずない。だが復学した後、友人となった人々に詳細を語ることを、遊は決してできないだろう。特に遊の年代は、何でも互いに話したがる年代であり、些細な秘密が周囲との関係に亀裂をいれ、距離を広げていくこともある。棗ばかりではない。これから奇特な生活を送るだろう遊にもいえる状況なのだ。
 棗の主張も、わからないわけではない。
 けれども。
「家のことを口にしたのはやばいよ智紀さんって思うけど、絶対弾みだろうし友達少ないのは棗姐さんの努力が足りないというか棗姐さん自身が家のことを気にしすぎて線を引いてるというか」
 平凡な少女に過ぎなかった遊に、棗の苦悩は欠片ほどもわからない。けれども、見る限り昌穂のように、確実に棗を理解している人間はいるのだ。親の経歴をさほど気にすることのないはずの社会人になった今でさえ、実家のことを気にするのは、おそらく棗自身が理由のはずだ。
 線を引いているのは、棗自身のはずだ。
 そこまで考えて、遊はあれ、と我に返った。
「なんだか、言いたいことがわからなくなってきた……」
「というかユトちゃん今すぱっと友達少ないっていってくれたわね」
「あっ! 御免なさい!」
 棗の低い呻きに遊は慌てて口を押さえる。
 恐る恐る見下ろすと、予想に反して棗の柔らかい微笑があった。
 遊は口を手で押さえたまま、ぼそぼそと呟いた。
「……うん。言いたかったのは、愚痴とか、普通に皆にぶちまけちゃえばいいんだよってことで。こんな風に、大騒ぎしたりさ。私も、愚痴ならいつでも聞いちゃうし」
 愚痴を聞くぐらいなら、本当にいつでもかまわなかった。大騒ぎするのも、あのような形ではなくて、もっと遊が参加できる形なら大賛成だ。
 嘆息しながら、遊は一つ付け加える。
「未成年なのでお酒は一緒に飲めないんですけどハイ」
 これから、遊自身も棗に色々と相談事を持ちかけてそうな気がするし。
「……今小学生でも飲む子いるわよ」
「……私、まだお酒の味がわからないおこちゃまなんで」
 スミマセン、と頭を軽く下げる。
 棗が喉を笑みに鳴らす。立ち上がった彼女は軽く砂を払い、遊に向き直った。
「ユトちゃん」
「はぃいぃっ!」
 言いたいことを失礼承知で一気に言ってしまった後なので、どのように反論されるかわからない。遊は気をつけの姿勢で棗と対峙した。
 だが棗の次の行動は、遊にとって予想外のものだった。
「ありがとうユトちゃん」
 ふわりと、棗が笑った。
 その笑顔は、実に反則ものだった。
 見ているほうが陶然となる微笑だった。棗は笑っているほうがうんといい。遊は思う。それは誰に対しても言えることなのかもしれないが、棗に対してはなおさらだと。
 一人で立たなければならないと、いきり立ってすら見える、男勝りなキャリアウーマンではなく。
 笑うだけで、こんなにも優しく愛らしい女の人の像が現れる。
「帰りましょうか」
 棗が髪を手で押さえながら笑って言う。
「うん」
 遊も笑って頷き、ゆっくりとその場から踵を返した。


「あーそれにしてもねむぃ」
 昨日からの疲労のせいか、それとも慣れぬ早起きのせいか――おそらくその両方であろうが――とにかく遊は眠かった。
 猫招館に戻り、車から降りると、裏口に敦基が佇んでいた。
「どうしたの敦基。あんた何裏口でぼーっと突っ立ってるわけ?」
 運転席から降りると同時に棗が問う。敦基は昨夜と同じ服装で、腕にはバゲットパンの詰められた紙袋を抱えている。焼き立てらしく湯気が立ち、ふんわりと香ばしい小麦の匂いがした。
「鍵、忘れた。ら、ハガさんに全部鍵かけられてた。締め出されたっぽい」
「ちょっとまってということはこれあんたの鍵だったのね」
 棗の指先に引っかかっている見覚えのない可愛らしいキーホルダーには、朝日を受けて鈍く輝く鍵がある。
 鍵穴にそれを差し込む棗を眺めつつ、遊は視界の端にバケットを収めた。腹が空腹を訴えている。朝食のお時間なのだ。
 と。
「え?」
 棗が鍵を回す前に扉が開き、昌穂が顔を覗かせる。彼は扉のノブに手をかけたまま、なんやお前ら、と呟いた。
「何皆そんなところでつったっとんねん。つか棗おまえユトちゃんつれてこんな早朝からどこいっとったんや?」
「酔い覚ましのお散歩よ」
 肩をすくめ、悪びれもせずに棗は応じる。そんな彼女を、昌穂は半眼で眺めた。
「まぁええけど。それよりユトちゃん、君にお客さん来とるで」
「ほえ? お客?」
 この街に知り合いの少ない自分に客などありえない。
 純粋に驚いていると、昌穂の背後からにゅっとそのお客とやらが姿を現した。
「隻にいさん?」
「はーいおはようお姫様。王子が迎えに参りましたよぉ」
「誰が王子よ三十路超えたおっさんがそんなこといわないでよ」
「コラ棗。世の中の乙女の夢壊すようなこと言わない」
「……え? マジで隻兄さん三十路過ぎてるんですか!?」
 遊の問いに、隻はふっふと意味深な微笑を浮かべるだけで答えない。
 どうやら、本当であるらしい。
「うそー!?」
 となると、隻とほぼ同じ顔をしていらっしゃる集は、一体いくつなのだろう。
 そもそも、棗もいくつなのだ。
 マテ、彼のアイドルと同級ということはつまり。
 棗の年を逆算していた遊の思考を、間延びした隻の一言が引き戻した。
「んー俺の年のことはともかく、準備して早く行かなきゃね」
 行く?
「……いくって、どこにですか?」
「やだなぁユトちゃん」
 隻ははははと朗らかな笑みを浮かべた。
「今日だよね。編入試験」
 一瞬。
 時が凍りついたようだった、とは、敦基の弁である。
 ワスレテマシタ。
「早く家帰って朝食食べて準備しないと、間に合わないよ?」
「そんな間延びした声でいわなくたってわかってますー!!!! あぁぁぁっぁぁあ!!!!」
 その朝、遊は鬼のようだった、と昌穂はいう。
 結局その足で妹尾家へ戻り勉強道具とトーストを引っつかんだ遊は、試験時刻ぎりぎりで教室に滑り込んだのだった。


 春うらら、人々が新たな人生を歩み出す四月ももう目の前。
 遊は死に掛けながら炬燵の天板に突っ伏していた。
「……なんなのこの宿題」
「また間違えてるぞ」
 きゅっと赤のボールペンの蓋を閉めて、容赦ない冷ややかな響きで口上してくるのは、クールビューティー音羽お兄様である。もっともクールなお兄様、一度感情的になれば子供もここまで幼稚な切れ方はしないという怒り方をなさるのですが。
「まぁ棗に一日ならぬ夜までも付き合って受かったのは褒めてやるがやはり奇跡かそれとも色気で篭絡したか。まぁお前みたいなやつに色気という武器が使えたのかどうかははなはだ怪しいが」
「……余計なお世話」
 頬杖をつき、憮然として呟くと音羽の手が伸びてくる。なに、と身構えたのもつかの間、両頬を外側に向けて勢いよく引っ張られた。
「居候の癖にそんな口を家主に聞いていいと思ってんのか」
「ひひゃいひひゃいひゃゆひってはーたはほうでもはふでもはひひゃひゃひほひひゃひー(いたいいたい家主ってあんた家長でもなんでもないじゃないのいたいー)!!」
「何を言ってるか判らないぞ」
 何ゆえ、この家でこのお兄さんだけ自分を目の敵にしていらっしゃるのでしょうか。
 遊は赤く指のあとがついた頬を撫でさすりながらこっそりぐったりため息をついた。
「……それから、学校では絶対目を合わせるなよ話しかけるな」
「どうやって学校で目を合わせるの? その時間帯お仕事じゃないの?」
 ぼそりと呟いた音羽に真顔で聞き返した遊は、一瞬後、彼が表情を険しくしたのをみて、あっと思いついた。
 もしかしてこのお兄さん。
「……お前は一度殴られたいのか?」
「……もしかして音羽兄さん」
「名前で呼ぶな! 俺のことをいくつだと思ってたんだお前は」
 二十前後ではないかと思っておりましたが。
 という言葉を遊はぐっと飲み込んだ。言ったら問答無用で殴られるだけで済まされないと思ったからである。妹尾家の次男は例外なく綺麗に整った顔をしていて、体つきも少年の華奢なものというよりは、すでに男臭さとでもいうべきか、成人男性の独特の雰囲気を身につけている。
 単に子供っぽいだけなのかと思っていたら。
「……高校生?」
「お前と同じ学年だ」
(詐欺だ)
 頭の上にタライが落ちてきたような衝撃を味わった。
「だって、え、ホストとして働いてるんじゃないの!?」
 飲酒できる年齢に達しないと、水商売では働けないことになっているのではないのか。遊もこれから働くという事実を棚に上げて思わず尋ねてしまう。
「十六だ」
 その一言を耳にしたとき、遊の脳裏には法律違反の四文字が思い浮かんだ。ソープ嬢とたとえ法律違反の水商売だとしてもフロント業務、どちらがよろしいかと突きつけられれば迷うことなく後者を選ぶ遊だったがそれでも不安になってくる。棗が恋人と喧嘩したというのも頷ける。
 一瞬家宅捜索をうける妹尾家が思い浮かび、遊は青ざめた。
「……お前が何を懸念しているのかは大体想像がつく。が、まぁばれることはまずないから安心しろ。あそこはそういう店だからな」
「……どういう店?」
「働き始めれば判る」
 そういって押し黙ってしまった音羽の顔を遊はまじまじ眺める。十六、という年齢がこれほど似合わない少年もいたものだ。自分の知っている同世代の少年たちはまだどこかあどけなさと線の細さを残しているが、音羽は若さを残しつつも完全に少年の域からは脱していた。冷めた眼差しは老成の落ち着きを見せる、が。
「ほらお前ぼけっとするなノウミソがただでさえ湯立ちがちなのに何やってるんだ終わらないぞ俺がせっかくこうやって見てやってるのに光栄に思ってしっかり終わらせろこの阿呆」
 遊に対しては単なるガキ臭いいぢめっこである。その部分だけをみれば、確かに十六という年齢も納得のいくものなのかもしれない。
「……ところで学校で目を合わせるなって学校も同じなの?」
「同じクラスでないことを祈ってろ」
 そんなことを言わずとも、祈らせていただきますとも。
 学校までこの調子で苛め抜かれていたら、本当に心身身体が持たない。いつになったら隻兄さんとバトンタッチするのだろうと時計をちらりと一瞥すれば、余所見をするなと頭を丸めた紙で叩かれた。
(集父さんもわざわざこの人監視役におかずとも私ちゃんと一人でするんだけどなぁ)
 けれども回答用紙のないワークブックは、この口の悪い監視員の助けがなければ、一向に終わる気配を見せないという説もある。
 学校から慎み深く受け取らせていただいた真っ白なワークブックを広げつつ、遊は春の陽気に向けてため息をひとつを放ったのだった。


BACK/TOP/NEXT