9.
僕とれんげが押し込まれた先は、周囲の注目を集めまくる黒塗りのリムジン。その席には先客がいた。華南だ。
「ごめん、捕まったわ……」
僕らから僅かに視線を逸らして、華南は呻く。僕は身をかがめながら車内を移動し、彼女の対面に腰を下ろした。リムジンの後部座席は呆れるほど広く、車を縦に割るようにしてテーブルが鎮座している。れんげも僕に続いて移動し、僕の隣に腰を落ち着けた。
そして最後に乗り込んできた女性は、無論、れんげが「おばあさま」と呼んだあの人だ。
運転席に背を向けるようにして、いわゆる「お誕生日席」に腰を下ろした「おばあさま」は、静かに命令する。
「出しなさい」
囁くようなその声に反応して、エンジンが微かに唸り、タイヤが地を滑り始める。窓の外、景色が流れ始めたことを確認した「おばあさま」は、れんげと僕と華南、三人に順番に視線を向け――目を細めた。
「ほら見なさい。私の目を盗んで、こんなことするからよ」
こんなことってどういうことだよ。
そう尋ねようとした僕は、「おばあさま」と華南の視線が僕のほうに――いや、れんげのほうに集中していることに気がついた。
「……れんげ?」
れんげが、苦しそうに、腰を折っている。
「れんげ!?」
僕は勢いよく立ち上がり、お約束として、ごち、とものの見事に頭を打った。ここが、車の中であることを忘れていた。
僕の正面に位置する華南が、軽く眉間を押さえて嘆息する。
「馬鹿?」
今回ばかりは否定できない。
僕は頭を擦りながら、隣のれんげの顔を覗きこんだ。目の合った彼女は、僕の頭を案じるように、上目遣いで尋ねてくる。
「だいじょうぶ?」
いや、僕の台詞だよ、それは。
れんげの様子がおかしいことは、明白だった。
先ほどとは違う、明らかに血の気の失せた顔。さした距離を走ったわけでもないのに、大きく上下する華奢な肩。
微かに喘鳴の混じる呼吸音。
「れんげ、薬は?」
腰を浮かせた華南が、テーブルに手をついて身を乗り出す。れんげは首を横に振り、華南は先ほど僕に向けた言葉を、今度は妹に向けた。
「ばか」
なんで持ってないの。持ってくる必要ないと思ったの。あれは常に携帯してなさいっていったでしょ。でも。
僕を置き去りにして、そんな会話が姉妹の間で交わされる。当惑した僕は、思わず助けを「おばあさま」に向けていた。
「おばあさま」は、もちろん僕の無言の問いに答えることなどない。
その代わり、彼女は微かに眉を上げて言ったのだ。
「話は、着いてからよ」
どこに、という目的語がありません、おばあさま。
リムジンは夜の街を抜け、高速に乗り、しばらく走った。華南は黙りこくってしまったし、僕は僕で一体何が起こったのか推測する手立てすら持てず、窓の外を流れる橙色のテールランプをぼんやり見つめることしかできなかった。れんげは席を移動し、一番後ろで横になっている。時々、彼女の様子を確認するために視線を動かしながら、僕はこっそり嘆息していた――本当に、一体どういう状況なんだろう、これは。
やがて、リムジンは豪邸ばかりが並ぶ住宅街に入り、門のうちの一つの中に吸い込まれた。まもなく現れる洋風一戸建て、というか、モダンとレトロが絶妙な加減で融合した、文字通りの「お屋敷」だ。
運転手の手によってドアが開けられるや否や、「おばあさま」は先に下車し、すたこらさっさと玄関の向こうへ消えてしまう。華南はれんげを揺り起こし付き添って彼女の後を追い、僕は運転手に促される形でついていく形となった。
玄関ホールっていう言葉あるけど、ホテルとか以外でお目にかかるとは思わなかった。
案内された場所はこれまたホテルのスウィートもかくやというほどの広いリビング。対面の席に、すでに「おばあさま」は、ソファーに足を組んで座っている。僕が華南とれんげに並んでソファーに腰掛けると同時、メイドっぽい女の人が現れて、れんげに何かの錠剤と水の入ったコップを差し出した。
「飲みなさい」
額に脂汗すら浮かべながら上目遣いに様子を窺うれんげに、「おばあさま」は命令した。れんげは無言のまま手の平の上に落とされた錠剤をじっと見つめ、嘆息を零してそれを飲み下す。
大きく息をつくれんげの背を撫でさする華南を、僕はしばらく見つめていたけれど、このままでは埒が明かない。僕は「おばあさま」に向き直って、事の次第を問いただすことにした。
「一体、どういうことなんだか説明してほしいんですが」
「あなたは何も知らないというの?」
「この二人が双子だっていうことと、貴女がこの二人のおばあさまらしいってことぐらいですね、判るのは」
しかも後半部分は僕の推測に過ぎない。なんでこんな拉致まがいのことをされて、ここまでつれてこられたのか、僕にはさっぱりなんだ。
「おばあさま」は胸元から革張りのカードケースを取り出し、そこから一枚紙を引き出した。綺麗にマニキュアの施された爪が、すっとテーブルの上を滑る。それにあわせて、僕の前に移動してくる、紙。
それは名刺だった。
「鳴上花蓮」
「直接手渡さなくて申し訳ないわね。許して頂戴」
ちっとも許しを請う感じではない上から目線に、僕はむっとなりながら再び名刺に視線を落とす。印字された細かい文字を読み進めていくうちに、僕は息を詰めずにはいられなかった。
「ナルカミ・コーポレーション総帥……」
ナルカミ・コーポレーション、だって!?
僕は真偽を確かめるべく、思わず華南を振り返った。隣に座る華南は、目で真実だと訴えてくる。
ナルカミ・コーポレーションは、知らないものなんてないだろうっていう大企業だ。冷蔵庫や洗濯機、テレビといった大型家電製品はもちろん、ポータブルオーディオ機器や最近出回り始めたパソコンにも先んじて手を出している大手。この木なんの木の宣伝でおなじみの企業や、事務用品に強い大手、経営の神様が創始者の企業にも並ぶ、電化製品の最大手の一つ。
――そこの総帥がおばあさまっていうことはもちろん。
「私たちの父親が、そこのババアの一人息子なのよ」
「口を慎みなさい華南」
華南の一言を、おばあさま――こと、花蓮さんは一蹴した。
「あなたの言い分通り、確かに私はれんげに厳しくあったかもしれません。ですからあなた方の入れ替わり、および、そこからの生活については、大人しくしている限りはしばらく様子を見るに留まろうといたしました。けれど今回のことに関しては、さすがの私も堪忍袋の緒が切れました。……まさか私の目を欺いて、れんげを男と逢引させるなど」
そういって花蓮さんは僕のほうをじろりと睨む。
……もしかして、もしかしなくとも、その逢引している男っていうのは僕のことですね。そうなんですね。
「すみません、僕にもわかるように説明してくれますか?」
花蓮さんの目線に身を引きそうになるのをどうにか堪えて、僕は尋ねた。花蓮さんの目は僕をねぶるように見つめ、そして華南を通り過ぎて、れんげの上で止まった。
「その様子だと、れんげの病気のことも知らないようですね」
「身体があまり強くないことは知っていましたが……それだけじゃないんですか?」
無言のままの花蓮さんのかわりに、僕の問いに答えてくれたのはれんげだった。
「心臓の病気なの」
続けて、華南。
「だからこのクソババァはれんげを軟禁したのよ」
僕はぎょっと目を剥いた。
軟禁!?
「口を慎みなさいといってるでしょう!」
花蓮の叱咤に、華南はニヒルに笑い、轟然と立ち上がった。
「謹んでほしかったら、もうちょっと私の妹を人間扱いしてくださいませ、おばあ様!」
「さすがあの女の娘なだけあって下品なことこの上ないわね」
「この下品さは貴女の血よ!」
何を言っているのかといわんばかりに、華南は腕を組んで吐き捨てる。女二人、祖母と孫娘の間で、青い火花が散っている。
すみません。本気で逃げ出したくてたまりません。オンナノタタカイコワイ。
二人の喧嘩の内容から推察すると、だ。
病弱だったれんげは、花蓮さんの庇護下にあった、もとい、病院だかこの屋敷だかわからないけれど、軟禁状態にあった。学校に行くにも送り迎えつき。まるで日陰の花のように萎れて、つまり、気を落としていくれんげを解放するために、華南は芝居を打って、おばあ様含む使用人達(そんな人たちがいるってことにまずびっくりだけど)を出し抜いたらしい。
それが判った後も、ひとまず様子を見てやろうということにしたのは寛大なるお心、というよりも孫を思うばあさま心からか。
だっていうのに、肝心のれんげはそんなおばあ様の心も知らずに見知らぬ男とほっつき歩いて――そりゃぁ心配ですね怒っても仕方がありませんね。何せ健全なる男女異性交遊なんて僕求めてないですから! やらしいことも大好きな健全な男の子ですから!
実行に移せないのは優しいからではなく、単に優柔不断なだけです。はい。
「本当に手癖の悪い娘に育ったこと!」
花蓮さんが白雪姫に出てくる魔女の如く意地の悪い笑みを浮かべて叫びます。
「大体、れんげを連れ出したこともそうです! 曲がりなりにも血の繋がった孫だと寛大に見ていてやれば……!」
「大体問題は、私とれんげを見分けられないあんたにあるのよおばあ様! れんげれんげれんげといいながら、ザマァないわね」
鼻を鳴らして高笑いする君も十分魔女の素質があると思うよ、華南。
「話し合いなどしようと思った私が間違いでした」
話し合いというか、おばあ様は最初から喧嘩腰だったと思うんですけれどねぇ。
盛大に嘆息を零した花蓮さんは、ぱちんと指を鳴らして、部屋の入り口に控えている執事さんを呼んだ。うわぁあぁ指パッチンで人呼ぶ人本当にいるんだね! ドラマの中だけじゃなくて。
奥から現れた黒い燕尾服に蝶ネクタイの人が、すっと盆を、花蓮さんに差し出した。銀色の丸盆。その上には、薄い紙片。
滑らかな動作で音もなくそれを取り上げた花蓮さんは、それを僕のほうに差し出した。
「……え?」
「手切れ金です。この姉妹とは手を切りなさい」
僕は目を丸めた。盆の上に載る薄桃色に縁取られた紙。小切手だ、と僕は判断した。見たことがある。
「好きな額をお書きになるといい」
花蓮さんは言った。
「それで、金輪際、この姉妹には関らないように」
「おばあさま!!」
心臓の上の辺りに拳を押し当てながら、蒼白な顔のれんげは立ち上がり、花蓮さんを猛烈に非難した。
「黙りなさいれんげ。あなたもよくも……私の預かり知らぬところで、男……しかもアイドル、ですって!?」
「それがどうかしたんですか? だから歌手になった華南も嫌悪するんですか?」
さらりと返したれんげから、華南と僕は飛びのくようにして距離を取った。
「れんげ、あんた」
「華南が隠したがっているみたいだったから」
気づかないはずないよ、と控えめに笑うれんげに、僕は頷いた。いや、そうだよね。気づかないはずがないよね。
あれだけがんがんに、華南の歌、流れてるんだから。
「自分の父親を殺したろくでもない場所で、よく生きられますね、華南」
「お父さんは殺されたわけじゃないわよ才能がなかっただけ」
あと、運も。
微笑む華南に、花蓮さんは嘆息し、僕に向き直る。
「ともかく、好きな金額をお書きなさい」
執事が、僕に白い手袋で覆われたボールペンを差し出してくる。もちろん、二百円三百円のボールペンじゃない。万単位するつや消しされた銀のボールペンだ。
僕は花蓮さんの手にある小切手と、そのボールペンの先を交互に見つめて、言った。
「お断りします」
僕の返答に、花蓮さんは無感動だった。回答を、予想していたというわけでもなく、驚いた、というわけでもない。ただ、無感動だった。諦めの境地、というやつだ。
「何故?」
ただ理解に苦しむというように、花蓮さんは尋ねてくる。
「そんな風に訊かれるなんて、思わなかった」
僕は理解に苦しむ、と思った。
「貴女とこの二人の間に起こったことなんて僕には関係ないし、なんで見ず知らずの人に、縁切れって言われなきゃならないのさ」
「れんげは病を抱えています。貴方の手には余るでしょう」
「そういう問題じゃなくて」
「それとも、れんげとお付き合いしていれば、こんな小切手よりも私の会社が手に入るという算段でも?」
『おば』
「ふざけんな!!!」
ほぼ同時に上がった華南とれんげの非難の声を遮って、僕は怒りに任せて立ち上がった。周囲の視線が一斉に集まり、その瞬間頭が冷えて、身体が萎縮する。うぅ。こういうところに僕の気の弱さが現れている!
「……どこがふざけた考えだというの?」
花蓮さんの声は冷ややかで、自分の考え方がとても真っ当だと信じているゆるぎなさを持っていた。
「ふざけてる、でしょう」
頼りない、と思いながらも、僕は主張した。
「僕は会社なんて運営したくもないし、そんなものに興味はない」
あるのならば、僕は実家を出ていない。
「そんなもの関係ないでしょう? 人間関係を一方的に断ち切られる理由になんてならない」
「人間関係など儚いものです。簡単に心変わりする」
断言した花蓮さんは、僕に言った――続けて、問う。
「あなたは芸能人なのでしょう? たくさんの人に出会うはずです。何故お付き合いする女性が、れんげでなければならない?」
「そんなこと、彼女が好きだからに決まってるじゃないか!」
と、絶叫して僕は我に返った。まてまて。僕はれんげとのデートをうきうき楽しんでいたけれど、でも彼女と僕はまだオトモダチだ。付き合っちゃいない恋人じゃない。花蓮さんは激しく何かを勘違いしていらっしゃる。
れんげは目を見開いて僕のほうを見ているし、華南は苦い顔をしているし、花蓮さんは僕を値踏みしている。
僕は、と、友達としてね! と誤魔化すか、それとも、れんげが好きなんです大好きなんです、と主張すべきか激しく迷った。僕の折衝回避回路が一生懸命、ほら、友達よって誤魔化せ! と叫んでいる。そして僕の男の部分が、愛を叫べ、じゃないと男が廃るぞ! と主張している。
脳内で繰り広げられるディベートを推し留めたのは、れんげの一言だった。
「わ、私だって……創のこと、好きだもの」
膝の上に、両の拳を押し付けるようにして、れんげが呻いた。僕はその瞬間、雷に打たれたような衝撃――否、がらんがらん盛大に鳴り響いているウエディングベルの真下にいるような気分を味わった。
「どうしておばあ様に、好きな人のことまで口出されなければならないの!?」
「あなたは私なしでは生きていけない」
「違う!」
否定に首を振って、れんげが叫ぶ。
「あなたが、私なしでは生きていけないのよ!」
「……なら、好きにしなさい」
花蓮さんが、小切手の持っていた手を引き戻す。僕の隣にいた執事の人が、いつの間にかボールペンを引っ込め、音もなく花蓮さんの背後に回って、その小切手を盆の上に引き取った。
リビングを退室していく執事さんと入れ替わりに、車の運転手の人が、歩み寄ってくる。
「お帰りよ。近場の駅まで送って差し上げなさい」
「……おばあさま?」
怪訝そうに呻いたのは華南のほうだ。花蓮さんは立ち上がり、僕達のほうを見ることもなかった。
「あなた達を相手にすることも疲れたわ。……好き勝手にしなさい」
援助はしませんからねと吐き捨てて、花蓮さんは姿を消した。
強引に連行されたときと同じ勢いで近場の私鉄の駅に放り投げられて、僕らは呆然としながら排気をふかすリムジンを見送った。もう残すところ、最終電車に乗り込むしかないっていう勢いだ。参った。僕は明日朝一番に仕事が入ってるのに。
風ふきすさぶホーム。寒さに縮こまって電車が入るのを待っていた僕らの沈黙をまず破ったのは、華南だった。
「あれは完全にあんた達二人が恋人同士だと思ったわよ、おばあ様」
最後のやり取りを思い出したのか、華南は呆れ顔だ。
「いいの」
コートの襟を掻き合わせながら、れんげは微笑んだ。
「だって、ね、私、創のことがとても好きなのよ」
僕は、唖然としながられんげを見下ろす。目を合わせた彼女は、我に返りながら頬を赤らめた。
「あ、う、んそのね。ごめんね。創にはとっても、迷惑なことだったのかも、しれないけれど……」
「迷惑じゃない!」
僕はれんげの手を取って叫んだ。
「迷惑なはず、あるものか!」
恋の女神はとうとう僕にも微笑んだのだ。今だったら詩人にもなれるよ! 愛を語ってしまうよ!
「僕だって君のことがずっと好きだったんだから……!」
観客がいたら限りなく白ける愛の告白を、僕はとうとう口にした。しかしれんげは僕に手を握られたまま、潤んだ目で僕を見上げてくる。
「創」
だめだこのアングル。ノックアウトですKOフィニッシュ、理性が飛びますカウント入ります、ワンツースリー。
「……ちょっとあんたたち、私の存在忘れないでよ」
頭の中が歓喜のあまり訳のわからないことになっていた僕の耳に、華南の恨めしそうな声が響いた。
「あ」
「ご、ごめん」
ぱっと距離を取って、僕は華南を見る。
そこにある、嬉しそうな、少し寂しそうな顔。
「おめでとう、れんげ」
「華南」
「なにそのしみったれた顔」
解かれた髪をわずらわしげに掻き揚げた彼女は、肩をすくめて見せる。
もちろん、これで彼女が役割から解放されるわけじゃない。事務所やパパラッチの目があるから、しばらく華南は僕らが逢引するために協力することになるだろう。
「私がタダであんたたちに協力してあげてると思ってんの? 私が一般人の誰かと付き合いたくなったら、そのときはれんげに頑張ってもらうつもりなんですからね」
そういって、不遜に笑う彼女。そうね、がんばる、といって、れんげが姉と笑い始める。
その姉妹の笑い声を耳にしながら。
僕は華南の寂しそうな横顔が網膜に焼きついた。
そしてそれは剥がれなかった。
どうしても。