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序章:虚偽に濡れる猫に傘を差し出す男達


 さぁぁぁぁぁぁぁぁ……
 今日、雨が降ると天気予報は告げていただろうか。
 傘を買おうにも、こんな時間だとキヨスクも空いていないし、急な雨で忙しいのかタクシーも一向に捕まる気配はない。唯一近場にあったコンビニにさえ、本日傘は売り切れましたと最後通牒を突きつけられた。絶望的な顔をしたサラリーマンがレジの前で呆然と立ち尽くしているのを尻目に、私はさっさと踵を返し、駅から少し距離のある繁華街まで歩きだしていた。
 春らしい細い雨の中に飛び込みながら、嘆息する。
 私のスプリングコートの上には、早くも水滴となって霧雨が溜まり始めている。繁華街の外れにある私の家にたどり着くまでにはコートの防水加工は意味を成さなくなるだろう。
 そう思った矢先のことだ。雨が止んだのは。
「いや、止んでない?」
 私は首を傾げながら周囲を一瞥した。私の周りだけ、なぜか雨が降っていない。
 思わず頭上を仰ぎ見た。
「……傘」
 が、ある。
 濃紺の、大きさからして男物の傘が、私の頭上を天蓋のように覆っていた。見たこともない傘だった。当然そんな傘が私の頭上にぷかぷか浮いているわけがない。傘を支える手に添って視線を動かすと、男の人が立っていた。
「……えーっと」
「僕は車があるので」
 男は路肩に停めてあるシルバーのセダンをちらりと見やって言った。
「よければどうぞ」
「……どうも」
 普通見知らぬ他人から、いくら困っているからとはいっても、そんな風に傘を受け取るなんてありえないのかもしれない。
 けれど男には、有無を言わさず人を従わせるような何かがあった。私は差し出された傘を言われるがままに受け取って、礼を口にしていた。
 一言で言ってしまえば、雰囲気に呑まれてしまったのだ。
 こげ茶色の短い髪に、きめ細やかな肌。灰色のスーツを隙なく身につけた、私と同じぐらい――三十代前後の男。何よりも目を見張るのはモデルも裸足で逃げ出しかねない、均整の取れたその体形と容貌だと思う。私に免疫がなかったなら、一もなく二もなく見惚れてしまうような、そんな男の人だった。
 彼は私が傘を受け取ったことを確認すると、じゃぁ、といってさっさとセダンの方向に歩き始めてしまった。
 その背中を、呆然と見送っている場合ではない。私が受け取った傘は、こともあろうか一本二万円を下らないようなブランド物の傘だったのだ。チェックの柄が傘を縁取っていた。ブリティッシュ系の刻印を認めた私は、車に乗り込んでいる彼を、慌てて追いかけた。
「ちょっと!」
 助手席側の窓ガラスを叩くと、運転席から身を乗り出して、男が窓を開けてくれた。
「どうしましたか?」
「どうしましたか? じゃないです! こ、こんなのもらえない……!」
 よく確認すれば、男が乗っているのは外車ではなかったけれども、国産車の中でも高級ブランド、身につけている腕時計もスイス製の高級なものだった。私が米国で仕事しているとき、嫌味な上司が見せびらかしていたような――。
「あぁ、かまいませんよ。古いものですし」
「で、でも」
「じゃぁ車に乗ります? でも女の子一人で、見知らぬ男の車に乗るのも怖いでしょう」
 傘を返してしまえば、確実に濡れ鼠だ。男の言うとおり、そうならないためには男の車に乗せていただくに他ないけれども、確かに素性あやふやな男の車に乗るのはオソロシイ。
「乗ります?」
 男はもう一度確認を取ってくる。
「乗りません」
 私は首を横に振った。
 私が渋面で立ちすくんでいると、男はスーツの内ポケットから革張りの名刺入れを取り出した。その中から一枚抜き出した名刺を、私に差し出してくる。
「もし傘を返しに来てくれるっていうなら、僕は大抵そこにいますから」
「……ありがとうございます」
 私は名刺を持って、一歩歩道のほうに下がった。彼は微笑んでそれを確認しエンジンをかけると、テールランプの残像鮮やかに、春雨の中に消えていった。



千日紅の虚偽



 まって。
 私は叫んでいる。
 喉を震わせて、声にならない声で。
 まってよ。おねがい。
 どうしてこんな風に歪んでしまったのか、私にはわからなかった。
 せめて、はなしだけでもさせてよ。
 全てが遠ざかってしまった。雨の中に閉ざされて。その向こうに手が届かない。
 まってよおねがい。
 どうして。
 私は蹲りながら、繰り返し自問していた。
 どうしてこんな風になってしまったのだろう。


 サクちゃん。
「どうして……」
 サクちゃん。起きて。
「どう」
「サクちゃん!」
 肩を強く揺すられて私は目を覚ました。ぼやけた視界の中に、端整な男の顔がある。やがて輪郭が明確になり、男の心配そうな表情が網膜に映し出された。
「……ハナちゃん」
 名前を呼ばれた男は、にっこりと微笑んで頷いた。
「そぅやでー。皆の人気者、華やでー」
「……何やってるの?」
「え。ひどいやん、何やっとんはないやろぉ?」
 私の冷ややかな一言に、華ちゃんは露骨に表情を曇らせる。傷ついた犬のようだ、と私は思った。無意識のうちに手を伸ばして彼の頭を撫でる。短く切られた柔らかな茶色の癖っ毛が、指先に絡んで心地よく感じられた。
「ハナぁ? サクちゃん起きました?」
 寝室の入り口は眠る前にきちんと閉じていたと、記憶にある。華ちゃんが侵入したとき、開け放したままにしていたのだろう。扉の影から顔を出したのは、花柄エプロン姿が妙に似合う美丈夫だった。精悍な面差しの華ちゃんとは対照的に、エプロン姿の彼のほうは、女のように線が細い。布団の中に横たわる私に、半分のしかかった形の華ちゃんを冷やかすこともしなければ、からかうこともなかった。
 華ちゃんの肩越しに目を合わせてくる彼は、小首を傾げ、にこりと微笑んだ。
「おはようございます、サクちゃん」
 雪ちゃんの動き一つ一つはどこか洗練されていて、首の傾げ方一つ計算されているように思える。その整った顔を眺めながら、私は目を擦りつつ声をあげた。
「おはょぅユキちゃん……」
 我ながら、寝ぼけた声だ。
「朝ごはんもう出来ていますからね。顔を洗ってきてくださいね」
「ふぁい」
「それと」
 もぞもぞと布団の中で身を起こす私よりも一足先に、華ちゃんが身体を起こして雪ちゃんに並ぶ。その華ちゃんの頭をぽんぽんと撫でながら、雪ちゃんが少しだけ表情を曇らせた。
「うなされていたようですが、大丈夫ですか?」


 汗まみれだというのに、手先だけが氷のように冷えていた。身体を温める意味合いもこめてシャワーを浴びる。ぱたぱたと落ちていく水滴は生暖かく、その温度の優しさは雨に似ていた。
 私、森宮朔が華岡真純と雪乃条霞の二人と暮らすようになった日も雨が降っていた。蒸暑い夏の終わりの雨だった。石の[つぶて]の様に降り注ぐ雨に濡れて、その様相はひどい有様だった。タンクトップにハーフパンツ。下着はブラもつけていなかった。下手をすれば酔っ払いにレイプされても文句の言えない姿のまま、シャッターの軒並み下りた夜の商店街を徘徊していたのだ。
 幽鬼のようであったに違いない。
 華ちゃんと雪ちゃんが、そんな私を拾った。たまたま近場のコンビニにビールを買いに来ていたのだという。事情を深く追求されることもなく、二人が許す限り留まっていたら、結局その居心地のよさに居ついてしまった。
 以来、私は二人と住んでいる。
 脳裏にこびり付いた夢の記憶を、シャワーで汗と一緒に洗い落とす。
 夢の記憶は過去の残滓だった。
 下唇を噛んでしばらく水滴に打たれ、嘆息を一つ落としてバルブを閉める。
 身体も温まり、いくらか気分も心持ち、上向きになった。
 Tシャツと洗いざらしのジーンズを身につけて、頭にタオルを乗せたままバスルームを出る。ダイニングに踏み込みかけた私は、慌ててその足を引っ込めた。
 視界の端に、男二人のキスシーンが映ったからだ。
 慌てて扉の影に隠れたけれども、私は小さな鳴き声でもって自己主張をする自分の腹部に思わず舌打ちせざるを得なかった。朝食の芳しい匂いにそそられたらしい。
 きゅぅという小さな音に続く沈黙。ややあって、二人分笑い声がダイニングキッチンから弾けてきた。
 足を踏み入れれば、おいしそうに湯気を立てる朝食の前で笑う男が二人。
「ごめんごめん」
「待たせましたねサクちゃん」
「いいのよぅ。待たせたのは私でしょ」
 大体このカップルの愛の巣に転がり込んでいる時点で、私自身お邪魔虫の身だ。
 それにも拘らず、二人は何も言わず私を置いてくれていた。光熱費と食費は折半ということで、無論入れてはいるものの、部屋代は無料。小さいけれど日当たりも風通しもよい、小奇麗な部屋を割り与えられている。
 共に暮らし始めて半年、少しのラブシーンなら見慣れたものだった。
 少し照れた様子の二人を置いて、私は素早く席に着いた。
 苦笑を漏らした二人はそれぞれ席について、戴きますと手を合わせた。私も彼らに倣って手を合わせ、お茶碗を手に取る。食事はなるべく揃って食べるのがこの家のルールだった。
 朝食担当は雪ちゃんだ。まるで模範生のように規則正しく早朝に目の覚める彼とは異なり、私と華ちゃんは寝起きが悪い。きちんと起きられる雪ちゃんが朝食の係に選定されるのは至極当然のことで、日々きちんと用意される和風の朝食は、料亭に出しても申し分ないほどの味だった。
 狂言を生業とする家の若君として生を受けた雪ちゃんは、礼儀作法は無論、家事全般も含めて厳しく[しつ]けられたという。ここまで徹底的に仕込まれた幼い頃の雪ちゃんの苦労を心苦しく思う一方、おかげでこんなに美味しい朝食に毎日ありつけるのだと思えば、複雑な気分だった。
「サクちゃん今日はお仕事ないのに、どっか出かけるんだって?」
 いまどき小学生でもすることは滅多にないだろうという行儀の悪さで、ご飯を頬張りながら華ちゃんがいう。私はうんと頷いた。口の中に放り込んだたくあんが、ぱりぽりぱりと音を立てる。
「後輩の結婚式」
「え? 結婚式?」
「の準備の買い物に」
 頬杖をついて頬を膨らませながら、私は呻いた。
 私は普段、とあるアパレルメーカーの経理として働いている。普通ならまず就職出来そうもない大手のそこに、私がもぐりこめたのは、大学の先輩の働きかけあってのことだった。働き始めて半年の職場は居心地はよいけれど、業務中は口から内蔵が飛び出そうなほど、とにかく多忙を極め、休日遊び歩く気力なんてほとんど残されない。爪の手入れや、読書、クロスワード等々、つまるところ、家でごろごろするのが普通だった。
 今日はその大事な週末の一日を丸々潰して外出する。
 私にしてみれば珍しい出来事なのだろう。
 引き出物やドレスの下見。結婚とは縁遠い私にとって、そういったものは彼氏や家族とするもののようにも思う。彼女らに言わせれば、参考までに第三者の意見が必要とのこと。けど私に言わせれば、下見とは、しばらく音信不通だった私の所在を突き止めた二人が見つけた、私を連れ出すための体のいい理由だったのだろう。
「サクちゃん。行儀が悪いですよ」
「ひどい雪ちゃん。華ちゃん相手だと何も言わないくせにぃ」
「華にいうと拗ねますから」
「イェーイ彼氏の特権やでぇ?」
 子供のように二本指をたてて笑う華ちゃんをはいはいと流して、私はダイニングに持ち込んでいた携帯のフリップを開いた。そこに表示されているのは、今日会う予定の後輩の名前、笹原百花。
 古い名前、だと思った。久しく連絡も取っていなかった。大学時代、よく面倒をみた三人組の、そのうち一人の名前だった。


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