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DAHLIA 2

「L……I……B……E」
「阿呆。そこはLIVEだ。いい加減覚えろ」
「……雷覇」
 ダリアはぱたんと教本を閉じて、膝の上にそれを叩きつけるようにして置いた。彼女は子供のように頬を膨らませ、不満を主張する。
「もういやー! 勉強やめる!」
「始めてまだ少ししかたっていないだろうが!」
「雷覇の教え方厳しすぎるのよ!」
「私の名前はパ・シ・リ・ス・コ・スだ!」
「らいはらいはらいはらいはー! なによ肝っ玉ちっさいわよそれぐらいでぐだぐだ言わないでよ!」
「大人しく今言った奴を書き取れ!」
「書き取っても書き取っても全然おぼえらんないー。やだー! 文字なんてきらいきらいきらいきらい」
「五月蝿い!」
 手があったなら真っ先に耳を塞いだだろう。だが、不幸なことにパシリスコスは獣であった。とりあえず頭を伏せた上で、耳も伏せ気味に動かしてみる。ぺたりと頭に耳を伏せた状態で、パシリスコスはげんなりと、顔をしかめた。所詮、傍目から見れば少々目元を吊り上げた程度にしかみえないのだが――犬の型を取る獣ならば、もう少しマシな表情の動きを見せることができただろう。猫科の獣は、顔を構成する筋肉が薄い。
 ダリアはいつもの如くパシリスコスの胴体を背もたれ代わりに腰を下ろし、膝の上に開いたノートにぐりぐりとペンを押し付けている。ペンとノートは、彼女がどこからか調達してきた。おそらく、“客”の忘れ物だ。
 彼女が定期的にパシリスコスの穴倉を訪ねてくるのは相変わらずだが、時間の潰し方が変わった。かわらせた、といったほうがいいかもしれない。ただだらだらとパシリスコスの横で古ぼけた本をめくったり、眠ったりする女に、文字を教えてやるといったのはほかならぬパシリスコスだった。自分にこれほどまでに他者に対して干渉をするだけの気力があったのかと、まずそこに驚いたのはパシリスコス自身である。
 が、早くもその選択は間違いであったのではないかと、パシリスコスは頭を垂れざるをえなかった。
 ダリアはとにかく、覚えが、悪い。
「お前本当に能力者なのか?」
「雷覇とお話しているのがなによりもの証拠じゃない?」
「それは、そうだが……」
 能力者、と呼ばれる存在は。
 比較的一般の人間に比べて“出来がいい”。
 人間を超えた人間が能力者という存在だ。人あらざる能力に付随して、身体能力、知能がずば抜けている。パシリスコスが虎の形をとる“獣”という特殊な存在ならば、能力者はいわば“人の形をとる獣”なのだ。そう考えてみると、パシリスコスとダリアの存在は、同じ区分に分類されるのかもしれない。人と人、動物と動物よりも、存在は近い場所にあるのかもしれない。
 それは、ともかく。
 ダリアは、覚えが悪かった。頭が悪いわけではない。洞察力には優れているし、判断力もある。話し上手でもある。だが。
「もう少し、物覚えがよくとも、いいだろう……」
 破滅的に、覚えが、悪かった。
 教えられたことは耳の右から左、もしくはその逆。綺麗さっぱり通過していく。人の顔は覚えない。人の名前も覚えない。実はパシリスコスの名前を覚えないのも、名前を三文字以上覚えることができないからなのではないかと思わざるをえなかった。文字のスペルは三つ以上のアルファベットが並べば頻繁に間違える。今まで覚えた単語を使って本を読んでみろといえば、三回に一回はどう読むのか訊いて来る。
 救いようがないほど、記憶力が、悪い。
「ねぇ雷覇、そんな風に怒らないで」
「誰が怒るか。呆れているのだ」
「じゃぁあきれないで」
「無理だ。この支離滅裂壊滅的歴史的に物覚えの悪い女め。もう少し真面目に覚えようという気はおこらないのか」
「覚えようとしてるもの! 眠る前だってきちんとマダムに隠れて復習してるし!」
「大体人の顔や名前を覚えないというのは、それは娼婦としてやっていけることなのか?! お前のいうレッドへヴンは確か高級な旅籠ではないのか!」
「えへへーって笑ってたら許してくれるのよ!」
「阿呆か!」
「あーまた阿呆っていったー!!!」
 ひどいひどいひどいと連呼する女に閉口してパシリスコスは身を伏せた。耳栓が、欲しい。どうして女の声はこうも甲高くあるのだ。
「本当に、がんばってる、もの」
 悄然と長い脚を投げ出して口先を尖らせる女に、どうしたものかとパシリスコスは天井を仰ぐ。女の扱いなど、獣の自分にわかるはずもなく。ただ、この“勉強”を始めてから彼女の表情が沈むことが多かった。彼女自身も、さすがにここまで物覚えが悪いとは思っていなかったのだろう。彼女が真剣に取り組んでいることは、判るのだ。娼館で復習しているというのも、おそらく嘘ではない。生来、彼女は真面目な質なのだと共に過ごす時間が増えるうちにパシリスコスもまた心得ている。
 パシリスコスは嘆息した。
「踊れ」
「…………はい?」
「いいから踊れといっている」
 苛立ちからか、無意識のうちに尾がぱしんと地を打った。
 ダリアの黒い睫毛がぱたたと瞬いている。彼女はきょとんと目を丸め、次第に表情をほころばせた。
「私の踊りが見たいの?」
「そういうことにしておけ」
 投げやりにそう応じると、ダリアは押し黙った。どうしたのだと面を上げれば、突進してくる彼女の顔。ダリアはその柔らかな唇をパシリスコスの鼻先に押し付けて、もー大好きー!と叫んだ。
「なんなんだお前は! 大人しく踊り始められんのか!」
「踊りがみたいなら見たいってそういえば雷覇のためなら私いくらでも踊ってあげるわ!」
「ちがっ」
「みててね」
 ダリアは無造作にノートを投げ捨てそういった。捨てられたノートは、パシリスコスが寝床としている空間の隅でとぐろを巻いているブランケットの上に音もなくおちた。いたるところの擦り切れた古いブランケットは、ダリアが持ち込んだものの一つだ。それ以外にも、かなりこの空間に物が増えたと、パシリスコスは胸中で独りごちた。
 ダリアのステップは、美しい。
 だからといってダリアの舞いが見たかったというわけではない。ただ、一つ明白であったのは、踊っている間彼女はすこぶる機嫌がよいということだ。複雑なステップをなんら苦もなくこなす彼女を見て、その踊り具合と、勉学の出来との差に苦笑したくなる。もっとも、苦笑する、という動作が獣である自分に許されているのなら。何度も繰り返すようだが、猫科の生き物は顔の筋肉が薄い。作られる表情が、限られていた。
「そのステップを覚える記憶力を、文字を覚えるのに生かすことはできないのか」
「む・り」
 彼女はショールの端をふわりと揺らして微笑んだ。そこまで確固たる自信を持って、否定しなくともよいではないかと、パシリスコスは思う。
「だって、踊りは身体で覚えるの。文字は頭よ。覚えるところが違うわ」
「結局のところ、身体で覚えているにしろ、なんにしろ、記憶しているのは脳という器官だ。大差はないだろう」
「人間誰しも苦手はあるものなのよ。雷覇」
「そういって物事を正当化するのは貴様の良くない癖だということを、いい加減に認めたらどうか」
 がくりと頭を落とす――パシリスコスが不満を訴えるためにできる仕草など、尾を振り回すか頭を垂れるかの二択である――と、ダリアは舞うことをやめてパシリスコスの傍らに腰を落とした。ふわりと、小さな彼女の手がパシリスコスの背を撫でる。毛並みをそろえるように添えられた手は、酷く温かだった。
「ねぇ雷覇。私いいこと思いついたわ」
「……今度は何だ?」
 ダリアの微笑みは柔らかで、損ねていた機嫌は元に戻ったのだと、パシリスコスは安堵した。何故、安堵する必要があるのかはわからない。だがダリアの精神が不安定であるという状況は、あまり好ましくなかった。この女は、美しいからこそ、沈んだ顔をしているよりも、伸びやかに笑って、踊ることのほうが似つかわしいとパシリスコスは思っていた。
「雷覇がずっと私の横にいて、文字を読んでくれればいいんだわ! ほら万事オッケー全て解決!」
「阿呆か」
 だがこの女の戯言に付き合うのは、また別問題であった。


 水溜りを踏み抜く音が、暗い通路に反響する。
 一人、二人、三人。水溜りを踏み抜いていく人の人数を、パシリスコスは身体を伏せたまま確認していた。よくも獣の縄張りに足を踏み込めたものだ。血狐狸ですら、“獣”の臭いが染み付いた場所には踏み込まないというのに。
 パシリスコスは身体を上げた。今日の狩は終了していて、満腹の気だるさが身体を支配している。地上は雨なのか、湿度が高い。毛が身体に張り付き、髭は力なく垂れ下がっている。
 パシリスコスはゆっくりと通路のほうへ歩み寄りながら気配を探った。
「いたか?!」
「いや……おい本当にこっちへ?」
「お前もみただろう!」
(誰かを、探しているのか)
 そう勘繰って、パシリスコスは彼らの探す存在が誰か、思い当たった。やれやれ、と目を細め、気配がぎりぎりまで近づくのを待つ。さらさらと、下水が流れている音が響いている。下水に一瞥をくれると、そこには銀鈍色に輝く水が。高濃度の毒に汚染された、下水だ。触れるだけで皮膚は焼け爛れ、骨は融解する。
 どのように相手を殺すのか決めたパシリスコスは、足音を、気配を、殺した。
「オイ……そろそろ引き返さないと」
「は? 馬鹿もうすこしで」
「だってここは……がぁっ!!!」
 後方の男の首元に飛び掛ると、前を歩いていた男が驚きにかランタンを取り落とした。がしゃんという硝子の砕け散る音とともに、灯りが掻き消える。炎がコンクリートの上を舐めた。その揺らめく橙の灯りの狭間から、パシリスコスは男に飛び掛る。
「わぁああぁあっ」
 突き飛ばされた勢いで、男は下水の中に背中から落下していった。ざん、という水音に続いて、もがき暴れる男の悲鳴。次第にそれはか細くなり、消えていく。
 最後の男は、銃を構えていたが、その手元は頼りない。脅しに咆哮すると、銃口がぱんと火を噴いたが、吐き出された弾丸は誰もいない空間を抉っただけに終わった。男は銃を投げ出し、足を滑らしながら、転がり出るようにして逃げていった。
 その背を追う必要もないだろう。首に喰らいつかれて事切れた男を、適当に下水に落として、パシリスコスは声をかけた。
「そろそろ隠れる必要もないだろう。出てきたらどうだ」
 暗闇の端から、ちょこんと、ウェーブの掛かった黒髪が覗いている。
 顔を出した女は、えへへと誤魔化し笑いを浮かべていた。
「ごめんなさい。厄介を持ち込んじゃって」
「全くだ。貴様、一体何をやって……」
 何気なく向けた視線の先にいた女の姿をみて、パシリスコスは息を呑んだ。女は酷い有様だった。身につけている薄物はあちこちが破れ、その隙間から覗く肌には赤黒い跡。生々しく浮かび上がる青い円。出血。殴打。ナイフでの切り傷。
「ボロ雑巾のようだ」
「ナニソレ」
 ダリアの様相を形容すると、彼女は頬を膨らませて不満をあらわにして見せた。
「大丈夫か、の一言ぐらいかけなさいな。紳士じゃないわ」
「獣に紳士を求めるな」
 ぱしん、とパシリスコスは苛立たしげに尾で地面を打った。その苛立ちが、伝わったのだろう。彼女は身を萎縮させ、俯いて謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい」
「傷の手当をしなければ、膿むぞ」
「手当ての道具なんて、ないでしょう」
 ダリアの横を通り過ぎながら、パシリスコスは黙考した。確かに、寝床には人間のための道具など置かれてはいないが。
「いいからついてくるがいい」
 奥の教会街跡地なら、人間のものもいくらか残っているだろう。人間狩りがあって以来、パシリスコスの縄張りになっているせいもあって、子供たちが物資を取りに来ることも少ない。
「らいはー」
「今度は何だ?」
 振り返ると、ダリアは先ほどの位置から全く動いていなかった。彼女は棒のように突っ立っている。どうしたのだと尋ねかけたパシリスコスを制するように、ダリアは血と泥に汚れた顔を笑みに歪めた。
「足、痛くて、うごけないのよね」
「…………はぁ?」


「酷い打ち身だな」
「ちゃんと店に帰れるかしら。マダムに怒られちゃうわ。こんなに怪我をしたら」
 ダリアは本当に困ったと、アンニュイにため息をつき、布地を丁寧に足首に巻いていた。パシリスコスは手当てを行っている彼女の傍らで、銃痕や血痕の残るテーブルをひっくり返していた。使えるものがないか、見るためだ。獣なので当然それを拾い上げたりすることはできない。ただ使えそうかどうかの判別は、パシリスコスにもつく。
 誰もいなくなった教会街。扉も蝶番がはずれて、微妙な均衡で壁にぶら下がっている。破れたカーテン。穴があいて、中の綿が出たぬいぐるみの上を、甲殻虫が這いまわっている。
 折れ曲がった燭台。割れた硝子。人間狩りの、行われたそのままの姿。
 教会は、この浮浪都市でもっとも一般的な孤児院だ。一区から五区まで、どの区画にも教会街はある。そして定期的に、どこかの教会が襲撃される。人間狩りという名目を借りた、上の人間のお遊びだ。人間の中に混じる、“能力者”の子供たちをあぶりだす、ゲーム。
 それが行われた後の教会は、酷く寒々しい。血によって黒ずんだコンクリートの壁と天井。鉛玉によって抉られた跡を生々しく残す、寝台。
「私もこんなところにいたのよ」
 いつの間にか傍らに佇んでいたダリアが、綿の飛び出たぬいぐるみを拾い上げて埃を払った。
「……足は平気なのか」
「ん。きちんと固定したら、大分良くなった」
 ほら、と彼女は足首をぴこぴこ上下に動かしてみせる。そのすぐ後、痛っと低く呻いて蹲るものだから、パシリスコスは嘆息せざるをえなかった。どうして大人しくしていられないのか。この女は。
 目線で腰を下ろすように促す。そのパシリスコスの視線が痛かったのか、ダリアは苦笑を浮かべた後に、ひっくり返っていた椅子を起こして腰掛けた。長い足を投げ出して、彼女は“昔”を語りだす。
「シスターに拾われたのは、いくつなのかしらね。よくわからないけれども。歌や踊りも最初はシスターに教わったのよ。懐かしいなぁ。どれぐらいいたのかしら。……人間狩りにあったのは、いくつのときだったかしら」
 同情するべくもない。人間狩りは、この浮浪都市において孤児院に所属する子供たち誰しもが一度は大抵経験する。“上”の人間が欲求不満を吐き出すために、浮浪都市はあるのだ。その不満解消の手立てが、博打に励むことなのか、暴力に励むことなのか、女子供を犯すことなのか、はたまた、殺しに走ることなのか、どうかの、違いだけ。
 なのにダリアが語ると、妙に感傷に訴えかけるものがあるような気がするのはどうしてだろう。ごくごく普通に、日常を語るようにして、彼女は笑っていうのに。
「ねぇ雷覇。私たちは、一体、なに?」
 ダリアは腰を折って足首の怪我をさすっている。髪のせいで、彼女の表情は確認することができない。
「ねぇ、私たちは、生まれて、踏みにじられるだけなのかしら。人だったら虫けらのように殺されて、能力者だったら、ピンで留められるの。生かさず殺さず。標本の蝶を、雷覇はみたことある? お客さんがもってきてみせてくれたことがあるの。お金を生み出す限り、その蝶のからだが朽ちてしまうまで、綺麗な[はね]をピンで留め続けるのよ。そうした蝶たちが行き着く場所は、土ではないの。ゴミ箱なの。人の形をした人あらざる――能力者。そんなものなんかに、生まれたくはなかったのに」
 けれどもこの浮浪都市で生まれたならば、人の生も悲惨なものだ。
 弱肉強食を極限まで突き詰めた都市。太陽の陽もささぬ暗い穴倉に広がる都市には、尊厳という言葉は存在しない。
 獣であるパシリスコスは、ある意味人に同情する。
 同属同士で殺し合いを演じ続けなければならない、彼らの業に。その[さが]に。獣以上に血塗られた彼らに。
「獣が良かったな」
「……何がだ?」
 しばし黙考していたパシリスコスは、椅子の上で笑う女を一瞥した。ダリアは笑う。華が、花弁を揺らすときのような儚さで以って。
「能力者でも、人でもなくて、獣がよかった。出来れば、あなたと同じ綺麗な虎に」
「何を戯言を」
「本当よ。本当にそうおもうの。綺麗な綺麗な獣さん。アナタになら、殺されても良かったのよ。私がなりたかった存在であるアナタなら」
 見開かれた彼女の瞳は、淡い雫に濡れている。
 頬を滑り落ちるその雫の存在を、彼女は承知しているのか、否か。
 パシリスコスは、ほんの僅かにダリアに身を寄せた。ダリアはパシリスコスの頸周[くびまわ]りに手を伸ばし、椅子から滑り落ちるようにして床に腰を落とした。しっとりと、彼女の涙が毛を湿らせる。
「“上”で生まれたいと、おもわなかったのか」
「私知ってるもの」
 何を、という前に、パシリスコスの胴体に伏せられた彼女の顔から、くぐもった声が返ってくる。
「本当は知ってるわ。青い空も海も、緑あふれる森も、もうないのだということ。上は黄砂と亡骸の雪[アッシュスノー]の吹き荒れる、荒野だということ。皆、水にも食べ物にも困ってる。上もここも、変わらないのよ。知っているのよ」
 知っているのよ、と彼女は小さく繰り返す。震える肩を、抱いてやることができないことを、パシリスコスは初めてもどかしいと思った。
「でもここには貴方がいるでしょう?誰よりも強くて、力があって、けれども人のルールには縛られない。貴方は誰よりも自由。誰よりも綺麗で。誰よりも、優しい」
「それは錯覚だ」
 優しくなど、ない。
 自分は優しくなど。
 決して。
 慰めの言葉も、彼女の身体を抱きしめるための腕も、震える背をさすってやるための手も、何も持たないのだ。
「ダリア」
 パシリスコスは、嘆息した。
「獣などに、なることを望むな」
 ダリアの身体の震えが、触れているからだ越しに伝わる。
 怪訝そうに、首をかしげたのが、気配でわかった。
 パシリスコスは、瞑目する。
 獣はそれほど自由ではない。暗い暗い穴倉の中、知能と自尊心ばかりが越え太った、醜く尊大な[けだもの]
そんなものに、焦がれるな。
 沈黙するダリアを、パシリスコスは振り返った。彼女は放心したように、床に視線を落としている。埃と砂と、赤黒い染みとにまみれた灰色の床。
「あなたが」
 彼女の手がパシリスコスの毛を握った。痛みは感じない。その手にほとんど力は込められてはいなかった。
「人間、だったら、よかったのに」
 ダリアはパシリスコスの胴体に、再び面を伏せた。溺れるものが藁に縋る必死さで、彼女はパシリスコスの身体を抱きしめてくる。何もかもが死に絶えた教会に横たわる静寂は孤独を際立たせ、ダリアの嗚咽は空虚な空間に痛々しく反響した。


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