終章 決意する人々 2
仕事を終えて下がった後になってマリアージュの居室を訪れる。そう多くあることではない。
ダイはしっとりとした夜気を吸い込み、緊張に打つ胸を鎮めながら塔を昇った。目的の部屋は最上階にあって、扉を番兵が固めている。彼らは現れたダイに微笑み、マリアージュに取り次いだ。
「陛下、ダイ様が到着なさいました」
「入れて」
間を置かぬ返事。番兵がダイのために扉を開けた。
長椅子に腰掛けるマリアージュは本を便箋の下敷きにして筆記具を握っていた。ダイは閉じられた扉に鍵を掛け、歩み寄りながら主君に尋ねる。
「何を書いていらっしゃるのですか?」
「アリシュエルへの手紙」
乾ききらぬ墨に軽く息を吹きかけ、マリアージュは本に紙を挟みこんだ。
「送り先は聞いたから。返事を出しておいてあげようかしらと思って」
面倒だけど、とマリアージュは付け加える。
ダイは笑った。主人は本当に素直でない。
「きっと、喜ばれますよ」
アリシュエルは異国で生き直している。それは決して容易なことではないだろう。彼女にとってマリアージュからの手紙は強い励ましとなるはずだ。
「手紙には、どんなことを?」
「死にたくなったら帰ってきなさい私がぶん殴ってあげる」
実に、マリアージュらしい発言である。
「……えーっと」
「……冗談よ」
そうは思えない。
マリアージュは固まるダイに嘆息して円卓を指差した。
「葡萄酒を頂戴。そこにあるから」
「はい、陛下」
ダイは大人しく指示に従った。脚の短い楕円の卓の上に、水と温められた葡萄酒、二個の高杯が置かれている。ダイはその赤銅の器の片割れにそっと葡萄酒を注ぎ入れた。
「水はあんたの分よ」
マリアージュから指摘され、もう片方の杯を水で満たす。
「座りなさい」
マリアージュは葡萄酒を受け取りながらダイに斜向かいの椅子を示した。
命じられるままに落としたダイの腰を綿のたっぷり詰まった座面がなよやかに受け止める。
温かみある薄紅の壁、飴色をした樫の棚、その天板を精緻な花模様の施された繻子が覆う――見慣れた調度は無事に帰国したことを実感としてもたらした。
「話って?」
気怠さを漂わせながら、マリアージュが首を傾げる。
ダイは高杯を握りしめた。
「ご報告を、と思いまして。牢で、何を話したか」
「……あの男と?」
ヒース――ディトラウト・イェルニと。
ダイは静かに頷いた。
マリアージュは軽く口を付けたあとの杯を小卓の上に置いた。椅子に横掛けして肘置きにしなだれかかり、顔に落ちる長い髪を煩わしげに掻き上げる。
「味方になれって言われたんじゃないの?」
ダイは息を詰めてマリアージュを見上げた。彼女は呆れた目をダイに寄越す。
「わかるわよ。それぐらい。……あの男のことだからそれはそれは熱心に、あんたを口説いたんじゃなくて?」
「どこかで見てたんですか!?」
「……ほんとにそうなの?」
ダイは杯に視線を落とした。水面に映る自分の影が波紋に揺らいでいた。
「愛しているっていわれました。傍にいてほしいって。妻にするって」
マリアージュの目がダイを射ぬく。探るようなその視線に、ダイは微苦笑を返した。
「……単なる口車です。マリアージュ様を裏切らせるための」
「本当に……そう思っているの?」
「思っています」
ダイは断言した。自分に言い聞かせるように。
あれは男の甘言だ。ダイを惑わすための。マリアージュを失意に陥れるための。そうでなくてはならない。
だが。
「そう思いながら……あの人に好きって言われて、嬉しかった」
呼吸を整えて、ダイは告解した。
「マリアージュ様はご存知だったんでしょう? 私はあの人のことが好きでした。今も好きだなって思います。どうしようもなく」
差し伸べられた手に、触れた熱に、心が打ち震えた。
「でも私、ちゃんと忘れますから」
あの男は、侵略者だ。デルリゲイリアの平穏を脅かす。
「わたしのいる場所は、マリアージュ様のお傍です。離れませんから」
それを誓うから。
赦して欲しいと思った。
いっときでも、惑ったことに。
「当たり前でしょう」
マリアージュは言った。
「あんたは、私の化粧師(もの)なのよ」
マリアージュはダイを真っ直ぐに見据えている。晴れた日、温かな光差すミズウィーリ家の廊下で、最後までついてこいと命じたときのように。
話は終わりだった。
マリアージュはアリシュエルへの手紙を書き終えてから就寝するという。あまり遅くならぬようにと忠告してダイは席を立った。空になった杯を棚の上に置く。そのうち女官が片づけてくれるだろう。
「あら、ダイ」
「はい?」
扉の取っ手に手を掛けたまま、ダイはマリアージュを振り返った。
主君はダイの頭の先からつま先までをしげしげ観察している。
「……ど、どうなさったんですか?」
「あんた……もしかして、背、伸びた?」
「え?」
ダイは思わず胸元に手を当てた。困惑しながら自分の身体を一瞥する。
「えっと……そう……ですか?」
今朝、姿見を覗いたときにはわからなかった。
「なんなら明日、測ってもらいなさいよ」
「はぁ、そうですね」
ダイは生返事をした。何か言いたげに眉をひそめた彼女はしかし、口を開くことなく卓上の本へ手を伸ばした。
「ダイ」
「はい」
マリアージュは書きかけだった便箋を頁の間から抜き取っている。
彼女は言った。
「忘れる必要はないわ」
あの日々も。それに伴う想いも。
なにも。
筆記具の先を墨壺に浸し、彼女は執筆を再開する。
ダイは向けられた背に一礼し、女王の居室から退いた。
地下道の警備はいつにも増して厳重だった。
ディトラウトは倍に数を増した歩哨の間をゼノと並んで歩いていた。看守室を横切り、分岐路を右に。ディアナを捕えていた方とは別の区画へ進む。複数の兵が番をする扉を通り抜けると、魔術の仄暗い明かりが足元を照らし始めた。
両脇に鋼鉄の格子が連なる細い廊下。拷問室と特別牢の間を縫う、ぬるい風が啼いている。獣の咆哮とも女の啜り泣きともとれるそれに、至る処で蜷局を巻く重厚な鎖が共鳴していた。耳障りな不協和音にたまさか囚人たちの絶叫が入り混じる。縞模様の刻まれた暗闇の奥で、断続的に水が滴っていた。腐臭を遮断するはずの魔術があってさえ、全ての悪臭を防ぐことはできないようだ。血生臭さが鼻につく。
心弱いものなら足を踏み入れてすぐに失神しているだろう。担当となった兵たちでさえ、顔を歪めるものは数多い。
それでもディトラウトは無論、ゼノもまた、眉ひとつひそめることはなかった。
ディトラウトは通路の最奥に辿り着いた。鋼鉄の扉の向こうで男がひとり壁に背を預けている。骨の浮いた胸を上下させ、鎖に繋がれた四肢を投げ出している。肌は鞭で裂かれていた。爪は既に剥がされている。脚は酸で爛れていた。
逃走を企てなければここまで手ひどく扱われはしなかったろうに。
マーレンでディアナたちを襲撃した男のなれはてだった。
「あんたらのお陰で新しい領主は苦労しそうだよ。かわいそうに」
ゼノが男に穏やかな声音で語りかけた。
「まったく、要らないことをあれこれ町民に吹き込んでくれて」
実に面倒くさかったとゼノはぼやいた。
マリアージュたちが離れて数日後に、マーレンの町民の間で騒動があった。エドモント・チェンバレンは女王から粛清を受けた。そんな噂がまことしやかに囁かれたのだ。ゼノは事態を収束させるべく残留せざるを得なくなり、予定を前倒ししてチェンバレンの後任をマーレンへ呼んだ。彼は女王への忠誠と領民からの不信感との狭間でしばらく苦しまねばならない。
「レジナルドたちについて、話す気にはなれないか?」
「ない」
ディトラウトの問いに男は即答した。
「……そうか」
ディトラウトは頷いて、背後に向けて手を振った。影から染み出た兵たちがディトラウトの脇を通り過ぎて男の腕を拘束する。
「お前がいくら口を噤んでも無駄だ。苦しむだけだったな」
「自白剤か」
囚人は嗤った。
「貴様の目には……滑稽に映っているのだろう。だが私の意思が私のものである間、私は断じて私の主を裏切らない」
切れ切れの息の合間に男は言葉を絞り出す。
これと似た台詞をどこかで耳にした。思案して誰が口にしたかすぐに思い至った。
ディアナ。彼女だ。死を前にしても主君への忠誠を捨てなかった。自分が踏みにじっている、この哀れな男のように。
いっとき、夢を見た。
あの少女が傍らで笑っている夢を。彼女を抱いて眠る夢を。彼女のぬくもりを感じているその間だけは、静謐な夜が訪れることを知っていた。
結果的に彼女はこの手からすり抜けていった。
しかし、これでよかったのだ。
その存在をいとしく思うことには変わりなくとも再び望むことはないだろう。こちら側に下れば手を血で染めざるを得ない。ひとを美しく清めるためにある、あの小さく柔い手に、それは決して似合わないから。
あの雷雨の夜もそう思って手を離したのではなかったか。
心の臓の上をそっと握り、もういない男に囁きかける。
(私には彼女を望むことなど、最初から赦されてはいなかった。……そうだろう? ヒース)
お前を殺した、私には。
覚悟していた。彼を墓の下に埋めた日に。もう戻れないと。平穏な何かは、望むまいと。
骨を砕いて敷き詰めた道を往くのだと。セレネスティと共に。
薬を与えられた男が叫喚して喉をかきむしり始めた。暴れ狂うその身体を兵たちが押さえつける。涎の零れる口を開いて喘ぐ男は、それでもディトラウトを睨み据えて絶叫した。
「地獄へ堕ちろっ……!!!!」
――……天は世の楽を極めし、緑の園。
地は、苦難にて魔を縛する――……。
ディトラウトは微笑んだ。ひどく、優しく。
男の傍らに片膝を突き、その焼け落ちた耳に囁く。
「お前のいる……」
そして、わたしが立つ。
血と怨嗟、渦巻く。
「ここが地獄だ」
悲鳴が木霊し続ける。
鋼鉄の扉が全ての闇に、蓋をした。