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序章 真昼の出奔


 神秘の森は起動した魔術の余韻に満ちていた。
 恍惚に思わず漏れた吐息のような白い靄が、森の道々に気だるげな様相で漂っている。乱立する木々のひび割れた木肌は水蒸気の衣に覆い隠され、薄墨色に塗りつぶされた陰影だけを浮かび上がらせる。
 水蒸気の粒を明滅しながら照らして、気流に弄ばれて宙を踊る燐光たち。
 ファビアンが苛立たしげに踏み出した脚の風圧は、その光の粒の群れを一気に八方へ蹴散らした。
「それで、どれぐらい前から姿が?」
「一刻ほど前です」
 斜め後方に付き従う副官のクレアが抑揚を欠いた声音で応じる。
「師団長の姿が見えなくなったので奏上に伺ったところ、陛下ご自身の姿も見えないとバディスタが」
「ということはふたりでいなくなったってことか……。頭が痛い」
 ファビアンは大仰にため息を吐いて、目的地へ向かう足を急ぎ速めた。
 ドッペルガムの女王と魔術師団の長。ふたりの姿が見えなくなり、さらには森の遺跡が使われたらしいとの報告を、ドッペルガム筆頭外務官ファビアン・バルニエが受けたのは、新年の倦怠に侵食される会議中のことだった。驚く間もなく森まで来いと呼びつけられ、ファビアンは昼を過ぎても鬱蒼とした城の裏手の森を、木々に渡された紐を頼りにクレアと共に歩いていた。
 《深淵の翠》の二つ名にふさわしく小国ドッペルガムは深い森の只中にある。豊かな実りを約束する広葉樹林を民人は誰もが愛しているけれども、招かざる者には亡者を見せるとの云われを持つ深部へ、恐れることなく不用意に立ち入る者は皆無にひとしい。
 例外は、ほかでもない、女王そのひとである。
 真円の開けた空間に出たファビアンはクレアと共に立ち止まった。ファビアンから見て広場の対岸に、二本の巨大な古木が交差しながら横倒しになっている。古木の幹の直径は広場を取り囲む木々の根から頂までの高さに等しく、滞留する濃密な靄を押し退けて在る荘厳さは、見るものに畏敬の念を抱かせた。
 ファビアンは肌の粟立った腕を無意識に擦り、視線を下方へ移動させた。古木の交差から垂直に位置する場所に目的の人物の姿があった。
「老師」
 ファビアンの声は思いがけずよく響いた。ファビアンを呼び出した張本人は、数人の連れと揃って首を背後に巡らせると、歯を見せてかかと笑った。
「ファービィ、遅かったな」
 頭部を白髪で覆われた、年のころ六十ほどの男である。緑を基調とした法衣の上からでもわかる堂々とした体格は武人と見まごうほど。だが実際は書籍以上に重いものを持ったことがないと豪語する筋金入りの文人である。
 宰相グザヴィエ。
 老師と呼び慕われる彼こそ、かつてメイゼンブルの属領に過ぎなかったドッペルガムを、立国させた立役者だった。
「会議中だったんですよ」
 彼の下へ足早に歩み寄りながらファビアンは抗弁した。
「陛下と師団長がいなくなったと聞きましたが?」
「ほれ、見ての通りだ」
 並び立ったファビアンにグザヴィエが顎で目視を促す。交差する二本の古木を屋根とする石室がそこにあった。
 黒曜石の切り出し岩を組み上げて造られた石室だ。その内部には薄い水晶の板が張られ、四方の角には花崗岩の石版が据えられていた。そして床の中央には、緻密な幾何学模様の線によって描かれた三重の正円。
 ファビアンたちはそれを、《遺跡》と呼んでいる。
 魔術の最盛期に先人たちが残した遺構のひとつだ。今日では失われてひさしい魔術、《空間転移》を行うための門である。平時であれば湿り気ある冷気に満ちているはずの内部はいま、魔術を扱わないファビアンでさえ知覚できるほどの魔力が、余熱のようにゆらめいていた。
「行方はわかりますか?」
「すぐに追跡できる唯一の魔術師を連れて行かれてしまったでなぁ……。だがまあ、出口の数は限られとるんだ。行く先の解析にそう長くは掛からんだろう」
「わかりました。……それで、何用で僕を呼び立てたんですか?」
「根回しだ。出口の周辺に顔を出して、何かがあったときには陛下を引き取ってくるように」
「何かがあったとき? 陛下を見つけたら、じゃなくて?」
「定期的に連絡さえ寄越すなら、問題ない限りしばらく遊ばせておいてよかろ」
「寛容なことで」
「たまにはこうして息抜きさせねばな。多忙なときに爆発されても困る」
 なるほど、とファビアンは納得に顎を引いた。
 元々、ファビアンの主君は日がな樫の机に向かっていられる性質ではない。じゃじゃ馬、聞かん坊、爆発玉――いまでこそ一国の王らしく辛抱強く玉座に収まっているが、かつて彼女の評価をする際には、大人しさからは無縁の形容詞が並んだものだった。女王として立ったばかりのころの彼女は、グザヴィエの苛烈な教育に音を上げ、頻繁に城を抜け出したものである。しかしそれも統治者となって九年目に差し掛かろうという今では皆無に等しい。
 等しかった、というべきか。
「こんなふうにいきなり行方不明になるのも久々ですね。……外に出たいならそう言ってくれればいいのに」
「おおかたぞろぞろ護衛を付けたくなかったのであろ」
 グザヴィエが見解を述べた。
「儂はそろそろだと思っておったよ。ダダンから話を聞いてこっち、かなりうずうずしておったからな」
 ペルフィリアで再会した古い友人が、ファビアンとの約束を守って姿を見せたのは昨年の収穫期だった。
 ダダンは半月ほど滞在し、ドッペルガムを観光しつつ、他国の様子を女王に語って聞かせた。他大陸における政治的変遷、西大陸の立ち位置、ダダンが通過した国々に生きる民人の姿――……。
「むしろ今日までよう辛抱したわ。仕事も区切り良いところまで処理してあるし、問題はない――暇じゃしな」
 日照時間に欠けるこの季節、ドッペルガムはとても寒い。だれもが暖炉の前で大人しく過ごす。王城も新年に付随する行事とその処理を終えた今は閑散期となり、むこう一月は大きな案件もなくなってしまう。
 とどのつまり、女王の失踪は今日の思いつきではなく、時期を狙って計画されたものなのだ。
 もしかして、とファビアンは独りごちた。
「デルリゲイリアまでは行ってないよね……?」
 小国デルリゲイリア。大陸北西部沿岸を国土とする娼婦と技工師たちの小さな国。今でこそ交流の乏しい国だが、自分たちには縁深い場所だ。ダダンの話に多く登場した国もデルリゲイリアだった。
「それはなかろう。噂の女王がこちらに来れば会うだろうが、陛下が自ら行くような真似はすまいよ」
 思いがけず指摘を受けて、ファビアンは隣の宰相を振り仰いだ。
「どうしてですか? 僕がペルフィリアでの件を奏上したときも、あの国の話を陛下は気にしていたようにみえました。……あの女王様のこと、けっこう気に入りそうって思ったんだけどなぁ」
 デルリゲイリアの女王とファビアンの主君は、その根本的な気質がよく似ているように思えた。会えばさぞや話弾むだろうという印象を持ったものだ。
「陛下はなんというか……対抗心を燃やしておったからな」
「対抗心?」
「ダダンが妙に気にかけているだろう? 無意識だと思うがな。陛下はそれが気に入らんのさ。子どもの嫉妬みたいなものだ」
 わかったような、わからぬような。
「はぁ」
 生返事をして、ファビアンは遺跡に向き直った。石室はようやっと平時の静寂を取り戻しつつあった。
 この先人の遺構を見つけた日のことをファビアンは昨日のことのように思い出せる。
 それに付随する記憶――生を許される土地を、国を、生み出すためにあがいた日々のことも。
 ダダンの話はそれらを意識の底から掻き起こし、女王の冒険心を触発するものだったのだろう。
 この穏やかな毎日が尊いものだと知ってはいても、いつもと異なる空気を吸いたくなったに違いない。
「何も問題を起こしてくれなければよいがな。大人しく物見遊山に徹していてほしいものだ」
 塩粒のような無精ひげが覆う顎先を撫でながら呟くグザヴィエにファビアンは本当ですよ、と同意した。
「何もなければ、いいんですけどね……」


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