第五章 奔る諜報者 3
件の男が現れるという酒場。
その最奥の角に位置する席に落ち着き、給仕女に軽めの食事と酒を注文する。彼女は前掛けの帯を揺らして踵を返し、男たちにからかわれつつ店の奥へと消えた。
「……で?」
その背を視界の端に入れながら、ダダンは眼前の青年に問いかける。
「お前はこんなところで何してるんだ? ファービィ」
招力石の屑石などを買い出しに出てベベルの下に戻るとファビアンがまだ残っていた。正確には彼もダダンと同様に一度外出して戻ってきたらしい。ダダンが酒場に向かうと聞きつけた彼は、後をひょこひょこ付いてきたのだ。
「つれないですね。せっかく一緒に夕食をとろうと追ってきたのに、なんなんですかその言い方」
ファビアンはむっと下唇を突きだした。
「付き人たちはどうした?」
「僕があんまり宿に帰らないから、また出てしまったみたいなんですよ」
「あぁ、置き去りにされたのか」
「ベベルと酒でも酌み交わして、旧交を温めるんだろうって、気を遣ってくれたんです! ……多分」
かつて共に旅をしていたころ、一行でひときわ若かったファビアンは、幼名で呼ばれて可愛がられていた。いじられる役どころは部下を持った今でも変わらないらしい。
「ベベルもせっかく僕が顔を見せているのに、仕事が残っているとか言って待たせるだけ待たせて、なっかなか二階に上がってこないし。ダダンもダダンで話もそこそこに出ていくし。ガーラのところで茶菓子を突っついていればよかったですよ」
ガーラとはベベルの妻の名だ。強面の夫に代わって宿と酒場を切り盛りする恐妻である。
「そんな余裕、ガーラもねぇだろ」
どうやら宿は繁盛しているようで、夫婦は日々忙殺されている。のんびりとファビアンと語らいたくとも許されなかったようだ。
ファビアンがむっつりと黙り込む。あどけなさの抜けぬその表情に、ダダンは腹を抱えて笑い声を上げた。
「何笑ってくれちゃっているんですか……」
ファビアンが唸る。
「ベベルと僕が語らう時間を盗ったのは貴方ですよ、ダダン」
「そりゃぁ悪かったな」
「お待ちどうさま」
給仕女が卓の上に酒を乱暴に並べていく。もうまもなく料理も運ばれてくるに違いない。
本来ならば目的の人物が姿を見せるかどうか焦れながら、酒場の客たちに神経を張り巡らさなければならなかった。ファビアンの存在は気を紛らわせ、緊張も和らげてくれるだろう。
ダダンは苦笑しながら杯を掲げた。
「あんま長話はできねぇぞ」
「ダダンはもう少し昔の仲間を大事にしたほうがいいですよ」
乾杯に応じたファビアンは、嫌味を忘れなかった。
夕食にはまだ早い時刻だ。客もそう多くないとあり、次の給仕も早かった。料理が卓の上に並べられていく。ファビアンの注文のせいで、存外たくさんの品数となった。
「今度は一体何に首を突っ込んでいるんですか?」
骨付き肉に食らいつきながら、ファビアンが問いを投げる。今度はってなんだ、と呻きつつ、ダダンも同じものを手にとった。
「毎回変なことに関わっているような表現すんなよ」
「関わっているじゃないですか。僕らのときも面倒だのなんだのといいながら、最後まで付き合ってくれたのはどこの誰です?」
「そりゃあそこまで関わってりゃ終わりまで見たくなるもんだろ」
「その好奇心と人の良さが身を滅ぼしますよ」
それとももう危うい目に遭っているんですか、とファビアンが冗談めかして笑う。ダダンが沈黙を保っていると、彼は俄かに不安そうになった。
「……何に関わっているんですか? ダダン。……髪をそんな色に染めたことも、何か関係が?」
ダダンは頭部を撫でた。昼過ぎに赤く染めたばかりの髪はぱさぱさとしている。
「髪は単なる気分転換だよ。……巻き込まれたくなきゃ聞くな」
無知は至福である。これから試みようとすることは、全てが命にかかわることだ。おいそれと無関係な者には話せない。
が、ふと思い立って、ダダンは尋ねてみた。
「お前、今から城に行って中に入ることできるか?」
「城って……ペルフィリア王城ですか? いえ。昨日行ってみたんですけど、門前払いされましたよ。……城に入りたいんですか?」
ダダンは素直に頷くべきか逡巡した。その様子を見て取ってか、ファビアンが話を続ける。
「……本国に連絡をとってごり押しすれば、入れないこともないとは思いますけど……」
「……ごり押し?」
「うちとこの国、交流少ないですから。今はなんだか、誰も中に入れたくないみたいな雰囲気でしたし、余計に手間かかりそうですね」
一拍のちに彼は言い添えた。
「……〈伝達〉の術者は、連れていますよ」
伝達は魔術の一種だ。遠隔地を繋げて連絡を取り合う術。
つまり、ダダンが願い出れば本国に掛けあう、と彼は言っているのだ。
考えた末に、ダダンは頭を横に振った。マリアージュたちのことは気になる。だがペルフィリアの意図が見えぬ以上、ファビアンを巻き込むわけにはいかない。
彼を頼るときは、本当に最後、それもかの国に益があるときに限ってだ。ドッペルガムの女王を初めとする数名は、ダダンと確かにつながりがある。しかしそれを盾にかの国に無益な要求をするつもりはない。逆にドッペルガムの高官たちもダダンの依頼を簡単に鵜呑みにしてもらっては困る。
「……ありがとうよ。悪かったな。変なこと訊いて」
「いいえ」
ファビアンは微笑んだ。ダダンも笑みを返して、食事を再開する。
「僕も城の中を見てみたかったんですよ」
ファビアンが朗らかに話を繋げてくれたことに感謝しながらダダンは相槌を打った。
「そうなのか?」
「えぇ。安息日には前庭を解放しているらしいですし。時々セレネスティ女王もお顔をお見せになるそうですよ」
「あぁ、そうらしいな……」
「この機に僕も城を覗けるかなぁって期待していたんですが。そんな風に公開しているところも珍しいですし」
「言われてみればセレネスティは下々にかなり顔を売っているよな。ご機嫌取りに熱心だ」
セレネスティは内政を手堅く行う一方、民衆にもぬかりなく気を配っている。彼らの前へ積極的に顔を出し、近しき君主という印象を与えている。
今回こちらに戻ってきたときに遭遇した女王たちの行進もその一環だろう。
「厭戦の雰囲気が出ないように気を遣っているってところでしょうかね。だったらセレネスティもクランと早めに片を付けたいだろうな。睨み合いを続けるんじゃなくって」
とはいえ終戦を選ぶつもりなら、既にそうしているに違いない。“休戦”と名付けている時点でいつか領土を奪いに行くとクラン・ハイヴに宣言しているようなものなのだ。
「あぁそういや、戦争の話で思い出した」
ファビアンが面を上げて瞬いた。
「なんですか?」
「三宝だよ」
手に入れると聖女の祝福を得て覇者になれるという三つ。権力を争うものたちの間で囁かれる聖句の話だ。
「教えろよ。なんでセレネスティはそれをさっさと手に入れたがっているんだ?」
昼はベベルが戻ってきたため、話が半ば切れてしまっていた。
「話を聞く限り、三宝は迷信みたいなもんだろう。そんな信憑性の薄いものをあの女王が信じていると思えん」
セレネスティが聖女の敬虔な信者ならば、ディトラウトを調査した折に、そういった印象を抱いたはずだ。
「かの女王がどのぐらいシンシアを信奉しているのかは知りません。でもダダン、重要なのはこの大陸の人々がどうあるかですよ。貴方は僕らのほとんどがシンシアの信仰を深く重んじていることを忘れていますね?」
揶揄に笑ったファビアンは胸の前で大仰に聖印を切った。
「女王がご機嫌取りに熱心だって、さっきも自分で言っていたじゃないですか。三宝はつまるところシンシアの祝福を信じる人々たちからの支持です。三宝を得ていればたとえ大陸全土を征服しても、聖女の祝福を得た新しい覇王として認められる。三宝なしに侵略だけを推し進めれば、覇者の座の簒奪者として見做される」
「なるほどな……」
手に入れているか否かで民衆たち――そこにはシンシアを信奉する貴族たちも含まれる――からの印象が変わるのならば、セレネスティも三宝のいずれかを早く手中に収めたいだろう。ダダンはようやっと納得した。
他大陸では主神の一神教が一般的で、信仰も組織立ってはいなかった。ダダンはその主神ですらあまり信じていない。信仰心が薄いことは、珍しくも何ともない。
だからだろうか。聖女の文言ひとつを気に掛ける為政者の心理を、説明されるまで理解できなかったのは。
そういえば初めて西大陸に来たときも、折に触れて聖女の名を口にする人々に戸惑った。聖女信仰は魔の公国に支配されて久しかったこの大陸独自のものである。
宗教だけではない。かの国の影響下で長い繁栄と平穏を築いてきた西大陸では、同じ単語ひとつをとっても他大陸とでは認識にずれがある。常識もたまさか異なっていて、思わぬところで驚かされる。
太陽が地平に融け入る頃合いとなり、店内はにわかに賑わい始めた。
目的の男は現れない。
話し相手がいたためか食は進み、皿の上が舐めたようになっている。そろそろ次へ移動するべきだろう。ベベルの話では件の男が出没する店はあと数件ある。
「行くの?」
席から腰を上げるダダンを、ファビアンが見上げた。
「あぁ。……そんな顔するな」
彼がうらみがましくダダンを見る。そのようにあっさり別れを告げて、名残惜しくないのかと言わんばかりだ。
「はねっ返りたちによろしくな。今の件が終わったら会いに――……」
いく、と。
ダダンは皆まで言わずに席に戻った。
どやどやとやかましい集団に紛れて男が一人、入店していた。
年の頃はダダンとそう変わらず。ありふれた茶色の髪と瞳。育ちの良さは覗えるものの、目立つほどのものではない。顔立ちに特筆すべきものはなく、あえていうなら左の泣きぼくろ程度。どことなく頼りなげで、影の薄い印象の男だった。
しかし間違いない。
ベベルの言っていた男だ。
「……どうしたんですか? ダダン」
ファビアンが訝る。ダダンは彼に目配せを送った。それなりに修羅場を経験してきたであろう青年は即座に意図を汲んで黙し、水差しに手を伸ばしながら何気ないふりを装ってダダンの視線の先を探る。
男は酒と肴を一品頼み、席でくつろいでいる。誰も彼を気に掛けない。ダダンとしてもこんな状況でもなければ記憶の片隅にも残らないに違いない。
どこにでもいそうな平凡な男。
「ファービィ」
ダダンは唇の動きを抑え、対面の青年に囁きかけた。
「今から俺はロウエンでお前はカイトだ。いいな?」
ダダンは承諾を待たずに勢いよく立ち上がった。そのまま杯の中身を一息に空け、卓の上のものを皿ごと跳ね飛ばす。
陶器の破砕音が雷鳴の如く喧騒に突き立ち、赤ら顔の酔漢たちがぎょっとなって振り返る。かの男もダダンに注目した一人だ。目的の視線を引きつけたことに満足し、ダダンは卓の天板に突っ伏した。
「ちくしょう!」
がん、と卓が再び揺れる。
「門前払いしやがって! あの門番、後で絶対ぶんなぐってやる!」
「ちょ、ダダ……ロウエン」
狼狽しつつも指定通りに名を言い換え、ファビアンはダダンの肩を大きく揺すった。
「酔っ払いすぎだよ」
ダダンはその手を振り払い、畜生、と繰り返した。
「俺はなぁ、なんでアーリィが死んだか知りたいんだ。妹は俺と違って出来がいい。やっかいに巻き込まれるような奴じゃないんだ。なのにあんな……」
「あぁ……うん」
とてもひどい有様だった。そう臭わせるに充分なほど神妙な面持ちでファビアンが頷く。ダダンは酔っ払い特有の回りきらぬろれつで彼に訴えた。
「俺はなぁ、カイト。アーリィの上司のやつを、一発ぶんなぐらないと、気が済まないんだよ。そのために王都まで遥々やってきたんだ。野郎。そっけない弔辞だけ寄越しやがって……妹は、俺のたったひとりの家族だったのによぉ……」
――かの男が仕事を依頼する相手には条件がある。
城に忍び込もうとする理由があること。王都の住人ではない、あるいは、暮らし始めて間もないこと。天涯孤独であること。
ダダンは深く息を吐いた。
「奴は今頃あの分厚い壁の向こうで、ぬくぬく守られていやがる。くそ……」
「城に忍び込める方法でもあればいいのにねぇ」
慰めの言葉を口にして、ファビアンが客たちに目礼する。そして彼はダダンの肩を軽く叩いて立ち上がる様に促した。
「とりあえずここを出よう」
「畜生!」
「ほら、ロウエン。……すみません」
現れた店主は迷惑顔を隠そうともしない。ファビアンが多めの金子を彼の手に載せる。彼は貨幣を数え終えると表情を和らげ、またご贔屓にとダダンたちに頭を下げた。
ダダンたちは外へ出た。
ファビアンの肩を借りながら、酒場が軒を連ねる通りを進む。薄暗がりに沈む細い道には男たちの喧騒が風に混じって響いている。宿の二階の窓がたまさか空いて、遊女の白い腕が誘うように伸び、夜空になまめかしく線を引いた。
「……悪かったな。いきなり付き合わせてよ」
ダダンの謝罪にファビアンが頭を振る。
「いーえ。……あの男の注目を引きつけたかったんですよね?」
「まぁな」
大通りに続く最初の角で、ダダンは立ち止った。
「それじゃぁなぁカイト!」
ファビアンの背を強く叩き、ダダンは声を張り上げた。
「今日は久々に会えてうれしかった! 元気でやれよ!」
「ダ……ロウエン」
ファビアンの首に腕を回して顔をぐいと引き寄せる。非難の目を向ける彼に、ダダンは囁きかけた。
「お別れだ。付き合ってくれてありがとよ」
「馬鹿言わないでください。最後まで付き合いますよ」
「馬鹿はおめぇだ。自分の立場わかってんのか?」
ファビアンが反論を呑みこむ。その友人にダダンは微笑んだ。
「俺の荷物はベベルが預かってる。さっきの金はそこから引け」
「自分で僕に返しに来てください。……お願いですから、死なないでくださいよ」
ダダンはファビアンを軽く突き離して手を振った。死ぬなという約束はできない。それこそ主神の采配に任せるしかない。
細道へ戻ったダダンは目的の男が追いつきやすいようにゆっくりと歩き始めた。
静かだった。
真新しい吐瀉物の臭いが鼻につく。尿便に汚された壁を黒い虫が這いまわっている。その様子はあたかも闇が蠢いているかのようだ。
ダダンは路肩に腰を落とし、深い溜息を吐いた。目的の男が追いかけてきた気配はない。店に引き返して彼を探すべきか迷ったものの結局は否と判断を下した。当初の予定通り、ベベルから教えられた店を回ることにする。
(これで明日普通にマリアージュたちと目通り叶ったら笑っちまうな)
籠城しているというからにはその確率は低いだろうが。
気を引き締めて腰を上げる。来た道に背を向け、一歩踏み出し――……。
ざり、と。
何者かが砂を踏みしめる音を、ダダンの耳が唐突に拾い上げた。
足音が夜陰に混じる。空耳ではないらしい。
ダダンは振り返った。街灯もまばらな細い道。その暗がりから男がひとり、染み出るようにして姿を見せる。
目的の男に間違いなかった。
距離を空けて立ち止まった彼は、ダダンににっこりと笑いかける。
「こんばんは」
「……あぁ」
「突然お声掛けして申し訳ありません。……先ほど貴方がご友人といらっしゃった酒場に居合わせまして」
「なんだ? 迷惑料でもせびろうっていうのか?」
「そうではありません。ただお話を拝聴して……貴方のお手伝いができるのではと思い、ご迷惑を承知で追いかけてきてしまいました」
「手伝い」
鸚鵡返しに呟くダダンに男は首肯した。
「もし、お城に忍び込む手立てがあると申し上げたら……どうなさいますか?」
(来た)
ダダンは唐突な提案に動揺したふりを装った。
「そんな方法が……本当にあんのよ?」
「はい」
男は頷いて距離を詰める。ダダンは一歩後ずさり、何気なく男を見上げ――ぞっとした。
男は凡庸だ。髪や目、肌の色はありふれたもの。どこにでもいるような顔立ち、出で立ち、雰囲気。
ただその双眸だけが。
ひどく虚無だった。
焦点が合っていない。見ていない。
何も。
「私は学者をしておりまして、この王都の構造を調べております」
男は言った。
「その調査の過程で偶然、地図を手に入れました。古い地下道の地図で、城の内部へと続いていると思われます。もしよろしければ……貴方にその地図をお譲りしたい」
「理由はなんだ?」
ダダンは腕を組んで追求した。
「善意でその地図を譲ってくれるわけじゃねぇんだろ?」
「えぇ。……お譲りする代わりにこの地図に記された道が、今はどのようになっているのか、確かめていただきたいのです」
ダダンは一拍置いて尋ねた。
「……つまり、調査を依頼するってことか?」
「そうなりますね」
「自分ですりゃぁいいんじゃねぇのか?」
「城に忍び込みたいのではなかったのですか?」
男は素早く切り返した。
「できれば私も自分で行いたい。ですが私には自由になる時間が限られているのです」
「俺が今お前に襲いかかって地図を奪ったらどうするんだ?」
「地図は今こちらにはありません」
押し黙るダダンに男は柔らかく微笑みかける。
「もちろん、あまりに危険が多いことです。貴方がお戻りになられた時には、それなりの報酬もご用意しております。……もしご興味がおありでしたら、大聖堂の裏手にある水門に、月が昇りきる前においで下さい。聖女の影でお待ちしております」