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第五章 奔る諜報者 2


 ダダンとベベルはその昔、〈深淵の翠〉ドッペルガムの建国にかかわったことがある。
 後に女王として即位する少女、およびその仲間たちと旅をした。ファビアンともその旅路を共にした仲だった。
 一段落したのち、ファビアンを含む多くはそのまま女王に仕えた。ベベルとその妻はペルフィリアに落ち着き、仲間だったあと一人が南のゼムナムへ下っている。
 ダダンだけが放浪生活に戻ったのだ。
 あれから、もう七年となる。
「そうか……」
 ファビアンから近況を聞き終えたダダンは懐古に口元を緩めた。
「あのはねっ返りたち、元気してんだな」
「老師もご健在ですよ。ぴんしゃんしてます」
「そりゃぁ何よりだ」
 カイトの件で西大陸に足を踏み入れた際に、ドッペルガムの現況は調べてあった。かつての仲間が立派に国を守り通していると知って、嬉しかったものだ。その彼らの一人から直接こうやって話を聞くとまた違った喜びがある。
「ダダンは……今まで、どこで、何をしていたんですか?」
 ファビアンの口調は、どこか歯切れ悪い。
 それを怪訝に思いながらダダンは答えた。
「色々だな」
「いろいろ?」
「あぁ……。協会の依頼であちこちを調査しながら渡り歩いてた。フレスコ地方、湾岸地方、ディスラ、シュレディングラード、アーヴソーウィル、ロプノール……北は結構回ったな。南にも足を運んだが、アハカーフが危うくて長居できなかった。東にはマジェーエンナから入って、そのまま突っ切ってブルークリッカァまで行って……」
「つまり、世界一周してきたと」
 ファビアンの要約はあながち間違いではない。
「ま、それに近いもんがあるな」
 振り返ればこの七年、ずいぶん方々を旅している。
「西大陸にも何度か来てはいるんだ」
 実は、とダダンは打ち明けた。
 無補給船の運航が再開したのは近年だが、それ以前にも伝手さえあれば、こちらに渡ってくることは難しくなかった。
「一年ぐらい前も少しいたんだが……その時は仕事で、すぐ離れにゃならなかった」
 カイトとアリシュエルを東大陸へと送り届けるために。
「これからは西にいるの?」
「そのつもりだ」
 ダダンは笑って首肯した。少なくとも当面の間、西大陸を出る予定はない。
 ファビアンが喜色を浮かべて身を乗り出した。
「じゃぁ絶対、うちに寄ってくださいよ!」
「ドッペルガムにか」
「他にどこがあるっていうんですか?」
 ダダンの返答にファビアンは呆れ顔だった。当たり前だろうと言わんばかりである。
「僕ら全員、心配していたんですよ。ダダンは無事でいるんだろうか。巻き込まれなかったんだろうかって……」
「巻き込まれなかった?」
「そうですよ! だって……あ」
 失言に気が付いたらしい。ファビアンが渋面になる。気まずそうに視線を泳がせる彼に、ダダンは思わず苦笑いを浮かべた。
 ファビアンが何を言いたいのか、ようやっと思い当たった。
「悪かったな。連絡しなくてよ」
「……まったくですよ」
 ファビアンが肩の力を抜いた。反省してください、と彼は呻く。
「ダダンの向かった国がその直後に内紛で崩壊したって知ったとき、僕らは皆、気が気じゃなかった。大変だったとは思います。でも……無事だと一言、欲しかった」
「すまなかった」
 ダダンは素直に謝罪した。心配をかけているという自覚がなかった。そこまで気が回らなかったのだ。
 七年前、ドッペルガムを離れたダダンは故国へ向かった。
 長らく足を踏み入れていなかった土地だった。帰ることを拒んでいた土地だった。
 ようやっとダダンが戻ったとき、国は地図から名を消していた。
 政変に失敗し、瓦解したのだ。
「ご家族は……ご無事だったんですか?」
「いや。わからん。何も、わからなくなった」
 革命に巻き込まれて、民の大勢が命を落とした。残った者たちも離散した。他国へ渡ったものも多いと聞く。
 ファビアンが悲痛な面持ちになる。
「気にすんな」
 ダダンは彼に微笑みかけた。
「この世にゃ天涯孤独なんて五万といる。お前だってそのひとりだったろ?」
 小競り合いの絶えぬ土地は珍しくも何ともない。世界は飢餓と騒乱に溢れている。比率でいえば孤児でないもののほうが稀有なのだ。
「……確かに、ダダンの言う通りだと思います」
 溜息のようにファビアンは呻いた。
「独りの人は腐るほどいますよ。でもね、ダダン。家族を亡くせば誰だって悲しいものだし、国を亡くすというのも、また別の痛みがある。……そう思いませんか?」
 ファビアンは過去の己れにダダンを重ねているのだろう。彼もまた親を失い、国を亡くした人間だった。
「家族にも国にも、元々愛着なんてなかったさ」
 ダダンは吐息と共に囁いた。
「それに、今の生活が気に入っている。ひとところに腰を落ち着けてっつうのは、俺の性に合わんしな。楽しくやってるよ。そんな顔をするな」
 ファビアンに湿った顔をされると、再会の喜びが台無しになる。
 なおも暗い面持ちのまま口を噤むファビアンの頭を軽く小突く。いたっ、と訴える彼をダダンは笑った。
「だから、辛気臭い顔はすんなって言ってるだろ。だいたいそんなにすぐ顔に出ちまって大丈夫なのか? 国じゃそれなりの地位に就いてんだろ? それにお前、こんなところでのんびりしてていいのかよ? 王城の賓客じゃねぇのか?」
 ドッペルガム建国に携わった者たちは皆ある程度の要職に就いている。話を聞く限りではファビアンも例外ではない。
 いくらオスマン夫妻への顔見世とはいえ、下町をふらついていてよいのだろうか。
「城に招かれているんだったらここには来られていませんって」
 ファビアンが頭を擦りながらすました顔で応じる。
「単なる観光ですよ」
 なるほど、とダダンは頷いた。
「噂に名高いセレネスティ女王のお膝元をじっくり拝見ってことか」
 字面通りの観光であるはずがない。政治的意味合いの視察だろう。
 ドッペルガムの隣はペルフィリアと休戦中のクラン・ハイヴだ。その二国の国境付近では頻繁に小競り合いが繰り返されているという。本格的な開戦となればドッペルガムも無縁ではいられない。その国の高官としてペルフィリアの動静は押さえておきたいはずである。
「今のペルフィリアをどう思う?」
 問いかけるダダンをファビアンは茶碗に口を付けたまま探る様に見る。
「それは国として? それとも僕の目から見てってことですか?」
「お前の目から見て」
 ダダンはただこの国を――あるいはこの街を、訪れての感想を聞きたいだけだった。
「……国としてっていうのも興味深いがな」
 それは安易に話してよいものではないだろう。今の自分はファビアンにとって部外者なのだから。
 ファビアンはふっと微笑み、椀を卓の上に置いた。
「爪を研ぐ鷲」
 彼はペルフィリアをその国章に刻まれる猛禽に準えて評した。
「この街に来て確信しましたよ。かの女王は大人しく引き下がったわけじゃない。虎視眈々と獲物を刈る機会を狙っているだけだと。……他大陸からの富は莫大です。ここの商人たちは羽振りがいい。戦争に必要な資金を潤沢にため込んでいるでしょう」
 即位したセレネスティが国を復興させるにあたって真っ先に取り掛かったものは海運業の推進だった。
 メイゼンブルが権勢を揮っていた頃、ペルフィリアの港はそう大きいものではなかった。せいぜい大陸の外周を運行する帆船が出入りする程度だった。
 セレネスティは港をいち早く整備するだけでなく、無補給船を受け入れられるよう拡張した。大陸間で運行されるその船は様々なものをペルフィリアにもたらす。物資はもちろんのこと、関税は復興費用の大きな財源だったはずだ。
 国の安定が成った今、余剰の富は戦費となりうる。
「どうやら技術者も多く招いているようですね」
「技術者?」
「造船業の。……ここには無補給船も受け入れる湾港がありますから、技術者を育てることはおかしなことではないですが、脅威ですよ」
 大陸を周回できる船を建造できれば、境を共にしていない国へも派兵しやすい。たとえ船を作らずともそのための知恵は、砦や大型戦車といった様々なものに転用できる。
「本当はもっと焦っているかと思ったんですよ。ペルフィリアは頭ひとつ抜き出ている感じがしますけど、三宝をひとつも押さえてないですし」
「さんぽう? ……なんだそりゃ?」
「大陸の支配者になるための宝と言われています。聖女シンシアの聖句にあるんです。ご存知ありませんか?」
「いいや」
 ダダンは否定に頭を振った。自分は決して聖女信仰について詳しくはない。
 ダダンの反応を予想通りとして、ファビアンが件の文句を諳んじてみせる。
「“覇権を欲しくば、三つを揃えよ”」
 一つ、まぼろばをあおぎて眠る獣を。
 一つ、魔を伴いて震える森を。
 一つ、神の系譜を生み出す形代を。
 獣は尾を押さえよ。森は銀の柱で刺し貫け。形代には王冠を載せ、されど他の獣を弑してはならぬ。
 さすれば赤きその土地に、女神の祝福舞い降りん。
「聖句っつうか、予言みたいだな」
「僕もそう思います」
 同意して頷く青年にダダンは笑みを向けた。
「……そいつ、俺に話してよかったのか?」
「もちろんです。ダダンも聞いたことあるかなって思っていたくらいです。一般的には知られていませんが、シンシアを祀るある程度大きなところでなら、簡単に聞ける内容ですから」
 生活には関係のない事柄なので、農村の司祭では知らぬらしい。
「……とにかく聖句は、“覇者”を目指す国の王ならば気にかけている文句です。信憑性はともかくとして」
 権力闘争に触れる機会のある者たちだけがまことしやかに口にするささめごとなのだ。
 それを胸中で反芻し、ダダンは呟いた。
「獣……大陸のことか」
 世界には四つの大陸がある。そのいずれもが何とも知れぬ生物の形を成している。そこからいにしえの人々は大陸のことを“獣”と呼びならわしたらしい。たまさか耳にする古い言い回しだ。
「獣はそのまま西大陸でしょう。尾、というのは南の土地、という意味だと思われます。ちょうど、ゼムナムの領土です」
 かの国は南で勢力を伸ばしている。ペルフィリアと並んで人の口に上ることの多い国だ。
「聖句の言い方だと、その南の土地を押さえておくことが条件のひとつ、っていう風に取れるな。……森はお前らんとこか」
「えぇ。銀の柱でっていうのがよくわからないんですけれど」
「最後の、神の系譜を生み出す形代っていうのは……なんだ?」
「公家の血ってことだとは思うんですけど……具体的にはよくわからないですね。どの国でも貴族階級ならその血が入っているでしょうしねぇ」
 敢えてこのように言及する必要がないほど、メイゼンブルの血は広く浸透している。
「とにかく」
 ファビアンが話を纏めにかかる。
「最後の一つは別として、獣の尾も森もペルフィリアからは遠い。魔の公国の後釜を狙っているのなら、セレネスティは早くそれらを手に入れたいだろうなって思っていましたから。彼女がクランと休戦協定を結んで数年がたちます。やけにじっくり進軍する機会を狙っているな、というのが正直な感想です」
 まて、とダダンは話を差し止めた。
「さっきも焦るとかなんとか言っていたが、覇権を狙うなら急がなきゃならんのか?」
 急いてはことを仕損じる。戦争ならばなおさらだ。期を待つことの何が悪いのか。
「えっと、それはですね――……」
 ファビアンの解説は、叩扉の音によって打ち切られた。
「ダダン」
 扉を開けてベベルが顔を出す。彼はダダンに三階へ上がるよう顎で指示して姿を消した。
「悪い、ちょっと外すぞ」
 ダダンは困惑顔のファビアンに断りを入れて席を立った。彼の返事を待つことなく、ベベルの後を急いで追う。
「お前の勘はあたったな」
 ダダンが部屋の扉を閉じるやいなやベベルは言った。
「デルリゲイリアの御一行は迎賓館に籠城しているらしい」
「いつから?」
「昨日の夜あたりからだそうだ。詳細はわからなかったが、穏やかざる理由なのは確かだな」
 ベベルの言葉に耳を傾けながらダダンは暗算した。
 ペルフィリア王城には客人用に約五日分の食糧が運び込まれたという。とはいってもその全てが迎賓館に搬入されたとは限らない。館にまったく何もないということもありうる。籠城は悪くて二日――飢えたことのない者たちが水と食糧なしにそう長く持つものではない――よくて、三日程度だろう。
「……中と連絡を取る方法は?」
「ないな」
 ベベルは即答した。
「さすがに迎賓館の中を探る手立てはないし、連絡を取る方法となると言わずもがな、だ」
「どうにかならねぇのか?」
「俺に出来るのはせいぜい話を漏れ聞く程度だ。それ以上はどうにもならん」
「――……俺が入り込む、方法は?」
 ベベルは僅かに目を瞠った。信じられぬと言わんばかりにダダンを見る。その双眸に浮かぶ呆れの色は、次第に濃くなっていく。
 ややおいてベベルは溜息と共に肩を落とした。
「門前払い食らったって、自分で言ってただろうが。日頃なら出入りできる関係者ですら閉め出されているんだ。今は何人たりとも入り込めん」
「ないのか? 忍び込む方法」
「ダダン。そのデルリゲイリアの御一行の為にお前がそこまでしてやる理由はどこにある? かの女王がお前にいくら支払ったのかは知らん。だが金だって命あってのものだねだぞ」
 正論だ。
 ダダンは思った。ベベルの忠告はまったくもって正しい。
 ダダン自身思っている。もうどうしようもない。引き下がれ。その後どうなっていくのかは外の立場から知ればいい。
 だが、口はその意に反して動いていた。
「忍び込む方法を調べてくれ」
 沈黙が、落ちる。
 ベベルの瞳は口以上に雄弁だった。呆然となり、訝りに変わり、憂慮が滲む。
 彼は逡巡を見せたあと、肩をおとして口を開いた。
「酒場で仕事をしないかと話を持ちかけてくる男がいる」
 腕を組んで長机の縁に腰を預けた彼は、見慣れない顔の男だ、と付け加えた。
「男は地図を持っている。古い地図だ。この王都を建造するときの設計図らしい。……そこに記された道を辿り、現状との差異を確かめること。それが仕事の内容だ」
「そしてその道とやらが、王城へと続いている」
「そうだ」
 言葉少なに答えたベベルはおもむろに懐から葉巻を取り出した。しかし彼はそれを吸い出すことなく指で弄び続ける。
 ダダンは尋ねた。
「その仕事を請けた奴が……前にいたのか?」
「いた」
 ベベルは間を挟んで続けた。
「ここで下働きをしていた。気のいい男だった。その依頼を受けたとき、俺に相談してきた」
「そいつはどうした?」
「仕事を完遂できなかったあとに川に浮かんだ」
 再び部屋が静まり返る。
 ベベルが葉巻の端を切り、吸い口をくわえる。燐寸の先が橙に染まった一拍のち、紫煙がダダンの視界に筋を引いた。
「……報復するつもりだったのか?」
 ベベルが語ったことの何割かは彼が独自に調べたことなのだろう。彼と殺された男は親しかったことが口調から知れる。
 ベベルは頭を振った。
「真実を知りたかっただけだ。……あいつは確かに誰かに殺された。だがそのことと仕事を依頼した男との繋がりの確証を得られなかった。どうやっても」
 ベベルが調べ上げられないとはよほどのことだ。
 そのしこりの残る相手を紹介したくはないのだろう。彼の表情は渋い。
「その男はまだ仕事のできそうな奴を探している」
 紫煙を吐いて、ベベルは言った。
「そいつを当ってみろ」


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