第四章 決裂する為政者 4
壁面に等間隔で並ぶ燭台に、魔術の明かりが灯っていく。
ディトラウトはその間を足早に抜けて女王の私室に赴いた。兵は哨戒のために離れているらしい。扉の前に不在である。
扉板を叩けば即座に返事があった。
「誰だ?」
「私です」
許可を待たずに入室すると、セレネスティと梟に加え、ヘルムートの姿もある。
光沢ある上絹をふんだんに用いた、接客用の衣装をまとったまま、セレネスティは長椅子の上に身を横たえていた。
「セレネスティ」
「大丈夫。眠いだけだよ」
セレネスティは息を吐いて身を起こし、歩み寄るディトラウトに微笑んだ。
その顔は、少し青白い。
こちらの視線に居心地の悪さを覚えたらしい。セレネスティが軽く身じろぎする。
「任せていた分に何かあった?」
「いえ」
ディトラウトは主君の問いに頭を振った。
「ただ会食が中止になったと伺いましたので、その確認に」
公的にはマリアージュとロディマス・テディウスを今夜の晩餐に招くこととなっていた。案の定、取りやめになったと報せが来たのだ。
「予想通り、マリアージュは条件を突きかえしたよ」
椅子の背に重心を預けてセレネスティが説明する。
「馬鹿だな。すぐに呑めば苦しい思いをせずに済むのに。……籠は閉じたよ」
迎賓館を封鎖したということだ。以後、使節団の者たちは一歩たりとも館から出ること叶わなくなる。
「一団が帰国する予定だった三日後を期限として、一刻きざみにひとりずつ斬首していく。マリアージュと先代のご子息二人には別室からその様子を見学してもらう予定だ」
「御意に」
了承に一礼するディトラウトを、セレネスティがじっと見上げる。
「何か?」
「ねぇ、兄上……」
主君は口籠った後、躊躇いがちに問うた。
「……あの化粧師、本当に役に立つの?」
「立ちますよ」
ディトラウトは即答した。
「たかが、化粧だよね?」
「私の説明に納得しませんでしたか?」
「納得はしているけれど……何がどう違うのかがわからない」
ディトラウトとしても答えたいが、口で解説することは難しいのだ。自分自身、セレネスティと同じように侮っていたのだから。
たかが、化粧、と。
「その化粧師の様子はどうだった? ディータ」
ヘルムートが口を挟んだ。彼もまたセレネスティのように、ディトラウトの提案には懐疑的だ。しかし化粧師自体には興味を抱いているようである。
「お主、懐柔しに行ったのだろう?」
「馬鹿げたことを、の一言で切り捨てられましたよ」
「そうであろうな!」
初老の騎士はそれみたことかと笑い声を上げた。
「女子を容易く籠絡させるお主の微笑みも、同性相手には役に立たんというわけか」
梟の視線をなにとなしに感じながら、ディトラウトはヘルムートに反論した。
「人を誰それ構わずたらしこむ人間みたいに言わないでください。それに国章を女王から賜るほどの側近が、簡単に誘いになびいては困るでしょう」
ただ、とディトラウトは付け加える。
「命は惜しいでしょうから」
「期間は区切るよ、兄上」
セレネスティが宣言する。
「マリアージュの目の前で斬首する最後の人間がその化粧師だ。それまでに僕の役に立って生きるか、今の主人の殉じて死ぬかを選ばせて。こっちに下る場合は、処遇を兄上に任せる」
「……かしこまりました」
丁寧に礼を取り、改めて姿勢を正したディトラウトは、急いた調子の叩扉の音に出入口を振り返った。一拍遅れて残り三人も扉へと視線を向ける。
入室の許可も得ずに室内に踏み込んだ将校は、焦燥の色を浮かべて早口で告げた。
マリアージュたちが逃げ――迎賓館が奪われたという報せを。
アルヴィナが、指を滑らせる。その先から術式の帯が燐光を纏って生まれ、外に通じる扉と壁の隙間をくまなく埋めていった。魔術文字の複雑な組み合わせは、流動する銀の粒子にふちどられ、名工が生み出す意匠のように芸術的だ。
術を施す魔術師の横顔を眺めながら、マリアージュは胸中で独りごちた。
(今更だけど、どういう腕をしているのかしら、この魔術師……)
マリアージュたちがセレネスティたちに捕縛された丁度その頃、迎賓館の者たちもまたペルフィリア兵たちに襲われていた。文官、女官、魔術師は役職ごとに監禁された。騎士たちにおいては拘束具を四肢に嵌めた上で、一人に一部屋を割り当てるという念の入れようだった。
その状況を覆したのが、このアルヴィナである。
今や迎賓館はデルリゲイリアの領地であり、ペルフィリア兵たちは捕虜となっている。使節団の者たちの安全が確保されたことを確認して、アルヴィナはマリアージュたちを迎えにも来た。たったひとりで。
その技量は一人で万の部隊に匹敵したという古い魔術師たちを彷彿とさせる。
デルリゲイリアの宮廷魔術師たちの多くは、術式の修復を専門とする非戦闘員である。どこの国でも似たような状況のはずだ。それともマリアージュが知らぬだけで、まだまだ力強い魔術師たちが世には大勢いるのだろうか。
「これで、おしまい」
アルヴィナが立ち上がって猫のように伸びをする。マリアージュも思考を中断し、屈めていた腰を伸ばした。
「これで誰も外からは入って来られないの?」
「えぇ。こちらから扉を開かない限りは。……さて、戻りましょうか」
どうぞ、と魔術師が先を促す。彼女と術の施された扉をしばし見つめた後、マリアージュは廊下を歩き始めた――向かう先はロディマスたちの待つ部屋だった。
迎賓館の館内はざわついていた。戦闘の名残を片づけるために官たちがあちらこちらを行き来している。彼らはマリアージュたちを認めると足を止めて一礼した。その合間を縫うようにして歩いていく。
ロディマスの部屋の前では騎士が番をしている。マリアージュたちの姿を認めた彼は、その到着を室内に告げて扉を開けた。
「陛下」
部屋の奥に据えられた椅子からアッセが立ち上がった。隣に控えるロディマスや医者、女官たちと揃って一礼する。
「手当ては終わったの?」
マリアージュの問いにアッセは首肯した。
「はい。ご心配をおかけいたしました」
多数の兵を相手に立ちまわった結果、アッセはかなりの傷を負っていた。隊服の袖口から覗く腕には包帯が巻きつけられている。室内には軟膏特有のつんとした薬臭さが漂う。その臭いの源であるアッセは申し訳なさそうに顔を曇らせていた。
「リノ、お茶を」
「お待ちください」
ロディマスが慌ててマリアージュの命令を差し止める。こちらの一睨みにも彼はひるまなかった。
「今はお控えください、陛下」
これから何が起こるかわからない。水や食糧は限られていると彼は説く。
マリアージュはため息交じりに命令を下した。
「……下がっていいわ、リノ。他の者たちも休みなさい」
退室を命じられた者たちが辞去していく。ほどなくして扉の開閉音が部屋に響いた。
「……で、どうするの? これから」
アッセの引いた椅子に腰を下ろし、マリアージュはロディマスに尋ねた。
「どれぐらいここにはいられそうなの?」
備蓄に限りがあるというのなら、迎賓館に籠城できる時間は限られる。
「よくて三日ぐらいかな。官たちの精神的意味合いでいえばもっと短い」
今朝の段階でも皆の疲弊が見て取れた。禁固されかけた後となっては言わずもがな。
眉間に皺を寄せてマリアージュは呻いた。
「早くここから抜け出さなきゃいけないわね……」
だが逃げ出そうにも馬車を預けてしまっている。城門も施錠されているだろう。
「あの女なら私たちを一網打尽にするために館に火をかけそうよ」
「あぁ、それは大丈夫ですよ。結界は別に人をはじくだけのものではありませんから」
火のみならずありとあらゆる外部からの衝撃に耐えきる自信はあるとアルヴィナが請け合う。彼女を労ってひとつ頷いたロディマスは、それに、と補足を口にした。
「先方に殺す気はないんだと思う。――少なくとも、君は」
そうだった、とマリアージュは顔をしかめた。殺すならば最後だと、セレネスティは宣言していた。
「セレネスティはできる限り穏便にデルリゲイリアを併合したがっている」
ロディマスは言った。それは彼がセレネスティにも指摘した点だった。
「おそらくクラン・ハイヴを刺激したくないんだろう。兵を挙げてデルリゲイリアを襲えば、どうしてもクラン・ハイヴと一戦交えなければならない」
「どうして? 直接クラン・ハイヴを襲うわけでもないのに?」
「陛下。この二つの国は休戦協定を結んでいるとはいえ、お互いに一触即発の状態なんだよ。クランからすればペルフィリアに版図をこれ以上は広げてほしくないはずだ」
デルリゲイリアに兵を差し向けていると知ったクラン・ハイヴは横槍を入れたくなるだろう。ペルフィリアとしてはクラン・ハイヴの邪魔なしに、デルリゲイリアを手中に収めることが好ましい。
セレネスティがマリアージュに条約の調印を求める理由もそこにあるのだろうとロディマスは解説した。つまるところ開戦の口実をクラン・ハイヴに与えぬために、デルリゲイリアの女王自身から陣営に下ったという証拠をペルフィリアは欲しているのだ。
「ねぇ、ダイはどうなりました?」
アルヴィナが一同に問いかける。
「あの子のことは、何か言っていた?」
「まだ生きてはいるみたいだよ」
ロディマスが応じる。
「けれどわかったのはそれだけだ」
ダイがどこでどのような扱いを受けているのかはさっぱりである。
「そういえばどうして、ダイを陛下の恋人などと思ったのだろう」
アッセの独白にアルヴィナが首を捻る。
「恋人?」
「本気で恋人だと思っているはずないでしょう」
マリアージュはぴしゃりと断じた。
「性質(たち)の悪い、単なる冗談よ」
「ですが……」
マリアージュはアッセを一睨みして黙らせる。彼が何を言い募ろうとしたのかはわかっていた。
マリアージュとダイの関係を恋人だと当てこする輩はデルリゲイリアにもいる。しかしそれはマリアージュが『同性が好きなのでは』という揶揄である。セレネスティの発言にそのような響きはなかった。
ペルフィリアの女王は、化粧師が少女であることを、知らないのだ。
(恋人、ね……)
マリアージュは胸中で独りごちた。
まだダイがミズウィーリ家に雇われる以前、ディトラウトが楽師や絵師をマリアージュに付けようとしていた時期がある。候補となった者たちは、マリアージュと恋仲になってもおかしくないような、少年ばかりだった。マリアージュに恋人を持たせることも計画の一部に含まれていたのかもしれない。
ダイもまたその候補者のひとりだったのだろう。
しかし、化粧師は少女だった。少年に擬態していた。
セレネスティは、そのことを知らなかった。彼女は失言したのだ。ディトラウトから報告を受けていないに違いない。
(なんであいつ、かくしているの?)
ささいなことといえばそれまでだ。しかし計り知れない意味を持っているような気がする。
もし彼があの娘に惹かれたという事実ごと、主君に話を伏せているのだとしたら。
ひどく、危うい。
セレネスティは彼女をマリアージュへの人質として見做している。必要さえあれば殺すことも厭わぬという様子だった。ディトラウトはそれを許容できるのだろうか。それともダイが殺される段階になって、すべてをぶちまけて助命を請うつもりか。
わからない、とマリアージュは首を振った。
ディトラウトと化粧師の関係を、切り離して考えたほうがいいのかもしれない。
(でも――……)
『きれいだったんだ』
ダダンが、そう言った。
マリアージュも、同じように思っていた。
光の降り注ぐ、ミズウィーリ家。緑の庭の陰で、あるいは、本館の片隅で。
くすくすと笑いあう二人を。
「陛下」
ロディマスに呼ばれ、マリアージュは面を上げた。彼は目を痛ましげに細めている。
「考えたくはないけれど、考えざるを得ない。こうなった以上は、覚悟しておいてほしい」
ダイを、見捨てることを。
「アルヴィナ……どうにかできないの?」
マリアージュは縋りたい気持ちで魔術師に問いかけた。
アルヴィナは微苦笑を浮かべ、ゆるりと否定に首を振る。
「どうにかしたいのは山々ですけれど。もちろん、貴女がたを脱出させるような真似もできないわ」
魔術は万能ではない。何を成すにも制約と限界がある。
ダイを案じてだろう。不可能を口にする魔術師は、らしくもなく悄然としていた。
「たとえば」
アッセが神妙な面持ちで口を挟む。
「セレネスティを暗殺する、といったことは?」
「しません」
鋭く拒否を示したアルヴィナは軽蔑の篭った目をアッセに向けた。たじろいだ彼はくぐもった声で、すまない、と呻いた。
「ひとまず僕たちは自分たちのことを先に考えよう」
ロディマスが声を張り上げる。
「ここから逃げる方法がなければ、僕たちの方が先に、まぼろばの地行きだ」
彼の言う通りだった。
部屋の中に重苦しい沈黙が立ち込める。
「大丈夫だよ」
暗澹とした雰囲気を払うように、ロディマスが気丈に微笑んだ。
「あちらと同様にこちらにも人質がいる。ペルフィリアの女王がどれほど人道的であらせられるのか、試してみようじゃないか」
「閉門! 閉門!」
号令に呼応して鐘が打ち鳴らされる。
街を守る堅牢な門扉が滑車と男たちの手を借りてゆっくりと閉ざされた。
閉門間際に滑り込んだ乗合馬車が、馬の嘶きを纏って制止する。長旅に疲れた客たちはそそくさと馬車を降りて街の中へと散っていく。王都の丸石敷きの路をダダンが踏んだとき、彼らの姿は既に見えなくなっていた。
「案外、早く着いちまったなぁ……」
目抜き通りの入口に立ち止まってダダンは顎を撫でた。
依頼されていた調査を終え、マリアージュたちに三日遅れて、ダダンはマーレンを出立した。ペルフィリアの王都に到着するのは明日の早朝の予定だった。しかしながら天候も良く、馬の調子が良かったためか、閉門の刻限に間に合ってしまったのだ。
ダダンは煙草をくわえてぼんやりと街並みを眺めた。
街にともる明かりの火の勢いは弱かった。石畳の上に落ちる橙色の輪も小さい。ただ、明かりの数自体は多く、門に、通りに、家々に、蝋燭のものと思しき柔い光がともされている。
闇に屈しまいとする人々の気概が感じられた。
そんな中でひときわ眩しく輝く、街の象徴ともいえる大聖堂と尖塔が群れを成す王城は、ペルフィリアを照らす灯台のようだった。
海から吹いて路をさらう潮風が、外套の裾をはためかせる。
いつのまにか広場には、ダダンひとりが取り残されている。
ダダンは身を震わせて荷を担ぎあげ、今宵の寝床を求めて歩き出した。