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第四章 決裂する為政者 3


 友好条約の草稿として差し出された書面には、表題からはかけ離れた内容が記されていた。
 ロディマスが色を失くしている。背後のアッセからは戦慄く気配がした。
 マリアージュは眉をひそめて、セレネスティを見返した。
「目的は何かしら?」
 ペルフィリアの女王はあどけなくぱちぱちと睫を瞬かせる。
「冷静だね。もっと怒るかと思っていたよ」
 その少年めいた口調が彼女本来のものなのだろう。必要とあらば武力の行使も辞さぬ苛烈な女王に似つかわしい。
「癇癪をよく起こすと聞いていたのに」
「私についてそのように報告した輩の目は、さぞや節穴だったのね」
 マリアージュは冷やかに嗤った。
 憤怒の情など、デルリゲイリアに隷属を促すこの馬鹿げた書面に目を通す前から、ずっと腹の中に燻っている。
 激昂は通り過ぎているのだ――ダイを奪われたときに。
「狙いは、何?」
 マリアージュは繰り返した。
「私の国には貴女たちの喜ぶようなものは何もないわ。肥沃な土地も、鉱山もね」
 数年前にペルフィリアが併合した東の二国は、豊かな土壌を持つ大陸屈指の穀倉地帯だった。かつてメイゼンブル本国にあらゆる作物を供給していた土地である。
 ペルフィリアが休戦中のクラン・ハイヴは金属の鉱脈を持つ。産出されるものの種類は様々だ。金、銀、銅、鉄、金剛石、緑柱石、蒼石といった宝石類まで。
 対してデルリゲイリアには何もない。
 マリアージュは紙面に視線を落とし、改めて文字を追った。
 ペルフィリアはデルリゲイリアに“庇護”を約束するという。その上で、自治も認める、と。
 紙面にはさらにペルフィリアはデルリゲイリアに官を派遣すると書かれている。法令指導のためといえば聞こえはいいが、監視役を置くということだ。またデルリゲイリアは職工の子女たち三分の一を、ペルフィリアに移住させなければならないとある。その名目は他大陸の情報入りやすいペルフィリアの都市への留学だが、実際は人質に取られるようなものだろう。そしてペルフィリアが要求したありとあらゆるものを、差し出さなければならないという点が決定的だ。
「敗戦国へ押し付けるような内容ね」
 マリアージュだけでなく、目にする誰もがそう思うだろう。
「君たちは負けたんだよ」
 セレネスティが柔らかい声音で説いた。
「女王たる君と宰相閣下が雁首揃えて、のこのここの国にやってきた時点でね。君たちに選択の余地はない。いや、君に、選択の余地はない」
「受け入れなければ私を殺すというの?」
「殺されるのは君じゃない。君の周りの者たちだ。幸い、檻には鼠が三十名ほどいるからね」
 デルリゲイリアからマリアージュに付き添う者たちのことだ。
「君の目の前でひとりずつ、ゆっくり潰していけば、君の気も変わるだろう。……まずは僕らの客人となっていただいている、君の側近に尊い犠牲となってもらおうか。それとも――……」
 セレネスティの話が終わるまで待たず、アッセが動いた。
 前に躍り出た彼は長剣を抜いていた。いつもなら想像もつかぬ怒りに満ちた険しい顔で、セレネスティへと鋼を振りかぶる。
 それを高齢とは思えぬ俊敏さを見せてヘルムートが防いだ。
 甲高い剣戟の音が天で弾ける。若いアッセに、老兵は少しも競り負けない。
 ぎち、という耳障りな金属の擦れ合う音が室内に響いた。
 二人の剣呑なやり取りを意に介した様子もなく、セレネスティが言葉を続ける。
「……化粧師には犠牲の取りを、務めてもらったほうがいいかな」
「ダイはどこ?」
 マリアージュは努めて平静に尋ねた。
「ねぇ、マリアージュ、よく考えてほしい」
 問いを無視してセレネスティは話を進める。
「メイゼンブルが滅び、十六年。今は乱世だとまもなく君もわかるだろう。無法者は警備手薄な村を襲い、鼠のように弱き国を端から食い破る。勢力図は塗り替えられ、金の流れも変化した。……どんな名君でも頭を悩ます難問が、怒涛のように押し寄せる中で、君は国を守り通せる?」
 卓の上に肘を突いた彼女は、絹の手袋に包まれた指を組み合わせ、優しげに目元を細めて見せた。
「君たちに悪い提案をしているわけじゃない。大陸に今もなお吹き荒れている嵐から、デルリゲイリアを守ってあげようと言っているんだ」
 マリアージュは瞑目し、そろりと息を吐いた。
 セレネスティの言う通り、デルリゲイリアに流入する無法者は増え続けている。新しい国が興る一方で、古き国が次々と名を消している。
 今は太平の世ではない。力なき国は亡びていくしかない。
(もし、セレネスティの条件を呑んだら……)
 本当に守ることができるのだろうか。
 ダイとアルヴィナと共に見下ろした、あの街並み全てを。
『よろしいですか?』
 マリアージュの脳裏にルディア・ガートルードの声がよみがえった。
『ペルフィリアにて、貴女は友人となりうる人間に出会うかもしれません。ですが完璧な味方というものは、他国には存在しないのだということを心得てください』
『どうして?』
『住まう土地が違うからです、陛下』
 たとえば、ホイスルウィズムとカースンです。
 ルディアはマリアージュと座を争った女王候補たちの家を挙げた。その二家の仲はあまりよろしくない。
『ホイスルウィズム家のとある家人が、主人に不満を抱いているとしましょう。彼、ないし彼女は、宴席などで知り合ったカースン家の使用人に、当主の悪癖――たとえば、酒が過ぎて、そのせいでご夫人に愛想を尽かされかけている、といったことを、漏らすことがあるかもしれません』
 だがその家人に出来ることはそこまでなのだ、とルディアは言った。
『家人は何かしがの致命的な話を――主人が金銭的に逼迫している、といったことを、カースン家に話すことはありません。ホイスルウィズム家に属する限り。家が没落すれば減給や失職という形で、己れに困難が降りかかる。ペルフィリアにおいても、同じなのです』
 デルリゲイリアに協力しようと、嘯くものがいるやもしれぬ。あるいは、ペルフィリアの女王自身が、マリアージュに協力を申し出るやもしれぬ。
 しかし彼らが本当の意味で味方になることはない。
 甘い諫言に惑わされてはならない。
 セレネスティたちはマリアージュたちと対等に付き合いたいとすら言わぬのだ。この紙きれに自分が署名したところで、彼女たちが何を保証するというのか。
「確かに国を守りきる自信があると断言することは私にはできない」
 それでも。
「自国の命運を他者に預けるほど墜ちてはいないわ。私たちを守る? 寝言は寝てから言いなさい」
 ぎし、と再び、鋼が鳴り、ヘルムートとアッセが背後へと飛び退る。
「テディウス公たちお二人はどう?」
 並ぶ兄弟にセレネスティが蠱惑的な秋波を送った。
「先代から教育を受けたお二人には、より国益となる道を採択して欲しいところだけれど」
「誠に遺憾ですが、セレネスティ女王陛下」
 鞘に収め損ねた剣の柄を強く握り、アッセがまず口を開く。ダイの件もあってか、怒り冷めやらぬ様子だ。
「私も我が主と同じ意見です」
「私もですよ」
 ロディマスもまた深く頷いた。彼の瞳にも暗い怒りが燃えていた。
「……残念だ」
 セレネスティが落胆の表情で溜息を吐く。
「覚えておくといいよ、マリアージュ。誇り高いことは結構だ。けれどそれは強い者にしか許されない」
「ではそのお強いセレネスティ女王陛下にお尋ねしたい」
 ロディマスが挑みかかるように言った。
「断った以上、貴女は私の部下、我が君の臣下に手を掛けるのだろう。いや、もしかしたらこれからすぐ、我が君をねじ伏せ、その紙切れに署名させるのかもしれない」
「そうだね。一番手の犠牲をお望み? テディウス公」
「好きにすればいい。……けれど何故、そんな回りくどい真似をする?」
「……回りくどい真似?」
「そう。貴女はその条約らしきものを、わざわざ締結させたがっている。けれど何故、出兵しない? 私たちの首を刎ねてデルリゲイリアを併合すればいい。王や私が旗先にあれば、国の掌握など容易いだろうに」
 ロディマスの物騒な話を制止する気にはなれなかった。彼の言う通りだからだ。
 ペルフィリア側から見たデルリゲイリアは進軍しにくい地形をしている。国境の山脈がその邪魔をするのだ。それでも少人数の行軍なら可能だ。マリアージュと宰相の首を揃えていけば、デルリゲイリア城内は少なからず混乱する。その少ない兵力で陥落させることは可能だろう。ペルフィリアは隣国を攻め落とした力ある軍を持っている。一方のデルリゲイリア兵は戦の経験もなく、その総数も何分の一かにすぎないのだから。
 万が一ペルフィリアにてマリアージュが倒れたとしても、昨年に落選した女王候補が玉座を温めることとなっている。
 デルリゲイリアにおいて女王とは、すげ替えの効く頭なのだ。マリアージュを殺されたからといって、無条件にデルリゲイリアが降伏することは決してない。
「むやみに出兵して皆を危険に晒すより、君たち三十人そこそこの命で国を購ったほうが、ずっと安上がりだ」
 セレネスティは立ち上がって冷笑を浮かべた。
「紅茶もすっかり冷めてしまったね。解散しようか」
 セレネスティの傍を離れた梟が出入り口へと歩いていく。
 そして彼の手によって開かれた扉から、ペルフィリア兵たちが部屋になだれ込んだ。
 剣の切っ先が予断なく、自分たちを取り囲む。
「騎士たちはどうしたのよ?」
 マリアージュたちの護衛役が、部屋の外で控えていたはずだ。
 セレネスティは答えない。ただ静かに嗤っている。
「セレネスティ!」
 マリアージュはたまりかねて絶叫した。恐怖からではない。冷静さを欠かぬよう押さえつけていた憤怒に突き上げられての叫びだった。
「先に迎賓館にお帰りいただいた。殺してないよ」
 まだ、とセレネスティは言い添える。
「今夜の会食は中止だね。兄上も混じって楽しい会になるだろうなって思っていたのに、残念だ」
 宣戦布告をしておいて、彼女もよく言うものだ。
「……君たちが帰国する予定までにはまだ日がある。よくよく考えるといい」
セレネスティは嫣然と微笑む。
「あるいは――……君の恋人が殺される覚悟を決めたらいい」
 彼女を忌々しげに睨め付けていたマリアージュは、はた、と我に返った。
(こいびと?)
 一体、誰のことだ。
 マリアージュはロディマスとアッセを盗み見た。話の唐突さから判断するに、この二人ではないだろう。二人とも訝しげな表情でセレネスティを見返している。
 マリアージュの情人としてからかえる――もしくは、勘違いできる相手といえば。
 一人しかいない。
「ダイは……」
「アッセ」
 マリアージュはロディマスを制し、セレネスティを睨み据えた。彼女はこちらの反応に僅かに眉をひそめている。
「“彼”は無事なのね?」
 マリアージュの問いかけにセレネスティは微笑みを返す。
「最初は君への説得役をお願いしようとしたんだけどね。断られてしまったよ。まぁそのうち会えるよ」
「そう。……嬉しいわ」
 ヘルムートが剣を鞘に収める。扉へと歩き始める女王に付き従う彼は、囚人に向けるものとしては場違いなほど、にこやかな笑顔を浮かべて会釈した。
 セレネスティが扉口でマリアージュを振り返る。
「それでは皆さま、ごきげんよう」
「セレネスティ」
 辞去しかける女王を、マリアージュは呼び止めた。
「貴女――いつか足元をすくわれるわよ」
 その言葉を負け惜しみととったのだろう。セレネスティはただ一笑に付して退室していく。
 後に続いた梟が、仮面のような無表情のまま、扉を静かに閉じた。


 セレネスティたちが去ってしばらく後、マリアージュたちもまた部屋を出た。ペルフィリア兵たちに取り囲まれ、手かせまで嵌められて連行されるその様子を、何事かと訝る人間は誰ひとりとして進路に見当たらない。人払いがなされているらしい。
 これからどこへと連れて行かれるのか。迎賓館へ向かっているように思えるがそうだと断言はできない。牢か。軟禁するための客室か。それとも死刑台だろうか。
 いいえ、とマリアージュは否定に頭を振った。
(……あの話しぶりだと違うわね)
 セレネスティは何故かマリアージュを生かしておきたいようだ。殺されるとすれば最後に違いない。
 ――他の皆は、無事なのだろうか。
 今は生きていても帰国できるかどうか危うい。仮にセレネスティから提示された条件を呑み、デルリゲイリアに戻ることが許されても、属国として虐げられる日々が待っているだろう。
 それらをどのようにして回避すればよいのか。考えれば考えるほど、頭が爆発しそうだった。
 思索に囚われて足が止まっていたらしい。兵たちから速くと急かされ、マリアージュは溜息を吐いた。
 日が地平にその身を隠し、城内は暗さを増しつつある。歩みを再開し、階段を下りる。外の光が踊り場に窓の形をぼんやりと描いている。マリアージュはその縁を踏んで窓の外を一瞥した。むらのない透明な玻璃越しに、照明の灯る庭先と――思いがけず暗い街中が見える。
 何か、違和感がある。
 窓からの景色に引っ掛かりを覚え、立ち止まりかけるマリアージュに、アッセがふいに耳打ちした。
「私が注意を引きつけます」
 ロディマスがやたらと兵士たちに話しかけていた。その声に混じるアッセの囁きは聞こえづらく、マリアージュを除いて誰も気に留めていないようだった。
「兄と二人でお逃げください」
「無理よ」
 マリアージュは即答した。自慢ではないが運動は得意なたちではない。ロディマスも武術を不得手としている。巡回するペルフィリア兵たちの間を二人だけで潜り抜けることは不可能だ。
 ご安心ください、とアッセは微笑んだ。
「隠れるだけ結構です。すぐお迎えに上がります」
 だが、どこに身を潜めろというのだ――……。
 マリアージュは問いを口にする前にアッセが動いた。
 階下に下りたちざま重心を低く取った彼は、身体を捻って兵の顎に掌底を食らわせた。不意を突かれてよろめく兵の足元をすかさず掬い上げる。そして転倒した男の胸元を勢いよく踏み抜いた。
 兵たちが殺気立つ。
 その隙を突いたロディマスが、マリアージュの腕を強く引いた。
「こっちだ」
「ロディマス!?」
 脱走に気付いた者たちが伸ばす手を擦りぬけ、マリアージュは転がるようにして廊下を駆けた。
 角を曲がり、回廊を行き、再び階を下りる。
(くるしい)
 日頃の運動不足に加えて手首の拘束具が体力を一気に削り取っていく。あっという間に息が上がった。肋骨の奥で肺が軋む。針で突いたような痛みが脇腹を襲う。
 視界が、湾曲した。
「マリアージュ!」
 膝を突いたマリアージュの腕を、ロディマスが慌てて掴んだ。
「ま、まって……ちょっと、やすめば」
「立つんだ、マリアージュ。そんな暇はない」
 ロディマスの言葉を証明するかのように、アッセが階段から転がり落ちてきた。壁に身体を打ち付ける派手な音が響き渡る。
「アッセ!」
 彼に続いて兵たちが姿を現した。数は三人。新手の者たちだ。
 アッセはよろめきながらもすぐさま立ち上がった。兵の懐に果敢に飛びこみ、武器を持つ手を撃ち払う。そして息吐く間も与えずに、敵の顔に回し蹴りを食らわせた。
 兵の巨漢が大きく傾ぎ、壁に叩きつけられる。
「兄上! 何をしているんですか!? 早く陛下を……!」
 アッセが臨戦態勢を保ったまま叫ぶ。ぐずぐずと往生するマリアージュたちに苛立っているようだった。
「陛下、早く……!」
 ロディマスがマリアージュの手を強く引く。
 しかし、動けなかった。足が地に張り付いている。
「マリアージュ!」
「陛下っ……!?」
 アッセの気がこちらに逸れる。その隙を突いて敵が剣を振り上げた。
「アッセ!」
 彼の足首を倒れていた兵士が捕らえている。
 逃げられない。
 マリアージュは悲劇を覚悟して固く目を閉じた。
 だが耳に届いたものは苦悶の呻きでも断末魔の叫びでもない。
 剣が地に落下する乾いた音だ。
 訝りながら瞼を押し上げたマリアージュは、風を孕んでひるがえる薄紅色の布地を見た。裾を金糸で縫い取ったその法衣は、デルリゲイリアの魔術師たちの制服である。それを身にまとうひとりの女魔術師が、一本に編んだ亜麻色の髪を揺らして、音もなく歩み寄っていた。
「……アルヴィナ……?」
 マリアージュの呼びかけに魔術師は微笑みだけを返した。
 魔術の発動を示す燐光が、アルヴィナの肩にまとわりついている。それは彼女の歩む振動に合わせて絨毯に落ち、星屑のように瞬いては消えていく。
 アルヴィナはアッセたちの傍らで足を止めた。手を伸ばせばすぐ届くほど近い距離だった。
 しかし兵たちは誰ひとりとして動かない。
 同じだ、とマリアージュは思った。
 女王として選出されたあの夜、ミズウィーリ家への帰途。
 マリアージュを暗殺者の手から守ってみせた、あの時と。
 手袋に包まれるほっそりとした手を、アルヴィナがゆっくりと持ち上げる。
 そしてその指先を驚愕の色を開いた目に浮かべる兵士たちの額に触れさせた。
「ねむりなさい」
 兵士たちはゆるゆる瞼を閉じて、そのままどうっと崩れ落ちる。
 アッセだけが呆然とした面持ちでその場に立ち尽くしている。
 アルヴィナはマリアージュに向き直ると、肩にかかる髪を払い落とし、道化師の如き大仰な仕草で一礼した。
「お迎えに上がりました、女王陛下」


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