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第二章 悔いる傷病者 1 


 そこは、ぬるく、穏やかで、静かだった。
 夜に似た藍色が隅々まで身体を包んでいる。吐いた息はこぽりと音を立て、細かな気泡となった。砂金に似た泡の粒が吸い込まれる天上は蒼い。
 光が瞼裏に散る。
 さらなる静穏を求めて深く沈みたいのに、冷たい何かにゆるゆると引き上げられる。揺れ動く気配。微かな囁き声。そして光が、淡い金の光が、たゆたう意識を刺激した。
 かぁん、と、鐘の音が響く。
 その合間を埋めるように、遠くから、鳥の鳴き。
 鼻についた薬の匂いに喉の奥から声が漏れる。瞬きを繰り返すと、ぼやけた白い視界の中で影が動いた。
 てのひらにひやりとした指が触れる。
 その体温を知っている。
 ヒース。
 唇のみの呼びかけに、静かな肯定が返った。
「えぇ……わたしです」
 男の手を握ろうとした。
 けれども力がうまく入らなかった。
 逆に手を男の両手で包まれる。
 自分のものではないような、細い手が取り上げられて、男の口元に引き寄せられる。くちびるが淡く触れ、呼気が肌を撫でた。
「医師を呼びます。起きていられますか?」
「……ひーす」
 今度は、声が出た。
 ひどく掠れた声だ。
 はい、と、男は応じた。
「ヒース」
「ディアナ」
 男が呼ぶ。
 蜜の滴るあまい響きで。
 まどろみの終わりを告げる声だった。


 ゼノは驚きの声を上げた。
「デルリゲイリアの女王が交代?」
「マリアージュは急病らしい。大陸会議の決定を勝手に覆すなと念書が届いた」
 セレネスティが一枚の紙を机上に滑らせる。マリアージュ・ミズウィーリの署名が入った紙面には、セレネスティが述べた通りの旨が綴られていた。
 念書は条約を調印した各国に送られたはずだ。しかし額面通りに受け取る者は皆無だろう。大陸会議中に国内で政変があった。そう考えるに違いない。
 国の中枢が不在となれば、よからぬことを企てる輩は出るものだ。会議の参加国が少数だった理由もここにある。
 ただペルフィリアは内情を少々違ったかたちで推測していた。ため息を押し殺し、ゼノは書面を眺める。
「テディウス閣下は宰相として残留。国境で待ち構えていた兵に、マリアージュ女王を引き渡したのもあのひとって聞きましたよ。女王には意識がなかったっていうし、一服盛ったんすかね」
「さぁね」
 セレネスティの反応は冷淡だ。
「まぁ、水面下では聖女が動いているそうだよ」
「うわ、教会が糸を引いているのか」
「何にせよ、年始までには決着するだろう。でも、あちらがごたつくことは避けられない。そのつもりで」
「かしこまりましたっと」
 隣国が騒々しいとなれば、兵も動かさねばなるまい。タルターザでの欠員をようやく補填を終えたらこれだ。デルリゲイリアではないが、流民の流入も途切れず困る。魔術を不要とする技術導入の目途が、ようやく立ち始めた点が救いである。
 状況を憂えていると、主君の視線を感じた。
 ものを言いたげなその目に、ゼノはやれやれと頭を掻く。
「何ですか? 陛下」
「……あの女はどうしている?」
 おんな、とは、妙に生々しい。
 彼女に似合わない呼称だなと、感想を抱きつつゼノは答えた。
「寝台の住人ですよ。萎えすぎて動けない状態です。見張りは付けていますがね」
 ディトラウトがタルターザで保護し、連れ帰ったマリアージュの化粧師は、重体のまま長く昏睡状態だった。つい先日、目覚めたばかりである。それも最初は夢うつつで、意識がきちんと覚醒して、二日と経っていなかった。
 目に見える傷はかなり癒えたが、消耗が激しく、手すら自力で動かすことに難儀するようだ。
「自分の状況を知って、死にたがっている感じです。食うのも拒否しているって」
 重湯と水分が主といえども、取らねば回復は見込めない。水は辛うじて飲むようだが、発汗と比べて量が足りない。脱水を起こしてしまうと、医師が冷や冷やしていた。
「……兄上、は?」
「大陸会議で滞っていた政務と、タルターザの処理があらかた終わったんで、商工連との会合が早めに終わっているなら、顔を出すんじゃないですかね」
 たぶん、と、ゼノは胸中で言い添える。
 ディトラウトが娘を見舞う回数ときたら、周囲が唖然となるほど少ないのだ。ゼノを除く近衛が控えめに、顔を見に行けばどうだと、つい進言するほどである。
 娘はディトラウトの私室にいる。政務は山積みだったし、肝心の彼女は目覚めない。日中にあえて足を運ぶ必要がどこに、との、宰相の主張はわからないでもない。
 にしてもだ。
 娘が明瞭に意識を取り戻したと聞いても、ディトラウトはちらと顔を見に赴いただけ。忙しかったということもあるが、昨日は丸一日、寄りつく素振りすら見せなかった。
 娘の方も彼を恋しがる風はまったくないという。
「どんな関係だったんですかね、ディータとあの子」
「さぁ。でも……」
 ディトラウトは化粧師を、デルリゲイリアに返送しなかった。マリアージュ捕縛の報告を受けて、少女が危うい身の上だと、ディトラウトは知っていたからだ。
 タルターザに放置することすらできず、皆に白い目を向けられると承知の上で、宰相は彼女を連れ帰ってきてしまった。
 沈黙を挟んでセレネスティが命令を下す。
「お前たちは宰相を見張れ」
 それはディトラウトの近衛全員に対するものだ。
 ゼノは主君の命を受諾し、堪えきれずに息を吐いた。
 デルリゲイリアのことはよそ事ではない。
 実に笑えない。
 小スカナジアの本会議まで、よく連携していたかの国の主従に、亀裂を入れただろうもの。
 それはゼノの王と宰相の関係にも、楔を打ってしまったのだから。


 重湯のにおいを不快に感じて反射的に顔をそむけた。胸がむかつき、喉元まで酸がせり上がる。
 世話役の娘はダイの口に寄せていた匙をしぶしぶ皿へ戻した。
 栗色の髪を後頭部で簡素にまとめた、ダイと同じ年頃の娘だ。濃紺を基調とした制服を身にまとっている。
 薄布に覆われた顔から、表情は読みづらいが、きっと困っている。悄然と肩を落とす彼女には胸が痛む。だが、何も食べたくないのだ。
 背に当てられた綿詰めに、ダイは上半身を預けきる。
(わたしは……)
 死んだものと、思っていた。
 ダイはタルターザで、大勢の兵や、ユマと共に。
 ところがあの男――ディトラウト・イェルニの手によって救われていた。
 ダイは二日前に初めて目覚めたとき、医師から呼ばれて姿を見せた彼から、状況の簡単な説明を受けた。混乱の事後処理をするべく、タルターザに足を運んでいたディトラウトが、偶然にも地下牢の側に居合わせ、暴行を受けたダイを回収した。そして重傷を負って容態の安定しないダイを、そのまま王都の城へ連れ帰ったのだ。
(ばかじゃないんですか、あのひと)
 実際、何を考えているのかと罵った。ダイが負傷した場所はタルターザ。デルリゲイリア国境に程近い土地だ。近場にはタルターザから避難した、デルリゲイリアの一行もいたはず。なぜダイをそちらに預けなかったのか。
 ダイはデルリゲイリアの、ディトラウトはペルフィリアの《国章持ち》だ。加えて彼はペルフィリアが女王セレネスティの実兄である。ディトラウトはダイと共に歩まないし、ダイも彼には寄り添えない。自分たちは互いの立場を重々に理解して、小スカナジアで別れたのではなかったか。
 ディトラウトは、自分を捨て置くべきだった。
 扉の開け放たれた入口から、音もなく部屋に踏み込んだペルフィリアの宰相に、ダイは見ぬまま問いかける。
「私をここに置いて、あなたの女王は何て?」
「何もおっしゃいませんよ」
 ディトラウトは女官と騎士を手振りで壁際まで下がらせる。女官が温めていた椅子に腰を下ろし、小卓に載せられた皿を一瞥する。
「食べようとしないと聞きました。死にたいんですか?」
「そうですね」
 ディトラウトは皿を手に取って、匙で重湯をゆっくりかき混ぜた。
「タルターザで死んだ、あなたの女官は、あなたに何と言っていましたか?」
「……ユマを、知っているんですか?」
「あなたが以前にここで化粧をしたとき、顔を見ました。タルターザでもずっと行動を共にしていたと聞いています。あなたの女官だったのでしょう? 彼女はあなたに死んでほしいと? そう、言っていましたか?」
 かちかち、と、皿に匙の触れる音がする。
 かち、と、重湯をかき混ぜる、男の手が止まる。
 彼からの無言の追及に、ダイはため息を付いた。
「生きていて、欲しいって……言っていました」
『私はやだ! ダイが死んだら私は嫌だ!』
「でも」
 ――一緒に帰ろうね。
 そういった彼女は死んだ。
 ダイの浅はかさが彼女を殺したのだ。
「……もう、辛い」
 生きて足掻くことが、苦しくてならない。
 ディトラウトがダイの前に匙でぬるまった重湯を突きつける。
 ダイは男を仰ぎ見た。酷薄な蒼の双眸にダイを映し、彼は抑揚のない声音で言った。
「食べなさい」
 ダイはちいさく首を振る。
「嫌です」
「食べろ」
「やだ」
「いいから食べなさい! それとも、また口移しで食べさせられたいか……!」
 ディトラウトの怒声が室内に響く。
 ダイはくちびるを引き結んだ。
 ディトラウトは冷気を発して目を細めた。獲物を捕食する獣のように伸び上がる。
 ダイの身体に男の影が差し、その肘と腕が肩を押さえた。指がダイの鼻をつまみ上げる。
 ディトラウトは待った。
 ダイが息苦しさに負けて口を開くまで。
「くっはっ……ふぐ」
 男の手がダイの顎を固定する。親指が口内に差し込まれる。
 そして彼の口がダイのそれを、覆うように食らいついてきた。
 知らぬ間に彼が口に含んでいた、たっぷりの重湯を流し込まれる。微かな油脂の風味が広がり、微温の唾液が口内で泡立つ。溢れた分が口の端から顎に伝った。
 ごくり、と、喉を鳴らして呑み込むと、男の口が離れた。口周りを拭う間もなく、すぐ次を与えられる。
 三度ほど繰り返したところで誤飲した。彼から顔を背けて、手の中で咳き込む。
「こほっ、げほ、こほっ……」
 ディトラウトが匙と皿を小卓に置いた。手巾を取り出し、ダイの指を拭う。
 ダイは己の指がかなり細くなっていると、ディトラウトと比較して初めて気づいた。
 ディトラウトが静かな声音で切り出す。
「巻き込んで、悪かったと、思っています」
「……タルターザのことですか?」
「そう。あれは、私の落ち度でした」
 ディトラウトの手巾がダイの口元に移動する。やわらかな布が羽根で触れるようにくちびるを拭った。
「……あなたの、落ち度?」
「私を襲撃した者の多くは、ペルフィリア宰相に恨みを抱いていた者です」
「……畑を潰したって、いう?」
 タルターザ砦とエスメル市の間で年始にあった小競り合い。タルターザ側はエスメルの兵を帰り討つ折に町の畑を犠牲にした。
「聞いていましたか」
「少し。でも、それとあなたに何の関係が?」
「それを指示したのは私です」
 ディトラウトが手巾を畳んで皿の脇に置く。
 ダイは瞬いて尋ねた。
「現場の……指揮官ではなく?」
「あそこには私がいて、私が指揮を執っていました。もちろん、現場の士官に口出しする程度ですが。畑を潰すように、指示したのは私です」
「……それをしなければ、負けていたから?」
「いいえ。勝敗かかわらず、潰す必要があったからです」
「なぜ」
「あなたは議事録に目を通しましたか?」
 大陸会議のことだ。ダイは飛んだ話題に戸惑いつつ首肯した。
 彼がダイに頷き返し、膝上で両手を組む。
「タルターザは古くからの要所で、それ故に町も色々と優遇されてきました。……農業に関わる魔術具の数や、魔術師の巡回する数が多かったと、言えばわかりやすいですか? しかし、いまはもうそれをできない」
「魔術師の激減で?」
「そうです。術式の調整が追いつかず、農具の多くを、使うことができずにいます」
 アルヴィナを雇うまで動かせなかった、ミズウィーリ使用人棟の水道のように。
 デルリゲイリアの城下でも、水路の濾過といった装置のほとんどが、調整されずに放置されている。
「これは何もタルターザに限ったことではない。大陸会議で俎上に載った通りです。そこで私たちは魔術に依らない技術の導入を推し進めています」
 その点は議事録にも記載されていた。土壌に最適化した品種の選定。他大陸で使用される農機具の導入。教育の一環として技術者を北と東へ留学もさせている。
「ところがタルターザは、これまでの農耕方法に慣れすぎて、中央の農業政策を拒み続けました」
「……新しい技術を導入すれば、色々と改善するのに?」
 議事録に添付された資料に統計が載っていた。実験領地の収穫高は劇的ではないが右上がりで、ペルフィリアの政策の正しさを示すものだった。
「まったく新しいものを学ぶには労力が要ります。未知のものに進んで取り組むものは僅かですよ。……人間とは得てして怠惰なものです」
 タルターザに残る農具の類は、十全ではなくともまだ動いた。それが農民の反応をさらに鈍くしてしまった。
「タルターザとは長く交渉していましたが、今年の収穫は例年をかなり下回り、ほかの土地から農作物を回さなければならなくなりました。……タルターザは、ご存知とは思いますが、国境防衛の要です。兵糧の備蓄をほかにすべて頼るような事態は見過ごせない」
「それで……いまあるものを、ぜんぶ、つぶそうと?」
「あのころ丁度、私の命を狙う鼠がエスメル市とつながっていて、私が視察に出れば派兵するとわかっていました。……種を蒔く前に、既存のすべてが潰えれば、タルターザの農民たちも諦める」
 エスメル兵の掃討作戦という大義名分を手に入れて、ディトラウトはタルターザの過去を洗い流したのだ。
「途中まではうまくいっていたのですが。いらぬ輩の介入があって、結果は……ご覧の通りです」
 巻き込んで、すまなかったと、ディトラウトは悪びれた様子もなく繰り返した。
 ダイは震える手で敷布を握りしめた。
 ディトラウトが席を立つ。
「憎めばいい」
 彼の静謐な蒼の双眸がダイを見下ろす。
「あなたの女官を殺したのは――このわたしだ」
 この男のせいではないとわかっている。
 けれども黒い感情が胸をいっとき染めた。
 それを見透かされたと、ダイは思った。
 ディトラウトが壁際に控えていた女官を呼んだ。
「ラスティ。あなたに付けています。何かあったら彼女か……マーク」
 扉の側に佇立する騎士が軽く会釈する。
「彼に。あと、ラスティは喉に傷を負っていて話せません。ラスティ、彼女を着替えさせろ。服を汚した」
 ディトラウトが指示する声を聞きながら、ダイはイスウィルを連想した。ゼムナム宰相の側近。彼もまた声が出せなかった。その喉には醜い傷があった。
 ふたりの紹介を終えて、ディトラウトが歩き出す。
 彼は室外に出る寸前、ふいに立ち止まった。
「女官は、デルリゲイリアに送り返しました」
『あなたのご友人はお任せください』
 レオニダス・ルウィーダ。ディトラウトの近衛だと称した男。彼との約束がダイの耳によみがえる。
 レオニダスはユマの遺体を、本当に回収してくれたのだ。
 礼を、告げなければ。
「ディトラウト」
 ダイの呼びかけにディトラウトが振り返る。
 ラスティの肩越しに、ダイは彼に尋ねた。
「ルウィーダさんは……いまどこに?」
「……あぁ、レニーか」
 ディトラウトはレオニダスの愛称を口にした。
「彼なら死んだ――タルターザでだ」
 たん、と、扉が閉まる。
 ダイは呆然と扉を見た。
 やるせない熱が目許にこみ上げる。
「あぁあ……」
 顔を両手で覆って、ダイは身を伏せた。
「あぁあぁあ……!」


 寝室から娘の泣く声がする。
 ディトラウトは居室の長椅子に腰を落とした。卓上の水差しから水を汲む。くちびるに重湯のぬめりが残っていた。
 筆記具を片手に喉を潤していると、廊下側の扉からゼノが姿を見せた。ディトラウトから離れて取り組んでいた仕事が終わったらしい。
 ゼノは寝室の方を見て首をかしげる。
「あの子は?」
「変わりありませんよ」
 響く啜り泣きを無視してディトラウトは答えた。
「食事をとらせたので、まもなく眠るでしょう」
「そっか。食べないって聞いたけど、食べたんだな」
「えぇ。……ラスティ」
 寝室から現れた女官を呼び止める。タルターザから娘付きとしている彼女は、薄布越しでもわかるほど、顔を悲痛そうに歪めていた。
 水を飲みながら書き付けた指示書を、ディトラウトはラスティに差し出した。
「これを厨房方に。出汁から骨を抜くように書いた。それから蜂蜜酒に限らず、彼女は酒精がすべてだめだ。回復するまで入れたものを与えるな」
「ディータ、おまえさ、そんなこと、どこで知ったの?」
 ゼノが胡乱な視線をディトラウトに向ける。
「俺、まだ、お前がどこでどうやってあの子と知り合ったか、何も聞いていないんだけど?」
「陛下は何といいましたか?」
「なんも」
「なら待ちなさい。どうせここで、話せることでもない」
 ゼノが天井を仰いだ。
「……俺さ。仕事終わったんで、いまからお前に付く」
 ゼノは何てこともない連絡を、敢えて言いにくそうに告げた。態度の示す意味を悟って、ディトラウトは苦笑する。
 ゼノはセレネスティから自分を見張るように命じられたのだろう。
 それがゼノの厚意であり、女王の無言の警告だった。
「頼みます」
 ディトラウトは腰を上げて、ゼノの腕を出来うる限り、軽く叩いて歩き出した。


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