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第一章 潜伏する内通者 3 


 まぼろばの地へ送られる日を待つばかりの女に、王城は無駄な食事を与えるつもりはないらしい。
 アルマティンが世話役に付けられた日を皮切りに、マリアージュの元へは次々と書類が持ち込まれる。大抵は大陸会議で成された、数々の条約に関するものだ。
 実務の内容は文官たちによって取り決められたが、調印の署名は他ならぬマリアージュが行ったのだ。このまま女王の首をすげ替えたなら、他国が条約諸々を反故にしかねない。よって高官たちはマリアージュに他国宛ての嘆願書を書かせているのである。大陸会議で結ばれた約定は必ず履行されるべし、と。
 お前には消えてもらいたいが、お前の成果はもらい受けたい。
 厚顔無恥きわまりないことだ。
 アルマティンが激怒していた。
「最低最低! あっちの勝手で女王の座を奪っておいて、最後の最後までこき使おうだなんて、最低すぎるわ!」
「うるさいわよ、アルマティン。だれかに聞かれたらどうするのよ」
「音が聞こえないようにしてるって言わなかった?」
「招力石ね……」
 城内の部屋にはそれぞれ《消音》の魔術が施されている。扉周りに刻まれた魔術文様からこの塔も同様だと推測できる。だがどこに盗聴の魔術具が仕込まれているとも限らない。初対面で協定を結んだあとに、気がついたマリアージュが指摘すると、アルマティンはにやにや笑って招力石を差し出したのだ。
「ダイの養母(そだてのおや)も大概よね。そんなものを揃えられるってどうなのよ」
《消音》の招力石は稀少である。大陸会議の出席者に配布されていた石は商工協会からの貸し出しだった。複数の国府が集ってさえ、安易には贖えない高級品。それを事前に準備できる娼館の女主人は、かなり有力な伝手を持っているということである。あなどれない。
「ふっふん。アスマはすごいのよ。にしても、マリアージュ様ってば、思っていたより真面目。それはそれは大人しく、書類を片付けておいでね?」
「黙っててよ。気が散るじゃない。あぁ、もう。またやったわ」
 マリアージュはいらいらと筆記具の金具を布で拭った。先ほどから紙に引っかけてばかりだ。
 塔の居室は執務室とは勝手が異なる。事情を含んだ無口な文官が、毎朝に抱え入れる書類の量は夥しく、目を通すだけでも一苦労。それぞれの書類に適った指示書や、各国に失礼のない嘆願書を、補佐もなく書き上げることには苦心させられている。
 筆記具の先を墨壺に突っ込み、マリアージュは心中を述べる。
「私だってこんな書類、いますぐ机ごと蹴り散らしてやりたいわよ」
「貴族の淑女らしからぬ乱暴な考え方ね?」
「毎年、命の危機にこうもさらされていたら、考え方ぐらい乱暴になるわ。……大人しくしているのは真面目だからじゃないわよ、言っとくけど」
 打算がなければしていられない。このような頭脳労働、柄(がら)ではないのだ。
 マリアージュは作り終えた指示書を、処理済み書類用の箱に投げ入れた。冷めた茶をすすりながら、長卓の角に避けていた冊子を手に取る。
 革を表紙にしたかなり厚みあるそれは、大陸会議関連の資料を編纂したものだ。参加国を事前調査した内容をまとめたものや、本会議を含む大小様々な集まりの議事録も収録されている。
 真面目に仕事をしているからこそ、他国に向けた書簡を瑕疵なく書くために必要だと主張すれば、このような資料の閲覧も渋々ながら認められる。
 復権だの何だのと画策するならば、情報収集するに超したことはない。
 マリアージュは参加国について記載された章を開いた。数頁、行きつ戻りつ目を通す。
「ハァ、女王サマって大変なのね。……ところでさ。マリアージュ様がさっきから見ている頁、きれいな紋章が入っているね。何の紋章?」
「国の紋章よ。この会議に参加した国の、国章」
「へぇ。どの国のもなんだか似ているのね」
 マリアージュの手元を覗き込んでいたアルマティンが感想を述べた。
 国を象徴する動植物と、ひと振りの剣を配した意匠。アルマティンの言う通りだ。どの国章も非常に似ている。
 あまりにも露骨な共通点を、見落としがちだった理由は、国章の使用に関する規定が、人の目を欺いているからだ。
 《国章持ち》という特別職が存在する関係上、国章は気安く方々に用いられるものではない。謁見の間などの限られた広間や公式の式典といった一部を除いて、正式な国章を掲げることはならず、その刻印ないし刺繍は、地となる素材の色と同色で行う。たとえば国章持ちの上衣が布も糸もすべて国色で染められているように。光が当たらなければ国章のかたちすら明確とならないように。
 国色はどの国とも重ならない。
 複数の国章を並べて比べ見る機会もない。
 国で統一された色の方が目立つから、国章も違うものだと思い込まされた。
 マリアージュは頬杖を突くと、アルマティンを見上げて尋ねた。
「あんたたちは、ほかの国の国章って見ることない、わよね?」
「ないよ。旅商あたりは違うかもだけど、あたし、うちの国の紋章だって、貴族街(こっち)に来て初めて見たんだもの。……そういえば、うちのだけ、剣がないのね?」
 比較すれば、すぐにわかる。
 デルリゲイリアは、他国とは違う。
 国章だけではない。思い返せば、色々とある。魔の公国(メイゼンブル)が健在だったころより、ほぼ完全なる自治であったという点しかり。女王を選出するという制度しかり。官吏と貴族の関係もまたしかり。
 聖女の扱いひとつにしろ。
 デルリゲイリアは主神と聖女を信仰しているが、国政に癒着しているというほどではない。
 他大陸には男が玉座に就く国もあるという。だから国が別なら政治体系が異なってもおかしくはない。
 ただ――なぜ、デルリゲイリア“だけ”が、別なのか。
 大陸会議の本会議で思い至って、後々調べたいと思ってはいたが、それどころではなくなっていた。
 思索の没頭は来客の報せによって遮られた。アルマティンが番兵に子細を尋ねに向かう。マリアージュは冊子をぱたんと閉じて、再び長卓の角へと追いやった。
 戻ったアルマティンが、外出するよと告げた。
「下の礼拝堂に教会のエライひとが来ているんですって」
「きょうかい?」
「聖女教会」


 外套を着せかけられて居室を出る。アルマティンは居残りだ。手錠を掛けられたマリアージュは、三人の番兵に囲まれながら歩いた。
 廊下に至っても窓はちいさく、高い位置に並び、柵が嵌まっている。窓の玻璃を通じて着色された冬の淡い陽光が、生成りに塗られた壁面に魔の公国の歴史を投影する。階段の床にすら光の薔薇が落ちていて、マリアージュは薄ら寒さを覚えた。
 兵が扉を開けてマリアージュを先導する。足を踏み入れると堂内の翼廊だった。
 聖女像の屹立する内陣で、ひとりの男が待っていた。
 男の合図で番兵たちが退出する。堂内にはマリアージュと男のふたりのみが残された。
 二十代後半から三十半ばだと、マリアージュは男の年を推測した。髪色も瞳も顔立ちも凡庸。初対面であるかを判断できない。数歩と離れたならば忘れるような、引っかかりのない男である。
 聖女教会の関係者らしいが、貴族の執務服めいた服装で、信仰の臭いは感じなかった。祭典の折にたびたび会う司祭たちのなかにいた顔でもない。
 男は笑って、大仰な仕草で、その場に跪いた。
「このような形(なり)で申し訳ございません。お初にお目通り賜ります、マリアージュ女王陛下。レジナルド・エイブルチェイマーと申します。どうぞ、レジナルドと呼びください」
「マリアージュよ。……何の用かしら?」
 マリアージュの置かれた立場を承知の上で女王と呼ぶ。大した皮肉だ。
 マリアージュは記憶を浚ってレジナルドの名を探す。ここに立つことを許されるのだ。次期女王を輩出する家――ホイスルウィズムか、ベツレイムか、カースンのいずれかと、この男は深い関わりを持っているはずである。レジナルド。どこかで聞いた名なのだが。
(思い出せないわ……)
「陛下。どうぞお席に。……このたびは大陸の未来を憂うわたくしに、ぜひとも陛下のご意見を頂戴できはしないかと願った次第でございます」
「何についての?」
「教会の在り方についてでございます」
 マリアージュを長椅子に促してレジナルドは告げた。
「わたくしは教会の代表として小スカナジアの傍聴席におりました。本会議では教会についても触れられたことは陛下もご承知の通り。その点についてのご意見を頂戴したく存じます」
「具体的に言いなさい。聖女教会の何に対する考えを聞きたいの?」
「――西の獣の安寧と、聖女を敬う御心。その関係性についてを」
 イェルニ兄妹の手を通じ、大陸会議の俎上に載せられた政教分離。その是非についての議論は、本会議終了後も傍聴者たちの間で白熱したらしい。
 主神と聖女を冒涜しているとおののく者たちが大多数ではあるものの、荒れ果てた大陸西岸北部と関わり深い者たちは、一利あるとペルフィリアの主張に理解を示す。主神の教えと政治を分けることは、他大陸では一般であるというから、それもまた議論の火に油を注いだ。一部では流血沙汰も起こったという。
 マリアージュは己れが知る事実のみを回答として並べる。
「聖女は生まれてから永らく西の獣の安寧を支えてきた。北、東、南、いずれの獣の背でも、星の数もの国々が勃興し、争い、潰えることを繰り返したのに、西では聖女の血と彼女の教えが、大禍を退け続けてきたわ。その歴史を鑑みれば、聖女御方への信心は、確かに西の獣に静穏をもたらすものだったのでしょう」
 魔の公国の歴史は長かった。スカーレットとメイゼンブルを、同一血統の国として通算すれば、神代より存在する世界最長の帝国に次ぐのだ。聖女の膝下で西大陸は確かにずっと平穏だった。
「だった、と、マリアージュ様はおっしゃる。聖女シンシアはもはや西の大陸の安寧に寄与しない。否定すべきとお考えで?」
「寄与しない、に、必ずしも、を、付けてちょうだい」
 西岸北部から流入する浮浪民たちに、ここ一年ほど頭を痛めていた身としては、かの土地の沈静化を聖女の血が阻んでいると聞けば、ペルフィリアの意見を頭から無視できはしない。それだけだ。
 マリアージュの弁論に、レジナルドは鷹揚に頷く。
「なるほど。なるほど。……では、陛下。この大陸が混沌のさなかにあるのは、メイゼンブルが過ちを犯したがゆえのことだとしたら……どうお考えになりますか?」
「アッシュバーン王のこと?」
 男が玉座を望んだ。それかと尋ねれば否定が返った。
「いえ。それは最後の過ちです。……陛下は、三宝をご存知でしょうか?」
 マリアージュが否を言う前に、レジナルドが唄うように述べる。

 覇権を欲しくば、三つを揃えよ。
 一つ、まぼろばをあおぎて眠る獣を。
 一つ、魔を伴いて震える森を。
 一つ、神の系譜を生み出す形代を。
 獣は尾を押さえよ。森は銀の柱で刺し貫け。形代には王冠を載せ、されど他の獣を弑してはならぬ。
 さすれば赤きその土地に、女神の祝福舞い降りん。

 教会に伝わる聖句だと、レジナルドは言った。
「獣はこの大陸を意味します。尾はゼムナムの領土ですね。南海岸は北とは違って船を接岸しやすい地形です。そこを押さえよ、ということでしょう。森は大陸中部の深淵の翠……いまはドッペルガムと呼ばれる地域です。銀の柱について諸説はありますが、巨大な魔力を注ぐ何かがある、と、考えられています。ほかの獣を弑する。これは、他大陸への侵攻を禁ずる文句でありましょう。災厄を招くといわれますから。五百年ほど前にも、かの有名な北のディスラが……」
「神の系譜を生み出す形代、は、どういう意味なの?」
 脱線を始めるレジナルドの話に、マリアージュは割り入った。レジナルドはどこか陶然とした笑みで答えを寄越す。
「聖女の血」
 正統なる聖女の血統。その子々孫々。
「メイゼンブルは獣の尾も深淵の翠も押さえきれなかった。ですがかの国が犯した最大の過ちは、神の系譜を生み出す形代、正しき聖女の血を継ぐ者を、貶めたことにあるのです」
「メイゼンブル大公家は、聖女の血統ではなかったの?」
「もちろん、西の獣に王権を許された者たちは皆、正しく聖女の血統です」
 レジナルドの言葉遊びにマリアージュはため息をかみ殺す。
 つまり彼はこう言いたいのだ。
 メイゼンブル大公家は正真正銘、聖女の血を引いてはいるものの、正統なる聖女の血統ではないのだと。
 では正しく連なる者とやらはだれなのか。
(あぁ、いやだわ)
 剣を抱かぬ野薔薇の国章が脳裏に像を結んだ。
 マリアージュの推測が的外れではないのなら、説明できてしまうのだ。
 イェルニ兄妹が、ディトラウトが、ヒース・リヴォートが、この国で傀儡の女王を欲した理由を。
「マリアージュ女王陛下。陛下は真に冠を戴くこともできましょう」
「私がその正統なる血統とやらだと?」
「あなたはそのうちのおひとりであらせられる」
 マリアージュのほかの存在を示唆しながら、それ以上はレジナルドも口を割らなかった。
 事態が理解の範疇を超えてきた。
 にわかに頭痛を覚えつつ、マリアージュは追及した。
「そのようなことを私に話したお前の望みは何?」
「この西の獣から急速に失われつつある女神の祝福を蘇らせること」
「女神の祝福?」
「魔力ですよ。……西の獣は聖女に祝福された大地です。祝福あればこそ、他の獣の背では早々に人々が失った力を、この地に棲まう我らは強く有したままだったのです」
 魔術素養を持つ者は、他大陸では稀らしい。西は魔の公国が滅びるまでは違った。マリアージュが生まれる前まではだれもが時を計れた。徐々に数を減らしつつあったとはいえ、大勢の魔術師たちがまだ存在していたのだ。
「メイゼンブルは過ちを犯し、だからこそ祝福の力は弱まった。滅びたことで、その勢いは加速した――思われませんか!? 魔の力の喪失が、我々の生活を不便に、無秩序に、不安なものにしてしまったと! 聖女を正しく敬わないからこそ、我々は混沌の沼に堕とされたのだと! いまこそ我々はまぼろばの地の聖女に、真摯に祈りを捧げるべきである。その正しき血筋に冠を載せ、これまでの許しを願えば、きっと聖女は我々に憐れみをくださる。神に祝福を請うてくださる……!」
「いっ……たい!」
 腕を鷲掴むレジナルドの手を、マリアージュは振り払った。手首の鎖がじゃらりと鳴った。
 狂信に目を爛々と輝かせる男を睨み据える。
「お前の主張はわかったわ。けれども魔術素養を持つ人間が増えることと、西の獣が平らかになることは別ではなくて? お前の話は具体性と証拠に欠ける。主神と聖女がいまさら何かを成すとは思えないわ」
 マリアージュは知っている。主神も聖女もこの地をもはや憐れみはしない。
 子どものころだ。喉がちぎれるほど、祈ったことがある。
 母さまの病がよくなりますように。明日、父さまが笑いかけてくれますように。顔を見に来てくださいますように。せめて、挨拶だけでも。
 ――何も変わらなかった。
 マリアージュの人生を変えたものは、冷酷なほど合理的にミズウィーリを改革して玉座への道を敷いた男と、異性を装った顔の下に激情を隠して献身を尽くした娘のふたりだ。
 レジナルドが微笑を消した。
 彼の瞳で燃えていた狂信も沈黙する。煤を被せたかのように、その眼から光は失せていた。
「残念です、マリアージュ・ミズウィーリ」
 と、レジナルドは言った。
 冷えた声だった。
「ペルフィリアの女狐の喉笛に食らいつくあなたの気概を、わたくしは評価しておりましたのに」
 あなたもまた、聖女の敵であらせられるようだ。
 レジナルドは言い捨てて、礼拝堂から去っていった。


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