第六章 再演する狂信者 1
いま、自分はどこにいるのだろう。
なぜ、自分は暗闇の中にひとりなのだろう。
花の香る社交季を終えたあと、自分は雪が散る前に領地に戻り、家族や友人たちと共に、暖かな暖炉を囲んでいるはずだった。
長らく留守にしていた我が家への帰途、強い睡魔に襲われて目を閉じた。泥のような眠りから目覚めたとき、自分の周囲から見知った姿は消え、鳥籠を模した巨大な檻に金糸雀よろしく囚われていた。
初めは喚いた。
自分がだれであるか知っての所業かと。次に助けを請うた。啜り泣いた。人の往来はあったから、彼らに向かって。けれども彼らは自分を哀れに思って足を止めることはなかった。自分に給仕するときと、自分を『手入れ』するときのみ、彼らは鳥籠の鍵を開けたが、手足に繋がれた鎖が解かれることはなかった。
檻に魔術阻害が掛けられているらしい。自分が元いた場所からどの方向にどれほど離れたのか、判別は難しかった。ただ時間の経過だけが知らされる。一日、二日、七日、十日、一月、二月……。
あぁ、これは悪い夢。夢ゆめゆめゆめ……。
日々を笑ってやり過ごす方々を覚えたころになってようやっと、陽光を浴びた。
「……かわいそうに……」
自分を労る見知らぬ声と共に肌を撫でた外気の風は暖かかった。
囚われの身となる前に最後に吸った空気は冬のそれ。
いま自分の肺腑を満たす風は、花の香気を含んでいた。
聖堂の館、と呼ばれる屋敷が、デルリゲイリア王都の貴族街に存在する。元は時の女王の冷遇に遭って凋落した一家の邸宅で、国に接収されたあと住む人を失って久しい。
その敷地の一角に建つ、呼称の由来ともなった大仰な礼拝堂の身廊を、ベツレイム家当主アデルモは注意深く歩いていた。
手に持つ角灯の灯は暗い。表面の玻璃に煤を塗り、明度を落としてあるのだ。積もった埃を踏みしめる感触が不快だ。傷んだ床板の隙間から伸びる細い草木に足を幾度も取られかける。
(もう少しましな場所を指定できなかったのか)
ここに自分を呼びつけた娘にアデルモは胸中で毒づいた。
その問題の娘は朽ちた聖女像の前に立ってアデルモを待っていた。
頭から外套をすっぽりと被った娘。年はアデルモの実の娘と同年と幼い。だが彼女こそ、この二年もの間、アデルモを抑え続けてきた元君主。昨年末に玉座から追いやられた女王マリアージュなのだった。
「ごきげんよう、ベツレイム卿。ご無沙汰しておりますわね」
アデルモは被っていた外套を頭部からむしり取った。余裕すら感じる笑みを浮かべる娘に唸る。
「娘はどこだ!?」
「……第一声がそれなの?」
マリアージュがため息を吐いた。
「挨拶もなしとは紳士が聞いて呆れますわね……。それほどシルヴィアナに会いたいのなら、もっと最初から必死に探すべきだったのではなくて?」
「わたしたちには準備が必要だったのだ!」
「準備ね……。玉座を追われた小娘のわたしにできて、人手も権力もあるあなたが娘の救出をし損ねる準備とはいったい何か、教えていただきたいわ」
冷ややかにマリアージュは言った。
社交季の終わりに領地へ戻る道すがら、誘拐されたアデルモの娘、女王候補のひとりであるシルヴィアナ。彼女が行方知れずとなり、すでに半年もの月日が経過していた。その彼女を保護したとマリアージュから知らせが届いたのだ。
アデルモとて無為に時を過ごしていたわけではない。とはいえ全力を尽くせてもいなかった。理由のひとつがこのマリアージュだ。
毒杯を仰いで新しい女王に玉座を譲るはずが、彼女は王城から逃走して姿を晦ました。死体も上がらなかった。いま、だれもが彼女を血眼で探している。
マリアージュは大陸会議で南部の大国ゼムナムや、大陸西海岸沿い三国と深い誼を結んで帰ってきた。彼女がその国々を後見に今回のことを糾弾でもすれば、結束の脆い今の国府はひとたまりもないからだ。
ミズウィーリ家とは愚かな一族だった。
何代か前の当主が婚姻に関する女王の命令に反した。ミズウィーリ家と女王の確執はその後も続き、先代当主のフランツ・ミズウィーリに至っては、女王を憎んですらいるようだった。アデルモがフランツへ幾度か金銭的支援を行ったのも、それが彼の妻のためだったからだ。そうでなければ早々に距離を置いていた。
フランツの娘であるマリアージュも、母のように容貌が優れているわけでもない、わがままで傍若無人な娘ともっぱらな噂だった。どんな手立てを使って女王候補となったのかと嘲笑の的だった。最終的に女王として選ばれたときも、運だけには恵まれた娘だと忌々しく思っていた。
だが幸運もそれほど長く続くものではない。頭の悪い娘は宥めすかせば思い通りになる。
マリアージュはそうではなかった。
文官たちから批判されながら国内外を動き回って政務に取り組んだ。アデルモたち上級貴族の意見は多くが遠ざけられた。
逃走生活を強いられれば少しは大人しくなるだろう。そういった思惑もあって、アデルモは王城から逃げたばかりのマリアージュを見逃した。
あれは、失敗だった。
半年もの潜伏を成し遂げたマリアージュは、アデルモに連絡を取ってきたのだ。
『あなたの依頼を完遂したの』
シルヴィアナの件について話がある。
今宵、聖堂の館へ赴くように。
社交をいくつかこなして帰宅したばかりの老骨に、アデルモは鞭を打つしかなかった。
「もう一度尋ねるが……娘はどこだ?」
「すぐに会わせてあげるわよ」
「……マリアージュ・ミズウィーリ嬢。あなたがまさかシルヴィアナをかどわかしたのか」
アデルモの指摘にマリアージュは噴出したようだった。
「冗談をいわないでくださらないかしら、ベツレイム卿。本当にわたしがあの子を誘拐した主犯なら、もっと早くにあなたと連絡を取っているわよ……。苦労したんだから、あの子を助けるのに」
「……本当に娘は無事なのか」
「えぇ。けれど、あなたと会わせる前に、お願いがありますの」
声音を柔らかくして、マリアージュが述べる。
「あなたにご協力いただきたいのです、ベツレイム卿。……レジナルド・エイブルチェイマーとバイラム・ガートルード。あとはリリス・カースン。この三人を筆頭とした輩を追い出すことに」
レジナルド・エイブルチェイマー。
彼は聖女教会からの使いだった。知らない間にカースン家の食客となっていた。
彼はカースン家の次女リリスとともに社交に顔を出して回ってベツレイム家ゆかりの貴族とも親交を持った――ほかの貴族たちともそうだっただろう。
いまは姿を消した女王候補たちの代わりに動くリリスの傍に相談役として控えている。
バイラムとレジナルドがいつ繋がりを持ったのかアデルモは知らない。ただ当主の座に返り咲いたバイラムが、レジナルドの伝令役を務めていることは確かだった。
「なぜあの三人を」
「この国にとっての国賊だから」
「それは……あなたを玉座から追い出したという意味ですかな?」
「いいえ。女王候補三人の誘拐を首謀したという意味よ。……ご存知ですわよね、ベツレイム卿。クリステル・ホイスルウィズムと、メリア・カースン。このふたりの女王候補の誘拐に、あなたもまた加担していらっしゃったのだから」
アデルモは乾いた唇を舐めていた。
「……何を根拠にそのようなことを」
「勘違いでしたら失礼。ですけれども、あなたがバイラムに逆らえない理由は何かと考えていたら、自然とそう行き着いたの」
「わたしがバイラムに逆らえない?」
「えぇ……少し気になっていたの。わたしがあなたと最後に会ったあのとき、あなたはバイラム・ガートルードの面会を受け入れたのか」
「あれは商談」
「実を申しますとね、ベツレイム卿」
マリアージュがアデルモの言葉を遮って告げる。
「アッセ・テディウス殿下は読唇術をお使いになるの」
「……は?」
アデルモは茫然と尋ね返した。マリアージュの発言の意味を咀嚼しかねた。
マリアージュがため息交じりの声で説明する。
「あなたがバイラムと会われていたとき、アッセは外であなたの唇の動きを読んでいた。……知っているのよ、あの男、わたしが逃げたとあなたに告げに来たのよね?」
「それが……なに」
「あなたがおっしゃる通り、商談だったならなおさら、なぜ追い返さなかったのかしら。あるいは、待たせなかったのかしら。元より約束していたようではなかったのに」
そのときアデルモはマリアージュが言わんとしていることをようやっと理解した。
マリアージュが玉座から追いやられ、その後見人であったルディアはガートルード家当主の座から追いやられた。代わりにルディアの夫、先代当主のバイラムが再びその座に就いた。
だが彼はガートルード家の人間であることには変わりがない。マリアージュ後見の咎で弱い立場であるはずにも関わらず、バイラムは思うが儘に振舞えている。
「それってつまり、バイラムはあなたよりも立場が上だから。……あなたはバイラムを待たせることができなかった」
「あ……あぁ」
「……わたしを玉座から追い落とした後、だれがその後に就くのか、揉めたはずよね。そんな中、女王候補たちの姿が消える。……ほかの女王候補の家が対抗相手を消し去ろうとした、と考えるほうが自然よね。……あなた、シルヴィアナを女王にするために、わたしを追い落とすことに一枚噛んで、ほかの女王候補を誘拐させたでしょう?」
マリアージュが淡々と話を続ける。
「ところが蓋を開けてみれば、自分の娘も連れ去られていた。あなたは娘を人質に取られて、動けなかった。違って?」
「わたしは誘拐には加担していない!」
アデルモは叫んだ。
「わたしが賛同したのは、あの娘たちを国外に追いやることだけだ! 婚姻させる貴族の使者と引き合わせる。そう言われたから、手を貸しただけだ! こんな形ではなかった! 望んだものはこんな形ではなかった……!」
レジナルドはアデルモに言った。ほかの女王候補を遠ざければ、次の女王の座はシルヴィアナのもの。その父たるアデルモは貢献として貴族の中で地位を確立できる。
手を貸すといっても、見合いの場を設定するだけのようなものだ。馬車がいつもの道をたどる邪魔をするよう街道筋の方々に小金を握らせただけ。レジナルドが望む小道に馬車を引き入れただけ。
そのまま、馬車は丸ごと帰ってこなかった。
カースンやホイスルウィズムの当主夫妻と面会したとき、シルヴィアナも同じ手法を取られたとわかった。
「レジナルドはデルリゲイリアの人間ではないのよ。なぜそんな男の言葉を信じたの?」
「彼は聖女教会の男だ。しかも、小スカナジアの! 大陸会議に参加したのだ、おわかりだろう! あそこはメイゼンブルの有力貴族が今も住まう土地だ。その教会の声は聖女の声。聖女に望まれて娘は女王となり、自分はその後見となる……断る理由がどこにある!?」
「まぁ……そうなるのかしら。聖女のことなんて、よくわからないけれど……」
サイアも大変そうだったものね、と、マリアージュは呟いた。
「でも結局、あなたは裏切られた。ホイスルウィズムもベツレイムもカースンも、女王候補の誘拐に加担したという事実をレジナルド側に握られて動けなくなった。でも、喜んで。もう大丈夫。もういいのよ。女王候補は国に戻ったし、あなたはレジナルドやその下に就くバイラムの言いなりにならなくて済む」
「いまだシルヴィアナに会わせずによく言う……」
アデルモは唇を戦慄かせた。聖女像の前に佇む娘に指を突きつけ叫ぶ。
「あなたがしていることも彼らと変わらん! シルヴィアナの命を盾に、わたしを脅しているではないか!」
「――失礼ね」
その声は、頭上から降ってきたように響いた。
アデルモは目を見開いた。声の元を辿って振り仰ぐ。側廊二階の欄干から身を乗り出す娘がいる。
彼女は外套の縁から零れた髪をかき上げて笑った。
「あなたの娘なら、そこにいるじゃない」
アデルモは愕然としながらその場を退いた。
外套を被ったまま身じろぎしない娘を見る。
彼女は外套の紐を緩めて顔をあらわにした。
「お父様……」
「あ……あ……あぁあああぁああ!!」
アデルモは絶叫した。
ベツレイム家当主の叫びを背に、マリアージュは早々にその場を離れた。
祭室の横の塔へ入って、そのまま階段を駆け下りる。その先の控え室では三名の身内が待っていた。ダダン、アルヴィナ、そしてメリア・カースンだ。
彼女は外套の前を握りしめてマリアージュに尋ねた。
「……ベツレイム卿のお返事を聞かなくていいの?」
「いいわよ。シルヴィアナの説得に期待しましょう」
「にしても最後まで気づかなかったのねぇ、あの御仁。ちょっと認識阻害をかけただけなのに」
「あんたの魔術にちょっとってあるの……?」
「おい、くっちゃべるのは後にしろ。いいから行くぞ」
ダダンが外の様子を伺いながらマリアージュたちを手招く。マリアージュはほか二人と顔を見合わせたあと、ダダンの後に続いた。
マリアージュと手をつなぐメリアが不安そうに問う。
「ねぇ、大丈夫なの? 捕まったりしない?」
「大丈夫よ。黙っていればね」
マリアージュはメリアの手を握り返した。
ベツレイム家当主が騎士を配置しても大人数は難しかったはずだ。マリアージュは彼に時間的余裕を与えなかった。
少人数であれば彼らの注意をアルヴィナが魔術で逸らすだろう。
彼女とは半月ほど前に合流した。とはいっても常にマリアージュの傍に張り付いていたわけではない。貴族街にいるロディマスやアッセたちとの連絡役としてあちこちを駆け回っていた。
マリアージュも一か所に留まっていなかった。
ルディア・ガートルードとの面会を終えたのちも、マリアージュは依然と王都に潜伏し続けていた。アスマやギーグといった裏町の人間たちに助けられ、ダダンに手を引かれながら家を転々とした。
一方、追跡の網は時の経過と共にずいぶんと緩んだ。マリアージュを追走する余裕を、王城が失ってしまったということもある。女王候補が行方不明であるとそれぞれの家が隠し切れなくなったからだ。
直後、女王候補の基準を満たす唯一の娘、リリス・カースンを擁し、独り勝ちの状態にあるカースン家がその手引きをしたのではと噂が立った。晩冬にはマリアージュが玉座を追われるきっかけともなった、ペルフィリアとの内通説もそのカースンが黒幕ではと囁かれ始めた。
玉座を取り戻したいマリアージュにしてみれば好機が来た。
しかしことは簡単ではない。
マリアージュが動くためには味方が必要だった。少なくとも、暗躍していると思しきカースン家、カースンと通じているバイラム・ガートルードにマリアージュを売り渡さない保証のある味方が。
「……わたしはシルヴィアナのお父様たちのせいで、あんな目に遭ったのね」
「えぇ、そして、シルヴィアナたちはあなたのお父様のせいで、同じ目に遭った」
マリアージュの囁きにメリアが下唇を噛み占めた。
国外に追いやろうとしただけ、と、ベツレイム家の当主は言った。よしんば貴族並みの生活が保証されていても、急に追放されるようなものだ。どれほど残酷なことに同意したのか、当主自身に罪悪感がない点に震えがくる。
(せいぜい、実の娘に叩かれればいいわよ)
クリステルはすでに実家(ホイスルウィズム)に戻った。その当主をほかの女王候補の誘拐に一役買っていたと糾弾した後で。
クリステルもシルヴィアナもメリアも、だれもが憤っている。犬猫のように自分たちを国外に売り飛ばした、聖女教会とかの組織から派遣されてきた男に。そしてそれに一枚噛んだ自分たちの親に。