第八章 潜入する救援者 2
ドン、ドドン、と、断続的な爆発音がダイたちを追いかけてきている。
急き立てられるように、ダイはダダンと廊下を駆けていた。
ダイの先を行くダダンが振り返って叫ぶ。
「大丈夫か!?」
「は、は、い……!」
ダイは彼にどうにか応じた。
屋根伝いに入った執務棟はダイにとって懐かしい場所のはずだった。移動が制限されていたとはいえ、半年も働いたのだ。どの廊下がどの部屋につながっているかは頭に入っている。しかし方々の扉が閉ざされていて、なかなか奥まで進むことができない。行っては行き止まりに突き当たって戻ることを繰り返している。
(急いでいるのに……!)
本宮の時点で気づくべきだった。あちらでも執拗なまでに扉が施錠されていたのだ。たまにただ閉じられただけで通過できる騙しまである。時間稼ぎのためにどこかの誰かが――といっても、このような周到で面倒なこと、考えて実行する男はひとりしかいないだろうが――手を打ったというわけだ。
「ダイ、焦るな」
幾度目かの袋小路に入り、道を引き返しながら、ダダンは言った。ダイは悔しさに拳を握りしめた。
「……わたしがもう少し、詳しかったら」
「自由に動けたわけでもなかったんだろ。ここまで覚えてたなら上出来だ。俺も何となく、道がわかってきたしな……」
どん、と、また間近で爆発音が響いた。暴徒だ。きっと、すぐそこまで来ている。
ダダンが歩廊の角が立ち止まる。小休憩する、と彼は告げ、音の方向を睨み据えてダイに尋ねる。
「ここまで時間を稼いでるのは、逃げるためか? もうやつら、王城にいないのかもしれん。……どう思う?」
「ありえません」
「理由は?」
「勘です」
と、ダイは言ってから、愚かな回答をしたと思った。
疲れて頭が働いていない。水筒の水を口に含み、こめかみをこつこつと軽く叩いて、その思考に至った流れを整理する。
「すみません。えっと……逃げ出すぐらいなら、最初から違う場所にいたと思うんです。王都にどこにも行けない民がたくさん残っているんですから……」
彼らに迷惑を掛けない土地へ移動して、そこで暴徒を迎え撃ったはずだ。
「あの人たちがそうせず、あえて籠城することを選んでいるなら、それなりの理由があるはずで、簡単に移動するとは思えません」
「わかった。なら、ここにいるんだろ。このまま進もう」
「いいんですか?」
「俺よりお前の方があいつらのことに詳しいだろ。それにこういうとき、最後に頼れるものは勘だと思っている。特に女のそれにゃ、間違いがねぇからな」
おどけるようにダダンが言って、ダイは笑った。
一瞬だけ空気が和らぎ、また、足下をどこかの爆発が揺るがす。
「もういいな?」
「はい。大丈夫です」
「よし、行く――……」
ダダンの号令は最後まで言葉にならなかった。
彼はダイを突き飛ばして腰から剣を抜いた。
「……っつ!」
横転したダイの耳朶を剣戟の音が打つ。強かに打ち付けた肩を抑えて立ち上がると、ダダンが戦闘に入っていた。
彼は姿勢を低くして得物を逆手に構え、ダイを庇いながら敵方の攻撃を流している。ダイがいるせいか、防戦の構えだ。じりじりと後退させられている。
ダイは体勢を立て直しながら、ダダンの身体ごしに相手の姿を確認した。
長剣を揮う敵はひとり。暴徒と化した平民ではなかった。教会の関係者でもない。
ペルフィリアの騎士だ。
「ゼノさん!」
「うぇっ、シンシア……わっ! くっ!」
ダイの叫びに反応して、ゼノの動きに遅れが出る。
ダダンもまたゼノと同様、ダイの声に反応してはいたが、攻撃の手を緩めなかった。むしろ攻勢に出た。伸びあがり、縦横無尽に剣を揮う。
「っ……!」
ゼノの顔に焦りが出る。
元々、ダダンの方が人種差で上背がある。それが目にも留まらない速さで剣を揮うのだ。ダダンはよく身軽さを前面に出して動くが、真骨頂としてはその体格の良さから来る体重を乗せて武器を扱うことにあるのだろう。一撃ごとが重いのか、ゼノがダダンの剣を己のそれで受け流しながら後退する。
ダイは彼らへ叫んだ。
「ふたりとも待って……戦ったらだめ!」
決着はすぐについた。
ダダンがゼノの喉笛に剣の切っ先を突きつける。
もう片方の手にも短剣を握り、ゼノが身に着ける鎧の隙間に差し込んでいた。
ダイはダダンとゼノの間に割り込もうとした。それをダダンが壁に足を突いてせき止める。
ダイは非難の声を上げた。
「ダダン!」
「知り合いなのはわかったが、飛び込んでくるな。んで、あんたはセレネスティ女王らの味方なのか? 敵なのか?」
「味方だ!」
ゼノが武器を手放して叫ぶ。
剣が重たい音を立てて床に落ちた。
ゼノがダイを見て絶叫する。
「何でこんなとこにいんだよ! ディータが泣くぞ!」
「あの人は怒る方だと思いますけど」
「じゃ、なくてさ! あー、よかった……あんたが腕の立つ人で。じゃなきゃ一発目でシンシアちゃんを殺してたじゃん!」
ゼノが大真面目にダダンへ感謝を口にした。
彼のその態度に毒気を抜かれたのか。ダダンも彼から武器を引いた。両手に得物を提げ、臨戦態勢をとったまま、ダイを一瞥する。
「誰だ、こいつ?」
「ディトラウト宰相の近衛騎士の長です。もっといえば、あの人の親しいご友人ですね……。何で王城にいるんですか? 護衛任務で外に出されたって聞いていましたけれど」
「いや、そっちこそ、何でそんなこと知ってんのよ?」
「クランのルグロワ市で南下してきたマークさんに会いました」
ダイは詳細を省いて、聖女教会と交渉するために、レイナ・ルグロワに招かれてルグロワ市にいた旨を告げた。ペルフィリア東部に上手く疎開できなかったマークたちがルグロワ市で保護されていることも説明する。
ゼノは渋面になった。
「何やってんだよ。無事ならいいけど。……俺はディータたちが心配で引き返してきたの。それからここにいたんだけど、正門ぶち破られる直前の食事であいつ俺に薬を盛りやがってさ」
「あー……」
ゼノは宰相を何人も輩出していた名家中の名家の出だ。ディトラウトたちにとってはペルフィリアの未来のために死なれては困る人材である。眠らされた彼は安全そうな場所に軟禁でもされていたのだろう。
「俺のいたとこの近くの扉を爆破してくれた親切な奴がいて、さっき出てきたとこ。で、シンシアちゃんは何してんのここで?」
「大陸会議の名の下にあなたがたの王と宰相を保護しに来ました」
ダイはここに来るまでに至った流れをゼノにざっと説明した。ゼノが顔色をどんどん青ざめさせる。
「なんつう無茶を」
「だって、出てきそうにないんですもん。あの人」
ダイが口を尖らせると、ゼノは深くため息を吐いた。
「ディータを引きずり出すなら、確かにこれ以上の適任はないよなー……」
「ゼノとか言ったな。お前は女王たちがどこにいるのか知ってるのか?」
ダダンが会話に割って入る。ゼノは控えめに首肯した。
「道の限定の仕方からして謁見の間だ」
有事の折、どの道を施錠するかは元々ある程度は決まっているらしい。特に謁見の間の近辺には借り住まいに仕える部屋や水回りも整っており、倉庫や外に続く道もあるという。
「じゃあ、最後はそこから逃げるつもりなのか?」
「いや。陛下もディータも逃げない。あいつらはここに自分の敵を引きつけてまとめて始末をつけて、何もかもひっかぶって死ぬつもりなんだよ」
聞いたんだ、と、ゼノは付け加えた。
「シンシアちゃん、君とあいつが、どこでどう会ったのか。陛下のことも、全部……」
彼はやるせない顔で拳を握りしめる。
痛ましくなってダイはゼノを見つめた。
ゼノは嗤った。
「ディータと陛下がしたことは大罪だ。その罪を他所のやつらがペルフィリアごと裁くことがないように。罪そのものが闇に葬られるように死ぬつもりでいる」
男子を女王に仕立てる。それはゼノの異母兄クラウス・リヴォートとペルフィリア軍の将軍ヘルムート・サガンによって始められた。マリアージュの父フランツ・ミズウィーリや、クラウスの弟子も含み、事情を知って加担するものは少なくなかったが、隣国の併呑時の襲撃事件で軒並み死んだ。裁かれると目される者たちは、イェルニ兄弟、ヘルムート、梟の四名のみ。
生きていれば罪状を増やされることもある。大陸が混迷しているのは、ペルフィリアのせいだと糾弾されかねない。体のいい生贄だ。そうならないように証拠を揃え、自らが不当に利用されないよう、誰の目にも明らかなようなかたちで、その生に幕を引く。
この時間稼ぎは単に敵に手勢を投入させるためだけのものだ。先方が入手した火薬や武器を無駄に消費させる。そのためだけに設けられた。
「《光の柱》の出現に関わったことで、聖女教会はその政治能力を大きく失いました。おそらく、かなり弱体化します。大陸会議に参加していた女王の皆さま方は、セレネスティ陛下が教会の主張通りに身を偽っていたとしても、そうでなかったとしても、事情を汲んで人道的な扱いの下、罪を裁くとおっしゃっています。だからこそ、わたしが最初の交渉人として送り込まれました」
例えばダイではなくファビアンが交渉人だったなら、ディトラウトたちは信用しない。場合によっては言葉通りに扱われる可能性もあるが、自分たちを自決させないための方便であろうと勘ぐる。
文字通り、彼らを助けるために現れたのだと証明できる人間はただひとり。他でもないディトラウト――ヒース・リヴォートに「政治的に無害である」と納得の上で引き抜かれ、デルリゲイリアの女王候補に付けられた、すぐに殺せるほど無力で、人質にすることの容易い化粧師たるダイだけだ。
ダイがどれだけ力のない人間かわかっているからこそ、ダダンという護衛が付いているとはいえ、この戦地まで単身で乗り込んでくる行為に、イェルニの兄弟たちは誠意と重い意味を見出す。
「ゼノさん、いま謁見の間までつながっている経路をご存じなんですよね。案内してくれませんか。時間がありません――ゼムナムから船が来てしまったから」
遠目でもわかった、あの派手に港に乗りつけた無補給船は、前もって聞かされていたゼムナム発の船だ。きっと女王たちと兵が乗っている。大勢の兵が下船して王都に入れば、事情を知らないディトラウトたちはどこからかの侵略だと思うだろう。よしんばゼノの言う通り、彼らが自死するつもりなら、その予定を繰り上げかねない。
ダイは早口でまくし立てた。ゼノが顔色を変えて踵を返す。彼は会話も惜しんで歩廊を駆け出そうとした。そのときだった。
ぼん、と、小規模な振動と共に、粉塵が舞った。足下をほのかに照らしていた常夜灯が立て続けに割れる。
ダイは口元を押さえて咳き込んだ。ダダンがダイの風上に回って粉塵を遮り、ゼノが足下の剣を拾いあげると同時、腿につけていた短剣を投擲する。
がっ、と、男の呻き声が煙の向こうから響いた。
(――人)
塵に目を瞬かせながら、ダイははっと我に返った。粉塵の向こうから足音がする。ひとり、ふたり、三人、もっと、多くの。
ぎん、と、剣戟が聞こえた。
「先に行け!」
歩廊の闇の中から粉塵に紛れて現れた襲撃者を迎え撃ちながら、ダダンが叫んだ。ダイは困惑して叫び返す。
「どっちに!?」
少なくともここから離れて欲しいということはわかったが、ダイは方向を定めたかった。襲撃者が現れた前方を除けば、ここから向かえる先は部屋を含めて三方向。一方は引き返してきた行き止まりだ。
するとゼノがダイの手首を取って手近な部屋に押し込んだ。背後をダダンに任せて早口で述べる。
「この部屋は暖炉だ。裏が通路になってる。君も前に通ったことがある道だ」
謁見の間までの道をゼノは述べているのだ。
「入ったら右手方向に真っ直ぐ。最初の暖炉を出るんだ。執務棟の奥の部屋に出る。廊下に出て天井を見て。鳥が君を導く」
「ゼノさん」
「余計な道はディータが塞いでる。距離もそんなにない。迷わず行けるはずだ……っと!」
ゼノは背後から斬りかかろうとした男を逆手に持った剣で突いた。ダイを背に庇って振り返りざま、剣を抜いてさらに振り上げる。
人の崩れる鈍い音。続けてゼノは悶絶した男の喉を容赦なく軍靴で踏み抜いた。
思わず目を閉じたダイにゼノが告げる。
「行って。早く――行け! 俺にはディータを救えない。あいつを救えるのは君だけだ!」
ダイはゼノの声に押されて駆け出した。
部屋の扉が容赦なく閉じられた。
「――どうしてお前はここに残った?」
ダダンは剣を振って血を飛ばし、傍らの男に問いかけた。ダイをひとりで行かせることは不安だった。一度ひきうけた護衛対象を危険とわかっている場所で手放すことは己の信条に反する。
「いや、もう距離ないし、道は単純だし、たぶん通路まで出たら梟……陛下たちと死にたがってる、女王の側近がいるはずだし。そしたらあの子を安全に陛下たちんところまで、連れてってくれるから」
ゼノ、と呼ばれたペルフィリアの騎士は、扉の前から男の遺体を蹴り飛ばして答えた。
「それに俺が行ったらさぁ、あの子の安全を確保するために脱出しろとか、俺が言われて、ディータひっぱりだすの失敗しそうなんだよなぁ。ディータが助からねぇと、陛下も救われねぇし」
「あぁ……」
「それにここいらで一度、しつこい鼠を始末しておきたくてさぁ。人手ある方が、楽じゃん」
「確かにな」
近衛の長と言われるだけあって、ゼノは腕が立つ。先ほどの斬り合いの結果は単に、相手がダイを見て手を抜いたから、ダダンの圧勝で終わったに過ぎない。ダダンも護衛対象がいない方が動きやすい。外から差す月明かりが頼りの暗い廊下で、人を守りながら敵を潰すことは骨が折れた。
ダダンとゼノの腕を侮れないものと見たのか、襲撃者たちは距離を取っていた。ぞろぞろと二桁近い上、皆、武装しただけの平民ではない。剣筋から正式な兵役を通過した何ものかだ。
ダダンは彼らから視線を動かさないまま、床に崩れている遺体から短剣を引き抜いた。ゼノが投げて相手の腕に刺さっていたものだ。
それをゼノに返してやりながら肩をすくめる。
「仕方ねぇ。さっさと終わらせて追いかけるか」
「賛成。それじゃ、よろしく頼むねっと!」
ゼノが受け取ったばかりの短剣を再び投げる。
そしてダダンたちはそれぞれの剣を構え、宙を切り裂く刃と似た勢いで扉の前を飛び出した。
ゼノの説明した道はすぐにわかった。
自分たちは確かに執務棟の奥すぐまで来ていたのだ。
(……鷲がいる……)
天井を見上げて、ダイは胸中で呟いた。隠し通路や部屋を経由して出た廊下の天井はよく見知った場所だった。かつて半年ほど、セレネスティに付き合って、何度も往復した場所。天井が美しく彩色されていることは知っていたが、描かれた鳥の中に剣を掴んだ鷲が混じっていることまで気づいていなかった。
聖女や騎士の描かれた宗教画だ。デルリゲイリア王城にも似たような絵や彫刻が方々にある。だから単なる装飾に見えていたが、そうではなかったということだ。
ペルフィリアの国章は鷲と剣だ。野ばらを咥える鳥に混じって、鷲の抱える剣の先端が図ごとに異なる。注視すればそれが道を示していることは明らかだった。行き止まりに突き当たると、天井に描かれた剣の先に部屋があり、暖炉や妙な配置の家具の中に通路があった。
それを二、三度くりかえし、ダイも知る、玉座の間に最も近しい仮眠室に出たとき、目の前に闇の中でなお光る銀の刃が付きつけられた。
「……あっ」
「……あなたですか」
ダイの声に気づいたらしい。相手は剣を鞘に静かに収めると、隠し通路から出ようとするダイに手を貸した。
「ありがとうございます……」
ダイの礼に梟は応じなかった。ダイが立つ空間を開けるべく退いて、緑灰色の目にやや呆れた色を浮かべる。
「閣下に会いに来られたのですか?」
「陛下と閣下に会いに来ました」
ゼノにもした説明を繰り返そうと、口を開きかけたダイを梟は手で制する。
彼女はさっと踵を返した。
「どうぞ、こちらです。……あぁそれから、謁見前には、上着の埃を落としてください」
蜘蛛の巣、ついていますよ、と、梟に頭を指される。
ダイは慌てて自分の頭を叩いた。