終章 別たれる人々 1
久方ぶりに袖を通した淡い蒼の衣は、違和感をもたらした。
衣装だけではない。故国の土を再び踏みしめ、王城の一室で身支度を整える。その一連の行為全てに喩えようのない不快感を覚えていた。
まるで、自分が異物になってしまったかのような。
「宰相」
呼びかけに、彼は向き直る。迎えの衛兵は丁寧に一礼し、彼に物思いの時間の終わりを告げた。
「女王陛下がお待ちです」
「わかった」
承諾し、袖口を留めて歩き出す。
衛兵に付き添われながら歩く王城もやはり、どこかよそよそしく目に映った。
明瞭になった視界に、ティティアンナの泣き顔が飛び込んできた。
「ティティ……」
掠れた声音は、まるで自分のものではないかのようだ。
呼びかけに喜色を浮かべたティティアンナは、ダイの手をしかと握り、感極まった様子で頷いた。
「そう。私よ。よかった……気が付いて」
彼女の言葉の意味を上手く理解することが出来ない。ダイは鉛を詰めたかのように重い身体に閉口した。
「覚えてる? ダイ」
荒くなりがちな呼吸を整えるダイに、ティティアンナが問い掛ける。
「雨の中、お庭に倒れていて、何日も高い熱を出して、ずっと眠ったままだったの」
「あ、め……?」
急速に、記憶が呼び戻された。
空に走る雷。その中を往く鳥。雨。
暗い庭。大地に倒れ伏す人影。そして――……。
去り往く人。
「ティティ!」
がばりと掛け布を跳ね除け、上半身を起こしてダイは叫んだ。
「今日は、一体なんにちっ……けほっ!」
しかし次の瞬間、渇きに張り付く喉が痙攣を起こし、激しく咳き込む。引き攣る腹部を抱えるように丸めたダイの背中を、ティティアンナがゆっくりと撫で擦った。
「大丈夫? 無茶しちゃだめよ。ずいぶん下がったけど、まだ熱はあるんだからね」
その言葉の後、彼女が言い加えた日付はダイを驚愕させた。マリアージュが女王として選ばれたあの日から、既に十日近い日数が経過している。即位式も何もかもが終わってしまっていた。
「マリアージュ……様は?」
「うん。ダイのこと心配してらしたわ」
「今は、お城に?」
「いいえ。今日は用事があってこちらにいらっしゃるわ。貴女が目を覚ましたことを報告さしあげたら、喜ばれるわね」
ようやく呼吸が落ち着いたダイの頭を一撫でし、ティティアンナは立ち上がった。戸棚に歩み寄り、彼女は水差しに手を伸ばす。
「本当にね、大変だったの」
水を高杯に汲みながら、ティティアンナは神妙に言った。
「マリアージュ様も、お城の帰りで何者かに襲われたのよ。ご無事だったけど。今、ルディア夫人たちが協力してくださって犯人を必死に探してる。このお屋敷も、警備のみんなが眠らされていてね。多分、こっちに侵入しようとしたおんなじ犯人に、ダイたちも襲われたのね」
水を手渡してくる彼女に、ダイは小さく頭を振った。
違う。
自分を襲った人間は、得体の知れぬ誰かなどでは決して無い。
決して無いが――それが、夢であることを願った。
「ハンティンドンさんが仰ってたわ。ダイとリヴォート様と、三人でお話してたら庭に変な影を見つけて、みんなで様子を見に行ったんですって?」
「……え?」
高杯の縁から口を離し、ダイは驚きに瞬いた。
「……ハンティンドンさんは、生きて?」
「うん。短剣が刺さったままだったのがよかったみたい。あの人も色々ひどかったけど、どうにか持ち直して、昨日目が覚めたわ。軽症だったはずのダイの方が目覚めるの遅いっていうのが、不思議だけど……」
本当によかった、とティティアンナは笑った。
ダイは喉を潤しながら、与えられた情報と記憶との齟齬に顔をしかめる。
「ティティ。……リヴォート、様は?」
「……行方がわからないのよ、ダイ」
ダイの問いに、彼女は急に表情を曇らせた。
「殺されてしまったのか……上手く逃げていらっしゃるのか。ミズウィーリ家の内情に詳しい方だから、捕まって変なことになっていなければよいのだけど」
彼についてもルディアが探しているのだという。ガートルード家には世話になりっぱなしだと、ティティアンナは呟いた。
ダイはふと、据え置かれた鏡に映る自らの姿に目を留めた。
首に巻かれた白い包帯に恐々と触れる。頸部に食い込む男の指の感触が、生々しく甦った。
夢ではないと告げるために存在するかのような、鈍い痛みがそこにある。
ダイはティティアンナに向き直った。
「ティティ、ハンティンドンさんに会うことはできますか?」
「え。えぇ。それはもちろん、元気になったらすぐに」
「違うんです。今……今、会いたい」
「今!?」
彼女はぎょっと目を剥き、千切れそうな勢いで首を横に振った。
「だ、だめよ! 何を言い出すの!? ハンティンドンさんだって今目が覚めてらっしゃるかわからないし……貴女だってそんなにふらふらで……!」
「それはわかってます。でもお願いです。ハンティンドンさんが眠っているなら、起きるまで待ちます。部屋に連れて行ってくれませんか?」
「ロドヴィコ先生に怒られるわ」
「じゃぁ這ってでも行きます」
「ダイ!」
手を押しのけ寝台から這い出るダイを、ティティアンナが押し留める。その制止を振り切り、手近な椅子の背を握り締めて立ち上がったダイは、たったそれだけの動作で息が上がることに嗤ってしまった。
「ほら見なさい」
腰に手をあて、ティティアンナが呆れ声を上げた。
「……もう、そんなにハンティンドンさんに会いたいなら、連れて行ってあげる」
「ティティ……!」
「ただし! すぐに帰るのよ。あと、途中で気分悪くなったらすぐに引き返すからね」
ティティアンナがびしりと人差し指をダイの鼻先に突きつける。眉間の皺を深くして、いいわね、と念押ししてくるティティアンナに、ダイは苦笑して頷いた。
「……ダイが? 目が覚めたの?」
筆記具を動かす手を止めたマリアージュに、侍女は首肯した。
「熱も大分下がったようです」
「ロドヴィコは?」
「夜に往診に来られる予定です」
「そう」
マリアージュは頷き、びっしりと文字で埋まる書面を見つめた。先だっては無事即位を終え、女王として城に上がったものの、ミズウィーリ家当主として処理しておかなければならない懸案もある。今まではヒースに任せっぱなしになっていたものだが、これからは目を通すだけでもマリアージュがしなければならない。書類のほとんどを執事長たるキリムがわかりやすく纏めてくれてはいたものの、今まで倦厭していた分だけ理解するには時間がかかった。
最初の処理だけをマリアージュが確認すれば、あとはキリムがかつてのヒースのようにミズウィーリ家の管理を引き受けてくれる。城からの援助もある。堪えるべき時は今だけだと思ってはいても、頭痛を堪えきれなかった。
丁度いい。休憩をいれるべきだろう。
マリアージュは冷めた紅茶を一飲みし、筆記具を置いて席を立った。
ローラに会いに行く許可をティティアンナから得た後、ダイは軽く身体を拭いて汗を拭い、清潔な衣服に着替える。体力の落ちた身体では、身支度するにも時間がかかった。
ようやっと部屋から出たダイは、ティティアンナに背負われていた。
「……す、すみません。背負わせることになって……」
申し訳なさに消え入りそうになりながら、ダイは呻いた。
「仕方ないじゃない。ふらふらなんだもの。それに大丈夫よ。すっごく軽いから」
「はぁ」
「元気になるために、またしっかり食べないとね」
ダイが時間を惜しんだために、食事は後回しになっている。ローラの部屋から戻った後に取る予定だった。まずは重湯か、それに準ずるものになるだろう。
廊下を行き、階段を上る。別館の最上階には、使用人たちの中でも長と名の付く役職を戴く者たちの部屋が並ぶ。
ヒースの住まいも、そこにあった。
「あら、ダイ」
ローラの寝室の前で、盆を提げ持った侍女が立ち止まった。
「リース」
「目が覚めたの? 大丈夫?」
「えぇ。まぁ……なんとか」
「リース、ハンティンドンさんは今起きてらっしゃる?」
ティティアンナの問いに、リースは頷いた。
「えぇ。丁度、今お粥召し上がったところ。起きてるわよ。なに? ハンティンドンさんに用事なの?」
首を捻る彼女に、ダイは曖昧な笑いを返す。リースは肩をすくめると、お大事にと言い残して階下へと降りていった。
ダイを床に下ろして、ティティアンナが扉を叩く。
「……誰かしら?」
「ダイです」
気だるそうな誰何の問いに、ダイは立ち上がって応じた。
数拍置いて、応答がある。
「……入りなさい」
許可に従い、ダイは遠慮なく扉を開けた。
最上階に並ぶ部屋は、他のそれよりも広い。その奥、窓辺に据え置かれた寝台の上で、ローラは上半身を起こしてダイを迎えた。
「……いつ目が覚めたの?」
ティティアンナに付き添われながら、ダイはローラに歩み寄った。
「ついさっきです」
ティティアンナから手を離して、ダイは侍女頭を見下ろした。間近で見るローラの顔には血の気がない。だがその眼差しだけは、ひどく鋭かった。
「……ティティアンナ。席を外しなさい」
「え?」
椅子を引き寄せていたティティアンナが、ローラの命令に瞬く。
「ですけれど」
「ティティ。私からもお願いします」
ダイはすかさず口を挟んだ。
「少し、二人だけでお話させてください」
ティティアンナが困り顔で立ち竦む。病人二人だけを残すことに、抵抗があるのだろう。
「……部屋の外で待ってるからね、ダイ」
しばらく迷った後、彼女は諦めたように肩を落とした。
「気持ち悪くなったらすぐに呼ぶのよ」
「はい」
「それじゃぁ、失礼いたします」
ローラに一礼したティティアンナが、後ろ髪引かれる面持ちで退室する。
「お座りなさい。あなたも辛いでしょう」
閉じられる扉を見つめていたダイに、ローラが着席を促した。
「……調子はいかがですか? ダイ」
勧めに従ってダイが椅子に腰を下ろすと、彼女はすかさず口を開く。
「正直、よくないです。あんまり」
ダイは白状した。背負われながら移動しただけで、倦怠感が指の先まで重くする。意識もどこか霞掛かっていた。
それでも、ローラに確認しなければならないことがある。
「……リヴォート様……ヒースと、一緒に居たところを誰かに襲われたって嘘を吐いたのは、マリアージュ様のためですか? ハンティンドンさん」
「そうです」
にべも無く、ローラが肯定を返す。
何の話だと問い返されることを、心のどこかで期待していたダイは、落胆に目を伏せた。
胸が軋む。
ローラは言葉を続けた。
「女王の生家の使用人の中から、国に反する者を出したなどと、あってはならぬことです。今はマリアージュ様にとって大切な時期。隠し通さなければなりません」
「ヒースは国に仇名すんだってまだ決まったわけでは」
「殺されかけたというのに、貴方はまだあの男を庇うのですか?」
ローラはダイに軽蔑の目を向けた。
「彼がマリアージュ様を利用し、この国に害成そうとしていたことは、あの口ぶりから明白でしょう」
「……ハンティンドンさん、私と彼の会話を?」
「……貴方が、首を絞められたところまでは、飛び飛びの部分もありますが覚えています」
ではあの時、彼女は気絶していなかったということか。
壁に深く背中を預け、ローラは言った。
「このことを知っているものは、私とマリアージュ様、ガートルード家のルディア夫人。そして私たちを助けてくれた魔術師以外におりません」
「魔術師?」
「貴方の友人の、アルヴィナです。彼女がいなければ、私も命を留めてはいなかったでしょう」
眠らされている警備兵をティティアンナと共に発見したアルヴィナが庭を見回って、ダイとローラを発見したのだという。虫の息だったローラが持ち直したのは、彼女の応急処置によるところが大きいらしかった。
「ダイ、貴方も、このことは胸の奥にしまっておくように」
事を決して誰にも漏らさぬようにと念押すローラから、ダイは視線を外した。
「……彼は、貴女に連絡を取っているところを見られたのだと、言っていました」
「えぇ、そうです」
ローラは肯定に力強く頷いた。
「これまで幾度かあの男の傍に人慣れた鳥がいたことはありましたが、どれも決定打とならずに追求できなかった。あの夜、あの男が使っていた部屋の書斎の窓から、彼が鳥を逃がす姿を見たのです。……私はすぐに、問い詰めにいった」
ようやく合点がいった。あの夜、人気ない執務室にやってきたローラは、ヒースがそこにいると確信していたようだったのは、そういう理由だったのだ。
「鳥の姿を、見ただけで? 普通の鳥かも、しれないのに? ただ、迷い込んだ鳥を逃がしただけかもしれないのに? 彼を、怪しいと思ったんですか?」
仮にダイがその姿を見たとしても、なんの疑問を覚えなかっただろう。せいぜい人慣れた鳥だと、世間話として口にする程度だ。
「まるであの男の所業を見つけた私を非難するかのようですね、ダイ」
「何故私が、貴女を責めなくちゃいけないんですか? ハンティンドンさん。……私は理由が知りたいだけです」
怪しいと彼に目をつけ、鳥一羽に神経を張り巡らせていた、その理由を。
「私にしてみれば、皆は何故あの男を怪しいと思わぬようになってしまったのか、不思議でならない。あの、マリアージュ様でさえ、最初は厭っていたというのに」
ローラは愚かしいといわんばかりに低く嗤った。
「確かにあの男はこの家に利益をもたらしてくれました。あの男の真の目的はどうであれ、マリアージュ様が女王候補に選ばれ、そしてついに女王となられたのも、あの男あっての事なのでしょう」
しかし、と彼女は表情を一層険しくした。
「ダイ、私は以前言いましたね。貴方たち、門の外から来た新参の者に、気を許すことなどはできないと。気を許すためには、信頼に足るという確信が必要でした。が、私は常々疑問に思っていた。……あの男は何故、マリアージュ様を女王に押し上げたく思っているのか、と」
それはダイがこの屋敷に来た当初、マリアージュが常々口にしていた疑問だった。
いつの間にか、意識の隅へと追いやられていた、問いだった。
「恩義だと」
彼は言っていた。マリアージュの父に対する、報いるべき恩があるのだと。
「本当に恩義だけであのように働けますか」
ダイの言葉を、ローラは嗤い飛ばした。
「皆、なんとなく怪しみながらも、もたらされる恩恵にその疑問を流してしまっていただけなのです。私は、忘れなかった。恩などという曖昧な言葉が通用するほど、あの男と旦那様の間に繋がりがあるとはどうしても思えなかった。権力? あの男は否定しませんでしたが、固執している様子はなかった。もっと何か別のものを欲しがっているように、私には見えたのです」
ダイ自身も、ヒースに問いかけたことがある。
ローラの示した、命題を。
けれど曖昧にはぐらかされた。
「私はあの男に気を払い、注意深く、観察し続けた。……彼を怪しいと思った理由は鳥以外にも色々とありますが、決定打は……」
「もういいです」
膝の上に置いた拳に力を込めて、ダイは頭を振った。
「……もう、十分です。ありがとうございました」
自分から押しかけておいて申し訳ないが、限界だった。
まだ、整理できていない。
ローラの言葉一つ一つが、ヒースとの決別を意識させる。
針を刺したかのように胸がじくじく痛む。
意識が、朦朧とした。
「ダイ」
椅子から立ち上がり、ふらふらと出口へ向かうダイを、ローラが呼び止める。
「私は、貴方も疑っていますよ。貴方は殺されかけた。けれども殺されなかった。それは、マリアージュ様の傍に残って、あの男に国の内情を連絡するためだと」
「……ハンティンドンさん……」
酷い疑いに絶句する。
どうして、そんなものの見方ができるのだろう。
そしてどうしてそれを、ダイ当人に向けて口にすることができるのだろう。
ダイは低く嗤って呻いた。
「私を殺しますか? ハンティンドンさん」
沈黙するローラにダイは続けた。
「怪しいんだったら、今のうちに。……今なら抵抗しません」
眦(まなじり)に滲んでいく涙を堪え、目を細める。
「ヒースも、あの時、私をちゃんと殺してくれていればよかったのに」
――……目覚めたくなど、なかった。
後悔しているわけではない。ただ、辛い。
この道を選び取ったのは、他でもない自分なのだ。
ローラが、ダイから目を逸らす。
「……貴方が死ねば、マリアージュ様は嘆き悲しむ」
窓の外、晴れ渡った空に視線を移して、彼女は呟いた。
「私は、ずっと貴方がマリアージュ様にとって良き従者であることを、期待していますよ、ダイ」