第十章 懊悩する青年 8
ぱしゃ、と。
泥が跳ねた。
その足音に気がついたらしい。木の傍でぼんやりと雨に打たれていた男が振り返る。
「梟」
彼の呼びかけに、梟は頷いた。
「お迎えに上がりました」
歩み寄った彼の肩に、無意味かもしれぬと思いながら、雨具ともなる外套を着せ掛ける。男はずり落ちぬよう外套の端を手で支えつつ、なおも動こうとしなかった。
その視線の先には、木の根元に横たわる人の姿。
報告は受けている。身体的特徴から、一体誰なのか判別することは容易かった。
ミズウィーリ家の、化粧師だ。
「殺したのですか?」
さきほど跨いだ老女を一瞥し、梟は問うた。
いや、と男は否定する。
「気絶しているだけだ」
では、と梟は重ねて尋ねた。
「殺しますか?」
「捨て置け」
泥を踏み鳴らし、男は梟の傍らをすり抜ける。濡れそぼった外套が、重く揺らめいた。
「化粧師風情に何ができる」
薬にも毒にも、ならない。
取るに足らぬ者だと、男は言う。
梟は目を閉じる。らしくなく、饒舌だ、と思った。だがその背に無粋な言葉を掛けるつもりなど毛頭無い。承諾に礼を取る。
身体を起こした梟の肩に、遣い魔が降り立った。翼を揺すり、置いていくなと訴える彼女の喉を撫でながら、梟は一度だけ振り返る。
雨を避けるように木陰に横たえられた、化粧師を。
その存在を消すべきか否か、迷う。
しかし結局は男の命に従うことに決め、梟はそのまま彼の後を追ったのだった。
全ては、一瞬のうちに決した。
立ち上った青い炎が鋼を飴色に捻じ曲げ、焼き滅ぼしていく。意思を持つかのようにうねったその高熱は、次に男の身体を舐めた。炎に食われた男が形を保っていられた時間は、文字通り、瞬きする間もない。マリアージュは悲鳴を飲み込み、忽然と一人の人が姿を消した虚空を凝視した。
激しさを増した雨の中に佇むアルヴィナは、全くもって濡れていない。マリアージュの衣服が水を吸い、肌に張り付くその横で、彼女は軽く足元の埃を払い落としていた。
まるで彼女の周りでは、雨など降っていないのだといわんばかりに。
「だから言ったのに。ねぇ?」
同意を求めるアルヴィナは、マリアージュのよく知った朗らかな微笑を湛えている。だからこそ、身体を薄ら寒さが襲った。
自らを抱き、無意識のうちに距離を取るマリアージュに、アルヴィナが苦笑する。
「あらやだ。私、貴女の敵じゃないわ」
味方でもないけれど。
嘯いた彼女は、マリアージュの手を取った。その手から伝わっただろう強張りに、魔術師の女が気分を害した様子はない。アルヴィナはそのままマリアージュを、停まったままの馬車へと導いた。
「雨宿りしましょう。そしたら服を乾かしてあげる」
「……できるの?」
「うん」
にこやかに頷く彼女に、マリアージュは大人しく従うことに決めた。主導権を握られることは致し方ない。彼女がやって来なければ、今頃生きていなかった。
マリアージュはふと、本来自分を警護していた者たちはどこへ行ったのかと疑問に思った。
「……そういえば、この馬車を護衛してた兵たちを知らない?」
「うん。あっちで殺されてた」
アルヴィナは城に続く道を指し示す。あいにくの雨、しかもこの時刻だ。目を凝らしたが、遺体らしきものは見えなかった。
「……あの男が一人でやったのかしら」
今しがた、アルヴィナの手によって消された襲撃者一人で。
マリアージュの呟きに、アルヴィナは肩を揺らした。
「まさかぁ。あっちにも二、三人いたわ」
「どうしたの、その、襲撃者」
「うん。殺してあげた」
馬車に登るこちらに手を貸しながら、彼女は剣呑に微笑む。
「逃げなさいっていったのに、歯向かうのだもの」
子供の悪戯に煩わされたといわんばかりの他愛無さで、アルヴィナは言う。
マリアージュは二の句を継げずに脱力し、馬車の中の座席に腰を落とした。
続いてアルヴィナも、馬車の客席に足を掛ける。
その動きが、ふいに止まった。
「……どうしたの?」
アルヴィナの顔から、柔和な笑みが掻き消える。徐々に表情を強張らせた彼女は、唇を引き結び、歯をかみ鳴らした。
耳障りな音に顔をしかめる。
そして次の瞬間、マリアージュは驚愕に瞠目した。
景色が、湾曲している。
「な、に?」
歪んだ視界に、マリアージュは眩暈を覚える。続いてひどい頭痛と吐き気が交互に襲い、堪えきれずその場に手を突いた。
その手が、泥に塗れる。
愕然としながら、マリアージュは雨降りしきる周囲を見回した。
「ここ、どこ?」
明らかに、馬車の中ではない。屋外だ。それも、林の中である。
「貴女のお屋敷のお庭」
即答しながら歩き始めるアルヴィナの後を、マリアージュは慌てて追った。
今歩いている場所がミズウィーリ家の林だと、マリアージュには到底信じられなかった。鬱蒼とした林は奥深く、歩けど歩けど終わりが見えない。
ようやく辿り着いた開けた場所で、マリアージュは息を呑んだ。
水を蓄えた土の上に、見知った老女が横たわっている。
「ローラ!?」
水を吸って重量を増し、足に絡み付く衣服に苛立ちながら、マリアージュは侍女頭に駆け寄った。そして彼女の腹部に突き立つ短剣を目にし、思わず立ち竦む。
年相応に皺を刻んだ肌が、土気色をしている。
微動だにせぬ老女の傍らに膝を突いたマリアージュは、背後から響いた甲高い声に振り返った。
「ダイ!」
木陰に、化粧師の少女の姿がある。
意識のない彼女を抱き起こしたアルヴィナは、ぐったりとした身体を幾度も揺すった。
「ダイ、おきて」
ローラと異なり、ダイに目立った外傷は見られない。しかしアルヴィナがその頬を叩いても、彼女の瞼はぴくりとも動かなかった。
「ダイ……ダイ! しっかりして!」
アルヴィナの声が、焦燥を帯びる。
少女は、目覚めない。
だらりと垂れ下がったままの彼女の手を、雨が汚し続けていた。
豪雨は、夜明けまで降り続いた。
全ての痕跡を、洗い流すかのように。