第八章 墜落する競争者 8
向かう先は、この山道を整備する際に使われる休憩所だ。アリシュエルを探して、ロウエンが真っ先にヒースを案内した場所らしい。森に隠されるようにしてあるその山小屋で、ロウエンとアリシュエルは逢瀬を重ねたのだという。
隠れ屋としては最適な場所で、逃げ込むとしたらおそらくそこだろうとヒースは言った。
途中、高台を通り抜ける。街のみならず国全土が望めるのではないかと錯覚しそうなほど見晴らしのよいそこには、青い小さな花が群生していた。日中であれば青が映え、空を写し取ったかのような風情だろう。今は夕日に染められ、丘全体が紫色に萌えている。白い石畳を敷いて作られた細い道が、蛇行しながら城の方へと延びていた。ロウエンと落ち合う時、アリシュエルはおそらくその道を通って此処に来ていたのだろう。
バイラムの護衛はどこにも見当たらない。不気味な静けさに包まれる道を黙々と進み、ようやく到着した小屋は、確かに指摘されなければわからぬほど存在希薄だった。位置としては奥まっているわけでもないのに、その輪郭が完璧に森に溶け込んでしまっている。
誰が先に様子を見に行くか。
相談の為に立ち止まった一同は、突如その小屋から響いた派手な破砕音に顔を強張らせた。
続いて響く、女の悲鳴。
「ダダン!」
「わぁってる!」
ヒースに応じ、ダダンが抜剣しながら駆け出した。ヒースも続いて駆け出しながら、護衛に指示を出す。
「二人は付いてきなさい! あとはマリアージュ様たちを!」
『はい!』
そして小屋に向かう彼らにつられ、一歩踏み出しかけた自分たちを、残った二人が押し留めた。
「お待ちください、危険です」
「ダイ、お前が行ってどうする」
待つんだ、と肩を掴まれて、ダイは下唇を噛み締めた。踏みとどまった自分の横では、マリアージュが腕を強く振って警備の男を払い除けている。
「わかったから、放しなさいよ!!!」
ダイは小屋に吸い込まれていく男達を見守りながら、胸元を強く握り締めた。
(こ、わい)
派手な乱闘の音が静寂を破る。合間に挟まる金切り声。玻璃の砕ける音。
緊張が、走る。
「マリアージュ様。移動しましょう。危険です」
男達が前に回りこみ、視界に立ちふさがった。
「ダイ、とりあえずここから離れるぞ」
退避を促す声。しかし足が地面に貼り付いて動かない。それはマリアージュも同じようだった。彼女は微動だにせず、食い入るように小屋を見つめている。
(なにが、おこって)
「おい! あれ!」
男が示す先に視線を移し、ダイは息を呑んだ。
小屋から、黒い煙が棚引いている
窓の奥が、赤い。
火事。
「お、おいダイ! 待て!!!」
制止を振り切って、ダイは思わず駆け出していた。足場の悪い山道によろけながら、小屋に辿り着く。僅かな距離だったというのに、息が上がってならなかった。
開け放たれた扉の枠を、支えとする為に手を伸ばす。
その瞬間、ダイは猛然と突進してきた何者かに跳ね飛ばされた。
「わっ!」
強かに、腰を打ち付ける。痛みに顔をしかめたダイは、視界を覆う影にはっとなった。
見知った男が、目の前にいる。
(バイラム氏)
蒼白な顔を血と泥で汚したガートルード家当主の男は、赤い雫滴る鋼をその手に握り締めてダイを見下ろしていた。
逃げられない。
(ころされる)
死を、覚悟した。
しかし彼がその剣の切っ先を、ダイに向けることはなかった。小屋から響くダダンの怒声に追い立てられるようにして、バイラムはその場を離れる。ダイは呆然として、彼の逃走を見送った。
「大丈夫ですか!?」
聞きなれた男の声に、ダイは身体を震わせる。身を案じた、というよりも、糾弾するかのような厳しい声音だった。
「ひ、ひーす」
とっさに、敬称を付けて、呼べなかった。
駆け寄ってきたヒースは、相手を射殺さんとするような厳しい目をしていた。
傍らに膝を突いた彼は、骨が軋むような力でダイの腕を握り締め、裏返った声で叫ぶ。
「だから付いてくるなと言ったのに!!! 怪我はっ!?!?」
「あ、な、ないで、す」
ダイの無傷の主張に、ヒースは表情を崩した。
安堵の顔。
今にも、泣き出しそうなほどに。
ダイは言葉を失って、彼を仰ぎ見ることしかできなかった。
ほどなくしてヒースはダイの腕を解放し、山小屋を振り返る。
「ダイ、ここを離れてください。あの小屋は危険です。焼け落ちる」
そして彼の弁を証明するように、玻璃の割れた窓から火の手が見えた。
「え、あ、ろ、ロウエンたちは?」
小屋からは女の叫びがまだ絶えず響いている。数えるほどしか耳にしたことはないが、間違いない。あれはアリシュエルの声だ。
ロウエンも、そこにいるはずだった。
ヒースはただ、眉間の皺をさらに深くするだけだ。その顔が意味するものを気取り、ダイは息を呑む。
「ロウエン!!!!!」
そして明確な答えを追求する前に、アリシュエルの悲鳴がひときわ大きく木霊した。
「ロウエン、ロウエン、ロウエン!!!!」
繰り返し、繰り返し、重ねられる呼び掛け。
アリシュエルの声が、枯れていく。
ダイは立ち上がり、ヒースの傍をすり抜けた。
「ダイ!!」
ヒースの静止は、ごぅ、という炎の咆哮に掻き消された。
床を這う紅が蛇のように身をくねらせる。煙が視界を満たす中、火の粉が雪のように舞っていた。
粉塵が沁みる目を凝らしたダイは、赤い泉に沈む、人の足を捉えた。
男の、足。
「ろう、え」
「ロウエン! ロウエン!! ロウエン!!!」
気が、狂ったように。
幾度も幾度も、咳き込みながら。
掠れた声で。
アリシュエルが、横たわる男の名を呼んでいる。
「おい姫さん! ここを離れなきゃやべぇ! どけ! ロウエンから離れてやれ!!」
「や! いや! いや!」
ダダンは泣き叫ぶアリシュエルをロウエンの身体から、どうにか引き離そうと試みている。しかし頭を振って身を伏せる彼女は、梃子でも動きそうになかった。
ロウエンの身体から零れ落ちてゆく、生命の光。
ダイは愕然となりながら、その場に立ち竦んだ。
「ダイ! 下がりなさい!」
背後から伸びたヒースの手が、ダイの肩を掴む。
「ディ――……!!!!」
男の声は炎の爆ぜる音に、またもや呑み込まれた。
ごとん、と炎を纏って、天井の梁が落ちてくる。ダダンと共に中に入っていた男たちが、堪らぬといった様子で火の粉を払いながら、ダイの横をすり抜けていった。
逃げなくては、いけない。
けれど身体が、指の先まで凍り付いている。
「ロウエン! ロウエン!! ロウエン!!!」
鸚鵡のように。
赤子の、一つ覚えのように。
喉を、磨り潰して。
アリシュエルが、名前を繰り返す。
ダイの、友人の名前を。
死に往く、ひとの名前を。
ふと、ダイの傍らを影が過ぎった。
噴出した炎かと錯覚したそれは、紅に染められた髪を風に躍らせながら小屋の中に踏み込んでゆく、ダイが傅く女王候補だった。
マリアージュが、アリシュエルの前で立ち止まる。
次の瞬間、肉を叩く小気味良い音が、全てを押しのけて響き渡った。
「いい加減にしなさい!!!」
アリシュエルの頬を叩いた手を握り締め、マリアージュが叫ぶ。
「あんたがそこですがり付いている限り、そこの男の手当てだって出来ないし、二人で黒こげになるしかないのよ!! 何死に急いでんのよあんたは!!」
アリシュエルは信じられぬものを見たといわんばかりに瞠目して、マリアージュを仰ぎ見る。
「ま、まりあ」
「ほら!!」
煙に咳き込み、瞬きを繰り返しながら、マリアージュはアリシュエルの腕を乱暴に掴み、彼女を立ち上がらせた。
「逃げるわよ……。ダダン!!」
「うっせぇ言われなくてもわかってる!!」
マリアージュに叫び返したダダンは、ロウエンを血の泉から引き出し担ぎ上げる。そして彼はアリシュエルの手を引いたマリアージュと共に飛び出してきた。
「ダイ!」
マリアージュがダイを怒鳴りつける。
「あんたもぼっとしてないの!! ヒース!! ちゃんとこの子の面倒みなさいよ!!!」
その叱咤を受けて、ダイはようやく一歩後ろに踏み出せた。
ヒースが、ダイの腕を強く引く。
その拍子によろけたダイを半ば引きずるようにして、彼はその場から急ぎ離れた。
ダイの背後で、煙に包まれていた小屋が轟音と共に崩れ落ちる。
噴出す紅と煙。
大地から伸びた炎の手が、木材を握りつぶしてゆく。
星の瞬き始めた空を、いっとき明るく染めたそれがどうなったのか、ダイは知らない。
それ以後のことは、まるで夢を見ているかのように現実感に乏しかった。
夢であって、欲しかった。
月光の下、青い花に埋もれて、男の姿がある。
ダイの身体を案じ続けてくれていた、年嵩の友人。医者の青年。
男は新鮮な空気を吸って、一度意識を取り戻した。
しかし目が見えないのか、手を宙に彷徨わせる。アリシュエル、とか細い呼び声に応えて進み出た少女に、彼は笑った。
唇が、動く。
彼が紡いだ最後の言葉を聞き取ることができたのは、おそらく耳を寄せたアリシュエルだけだ。
いつも優しさに溢れていた黒い瞳が、急速に光を失っていく。
開かれたままの唇。
虚ろな、目。
その身体は、もう動かない。
少女の、悲鳴を聞いた。
男に縋り付いて壊れるのではないかというほどに泣く少女を見つめながら、ダイは瞼を硬く閉じる。
その上を、背後から伸びた男の冷たい手が、ずっと覆い続けていた。
*
吹き抜ける、からりとした風が心地よい。
その日は、よく晴れていた。
抜けるほどに青い空。街の外へ出る城門前の広場で、ダイはその眩しさに目を細めていた。
「悪いな、見送りに来てもらってよ」
頭を掻きながらダダンが姿を現した。これから彼は、ロウエンの弟に付き添って東大陸へと向かうのだ。
ダダンの後に続き、そのカイトが姿を見せる。兄を失った彼は消沈した様子ながらも、ぎこちなくダイに笑いかけてきた。
「元気、出すよ」
カイトは言った。
「帰ったら、慰めなきゃいけない人たちが、いるから。ゆっくり落ち込んでもいられやしない」
家族に兄を連れて帰ると約束して国を出てきたカイト。ようやく再会した兄と永劫に別れることとなった彼の悲しみは、いかばかりか。しかし彼は早く立ち直らなければならない。悲報に打ちのめされるだろう両親達を慰める役が、待っている。
「頑張って、ください」
月並みの言葉しか、掛けられない。
だがカイトは、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
「これは餞別です」
共に見送りに来ていたヒースが、ダダンに皮袋を渡す。中身は貨幣と、野営に使う招力石の屑だと聞いていた。
ダダンは驚いたように瞬き、ヒースを見返した。
「いいのかよ?」
「えぇ。色々と世話になりましたからね。護衛の仕事料も含めて」
「あぁ? それは出さないんじゃなかったのか? なぁ、姫さんよ」
「姫姫って煩いわよあんた!」
同じく予定の合間を縫って来ているマリアージュが憤慨に叫ぶ。
「人の名前もまともに呼べないの?」
ダダンは含み笑いに喉を鳴らした。
「マリアージュ、お前もう少しおしとやかにしてねぇと女王になんてなれねぇぜ」
「気安く人の名前を呼ばないでくれる!」
「……俺にどうしろってんだ?」
なぁ、と意見を求めた彼に、ヒースは無視を決め込んでいる。彼もこの二人のやり取りに慣れたのだろう。なんとなくおかしくて笑いに肩を震わせたダイは、馬車の扉が開く音に視線を動かした。
歩いてくる少女に、はっと、息を呑む。
「……アリシュエル、さま?」
目の前で立ち止まった彼女は、にこりと笑って頷いた。
「あんた、その、髪」
アリシュエルの頭部をマリアージュが震える指で示す。ダイも詰問したい気分だった。
まるで、光を放っているようだった、アリシュエルの長い糖蜜色の髪。
それが、ばっさりと切り落とされていた。
「驚きました?」
小さな輪郭が顕になった頭を両手で扇ぎ、アリシュエルは微笑んだ。
「私知らなかったんです。この髪がお金になるなんて。だから、ダダンに売ってもらいました。それを、少ないですが道中の路銀に」
「あ、あああ、アリシュエル! か、髪もそうだけどその声!」
マリアージュが、裏返った声で指摘する。
首元に手を当てて、アリシュエルは苦笑した。
そこには、白い包帯が巻かれている。
「煙を思いっきり吸って叫び続けたから、喉を、とても痛めてしまったらしくて」
「……治るの……?」
マリアージュの問いに、アリシュエルは肩をすくめるだけだった。
あの夜。
まぼろばの地へ導かれるロウエンを引き止めようと、繰り返し繰り返し、アリシュエルは叫んだ。
――……その結果が、この、声か。
惜しむように、ダイは胸中で呻いた。
かつて鈴を転がすように響いていたアリシュエルの声は、大きく変質してしまっていた。決して耳障りではない。甘さを宿す低く掠れた声は、むしろ官能的ですらある。しかし以前の彼女の声を知っているものとしては、その喪失が哀しくてならなかった。
彼女もまた、カイトと共に東大陸へ向かう。
そこで、ロウエンとカイトの両親、弟妹に、謝罪するのだと。
「いいのよ」
アリシュエルは微笑み、歩を進めて、マリアージュの手を取った。
「ありがとう、マリアージュ。見送りに来てくれて。最後に、もう一度会いたかったの」
「……暇が出来たからよ」
困惑した様子でアリシュエルの手を見下ろし、マリアージュは言った。
「同じ、女王候補の、誼(よしみ)として、見送りぐらいは、と思っただけ」
「……そうね、じゃぁ、同じ女王候補だった誼として、私のお願い、聞いてくれる?」
「……お願い?」
訊き返したマリアージュに大きく頷いて、アリシュエルは請願する。
「マリアージュ……貴女がこの国の女王になって」
マリアージュは息を詰め、当惑に呻いた。
「あ、んたね。なりたくってなれるもんじゃ」
「いいえ、なるわ」
アリシュエルは断言し、マリアージュの手を強く握る。
「……メリア、シルヴィアナ、クリステル……他のどの女王候補よりも、貴女が女王に相応しい。貴族の思惑に踊らされる人形ではなく、自ら守りたいものを決め、見据え、そのために動くことの出来る、人間である貴女こそ」
この国の、女王に、と。
かつて、最もその座が相応しいと謳われた少女は言う。
アリシュエルは跪き、握っていたマリアージュの手の甲に口付けた。
「女王陛下。そのように呼ばれる貴女の姿を目にすることができない。それだけが心残り」
「アリシュエル」
「貴女なら、この国をきっとすばらしい方向へ、導いていけると信じている」
マリアージュの手を解放し、アリシュエルは立ち上がる。
「勝手ね」
口付けを受けた手を見つめながら、マリアージュは嘆息した。
「あんたは、いつも自分勝手。それをみんなどうして見抜けないのか、不思議でならなかったわ」
「ごめんなさい」
「国を離れるっていうのに、好き勝手いうんじゃないわよ。私、あんたのそういうところが大嫌いだった」
「……私は貴女がとても好きだったわ。友達になりたかった」
腰に手を当て、マリアージュは首を傾げる。
「友達でいいんじゃないの? それがどういう関係なのか、私よくわかんないんだけど」
アリシュエルは、嬉しそうに笑った。
「貴女とダイみたいな関係じゃないかしら」
「え!?」
急に話を振られたダイは、飛び上がるようにして驚きに呻いた。思わず見たマリアージュの顔が、みるみるうちに微妙な表情に歪んでいく。
「……アリシュエル、あんたも私の使用人になりたいわけ?」
マリアージュの問いに、アリシュエルはきょとんと目を丸める。
そして口元に手を当て、声を上げて笑った。
ここにきて一番の、笑顔だった。
ダイたちに見送られて一路南へ。国境を潜り、無法地帯となっている平原を馬車で進む。
向かう先はペルフィリアだ。デルリゲイリアの隣国。そこから、他大陸に向けて船が出ている。
「……なんか名前考えなきゃならねぇよなぁ」
ダダンの独白に応じたのは、カイトだった。
「名前?」
「そう。アリシュエルっつう名前はいかにも上流階級って感じだろ? ペルフィリアの役所にゃ、デルリゲイリアの女王候補の名前は伝わってるだろうからよ。厄介ごと避けるためにも、新しい名前がいるよな、と思ってなぁ」
「なるほど」
話題に上るアリシュエル当人は、窓枠に頭を預けたまま動かない。胸が上下する様を見なければ、呼吸しているのかすら疑わしく思えるほどだ。
デルリゲイリアの首都を離れる直前までは、あれほど笑い転げていたというのに。
(……やっぱ、から元気だったか?)
見送りに来た者達を、心配させないための。
「うーん、そうだなぁ」
アリシュエルの様子を観察していたダダンは、カイトの声に我に返った。
「新しい名前っていってもさ、こう、耳に馴染みある音のほうがいいよなぁ」
「まぁ、そうだな」
名前を幾つも使い分けることなど、自分にとっては造作ないが、アリシュエルにそれを急に求めても酷というものだろう。
新しい名前は、彼女自身が決めるべきだ。
そう思うダダンの横で、カイトが思いついたとばかりに手を叩く。
「あ、じゃぁさ。名前と姓の頭とって、アリガ、とかは? 僕の国の名前っぽいし」
すばらしい思いつきだと目を輝かせるカイトに、ダダンは呆れた眼差しを向けた。
「お前、それは安直すぎだろ」
「それでいいです」
唐突に割り込んだ声に、ダダンは動きを止める。
アリシュエルは、まだ、窓の外を見ている。
彼女は、繰り返す。
「それでいい」
虚ろな碧の瞳から、透明な雫が、零れ落ちる。
彼女は言った。
「もう、どうだっていい――……」
澄んだ空がどこまでも続いたその日、デルリゲイリアの女王候補が、一人、国から姿を消した。
女王選出まで、一月に迫った日のことだった。