第七章 篭絡する医師 8
彼が何故このような場所にいるのか。
一瞬、見間違いかとも思った。しかしながら墓地の入り口に佇む男は、ダイを貴族社会に引き込んだ男に違いない。
「な、なにしてるんですか? ヒース」
無言のまま歩み寄ってくる男に、ダイは驚愕の眼差しを投げかけた。彼の予定の全てを把握しているわけではないが、門のこちら側に降りてくる用事を持っていないことぐらいは知っている。多忙な彼が、こんな場所にいるはずがないのだ。
だが現実として今、ヒースはダイの目の前に佇んでいる。
「それはこちらの台詞です」
応じる彼の顔は暗かった。
「……私は貴女の交友関係をとやかくいうつもりはありませんが、嘘を吐いてまで出る必要がどこにあったんです?」
「え」
「ミゲルの店に行きましたよ。あなたが来る予定など何もないと彼は言った。……ならこんな場所で人目を忍ぶようにして、貴女は一体何をしている?」
いつもはダイに対して穏やかなヒースの声音が、珍しく怒気を孕んでいる。
一言一句、全てに憤りを込めるようにして呻く彼の目を、ダイはまともに見ることができなかった。力なく、項垂れる。
「……ご、めんなさい」
しかし謝罪一つで怒りを収めるほど、ヒースは甘くなかった。
「いいですか?」
彼は静かな声音で念押しする。
「私は言った。最近注目を浴びているから気をつけるようにと」
間違いなく、ヒースはダイにそう忠告してくれた。嘘を吐いた罪悪感から聞き流した部分もあるが、覚えている。
きちんと為されていた注意を意識に留めていなかったことを自覚し、ダイはますます縮こまった。
「貴女の存在はマリアージュ様にとって重要になりつつあり、それなりに貴女の行動を見ているものがいるのだということを自覚してください」
腰に手を当てたヒースが、冷ややかに呻く。
「貴女のことを害するものも、いないわけではないんですよ……!」
動向を監視されている可能性があると指摘されて、ダイは蒼白になった。だが本来ならば自ら気付かねばならぬことだ。ガートルード家から招待を受けた結果、ダイに探りを入れる輩が増えるだろうとまで、ヒースからはっきり告げられていたのだから。
一歩誤れば、ダイの行動一つがマリアージュを窮地に陥れる。
「ごめんなさい……!」
ことの重大さを把握し、ダイは叫ぶように謝罪した。
だがそれでもヒースの憤怒は収まる気配を見せない。
「ひーす」
どれだけダイが呼んでも、彼は冷淡な眼差しを返してくるだけだった。
(いやだ)
ヒースの衣服を握り締め、ダイは鼻の奥から競り上がってくる熱に硬く目を閉じた。泣いて許されるものではないとわかっている。だが彼から向けられる蔑みに、背筋が凍った。
かつて、経験したことがないほどの恐怖だった。
手が、震える。
「ごめん。あまりダイを責めないでやってくれるかい?」
申し訳なさそうに頭を掻いて、ロウエンがこちらの会話に割って入った。
「ダイは僕らのわがままに巻き込まれただけなんだよ」
袖口に縋るダイの手を振り払い、ヒースが首を傾げる。
「僕ら、とは?」
医者の男は、微笑して応じた。
「僕と、アリシュエル」
「……は?」
ロウエンの口から漏れた名前に、ヒースの表情が強張った。
一体、何の話をしているのかわからなかったのだろう。
ヒースの表情を目に入れるなり可笑しそうに笑ったロウエンは、もう一度ゆっくりと名前を繰り返した。
「僕と、アリシュエルだ。アリシュエル・ガートルード」
「……何故貴方とアリシュエル嬢?」
「……恋人同士なんだそうです」
ダイはロウエンの言葉をそっと補足した。
ヒースがその顔から色を消す。
「まさか先日のガートルード家からの招待は」
「うん。ダイに連絡の橋渡しをしてほしくて、アリシュエルに僕が頼んだ」
「ダイ、貴方はこの男に」
「ミズウィーリ家の化粧師だっていうことには僕が勝手に気づいた。その件についてはさっきダイに説明したから、またあとで聞いてくれないかい?」
絶句したヒースに、ロウエンはさらに畳み掛ける。
「今回のことは、一度きりだ。念のために言っておくけど、ダイはミズウィーリ家のことを何も僕に話してはいないし、僕もアリシュエルから聞いたことを何もダイには話していない。ダイはただ、我侭で哀れな僕ら二人に、同情して付き合ってくれただけだよ。……君が心配するようなことは何もない」
だからダイを責めるなと、ロウエンはヒースに釘を刺す。先手を打たれたヒースは苛立ち滲む苦い表情を隠そうともせず、黙って医者の男を睨め付けた。
「さて」
はらはらと二人のやり取りを眺めていたダイに、ロウエンが向き直る。
「それじゃぁ僕は失礼するよ。最近、いろいろと身の危険を感じることも多くてね」
「ロウエン」
ダイの呼びかけに応じることもなく、ロウエンはひらりと手を振り身を翻す。
「また機会があれば会おう」
そして彼はあっという間に、墓地の外へと消えていった。
ロウエンに伸ばしていた手を引き戻し、ダイは傍らの男を仰ぎ見る。ヒースは無言でロウエンが去った方向を見つめている。その整った横顔には、静謐さだけが宿っていた。
一見、落ち着いているようにも見える。
「……全部……説明してもらいますよ」
だが響いた要求の声は低く、暗い。
憤怒を宿す声音。
やはり最初に全部説明しておけばよかったと後悔しながら、ダイは頷いた。
「……はい」
馬車の中、ダイの説明を耳に入れつつ書類を裁くヒースは、終始無言だった。ダイが事情を話し終えた後も、彼は一言も口を利こうとしない。ミズウィーリ家に着くまでの間、自分の存在を無いものとして振舞う男を、ダイは唇を噛み締めながら見つめることしかできなかった。
屋敷に戻り、先に馬車を降りたヒースは、後を付いてこいと目でダイに促した。
その指示に従って辿り着いた先は、彼の執務室だ。
処理済の書類を乱暴に箱の中に放り込み、ヒースは机に腰を預ける。そして戸口で足を止めたままのダイを振り返った。
「さて、大体事情はわかりましたけどね」
「……ごめんなさい」
「もういいです謝らなくて。過ぎたことです。大事にも至っていないようですからね」
「でもヒース、怒ってるでしょう?」
「怒らないはずがないでしょうが。貴女が嘘を吐いてまで街へ降りる理由が考え付かなかった。何かおかしいと思って、嫌な予感がした。変なことに巻き込まれてないといいと思って探しにいったら、行き着いた場所は墓地だし、そこで男と二人で長話しているし」
眉間を押さえて、男は唸る。あぁ疲れた、と彼は天井を仰いだ。
「……花街には、どうやって」
「すぐにわかりましたよ。最初はミゲルの店に行って、花街を見たほうがいいと彼にいわれて。街の掃除婦たちの中に貴女を見ている人がいましてね。話を聞きながら歩いたらすぐに追いついた。二度とこういうことはなしにしてください」
「ごめんなさい」
謝罪を繰り返し、ダイは頭を下げる。
「ごめんなさい。……すみませんでした。マリアージュ様に、ご迷惑がかかったら」
自分の短慮が原因で彼女に悪影響が及んだらと思うと、背筋が凍る。彼女やヒース、そしてミズウィーリ家の人々のこれまでの努力を、全て無為にしてしまうのだ。
「ごめんなさい。ヒース、疲れているのに」
わざわざ彼自身が自分を探しに街に出てきたのは、ミゲルの店を知るものが他にいないからだろう。
余計なことを、させた。
「何かあってからでは、遅い」
彼は言った。
「ミズウィーリ家のことだけじゃない。貴女についても、そうだ。嫌がらせで貴女の手を潰そうとする人間ぐらい、こちら側には吐いて捨てるほどいる。誰かを利用して捨てることを、厭わないのがこちら側だ。もっと、警戒しなさい。……単なる恋文? そんな馬鹿げたことを、頭から信じるな。貴女はもっと……他人を疑うべきだ」
ロウエンからも。
同じような忠告を受けた。
あの恋文が、ミズウィーリ家を害為すような内容だったらどうするつもりだったのかと。
「……心配、してくれたんですか?」
「面倒ごとは増やしたくないだけです」
ダイの問いに、ヒースは嘆息交じりに呻く。
「自分の身ぐらいは自分で守ってもらわないと」
まったくもって、彼の言う通りだった。
この後に及んで何か優しい言葉を無意識に期待するなど、厚かましさにもほどがある。
「……ですね」
本当に馬鹿だった。
「すみませんでした……」
唇から無意識に漏れる謝罪の言葉も、何度目だかわからない。
ダイは正面で手を強く握り、下唇を噛み締めた。許可が出るまで、退室は許されない。場を支配する耐え難い静寂が、重苦しくダイを圧迫する。ヒースの気配は動かない。瞬き一つしていないかのように、彼の気配が揺らぐことはなかった。
そうして、どれぐらい経った頃だろう。
「ディアナ」
さほど長い時間ではなかったのかもしれない。しかし永劫に思えた。そろりと目線を上げ、ヒースの様子を窺う。
机に重心を預けたままの彼は、無表情だった。
そのヒースが、ダイの方へおもむろに手を差し出す。
「こちらへきなさい」
言葉の意味とは逆に、その声音はダイを拒絶するように凍えている。
躊躇に、身体が強張る。
「いいから」
来なさい。
反復される命令。
ダイはゆっくり彼との距離を詰めた。
近づくことが怖かった。逃げ出したかった。だが逃げるわけにもいかない。
一歩分の距離を空け、ヒースの前で立ち止まる。
彼の腕の作る影が、絨毯の上を滑った。
「……っ」
叩かれるのかと、思った。
予想される衝撃に、反射的に身構え固く目を閉じる。
だが、痛みは訪れなかった。
「……ヒース?」
ダイは困惑に呻いた。
自分の身体を軽く抱き寄せる男を仰ぎ見る。彼は微かな笑みを浮かべると、ダイの背をぽんぽんと叩いた。
子供をあやすような、その仕草。
こみ上げてきた熱を堪えて、目を閉じる。
「……ごめんなさい」
「貴女はもう十分に謝りましたよ」
ヒースは言った。だが謝罪だけで済むのは、何事もなかったからだ。
「もうしないでくださいよ」
「わかってます」
彼の衣服を握り締める。
「ヒース」
「ん?」
応じてくる声音は柔らかかった。
「私のこと、嫌いになりました?」
男の身体に額を押し付けたのは、無意識だった。
ただ僅かばかり増した彼の体温を感じながら、ダイは強く思ったのだ――この男に、嫌われたくない。
ダイの発言が可笑しかったのか、ヒースは笑いに噴出す。
「何故そんなことを訊くんですか?」
「……いつも、足引っ張ってばかりな気がしますし」
侍女頭達の反応から推察するに、門の向こうから自分を引き抜いたのは彼の独断だ。結果、ローラ達から顰蹙を大層受けたようだった。そうまでして招いてくれた彼の期待に、果たして自分は応えることが出来ているのだろうか。
こんな風に、迷惑をかけてばかりな気がする。
「貴女はよくやっている。……嫌いになんてなりませんよ」
「……本当?」
「なれない」
断言したヒースは頭から離した手をダイの顎先に差し入れた。柔い力がその頤(おとがい)を持ち上げる。
ダイと目を合わせたヒースは、苦い笑みを返してきた。
顎にあった指先が、ダイの顔の輪郭を滑る。冷えた手が頬を包み、その親指の腹が目元をゆるりと拭った。堪えた涙が白い結晶となって彼の指先にまとわりつき、ぱらぱらと零れて落ちていく。
ダイは、目を閉じた。
大きな、手が。
冷えた、指先が。
顎を撫で、髪を梳き、唇の輪郭を確かめて。
そして再び、ダイの頬を柔らかく包み込む。
痺れが彼の触れている箇所から漣のように広がり、思考全てを侵食する。
心地よい虚脱が、じわじわと身体を蝕んでいった。
――……これは、なに?
霞掛かった意識の向こう、胎児のように身を丸め眠っていた何かが、薄く目を開けた気がした。
これは、なに。
この、甘やかな痺れは。
自問を繰り返しながら、首を傾げる。
「……ヒース?」
薄く目を開け、胸苦しさに喘いだ刹那。
ぎしりと。
身体が軋みを上げた。
「……っ!!!」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
我に返ったとき、ダイはヒースの胸の中にいた。彼の手がダイの肩を掴み、腕が腰を拘束する。
凶暴な力。
ヒースが、身じろぎすら許さぬ強さでダイを掻き抱いていた。
「ヒ……っ」
声は男の胸に押しつぶされ、ぬるりとした吐息が首筋を掠める。かつて経験したことのない感覚だった。生暖かな温度。全身の肌がざっと粟立っていく。
力強い腕がダイの身体をさらに引き寄せる。冷えた手のひらが、ゆっくりと背を撫で滑り、その指先が腰の線を辿った。力が抜ける。未知の感覚に身体は従順だったが、精神が追いつかなかった。
助けを求め、どうにか上げたこちらの顔を、彼の瞳が捉える。
いつもは冷淡さを宿す薄い蒼の双眸。
それが熱にまみれて、ダイを見ていた。
襲ってきたものは、嫌悪ではない。
恐怖だ。
思わずヒースの身体を突き飛ばす。
あっけないほど抵抗なく、彼の身体は離れていった。
よろめきながら後ずさり、ヒースを見つめる。我に返ったらしい男は下唇を噛み締め、苦渋に満ちた目を伏せた。机の天板に両手を置き、彼は倦怠を滲ませた身体をもたせ掛ける。
彼は、微動だにしない。
行け、と。
蒼い目だけが無言で扉を指し示した。
足を竦ませたまま、ダイは胸元を握り締める。
このまま立ち去っていいのか、悪いのか。
しかし結局は逃げるようにして部屋を出た。
ヒースの顔を、まともに見続けていられる自信がなかったのだ。
控えの間を抜け、廊下を駆ける。途中すれ違った何人かの同僚が訝った様子でダイを見たが、声を掛けてくるものはいなかった。
向かう先は自室だった。別館に入り、廊下を進む。ようやく帰り着いたときには、息が上がっていた。
閉めた扉に背を預け、ずるずるとその場にへたり込む。膝を抱えながら、自分の手を見つめた。
混乱と恐怖に、震える手。
しかしダイは、彼の力や行為に恐れを抱いたわけではない。
それらを嫌悪しなかった自分自身の、未知の感情に戦慄したのだ。
意識を津波のように呑み込んだ、男の存在を渇望するそれ。
そして、彼の眼に宿った熱に対して噴出した、狂気めいた歓喜。
ロウエンたちのことも何もかも、一切合財が思考から吹き飛んでいた。
身体のいたるところに、男の力強い腕の感触が残されている。彼を突き飛ばし逃げ出してしまったことを、ひどく後悔している自分がいた。
呼吸困難に陥りそうなほどの苦しさに喘ぎながら、ダイは呻いた。
「なんなんですか、これぇ……」