BACK/TOP/NEXT

第七章 篭絡する医師 7


 早朝の薄い青を割るようにして、鳥が往く。
 ぐるりと旋回し空に溶け込んでゆくそれを見つめていた彼は、視線を下に落とした。大きく取られた窓は庭の景色を広く映す。その朝靄に沈む裏庭を、一人の少女が駆け抜けていた。
 午前中は街へ下りると聞いている。庭を横切るという近道をして、裏門から通りへ出るつもりなのだろう。
 窓に触れる。ひやりとした玻璃の感触。手を伸ばしても道行く影には届かない。当然だ。この距離では、例え玻璃がなかろうと届かない。
 届くべき、ではないのだ。
 たとえ、近くにあったとしても。
 嘆息した彼はその場を離れかけ、ふと、窓を振り返った。
 彼女は商品を取りに行くのだと言っていたが、なぜ今日に限って早朝なのだろう。彼女が立ち寄るといっていた店は夕刻始まりのはずだ。今向かえば、寝入りばなを起こしたとして店主から怒鳴られるであろうに。
 目を細め、窓の外に消える影を確認する。
 そして無言のまま、足早に踵を返した。


 ヒースには許可を貰ったものの、ダイが休みを取れるかどうかはマリアージュの予定一つに掛かっている。が、幸いなことに望んだ休暇の申請はすんなり通った。翌日の夜会に向けた衣装合わせのある夕刻までに戻っていれば、なんら問題はないという。ダイだけではなく侍女たちも何人か午前中に休みを取っているらしい。まだ日も昇りきらぬ早朝、眠い目を擦る彼女たちと共に朝食を取って、ダイはミズウィーリ家を出た。
 目的地は無論、ヒースに告げたミゲルの店ではない。
 アリシュエルの言っていた、ロウエンがいるらしい花街の墓地だ。
 思いがけず半年振りに足を運ぶことになった花街は、一日を終えたばかりで静まり返っていた。動くものといえば残飯を漁る犬猫か、夜の名残を掃き清める清掃人だけである。一抹の懐かしさを覚えながら、ダイは目を閉じていても歩けるだろう道を行く。そうして辿り着いた礼拝堂の裏手、目的地である墓地には、既に先客がいた。
「ロウエン」
 ダイの呼びかけに、医者の男は微笑んで応じる。
「やぁダイ、先日はすまなかったね」
 軽い調子で挨拶を口にする友人を、ダイは睨み据えた。並ぶ墓石の合間をずんずんと進み、懐から取り出した手紙をぺしりと彼の胸に叩き付ける。
「さぁ、色々説明してもらいますよ! 人をこれだけ巻き込んだんですからね!」
 ダイの声に驚いたらしい鳩が、羽音を立てて一斉に飛び立っていく。白い羽を星のように煌かせ、蒼穹へ消えていくそれらを見送り、ロウエンは諸手を挙げた。
「鳥もびっくりしてるじゃないか。叫ばないでくれるかい? 怖い怖い」
「叫びたくもなります。今回に限っては、協力しましたけど……。もう二度と御免です」
「……すまなかったね」
 ロウエンは手紙を引き取りながら淡く微笑み、謝罪を繰り返した。その微笑にダイは口を噤む。引き受けると決めたのは自分なのに、彼を責めるのは間違っていると思い直した。
 沈黙するダイの前で手紙を眺めていたロウエンは、おや、と片眉を上げる。
「中を見なかったのかい?」
 意外そうに言われ、ダイはさすがにむっとなった。
「人の恋文覗き見るような趣味はありません」
「君らしいね」
 小馬鹿にしたような彼らしくない口調で述べたロウエンは、手紙を軽く振ってみせる。
「これが単なる恋文だと君は信じたのかい?」
「……違うんですか?」
「違わないよ。今開いて見せてみてもいい」
「……ロウエン!」
 今度こそ苛立ちも頂点に達し、ダイは思わず叫んだ。先ほどから冗談を言うにもほどがある。恩着せがましく感謝を請うわけではないが、わざわざこちらまでやってきたのだ。もう少し振舞って然るべき態度というものがあるだろうに。
「すまない……。うん。本当に、僕が悪かった」
 睨みつけるダイに、ロウエンは視線を落とした。
「嬉しいんだ。僕が直接頼んだわけでもないのに、こうやって僕とアリシュエルの間を取り持ってくれたこと。君一人で、僕に会いに来てくれたこと。……その様子じゃ、誰にも言っていないんだね」
「言ってないです。……嬉しいなら皮肉はやめてください」
「うん、御免。でもねダイ。僕は嬉しいと同時に、君を非難したかった。アリシュエルの言葉を信じて、危ない橋を渡って一人でここまで来て。君はなんてお人よしなんだい?」
「相手がロウエンでなければこんなことしませんでした」
「そうだね。うん。ありがとう。でもねダイ。こういうものは、これからは中身をきちんと確認したほうがいい。君の身を守るためだ。……君のところの当主代行だったら、念のために確認するだろう?」
「……ヒースのことを言ってるんですか?」
「そう。ヒース・リヴォートのことを言っているんだよ」
 君が働く家の、当主代行のことを。
 ロウエンの言に、ダイは眉をひそめる。
「……ロウエンは、一体いつ、どうやって私がミズウィーリ家の化粧師だって知ったんですか?」
 ダイのことを教えたのはロウエンだとアリシュエルは言った。しかし彼がダイの現状を知るに至った方法がどうしても思い浮かばない。
「もしかして、アスマから?」
 ダイの育ての親とも言える女主人が彼に伝えたという可能性がないわけではない。が、それにしても腑に落ちなかった。たとえ相手がこのロウエンだったとしても、あのアスマが安易に情報を漏らすとは思えなかったのだ。
「アスマからは何も聞いていないよ」
 事実、ロウエンはあっさりとアスマの口の堅さを証明した。
「彼女とはずいぶん前に芸妓を回診したときに挨拶したきりだ。その頃君は既に花街を出ていたようだけれど、彼女は何も言わなかった。君のことを尋ねても、仕事で留守だ、としか言わなかったからね、アスマは」
 おそらく、ロウエン以外の人間に対しても同等の受け答えをしているのだろう。あのしれっとした顔で、煙管を咥えながら。
「ミゲルのところで君と会うまで、君があの街を出たことも知らなかった」
「……じゃぁ何がきっかけで……?」
「ヒースだよ。ミゲルの店で会ったあの時、君は代行を連れていただろう? 仕事先の人だといって」
「つれていました」
 ロウエンの言葉にダイは頷いた。しかしあの時ヒースはもちろんダイ自身も、ミズウィーリ家について漏らすことは愚か、存在を匂わせることもなかったはずだ。あのほんの僅かな間にロウエンは何を気取り、ダイについて知るに至ったというのだろう。
「あの時、彼は僕に自己紹介をしてくれた」
 ロウエンは言った。
「ヒース。男では珍しい名前だ。丁度少し前にアリシュエルから聞いていたんだ。上級貴族の中でも最下位と嘲られていたミズウィーリ家。その家を持ちこたえさせ、とうとう嫡子のマリアージュを女王候補にまで押し上げた切れ者の若い男。ヒース・リヴォート」
 英雄譚を朗読するかのように、ヒースの評判をロウエンは謳う。
「天下のガートルード家の当主である、アリシュエルの父親が警戒するような男など滅多にいないんだよ。そんな男の名前だから、覚えていた。ミゲルの店で名前を聞いたときにもしやと思って、アリシュエルに確認したんだ。ミズウィーリ家に、最近新しく化粧師が雇われたという噂は聞かないか、とね」
 答えはロウエンの案の定。アリシュエルは彼にマリアージュの変化と同時期に雇われた化粧師の噂について、つぶさに語ったことだろう。
 こうしてロウエンはアリシュエルを通じて、ダイがミズウィーリ家に雇われていることを知ったのだ。
「……アリシュエル様、私の性別のこと知っていましたけど」
「それについてはすまないと思っている。話したのは彼女と出会った最初の頃でね。……君が花街を離れる前、君が十五になった後だ。ついアリシュエルに愚痴てしまった。……医者失格だね」
 そう言って彼は自嘲めいた微笑を浮かべた。
 ロウエンがダイの身体について、ひどく案じていたことを知っている。何も手立てを打てぬ己に医者としての限界を感じた彼が、無力感に苛まれていたことも。その胸中を、彼はアリシュエルについ吐露してしまったのだろう。
「花街はアリシュエルにとって、とてもとても遠い世界だ。そこに生きる君もまた、遠い存在であるはずだった。まさかその君が、貴族の姫君の化粧師になるなんて」
 運命とはわからぬものだと、ロウエンは偶然を皮肉る。
 そして彼自身もまた本来ならば、アリシュエルとその道を交えるはずのなかった存在なのだ。
「本当に、すまないと、思っている」
 苦痛の滲む声色で、彼はダイに謝罪を繰り返した。
「切羽詰っていてね。……僕が君やリヴォート氏と会ったときにも既に、アリシュエルとはなかなか会えなくなっていた。そして君がミズウィーリ家で働いているとわかった直後、僕らは完璧に会えなくなってしまったんだ」
「こっそり会っていることが、見つかったから?」
 ダイの問いに、ロウエンはゆっくりと頷いた。
「女王候補の予定は、毎日細かく埋まる。それは君も知っているだろう? 最有力とも言われるアリシュエルならなおさらだ。……僕はね、そんな予定に無理に穴を開けさせてしまったんだよ」
 結果、二人の逢瀬は白日の下に曝されてしまったのだ。
「会えなくなってしまった上に、僕は実家から迎えが来ている。アリシュエルは女王選も追い込みだ。話し合いをしたいのに時間がない。とにかく僕は、急いでアリシュエルと話をしたかった。……君が預かってくれた手紙は、いったいいつ、長話が出来そうかっていうことについてさ」
 手紙が挟まる上着の胸元を、ぽんと叩いてロウエンは言う。
「これは逢引の証拠になる。アリシュエルを失脚させる道具に、なっただろうね」
 だから、他言せずにいてくれて、ありがとうと。
 笑う男を、ダイは苦い表情で見返した。
「……ただ、話したいだけだったら、私を挟まずとも出来たんじゃないですか? だって一度会えているわけでしょう?」
 ガートルード家主催の宴の日の夜に。
 ロウエンは貴族の付き人に成りすまして彼の家に入り込み、アリシュエルと会っているのだ。
「あぁ。あのときか」
 ダイが何を指しているのか理解したらしいロウエンは、でも、と否定に呻いた。
「わずかな時間が精一杯だったよ。さっきも言ったけど、僕はアリシュエルと話をしたかった。ゆっくりと……これからのことを」
「これからのこと?」
 微笑んだ彼は目を細め、ダイの肩越しに城を眺める。商業区の向こうに、朱塗りの屋根が並ぶ貴族の街。その奥には、山脈を背後に佇む優美な城。
 アリシュエルが生きる世界。
「カイトたちには会ったんだよね?」
「……会いました」
 急に切り替わった話題に当惑しつつ、ダイは頷いた。ロウエンとよく似た青年と灰色の目の男、カイトとダダンの二人組。
 そこで耳にした事情を、ダイは思い出した。
「……ロウエンも貴族だったんですね」
 ロウエンはゆっくりと首を縦に振った。
「下級の下級もいいところだけどね。その上、僕の国はひどい有様だった。貴族階級など、かなりの名家を除いて、なくて同然のものだった。……もっとも、今はかなり復興しているらしいけれど」
 ダイは、この国から出たことがない。この国以外の、世界を知らない。
 だがロウエンはダイが地図を眺めなければわからぬ土地からやってきたのだ。黒髪黒目。一見若く見える容姿。ロウエンはその柔い外見に反して、どんな局面においても冷静さを失わずに対処する一級の医者だった。祖国を出てこの国に辿り着くまで、彼はどれほどの苦難を乗り越えてきたのだろう。
 遠くを見つめる彼の黒い目は、城越しに故郷を透かし見ているのだろうか。
 それとも朱塗りの区画に囚われる、女王候補の娘を、見ているのだろうか。
「僕の国は本当にひどい国だったよ。……だけど今の皇帝陛下が即位されて、徐々に復興していく様は、外からでもよくわかった」
「国を出たのは、ご家族を助けるためだったって」
「うん。外で学んで稼いだほうが、いいだろうと思ってね。……でも、もうそれも必要ない。それにね」
 一度言葉を切ったロウエンはダイに視線を戻した。
「あの頃、僕の国にとって医者は、人に死を与えるための存在だった」
 男の瞳に宿る色は、ひどく暗い。
「生きることに絶望していた村人に、楽に死ねる方法を教えてやる存在だった。子供に手をかけられない親の代わりにね、赤子の首を絞めて口減らしをしたりするんだよ。怪我人や病人を助けたくとも、なんの道具もなく、なんの薬もない。人を生かして救うのではなく、人を殺して救う。……嗤ってしまう」
 低い笑いに喉を鳴らし、彼は微笑んだ。
「僕は、医者になりたかった。だから、国を出た」
 彼は、望みを叶えた。
 少なくともこのデルリゲイリアの裏町においては、最も信頼される腕の立つ医者だ。彼の手は多くの者達を救ってきた。それをダイは知っている。
 そしてきっとアリシュエルも、彼に救われた一人なのだ。
 ロウエンは苦い表情に顔を歪める。
「……今、僕の国は一人でも多くの人々が生きて幸せになるための手助けをする医者を必要としている。ならば、僕は」
「……ロウエンは、帰る、つもりなんですか?」
 彼が言わんとしていることを気取って、ダイは呻いた。カイトたちから逃げ回っているし、アリシュエルのこともある。てっきり、デルリゲイリアにこのまま居座り続けるのかと思っていた。
 だが、ロウエンの口調は、そうではない。
 五年、この国で暮らしていても、彼は祖国を変わらず思っているのだ。
 ロウエンの言葉尻に被せるようにして口を開いたのは、彼から決定的な言葉を直接耳にしたくなかったからかもしれない。
「……近年新しく、医者を育てる場所が作られたそうだよ。そこの教諭にならないか、と話が来たそうだ。他国の医療事情に明るいものが欲しいらしい」
「わざわざ、ロウエンに?」
「手紙を送る際、色々と他国の医学について書き添えていたものを、父が纏めて中央に提出したようなんだ。それが認められて誘いが来た」
「……引き受けるんですか?」
 ロウエンは答えなかった。儚く笑っただけだ。
「僕はカイトがいうように、すぐにこの国を出る気にはなれない。今は駄目だ。せめて、見届けてから」
「見届ける?」
「アリシュエルを。彼女が、女王になるにしろ、ならないにしろ」
 彼女の行く末を。
 あぁ、と。
 ダイは目を閉じた。
 先ほどの台詞を、ダダンからも聞いた。一刻も早く兄を連れ戻したいらしいカイトから逃げ回っているのは、単なる時間稼ぎなのだろう。ロウエンは、最初からこの国を出る心積もりだったのだ。
「……アリシュエル様を置いて、国を離れるんですか?」
 ガートルード家で会ったときのアリシュエルは、ロウエンに置いていかれることを微塵も想定していない様子だった。必死にロウエンに手紙を渡してと懇願していた彼女は、一刻も早く彼と会いたいと頬を染めるただの娘だった。
 胸を張って、ロウエンを想い人だと言いきった彼女を、置いていくのか。
「僕は自覚こそ薄いけれど、貴族に生まれた」
 ダイの非難の眼差しに苦笑を浮かべ、ロウエンは言った。
「だから権力についてはよくわかる。万が一、アリシュエルが僕と一緒になると言ってくれたとしてもね、この国でそれは無理だ。アリシュエルは貴族の中でも単なる姫君ではない。この国で最高の勢力を誇るガートルード家の長子。女王に最も近しいといわれる娘だ。たとえ女王に選ばれなかったとしても、家を更なる繁栄へと導く夫を選ぶ義務を、彼女は負う。裏町の医者は決して彼女にふさわしいものではない。周囲の反対を押し切って彼女の夫になれたとしても、僕は権謀術数に詳しくない。彼女はおろか、僕は自分の身すら守りきることはできない。これが男女逆だったら、また違った道もあっただろうけどね」
 彼が容赦なく突きつけてくる言葉が示すものは、現実だ。
 身分違いの恋。大いに結構。しかしそれで本当に幸せになれるものは一握りだ。
「……僕は、彼女が別の誰かを夫に迎え入れる姿を許容して、愛人に収まる気はない。そんなに心広くない。僕はきちんと、彼女を独占していたい」
 いつも穏やかな年嵩の友人が、今までに見せたことのないような男の顔で狂おしく女への愛を語る姿を目の当たりして、ダイは言葉を失った。
 アリシュエルの顔を見ていても思ったのだ。遊びではない。彼女たちは本当に想いあっている。
 けれどそこには壁が横たわる。
 彼らを隔てる壁。
 それは市井と貴族の区画を分ける壁と門のようだった。
「……じゃぁ、連れて逃げる、とかは?」
 そこまで想い合っているならば、二人で国を出ることも可能だろう。アリシュエルは取り立てて女王という地位を切望しているようには見えなかった。彼女の心にあるものは、ロウエンのことだけのように思えた。
「それはできない。僕は彼女に、全てを捨てさせることなどできない」
 ロウエンははっきりと否定を返した。
 あまりに明確な仮定の拒絶に、ダイは呻く。
「……全て?」
「そう。全てだ」
 頷いて、ロウエンは言った。
「僕の国は東の東。このデルリゲイリアからは世界で一番遠いといっても過言ではないよ。君には想像できないかもしれない。最短距離ですら、片道に二月は掛かる。潮の流れで船が遅れれば三月、それ以上だ」
 想像も付かぬ距離。
 一度彼の国に腰をすえれば、簡単には戻れない。
「……ダイ。アリシュエルにはね、もちろん地位や名誉、財産がある。女王という輝かしい可能性もある。だがそれ以上に、両親と姉妹がこの国にいるんだよ。友人についてはあまり聞かないが……連れて逃げるということは、彼女にそれらを全て捨てさせるということだ」
 ダイは半年前、ミズウィーリ家に仕えるかどうか悩んだときのことを思い出した。花街を出ると決心するまで――した後も、寂しく、心細く、身が引き裂かれるように辛かった。
 ここと貴族の区画は半日足らずで往復できる距離だというのに。
 東大陸へアリシュエルを連れて行く。それは彼女に、ダイが経験したもの以上の苦しみを与えることになるのだ。
 ロウエンは、落とすような微笑に目元を緩めた。
「ガートルード家のご当主は強引でね。アリシュエルも嫌っている部分がある。しかし彼女は愛情深い子だ。口ではどんなことを言おうと、彼女は血の繋がった家族を愛しているよ。どんなに離れても、僕が両親や弟妹たちを忘れなかったようにね」
 知っている。
 ロウエンが本当に、愛情深い男だと。
 本当にロウエンが、祖国に置いてきた家族を忘れて日々を過ごしていたのなら、カイトが遠路遥々兄を探して、この国にやってくることもなかっただろう。船と陸路を交互に行く旅。気の遠くなるような道程を彼が越えてきたのは、ロウエンが家族を本当に愛し、また家族も彼を愛しているからだ。
 アリシュエルはきっと、彼のそんな部分に惹かれたのだろう。
 そしてアリシュエルもロウエンと似たところがあるのだろう。花街出の化粧師と知りながら、なんのてらいもなく笑いかけてくれるアリシュエルの姿を思い返す。そこには優しさと懐の深さがある。
「彼女を連れて逃げぬ僕を……君は臆病だと、嗤うかい?」
 自嘲するロウエンに、ダイは目を伏せた。
「……わかりません」
 ロウエンの判断は、どのようにすればアリシュエルが幸せなのかを、模索した結果だ。
 だが、どうにももどかしい。
「……アリシュエル様を置いていって、ロウエンは幸せになれるんですか?」
 アリシュエルの頼みを聞き入れ、人目を忍んでロウエンに手紙を渡しに来たのはもちろん彼らに別れて欲しかったからではない。
 恩ある友人に、幸せになってほしかったからだ。
 その手助けができればいいと、思った。
「もっと、何か……別の方法とか、ないんですか。一緒になれる方法」
「全部のものを守れるほど、僕は強くも賢くもない。この手は万能ではないから、守りたいものを選ばなくてはならないときのほうが多い。例えば、もう助からないとわかっている患者と、早急に処置を施せば確実に助かるという患者、二人を同時に診なければならなくなったとき、生きる可能性の低いものを、切り捨てなければならないこともある。……現実とは、そういうものだ」
 広げた両手を眺めた彼は、強く笑った。
「僕が一番に守りたいものはアリシュエルだよ。彼女の幸せだ。そのために、僕は邪魔だろう」
 確かに。
 輝かしい栄冠と誉れと財産を。家族を。彼女の手に残すためにはロウエンは邪魔だ。
 けれど。
 誇らしげにロウエンを恋人だと言いきった、アリシュエルは果たしてその結末で幸せになれるのだろうか。
「……アリシュエル様としたい話って、それですか?」
「そう」
 大きく頷き、ロウエンは続けた。
「今君に語ったこと全てを話し合うには、時間が要る」
「……それを聞いても、もしアリシュエル様が、ロウエンを選ぶって、言ったら?」
 ロウエンは微笑んだ。微笑みそして――……。
 その顔が、驚きの色に染まる。
「……ヒース?」
 ここにいるはずのない男の名前。
「え!?」
 ロウエンの引き攣った声音に、ダイは弾かれたように背後を振り返った。


BACK/TOP/NEXT