第一章 娼婦の顔師 1
化粧筆を、置いた。
「終わりました」
手鏡を渡し、どうですか、と首を傾げる。磨かれた銀を覗き込んだ女は微笑んで頷いた。
「素敵。きっと注目の的だわ、ダイ」
ありがとう、と言って、彼女がこちらの頬に音高く口付けしてくる。ダイは思わず渋面になった。
「紅、塗りなおさなければならないですよ」
「あら。ごめんなさい」
謝罪しつつ紅の取れかけた唇をそっと差し出す女の頤(おとがい)を、ダイは持ち上げた。再び筆を手に取り、その形良い唇を丁寧に紅で縁取っていく。すると同じ部屋で順番を待っていた女達から、呆れ声が上がった。
「ちょっと姉さん! もう少し考えて行動しなさいよ! あたし達ずっと待ってるのよ!」
「次は私! 私なんだからね!」
「もう、あんた達、待ってないで顔ぐらい自分でしなさいよ!」
「姉さんだって!」
きゃぁきゃぁ騒ぐ女達を見つめながら、ダイは思わず笑みを零した。彼女らは明るく、賑やかだ。その彼女らの屈託のなさに、自分はいつも救われている。
紅のついた化粧筆を布で拭って、順番を待っている女達に声を掛けようとしたダイは、戸布を持ち上げて入室してくる女に目を瞬かせた。
「アスマ?」
豊満な肉体美を晒す女は咥えていた煙管を指に挟み、紅の塗られた大きめの唇を歪めてダイを手招いた。
「悪いね、ダイ。ちょっと来てくれないかい? あんたに、お客さんなんだよ」
アスマの言葉に反応を示したのはダイではない。部屋で化粧を待っていた、女達の方である。
「えぇ! それはないわ!」
「私達ずっと順番待ってたのに!」
ひどいひどいと非難の声を張り上げる女達を、アスマは一喝した。
「お黙り! アタシがいいっていったらいいんだよ!」
腰に手を当て、鬼の形相で恫喝するアスマに、女達はしぶしぶと言った様子で化粧台の前に腰掛け始める。粉白粉の貸し借りを始める女たちの姿を確認したダイは、手早く道具を纏めて立ち上がり、アスマについて部屋を出た。
「あらダイ、エミルたちのお仕事終わり? じゃぁこっちに来なさいよぉ」
「ダイ、ダイ、時間空いたならアタシの部屋に来ない?」
「たまには顔だけじゃなくてあっちも可愛がって? ねぇダイ」
部屋の戸口から伸びる手や、しな垂れ掛かってくる柔らかい身体、漂う甘い香りからの誘いを丁寧に断っていきながら、珍しいこともあるものだ、と、ダイは思った。
ダイは化粧師である。芸妓達の顔を美しく作っていくことがダイの仕事であり、もっとも優先されるべきことだった。だというのに、仕事を中断させられ、自分を訪ねてきたらしい客人の下へと案内を受けている。
実に、珍しいことだ。つまらない客人ならば、アスマがまた日を改めろと追い返すか、仕事が終わる夜明けまで待たせるはずだ。アスマには、それが許されていた。
質の良い芸妓達を囲う娼館を、幾つも経営する女主人。それがアスマだ。
現在この界隈では大御所と呼ばれ、かつてはその美貌と磨きぬかれた身体、芸、そして飽きの来ない話術によって、数多くの男たちを虜にした芸妓だった。娼館の集まる花街の春を鬻(ひさ)ぐ女たちを、娼婦と呼ばせず芸妓と呼ばせるようにしたのも彼女で、その気風と面倒見のよさから客だけではなく、同じ花街の商人や、館の女たちからも慕われている。
年若く、後ろ盾もなにもなかった自分が、そのアスマに化粧師として雇い入れられた理由は一つ。母とアスマが、友人だったからだ。
娼婦だった母は客としてやって来た画家と恋に落ちてダイを生んだが、父であった男は流行り病を得てダイが首も据わらぬうちに命を落とした。母は父親の面影を求めるようにダイに絵を教え、ダイが十になる頃にこの世を去っている。
アスマが館を経営するようになったのも丁度この頃で、寄る辺を失ったダイを化粧師として招いたのだ。最初は覚束ない手つきで女たちの顔を作っていたが、今ではアスマの館以外からも化粧師としての仕事をありがたくも頂戴するほどである。
とはいえ、ダイの直接の雇い主がアスマであることには変わりない。ダイを化粧師として招きたいと要請があった際には、必ずアスマを通すことになっている。今日の客も、その手の人間だろう。
女主人の年齢を感じさせない美しい背中に、ダイは問いかけた。
「どこのお館の人からの依頼なんですか?」
アスマに次ぐ娼館の経営者、ルグランか、それともグランホッペか。
禿げた頭の壮年の男や、まだ年若いがやり手の実業家を思い浮かべたダイだったが、立ち止まったアスマからもたらされた回答は、実に意外なものだった。
「貴族様、さ」
「……きぞく?」
「そう」
頷いたアスマは困ったと言いたげに眉根を寄せ、歩みを再開した。
「正確には、貴族様のお遣い、といったところか」
「初めてですね」
「そう。どこから噂を嗅ぎつけてきたんだか。大体、なんだって場末の化粧師を選ぶんだ。顔をするのは、大抵、侍女とかだろうにさ」
花街の人間に顔を触らせたがる貴族の女はいないだろうよ。
客人の要請は、何かアスマにとって納得のいかぬものらしい。呻く彼女は不機嫌そうだ。
それでも即座に自分を引き合わせることを決めたのは、客が無視できないほど位の高い人間だからだろう。
「失礼。待たせましたね」
アスマがダイを導いた先は、彼女の仕事部屋である。この館で最も上等な部屋で、何人たりともアスマの許可なしには立ち入れない場所だった。前もって軽く叩いた扉を押し開きながらアスマが紡いだ声は、上客用の猫撫で声。本当に上物の客人なのだと、それだけで十分に理解できた。
応接のための長椅子に腰掛けていた男が、立ち上がってこちらを出迎える。年の頃二十代前半の、若い男だ。綺麗な男だった。ダイは思わず部屋の戸口で立ち止まり、まじまじとその客人とやらを凝視してしまった。
さらりとした短い金の髪に、蒼穹を思わせる澄んだ蒼の目。女顔負けの、きめ細かな象牙色の肌。
女性的な優美さを雰囲気として纏うものの、ぴんと背筋伸ばされた体躯は、筋骨隆々には程遠いが肩幅広く、しっかりと均整のとれた男のものだ。貴族の客の中でもなかなかお目にかかれないような、怜悧な美貌を宿す男だった。
その素顔を、見てみたい。
人の顔を知れず観察してしまうのは仕事柄の習い性だったが、初対面の人間に不躾な視線を向けたのは、自分としても初めてだった。挙句、抱いた感想はいささか珍妙だ。しかし相手はダイの視線にも気分を害した様子なく、微笑んで小さく首を傾げただけだった。
「ダイ、こっちにおいで」
いつの間にか男の向かい側の席の前に佇んでいたアスマが、手招いている。ダイは我に返り、扉を閉じて歩み寄った。
「こちらが?」
男の問いに、アスマが頷く。彼女の温かい手が背に添えられ、ダイは女主人を仰ぎ見た。
「えぇ。私の館で、最も腕の良い化粧師です。ダイ、こちらはリヴォート様だ。此度、女王候補に選出されたマリアージュ様のご生家、ミズウィーリ家はお前も知っているね? そちらのお遣いとして、今日はここにおいでになられている」
その言葉に、ダイは驚きながらアスマを見上げた。あまりのことに言葉が出ない。そんな心中を推し量ってだろう、アスマは手でダイの身体を押し出し、着席を促す。
男とダイが長椅子に腰掛けるまで待ったアスマは柔らかい眼差しでダイを見下ろし、話を続けた。
「女王選出の儀が、今年ようやっと行われるだろう? 女王陛下がお亡くなりになったせいで、延期になってたけれどね」
「その話と私に、一体何の関係があるんですか?」
紡いだ声音は、驚きに掠れていた。糾弾めいた問いに、リヴォート、と呼ばれた男がアスマに代わって答える。
「貴方を、マリアージュ様の化粧師としてお迎えしたい」
貴方のその腕で、我らが主を女王にしていただきたいのです、と、彼は言った。
今度こそ、ダイは絶句する。アスマの歯切れの悪さの理由を、ここに見た気がした。彼女が貴族というからには、依頼主はてっきり中級貴族のご令嬢あたりかと憶測していた。だというのに、とんでもない客が来たものだ。
貴族階級の人々について詳しくはないが、それでも今度行われる女王選出の儀に女子を送り出す家ぐらいならばダイも把握している。前女王の縁戚であるガートルード家を筆頭とする、カースン、ベツレイム、ホイスルウィズム、そしてミズウィーリの五家である。ミズウィーリの名はいささか耳に馴染みのないものだが、女王候補を送り出す家だ。上級貴族には違いない。
そんな家から、しかもよりによって女王候補の顔を作れ、などと。
こんな、場末の顔師に。
「何かの冗談ではないのですか?」
例え冗談だったとしても、正直に男が答えることはないだろう。それでもダイは、尋ねずにはいられなかった。
貴族がくだらぬ賭け事を催し、市井をからかうことは皆無ではない。花街の女たちはその矢面に立たされる筆頭だ。愛を語らったはずの貴族の男が、実は単純に女を落とせるかどうか、仲間内で金銭を掛けていただけだった、ということも多々ある。何かのきっかけでこちらの噂を耳にし、悪戯を仕掛けようとでも思った貴族が仮にいたとしても、ダイは驚かない。
「冗談などで、わざわざ私が、何故こんなところに赴かなければならないのですか?」
上流階級を生きているであろう男のこの場所を見下した物言いに、確かに、とダイは納得していた。男は明らかに、貴族の館に仕える下男などではない。ミズウィーリ家の遣いだとアスマは言っていたが、男自身もまた、貴族の出身だろう。育ちのよさや気品が窺(うかが)える。そんな男が、女を買う為にではなく、わざわざ化粧師を訪ねてくる。冗談で行うには、面倒が過ぎるように思えた。
「出自は」
「確認を取ったよ」
ダイが問いを皆まで口にする前に、アスマがため息混じりに応じた。
「確かにこちらの方は、ミズウィーリ家に仕えてらっしゃる方に違いない」
「……本当に私を、化粧師として?」
「はい」
男は大きく頷いた。
本気らしい。
本気で男――否、ミズウィーリ家は、自分を雇い入れたいらしい。
ダイは困惑しながらアスマを見上げた。男が持ち込んだ話は、ダイにとって大きすぎるものだった。しかし彼女は難しい表情のまま腕を組み、口元を引き結んでいる。判断は、全てダイに委ねるということなのだろう。この場において、助言を挟むつもりもないようだ。
ダイは嘆息して、男に向き直った。
「仮に、私がその仕事を引き受けたとして……それは、一時的なものですか? こちらの仕事と平行して行うような……」
時折、引き受けるような、出向という形をとる仕事か。
男は、静かに首を横に振った。
「こちらに仕えることが決まった暁には、屋敷のほうへと来ていただきます。ミズウィーリ家専従となっていただくということですね。相応の部屋を用意し、不自由ない生活と、十分な給金は、お約束いたしましょう」
有無を言わさぬ口調。予想の範疇だったとはいえ、ダイは表情を曇らせた。
考えてみれば、相手は上級貴族なのだ。ダイに一言、来い、と命令すればよいだけなのに、選択の余地を与えるということは、かなり譲歩しているともいえる。
「断っても、アスマたちに、迷惑はかかりませんか?」
選択の余地があるように見えて、実は提示されたものを採択せざるを得ないのは、よくあることだ。
しかし男は、微笑んで言った。
「その際は、残念ですが、他の化粧師の方をあたるだけです」
穏やかな口調からは、本当にアスマたちに手出しをすることはない、という意図が汲み取れた。もっとも、アスマに手を出そうものなら、いくらミズウィーリ家でもある程度の痛手を被るだろう。娘が女王候補に選出されているのなら、なおさらだ。女王に選ばれるためには、中級、そして下級貴族たちの支持が不可欠になるが、アスマの館の客にはそれらの家督を継ぐ男たちが多くいる。花街の女達は、彼らの門外不出の秘密も、多くその手に握り締めている。
それでも万が一、と花街への影響を案ずるダイに、男は小さく笑ってみせた。
「今すぐ、返事を戴かなくとも構いません。また、後日参ります」
そう言って立ち上がる男に倣い、ダイは急ぎ腰を上げる。
「お仕事中、お邪魔をして申し訳ありませんでした」
まさか貴族の遣いに、頭を下げられるとは思わなかった。ダイは慌てて頭を垂れて、そういえば、と男に声を掛けた。
「すみません、あの」
「……何か?」
応接の席を離れかけていた男の前に立って、ダイは尋ねる。
「また、貴方が来られるんですか?」
「えぇ。この交渉は私が責を負っていますので」
他の遣いが来ることは、おそらくないだろうと男は言う。
だったら。
「……お名前、もう一度教えていただいてもいいですか?」
一応アスマによって紹介が為されていたとはいえ、お互い、まだ自ら名乗りあっていない。そのためか、男の名前もすでにダイの記憶の中で薄れ始めている。
「そうでしたね」
男は納得したように頷いて、右手を差し出してくる。衣服で手を拭い、その男の手に恐々触れながら、ダイは名乗った。
「ダイです」
やんわりとこちらの手を握り返し、彼は微笑む。
「ヒース・リヴォートと申します」
男の手は、まるで肌を刺すように冷たいものだった。