第三章 灰色の智将 8
ダイは立ち上がり、無言のまま、化粧箱に歩み寄った。
壁に叩きつけられた箱の傍らに片膝を突いて、道具を確認する。箱自体は、もう使い物にならないだろう。金具が外れただけではなく、衝撃からか、蝶番の端が欠けてしまっているのだ。
筆巻の紐を解いて、収められていた中身をざっと一瞥する。筆は、無事だった。筆先が折れたり歪んだりといった様子は見られない。
次に見なければならないものは、詰められていた化粧品一式。折りたたまれていた色板は無事だったが、瓶の類が駄目になってしまっていた。陶器にひびが入り、色が滲み出している。完全に割れてしまった瓶もあるが、中身は箱の中で零れるに留まり、絨毯を汚した様子もなかった。
乳液や化粧水といった類のものもどうにか無事だ。透明な瓶を灯に透かして、確認する。
「すみません、籠かお盆を、貸してください」
「え、えぇ……」
侍女の一人が、ダイの依頼を引き受けて踵を返す。入れ替わりに戻ってきたティティアンナが、驚きに瞠目し、裏返った叫びを上げた。
「な、なに……どうしたの!?」
呆然と立ちすくむティティアンナの傍らを、一抱えほどある籐の平籠を持って舞い戻った侍女がすり抜ける。籠を寄越す彼女の手は、何故かひどく震えていた。
「ありがとうございます」
微笑んで礼を述べる。心外なことに侍女はますます慄いた様子を見せ、早々にダイに背を向けた。
彼女の様子に首を傾げながら、無事な化粧道具を籠の中に収めていく。
「ダイ?」
ティティアンナだけが、茶道具を提げ持ったまま、案じるような様子で声を掛けてくる。籠を持ち上げて立ち上がったダイは、彼女に微笑み返し立ち上がった。
マリアージュの下へと、歩を進める。
円卓の傍らに立つ彼女は、先ほどまでの興奮が嘘のように青ざめていた。
「ダ、ダイ……」
マリアージュの呼びかけは耳に入っていたが、返事をする気にはなれなかった。
無言のまま、ダイは円卓の上に、無事だった化粧道具を並べ置いた――いつも通り、使う順番に。
「な、なんとかいいなさいよ……」
命令口調ながらも、マリアージュの声音はか細い。ダイは彼女に笑みを返し、絨毯の上に横転したままの椅子を引き起こした。
「ご着席を。マリアージュ様」
このような口を利いたダイに対し、普段のマリアージュならば何を偉そうにと食って掛かってしてくるところだろう。
だがマリアージュは大人しくダイの指示に従った。まるで魂が抜けてしまったようにふらふらと、彼女は椅子の上にへたり込む。
新しい手ぬぐいを水に浸して絞る。広げる。無事だった綿布の枚数を確認する。筆。海綿。他の道具も、最低限きちんと、揃っているか。
ダイは傍の椅子をマリアージュの対面になるように引き寄せ、そこにそっと腰を落とした。
一礼する。
「それでは、化粧を落としていきます」
「……っ」
マリアージュは、困惑しているようだった。
横に落ちたマリアージュの髪を邪魔にならぬように留める。手を清める。乳液を温める。マリアージュの顔にそれを丁寧に伸ばし、濡らした手ぬぐいで拭いていく。
その動作、一つ一つに。
マリアージュは困惑している。
否。
脅えている。
「ダイ」
「それでは、これから化粧をしていきたいと思いますが……」
晩餐会に出たくないという彼女の意見を無視して、ダイは宣告した。
「マリアージュ様のお望みのままに、女王に見える化粧をいたしましょう」
色板を広げる。その縁が卓に当たって、硬質の音を立てた。
改めて、女主人を見据える。
紅茶色の髪。胡桃色の丸い目。そばかすの散る――しかしそれらが愛らしさをかもし出す――白い肌。
厚みある唇は、傷つけられ、今は血の気を失っている。
ダイは、嗤いたくなった。
何をそんなに、脅えているのだ。
彼女よりもさらに年下の、外見だけならば子供とほとんど変わりない、非力なこの自分に。
「ですが……女王、とは?」
ダイの問いに、マリアージュはさらに困惑の色を深くして眉をひそめる。
ダイは構わず、問いを重ねた。
「女王とは、何ですか? 貴女様は、どのような女王に、なられたいのですか?」
「な、に」
「女王になどなれない。そう考えられる前に、貴女様は、どのような女王になられたいのか、考えたことはありますか?」
「どういう、意味?」
一つ、溜息を落とす。その動作にすら、びくりと身体を震わせるマリアージュが、おかしくてならなかった。
ダイは答えた。
「私は申し上げました、マリアージュ様。私にできることはただ一つ、貴女が望むように、貴女を美しくすること。……マリアージュ様が、望まれる女王の姿をはっきりして下さらない限り、私は貴女に、貴女が満足するだろう化粧を、してさしあげることは、できません」
何度でも、わかるまで、繰り返す。
化粧は、施される当人が望む姿を後押しするもの。
決して、当人のもつ本質を塗り替えてしまうものではない。
「考えたことはあるんですか? どんな女王になりたいか……どんな風に、美しくありたいか!!」
もう、限界だ、と思った。
平静を、装うことには。
こみ上げてくるのは、熔解した鉄のような熱と衝動。それらに突き動かされるまま、ダイは叫んでいた。
「生まれ持った環境や顔かたちを嘆いたとしてもどうしようもないでしょう! いいですか、マリアージュ様!! アリシュエル様や他の候補者の方々に人が集まるのは、そうあるように振舞おうとされているからです!! 朗らかであるように、たとえ仮に才がなくとも、才があると見えるように、誰の目から見ても、美しいと、見えるように!!! 背筋を正し、女王然として振舞われているからです!!!」
「な……何がわかるのよ!!」
憤然と立ち上がり、マリアージュが反論した。
「あんた、見たことないじゃない! アリシュエルも、メリアも、クリステルも、シルヴィアナも!! 候補者の誰一人、あんた見たことないから、そんなこと言えるのよ!!」
「では、この屋敷の中ではどうなんですか!?!?」
「……この、屋敷?」
「そうです」
マリアージュの問いに、ダイは間髪いれず、大きく頷いた。
「マリアージュ様、皆、ヒースの味方だといいましたよね。私の味方は誰も居ないって。じゃぁ何故、ご自分の周りに人が集まらないのか、考えたことはあるんですか!?」
「それは――……」
マリアージュも、答えはわかっているのだろう。
以前、自覚はあるのだと言っていた。わがままな自覚はあると。
わかっているはずだ。彼女の短気が、人を遠ざけていることぐらい。
言い淀むマリアージュに、ダイは続けた。
「何故、皆がヒースに協力を申し出るか、彼に従うか。その理由を考えたことはあるんですか!?!?」
「なんで……なの?」
こちらの勢いに気圧されたのか、か細い声音でマリアージュが問うてくる。その問いに、皆のように沈黙を返すつもりはない。ダイは嘆息しながら、部屋の入り口を振り返った。
そこに屯する落ち着きない様子の侍女たちは、ダイに射竦められたように動きを止める。若年のティティアンナや自分に全てを押し付けて、ことが終わるまで我関せずといった顔をした野次馬同然の侍女たちにも、ダイはいい加減腹を立てていた。
「この家は傾いています。それはマリアージュ様もご存知ですよね。それは別に、貴女のお父上が人付き合いが苦手だったからとかいう理由じゃないです。この家には、借金があるんですよ。莫大な」
この話を聞いて以後、気になってヒースに簡単な試算を聞いたのだが、金銭感覚が違いすぎてよくわからなかった。中級貴族に落ちるのも時間の問題だったとマリアージュもティティアンナも言うが――実際のところは、それ以上だったようだ。
ダイの告白に、マリアージュはきょとんと、目を丸める。
「しゃっきん……って、何?」
「は?」
「しゃっきんすると、どうなるの?」
「どうなるって――……」
さすがに、こんな反応は予想していなかった。
狼狽しながら、平易な言葉を選んで、ダイは言い直す。
「お金がないんです。他人からお金を借りて、返さないと、利子がつく。たくさん、返さなければいけなくなる」
「……りし? 大体、お金がないと、どうなるっていうのよ?」
(これだ)
ぞっとしながら、ダイは確信していた。
誰も、マリアージュにことの説明を行わなかった理由。
マリアージュには、金銭感覚が備わっていないのではない。
そもそも、金銭というものが何たるかを、わかっていないのだ――……!
市井ならば、教育を受けていない子供ですらわかっていそうな根本原理を、貴族の姫君として生まれ育ったが故なのか、マリアージュは理解していない。
だから誰も、この家の状況を、正しく説明しなかったのだ。
「あっな、なんで……なんで、誰も説明してないんですか!?」
ダイは侍女たちに向き直って激昂した。
「だ、だって……いってもわからないと」
「マリアージュ様を馬鹿にしてるんですか貴女たちはっ!!!」
しどろもどろに弁解しようとする侍女に、ダイは怒声を浴びせかける。いい年をした中年が若年の新参に怒鳴られている様は、傍目に見てひどく滑稽だった。
「教えてあげればわかることでしょう!! 確かにマリアージュ様はお金を必要とした生活をされてないかもしれないです! でもだからこそ誰かが教えてあげなければならないのに……これこそ貴女方の生活にも関る、大事な問題じゃないんですか!? 主人に伝えるべきことを伝えないのは、単なる怠慢です!! なんなんですかあなた達は……なんて……なんて最低な大人……!!!」
叫びながら、涙が溢れてきた。
門の向こうの子爵たち。花街で女を抱く。体を売る女たちを、動物のように扱って、彼女らに性を吐き出していく、高貴と形容詞の付く人々。そして彼らに仕えるものたち。
門のこちらに住まう人々は、大抵花街の女たちを汚いものとして見る。しかし彼女らのほうがよほど尊い。気高く、思いやりに溢れている。
幼くとも、真実を見据え、技を次代に伝え、己に恥じることなく生きる芸妓達のほうが、よほど。
よほど美しいのだ。
帰りたい、と思った。
帰りたい。
どうしてですか、と死した母に問う。
どうして貴女は、私をあの花街から出なければならぬように、仕向けたのだ――……。
ダイは目元を擦り、懐を探って貨幣を取り出した。マリアージュの手首を引き寄せ、彼女の手のひらにそれを載せる。
「これが、お金です」
手のひらに載せられた銅貨の姿を、マリアージュは大きく見開いた胡桃色の瞳に映した。
「いいですか。これがないと、こんな風に使用人が貴女に仕えることはないです。貴女様は、着替えも食事の支度も全てご自分でしなければならなくなります」
「みんな、が……いなくなるって、こと?」
言葉の意味を咀嚼し、確認してくるマリアージュに、ダイは肯定に顎を引いた。
「そうです。召抱える、というのは、このお金を労働の報酬として支払っている、ということです。このお金で、人は食料を買います。水を買います。家を買います。これがなければ、全部失います。ミズウィーリ家には借金がある。理由は、あそこで屯っている古い方々に聞いてください。ただ、その借金のせいで、あの人たちは職を失いかけているんです」
「職?」
「この家で、働けなくなる。マリアージュ様以上に、あの人たちが困るんです。お金をもらえなくなってしまいます。すると、ご飯を食べられなくなってしまう。……ヒースは、今この家を支えています。この家から、きちんとあの人たちにお金が払えるように、ヒースは働いているんです。だから、皆はヒースに味方する。貴女様よりも」
ダイと手のひらの上の貨幣を見比べていたマリアージュは、話を聞き終わると、ゆるゆる柔い指先を握りこんだ。
「でも今食べられているわ」
彼女は、日々の生活を思い返したのか、確信の響きで言う。
「ご飯もある。貴方たちだって、この家で働けてるじゃない。この家だって、昔から変わらない……」
「それはマリアージュ様が女王候補だから、お城からお金を貰えているんです。他の候補者と、対等に美しい衣装を着て、対等に争えるように、援助されている」
ダイが暴く真実に、マリアージュは口を噤む。その顔色を見つめながら、ダイは思った。
ほら、彼女は愚かなわけではない。
真実を提示してやれば、すぐに理解するのだ。それをしなかったのは、彼女を無知という籠の中に押し込んでいたのは、この家の者達の怠惰に他ならない。
「貴女様が女王になってほしいと願うのは、皆、名声以上に、この家を、失いたくないからです。……貴女様がしっかりされていれば、皆、ヒースに頼ることは、ないんです」
貨幣を握る彼女の手を、ダイは自分の手でそっと包み込んだ。
マリアージュの息を呑む気配がする。驚きと当惑に揺れる胡桃色の双眸を真っ直ぐに見上げながら、ダイは尋ねた。
「もう、わかりましたよね? もう、不安じゃないですね? 癇癪を起こされる必要も、ないです。何でって、叫ぶ必要もない。だから次は――考えてください」
「考える?」
「そう。何故、貴女様の周りには、人が集まらない? いいえ……どんな人の傍に、人は集まると思いますか?」
「それは……美しい人よ」
恐々と答えを口にしたマリアージュに、ダイは畳み掛けるようにして尋ねる。
「では、その美しい人とはどんな人ですか? 貴女は、どんなふうに美しくなりたいんですか?」
沈黙するマリアージュから手を離して立ち上がる。
「貴女が、どのように美しくありたいかを示して下さらない限り、私は貴女に化粧を施すことはできません!」
拳を握り、彼女と真っ向から対峙して、ダイは宣言した。
「決して!!」