第三章 灰色の智将 7
「ダイ、なんだか顔色悪いな」
厨房長のグレインが、ダイの顔を覗きこんで案じる様を見せる。明日マリアージュに出す料理の献立表に目を通していたダイは、小首を傾げた。
「そうですか?」
「ちゃんと食べてるか?」
「私の前に出したお皿は、いつも舐めたように綺麗だと思いますよ」
「盛り付けの量を増やせよ。少食だろう、お前」
「ありがとうございます。……多分、寝不足です。変な夢で一度目が覚めてしまって」
「変な夢?」
追求してくるグレインに、覚えていないと、ダイは微笑を返した。実際のところ、夢を見たというのは出任せだ。寝不足は、本当だったが。
「グレイン。もう一品増やせます? えぇっと、蕪あたりがいいんですけど」
ダイは面を上げ、献立を指差した。鶏肉料理が中心となっている献立。
「あぁ、構わんが。どうして?」
「マリア様肌がぱさつくっておっしゃってたから、お肉増やしてもらいましたけど、その代わり野菜が減ったから……」
「一応、見目は考えているぞ。彩りもいい」
「はい。それはさすがなんですが、その、野菜の種類が。多分これを足したほうが、いいです。消化がよくなってお腹への負担も軽くなるし、肌がもっとつやつやになります」
「はぁ……ようわからんが、じゃぁ煮込むか」
「あまり……火を通しすぎないほうが」
「何故?」
「栄養の関係なんですけど……」
説明しようにも、どうにも上手く言えない。
結局ダイは以前の職場で実践されていた知恵なのだということのみ説明して、不審がるグレインを残し厨房を出た。
肌艶を保つため、マリアージュが食するものに関しても多少口を挟むのだが、それがグレインの心象を下げていることはわかっている。彼は何十年とその道に携わってきた玄人であり、料理に関して素人な、しかも彼にとって子供同然の若年に口出しされるなどと、気分いいはずがない。
花街の調理師たちなら上手い説明の仕方を知っているだろう。そのうち暇を見つけてこっそり彼らを訪ね、それを学んだほうが良いのかもしれない――いつ出来るかは、わからないが。
ヒースは暇を見つけて訪ねればいいとはいったけれども、勤め始めて間もないダイが、帰省を言い出せる雰囲気ではない。
頭が、痛い。
五回目の安息日を過ぎて、ダイがミズウィーリ家に足を踏み入れて一月となる。慣れぬ生活習慣と人間関係の疲れが出ているのか、鈍い痛みがなかなか頭から拭い去られない。寝不足も、ひとえにこの頭痛が原因だった。
(だるいなぁ)
戻った二階の控えの部屋は静かだった。どうやら侍女たちは皆、出払っているらしい。遅めの昼食を一人で支度する。内容は、乾いた麦餅(パン)に、肉と野菜を挟んだものだ。冷めたお茶を汲みだして、咀嚼もおろそかに胃に無理やり流し込む。あまりよろしくない食べ方なのだが、こうでもしなければ食べられないのだから仕方がない。
先日、おしゃべりが過ぎたことを理由に、侍女頭の手によってティティアンナとの仕事が減らされてしまったことも気を滅入らせている。年も比較的近く、おしゃべりなティティアンナとの仕事は、ダイにとって唯一の気が休まる時間だったからだ。
ティティアンナと共に説教を受けた日から数日が過ぎても、屋敷の使用人たちとマリアージュの関係は、相変わらずだった。
マリアージュにすべてを話してやったほうがいい。
そのダイの話の内容を、ヒースはまだ彼女らに話してはいないのだろう。しかしそれに腹を立てるつもりにはなれない。結局ヒースに述べたことをダイ自身も彼以外に話せていないからだ。
本当はヒースを介さず、侍女頭を含む古参の使用人たちがマリアージュと話し合い、互いについて理解を深めることが一番良いのだが、彼女たちはマリアージュとの接触を極力控えようとしている。侍女頭を含む使用人たちが、熱心に仕事の仕方や貴族社会ならではの作法をダイに伝授するのは、何もヒースがそれを命じたからというだけではない。マリアージュのお守りを、早くダイに押し付けたいのだ。
例えばマリアージュが貴族の子女たちの集まりに出かけていく度に、お供する侍女がいる。彼女は非常に熱心にダイの振る舞いや礼儀作法を見てくれるのだ。
そして言う。満面の笑みを浮かべて。
『これを覚えたら、あなたもマリアージュ様に付いていける。そしたら、私と仕事を代わって頂戴ね』
仕事を、化粧に限定するつもりはない。
手伝えることがあるのなら手伝うつもりだ。どんな雑用も引き受ける心積もりはある。しかし、このようにあからさまに示されるものがあると、暗澹としてしまう。
「ダイ、ここにいたのね」
皿の片付けをしていると、年長の侍女が顔をみせた。息を切らしながら、彼女は言う。
「マリア様がお戻りになられたわ。すぐに支度して頂戴」
仕事道具を携えダイが到着すると、マリアージュの寝室の前にはちょっとした人だかりが出来ていた。
人の壁を掻き分け部屋の入り口に足を踏み込む。するとすっかり慣れてしまったマリアージュの甲高い声が、部屋にこだましていた。
「もう嫌よ!!!」
丁度、どこぞの貴族が主催する午餐の会から帰ってきたマリアージュが、結い上げられた髪を乱暴に解いて寝台の上に身を伏せるところだった。
「嫌! 絶対嫌!」
「マリアージュ様……」
梃子でも動かぬという意志を見せ寝台の上で蹲るマリアージュに、呼び集められた侍女たちは立ち往生している。唯一、急いでマリアージュを着替えさせなければならないティティアンナが、彼女を抱き起こそうと寝台の傍らに膝をついていた。
「マリア様。マリアージュ様。起きてください。ご招待に遅れてしまいます」
これから他家主宰の晩餐会がある。夜会のための衣装はすでに決まっているものの、早く身支度を整えなければ間に合わない。数人の侍女が控えているのもそのためだ。しかしマリアージュはティティアンナの手を振り払い、頑として面を上げようとしなかった。
「放っておいたらいいわよ! どうせ私なんて誰も待ってないじゃない! 行っても行かなくても同じことよ! ついでで呼ばれているようなものなんだから!」
「マリアージュ様……」
どうやら、午餐の会で何かがあったようだ。ひどい荒れ様である。
「ダイ、あんた何とかしなさいよ」
マリアージュを必死に宥めるティティアンナを見つめていたダイは、同じく様子を見守っていた侍女の耳打ちに眉をひそめた。
「なんとかって言われましても……」
「どうにかしなさいよ」
半ば強引に押し出されてしまい、ダイは嘆息を零した。言われずともティティアンナに加勢するつもりではあったが、このような形で役割を押し付けられると、もやもやとしたものを感じてしまう。彼女たちこそ、どうにかできないのか、と。
「マリアージュ様」
仕事道具を抱え、呼びかけながら歩み寄る。マリアージュは僅かに身体を震わせたが、それだけだ。わざわざ顔を上げてダイを迎えるようなまねを、彼女はしない。
目配せで助けを求めてきたティティアンナに微笑み返してやって、ダイは彼女の隣に同じように膝をついた。
「とりあえず化粧を落としましょう」
「このままでいい」
「肌、荒れてしまいますけど」
それでもいいのか、と脅すと、マリアージュはしぶしぶといった様子で面を上げた。その顔は、実にひどいものだ。涙こそ零していないものの、目は潤んで、瞼は腫れぼったい。掛け布に顔を擦りつけたせいか午餐用に施した化粧はところどころ剥げ、噛み締められた下唇には傷が付いている。
「すみません。水と手ぬぐい持ってきてください」
化粧直しだけの予定だったから、水と手ぬぐいまでは用意していない。侍女の一人が心得た様子で退室する姿を見送って、ダイはマリアージュに向き直った。
「場所は寝台の上でいいですか? 椅子に座ること、できますか?」
「……できるわ」
「じゃぁ移動しましょう。喉乾きませんか?」
「私、お茶の準備をいたしますわね、マリアージュ様」
ティティアンナが微笑み、衣を翻して立ち上がる。彼女と入れ替わりに、水と手ぬぐいを持った侍女が戻ってきた。
「ありがとうございます」
礼を述べたダイに目を合わせることもなく、円卓の上に一式の載った盆を置いた彼女は、そそくさとその場から下がる。いつ怒りを爆発させるともしれないマリアージュに関ることを倦厭しているのだろう。
(腫れてしまった目元を、どうにかしなければ)
盥の水に手ぬぐいを浸し、固く絞りながらダイは思った。化粧どころではない。早く冷やさなければ明日の朝まで尾を引いてしまう。
「これで目元を押さえていてください。あと、口元も拭いますよ」
椅子に腰掛けたマリアージュの目元に濡らした手ぬぐいを押し当て、少しだけ湿らせたもう一枚の手ぬぐいの先を、彼女の唇に滑らせる。
「ずいぶん強く、噛まれたんですね」
白い布の先に滲む茶色の染み。血が出るほどに、噛んだのか。
マリアージュは答えない。ダイは布を置いて、化粧箱を引き寄せた。
「……アリシュエルが、来てたのよ」
「……ガートルード家の? 今日の午餐の会にですか?」
「そうよ」
それでこんなに荒れているのかと、マリアージュの唇に蜜蝋を塗ってやりながら納得する。他の女王候補者と同席して帰ってくると、マリアージュは大抵癇癪を起こすが、特に酷いのは一番の有力候補といわれているアリシュエル・ガートルードと顔を合わせた後だ。卑屈になる。それを、ダイもわかってきていた。
才に溢れ、人望を集め、美しい、アリシュエル。彼女と己の状況を比較して、悲嘆に暮れるのだ。
「どんなに化粧したって、変わらない」
化粧を落とすための乳液を手のひらで温めていたダイの耳に、マリアージュの呻きが滑り込んでくる。
「あの子の周りには、集まるし。私はいつも……いつも、そうだった!」
突如、マリアージュは勢いよく立ち上がった。
「マリアージュ様!?」
彼女が起立した拍子に跳ね飛ばされた椅子が横転し、派手な音を立てる。瞠目するダイを見下ろしながら、彼女はとうとう、腫れた目元から涙を溢れさせた。
「お父様もお母様に掛かりきりだった! 私なんて見向きもしなかったわ! とってもお優しくて、美しいお母様! 私を産んでからさらに儚くなられたお母様! みんなお母様お母様お母様ばかりだったわ! お母様が亡くなられたと思ったら、次はヒースばっかりで……」
ひく、としゃくりあげた彼女は、目元を擦って叫ぶ。
「ようやく、お父様が、私を見て、女王になれって、ようやく、言ってくださったのに! 言ってくださったのに!! やっぱり駄目じゃない……みんな、綺麗なのが、いいんじゃない!!!」
拳を握り、その場に仁王立ちしたマリアージュは、ダイを見下ろしながら叫んだ。
「今日なんて、あの子に――アリシュエルに、何て言われたと思う!? お綺麗な化粧ですね、よ! えぇありがとうって、返しておいたわよ! えぇ、ありがとう! ありがとう! どうせ綺麗なのは化粧で、私は、貴女の美貌に敵うはずもないっ!!!」
マリアージュの目元にあてがわれていた手ぬぐいが、ダイの頬を掠め、絨毯の上に叩きつけられる。
「マリアージュ様……」
しかしそういった危機感よりも同情が勝ってしまうほど、マリアージュの姿は痛々しかった。血が滲むほど下唇を噛み締め、白い肌が青くなるほど手のひらに爪を立てて、怒りなのか、悲しみなのかわからぬものに涙を零す。
手傷を負った、子猫のようだと思う。
毛を逆立て、周囲を威嚇している猫のようだと。
「そうよ。どんなに化粧したって、変わらないじゃない! ぜんぜん! 女王になんて、なれるはずがない!!! 誰も――私なんて見向きしない!!!!」
「マリアージュ様、ひとまず座りましょう」
手を素早く拭ったダイは、膝をついたままマリアージュを宥めに掛かった。しかし、それが彼女の勘に触ったらしい。
「お医者みたいな口きかないでよっ!!」
だん、と足を踏み鳴らして、彼女はダイに叫んだ。
「私あんたのそういうところが大嫌い! 気に入らないわ! 自分は大人なんですっていう、お利口そうな顔してるところがなおさらね!!!」
「っつっ!!!」
もう一度足を踏み鳴らしたマリアージュは手を伸ばし、こちらの髪を鷲掴みにして乱暴にダイを床に引き倒した。不意を衝かれたせいか体勢を立て直すこともできず、肩を強かに打ち付ける。思わず、苦悶に顔を歪めた。
遠巻きに様子を見守っていた侍女たちの間で、悲鳴が上がる。
「……マリアさま?」
侍女たちの叫びを訝りながら、ちかちかと星の散る視界でマリアージュの姿を探していたダイは、眼前を過ぎった影に、はっと我に返った。
彼女が何をしようとしているのか気づき、ダイは慌てて身体を起こす。
「マリアージュ様! やめてくださいっ!!」
思わず、懇願する――化粧箱を、頭上近く持ち上げるマリアージュに。
「マリア様っ!!!」
彼女に縋りついて伸ばした手は、届かない。
がっしゃんっ……
部屋に響き渡る、派手な破砕音。
絨毯の上に箱の中身が放射状にばら撒かれる。
誰もが身体を強張らせ息を呑む中、肩を揺らすマリアージュの荒い呼吸音だけが、部屋に響き渡っていた。