第三章 灰色の智将 4
「失礼いたします」
マリアージュの言葉と被るようにして叩扉の音が控えめに響き、茶道具一式を載せた盆を提げ持ったティティアンナが現れた。床の上に散乱したままの箱類を器用に避けながら歩み寄ってきた彼女は、一礼してマリアージュの前に茶器を置き、紅茶を注ぎ始める。
「ダイにも出して。そしてあんたは下がりなさい」
「え? ですが」
「午餐のことはわかってるわよ。長話はしないから下がって」
一瞥すらくれずにティティアンナに命令し、マリアージュは紅茶を啜る。茶器の縁に口付けるその様は、さすがというべきか、実に優雅な仕草だ。ダイは自分にも出された紅茶を前に畏まり、同僚が部屋を辞していく様を所在無く視線で追った。
茶器を受け皿の上に置いたマリアージュが、扉が閉じられると共に話を再開する。
「女王候補になれる条件は、知ってるの?」
彼女の問いに、ダイは否定を返した。
「いいえ。……上級貴族の方であるとしか」
「ふぅん」
一度頷いたマリアージュが、ふと円卓に刻まれた文様を指差す。
「これが何を表すのかは?」
「家紋ですよね。ミズウィーリ家の」
二輪の野薔薇をあしらった文様は、使用人の勝手口にも刻まれていたもの。そこだけでなく、茶道具や窓枠など、至る所に野薔薇は刻まれている。
「野薔薇が何を表すのかは?」
「……聖女の花、ですか」
「そう。それぐらいは知ってて当然よね」
マリアージュの言う通りだった。野薔薇が聖女の花であることを知らぬものは、この西大陸にいないだろう。知らなくとも、その花は至る所で目にする――例えば、聖女を祀る街の礼拝堂などで。
『聖女』とは、魔の公国メイゼンブルの前身、魔の公国スカーレットの始祖である。名をシンシア。正否は不明だが、絶対的な魔力を持つ魔女であったと伝承にあり、彼女は野薔薇咲き乱れる平野にこの大陸を制する国家を、騎士と共に打ち建てたのだとされている。それによって、当時混乱を極めていた西大陸は平定されたのだ、と。
騎士は公主となり、魔女は聖女となり、二つの柱を戴いて魔の公国は長らく在った。途中、メイゼンブル侯爵家が公家を乗っ取ったものの、聖女の一族はその中に取り込まれて国滅亡のときまで存続していたという。
「私の父方のひいおばあ様はナヴル家――聖女様の家から降嫁してきた姫君なのよ。私の母方のおばあ様も、ナヴル家の本流が取り込まれたあとのメイゼンブル公家の姫君」
「では、マリアージュ様はメイゼンブル公家の血縁、ということですか?」
「私だけじゃないわよ。ガートルードもホイスルウィズムもベツレイムもカースンも、みんなメイゼンブルの血が入ってる。何親等か私も忘れたけれども、その範囲内に、メイゼンブルの血が入っていること。これが女王候補者の条件の一つ」
「他にも条件があるんですか?」
「女王選出の儀の際、十代であること。女であること。……飲まないの? 冷めるわよ」
「あ、はい。戴きます……」
顎で示された紅茶を、ダイは慌てて口に含んだ。マリアージュのためにと用意された茶は、今まで口にしていた安いそれとは比較にならないほど香り高い。飲むことがもったいなく思えて、ちびちびと中身を減らすに留めた。
「だいたい貴族っていうのは、どこかしらにメイゼンブルの血が入っていたりするのよ」
紅茶を啜るこちらの様子を眺めながら、マリアージュは話を続けてきた。
「でもそれが昔々の話なのか最近なのかは家の権勢によるわ。うちはひいおじい様の代ぐらいのとき、当時の女王陛下の寵愛深かったらしいの……でも、そのときだけよ。おじい様が壮年の時に女王陛下が代替わりして、皆は急速に心変わりした。誰もうちに見向きもしなくなった。後を継いだお父様は苦労なさっていたわ。軽んじられる家に上級は勤まらない。中級貴族として位を落とされることは時間の問題だった」
「ですが貴女は女王候補でいらっしゃる」
「そう」
頬杖をついて、マリアージュは頷いた。
「ヒースが私を、ここまで押し上げたのよ」
「……ヒースが?」
「二年ぐらい前かしら」
マリアージュは昔語りをそのように切り出した。
「お父様がヒースを連れてきたのは。お父様の乗っていた馬車が賊に襲われた――叔母様の見舞いに行った帰りのことだったわ。十日ほど過ぎて賊は捕らえられ、お父様は無事戻ってきた。そのときお父様は、ヒースを連れていた」
マリアージュ曰く、囚人達が押し込められた小屋の中で彼女の父とヒースは知り合ったらしい。ヒースは親族を失い、当てもなく旅をしている途中で、乗っていた辻馬車が襲われてしまったのだということだった。
「お父様が無事に帰ってこられたのも、結局はヒースのおかげだったのよ」
ヒースの機転で都の警備に遣いをやることに成功し、捕らえられていた街人は誰一人欠けることなく救出された。マリアージュの父が捕らえられてから助け出されるまでの十日間、彼とヒースの間でどのような会話が交わされたのか、マリアージュも知らぬそうである。しかしそれをきっかけにヒースはミズウィーリ家に召抱えられた。
丁度その頃に前後して、跡継ぎとされていた女王の娘が流行り病で命を落とした。結果、女王候補が上級貴族の家から選出されることとなった――女王には、二人の王子しか残されていなかったからである。
そこに目をつけたのがマリアージュの父であった。家のかつての権勢を取り戻すために、彼はマリアージュが女王になることを望んだ。そしてその補佐を、ヒースに頼んだのである。
「お父様の頼みを受けたヒースは、早々に動いたわ。あちこちの家に出かけていって、次々に私が女王候補となるための他家の承諾を手に入れてきた。……そうして気がついたら、家は持ち直し……いつの間にか私も、女王の候補者になってたのよ」
「なるほど。その功をお認めになって、ヒースを代行として指名されたんですね」
単なる下男として仕えるようになったわけではなく、まず命の恩人として、ヒースはマリアージュの父の信を得たのだ。さらに誘拐事件の際に見せた機転の良さを存分に揮って、ミズウィーリ家の状況を建て直し、支援を得てマリアージュを女王候補にまで押し上げた。
その有能さを目の当たりにすれば、当主代行という立場をヒースに託したいという気持ちを、マリアージュの父が死ぬ間際に抱いたのもわかる気がする。
「ねぇ、この話、おかしくない?」
「え……どこがおかしいんですか?」
マリアージュの問いかけに、ダイは瞬いた。話の内容の一体どこが奇妙なのか、ダイにはさっぱりわからない。
マリアージュが女王になればミズウィーリ家が持ち直すという前当主の考えもわかるし、召抱えられたヒースがそれを手伝うこともある意味当然といえる。幾度も出かけて交渉を重ねた末に、マリアージュへの賛同をもぎ取ったというところだろう。この話のどこに、一体マリアージュのいう不自然な点があるというのだろう。
「おかしいじゃない!」
マリアージュは円卓を両手で叩き主張した。
「ヒースが出かけていくと、必ずどこの家も味方になってる。どんなに敵対していた家でもよ。うちよりも格上の家で、候補者になれる子が大勢いたはずなのよ……なのに、私が候補者になってた。絶対……絶対何か、おかしな方法を使ったに違いないのよ」
「おかしな、方法、ですか……」
マリアージュの言葉を、ダイは反芻した。
不快感を吐露したマリアージュは、喉が渇いていたらしい――ごくごくと音を立てて、紅茶を飲み干していく。そんな彼女を見つめながら、ふと胸中に湧いた疑問をダイは口にした。
「……候補者になられたことは、マリアージュ様にとって喜ばしいことではないのですか?」
ダイは、マリアージュが女王になる手助けをするために召(よ)ばれてきた。だというのに、この一月近く、マリアージュが選出の儀への下準備に、意欲的であったことは一度たりともない。今日もそうだ。服を選びながら、しきりに面倒だと呻いていたし、癇癪を起こすことも日に一度や二度ではきかない。
「別に女王になりたいなんて思ってないわよ。言ったでしょ。なれるとも思ってないの」
「……では何故、女王候補を辞退されなかったのですか?」
女王候補は選出された後、本人の承諾を得て決定となるのだと聞いている。マリアージュが否といえば、彼女の言うところの他の子女たちに、女王候補という場所を明け渡すことは可能だったはずだ。
「だって、お父様の、遺言なんだもの……」
きゅっと眉根を寄せ、マリアージュが神妙な面持ちで呟く。
「……遺言?」
「そうよ」
鸚鵡返しの質問に、彼女は頷いた。
「お父様が、私に頼んだの。女王になってって。そんなこと、初めてだった。……でも無理だわ。女王候補になれてしまったことは私だって驚いてる。だけど、そこまでよ。こんな私を誰が選ぶっていうの? あの四人を差し置いて。いくらヒースが動いても、うちとあの四人の家とじゃ影響力が違うわ。馬鹿でも、それぐらいわかるわよ」
「マリアージュ様」
「ヒースは家柄なんて関係ないっていうけれど、家柄以上に私が駄目なのよ。踊りは下手。歌だって上手くないわ。頭も良くない。勉強嫌いだもの。美しくもない……性格だって、この通りよ。可愛くないって自覚ぐらいあるわよ」
「マリアージュ様」
「なれるはずがないって、私はずっと言ってるのに、女王候補になったなら、女王にもなれるって、当然のように思ってる」
「期待してしまうのは、仕方がないんじゃないですか?」
マリアージュ曰く、傾きかけていたミズウィーリ家の若き主人が、女王候補となったのだ。これはひょっとして女王にもなれてしまうのではないかと、期待をかけてしまうことは仕方がない。
ダイの問いに、マリアージュが頭を振った。
「期待、なんてもんじゃない。みんな私が女王になるって、信じてるのよ。ヒースならそれが出来るって。間違いないって。私を女王候補に推してくれた、他の家の人たちだけじゃないわ。うちの家の使用人たちだってみんな、いつの間にか、ヒースの味方になってしまってる。あの、ローラたちでさえ」
新参であるヒースを警戒していたはずの、古参たちでさえ、今は彼の命に従って粛々と仕事をこなし、日々を過ごす。
そのことは、マリアージュにとって手ひどい裏切りのように思えたのかもしれない。
「……だからきっと……なれなかったときに、責め立てられるのは、私なんだわ……」
噛み締めた唇の隙間から搾り出すような呟きを零し、今にも泣き出しそうなマリアージュの様子に、ダイは言葉を失った。彼女がこのように弱音を吐くのは、ダイが新参者であるが故だろうか。何か気の利いた言葉をかけることができればよいとは思ったが、上手く思い浮かばない。
「……誰も、マリアージュ様を責めたりなどしません」
結局、ダイは月並みに彼女の考えをやんわりと否定することしかできなかった。マリアージュが面を上げ、ダイを睨め付けて唸ってくる。
「なんであんたにそんなことがわかるの。まだ、こちらにきて一月も過ぎていないくせに。みんな私が女王になってほしいのよ。当然よね、自分たちが仕えてる家の娘が女王になったら鼻が高いに決まっているもの」
吐き捨てるように言ったマリアージュは、続けて断言する。
「絶対、責めるに決まってるわ」
「……少なくとも、私は責めたりなどいたしません」
責める、理由がないのだから、と、そう思ってした発言は、マリアージュの神経を逆撫でするだけのようだった。身を乗り出して、彼女は叫ぶ。
「私が女王にならなかったら、あんたわざわざこっちに来た意味ないじゃない! あんただって女王の化粧師になれれば箔がつくから、居心地よかったらしい前の仕事場捨てて、雇われたんじゃないの!?」
恨めしそうなマリアージュの問いに、ダイは面食らい、湧き上がる憐憫に渋面にならざるを得なかった。
「そうじゃないです」
どうして彼女は、このように他者が名声しか望んでいないと思うのだろう。貴族に雇われれば、もし何があっても後々仕事を探しやすくなるだろうとの思惑があったことは事実だが、自分は名声を望んでいるわけではない。
「前の職場も好きでしたけれど……私はずっと、新しい仕事場を探していたんです。そうしたら丁度リヴォート様が、具合のよい仕事を持ってきてくださったから引き受けただけで。私は、貴女様が女王になれる手助けにと、呼ばれました。ですから、貴女様が女王になれればと、思ってはいます。マリアージュ様が女王になれなかったら、残念に思います。けれど」
自分にとってマリアージュが女王になろうがならなかろうが、最終的にはどうでもよいことだ。
「私は貴女様を責めたりはしません。責める理由がないです。お前の化粧が悪いのだと責められて、解雇、されない限りは」
花街の人々を苦しめずに生きることのできるこの場所で、ずっと雇い入れてもらえるというのなら、マリアージュが女王だろうが上級貴族だろうが、中級のそれだろうが、構わぬことなのだ。
ミズウィーリ家に余裕がなくなって解雇されてしまっても、貴族に雇われていたという経歴が消えるわけではない。
「マリアージュ様。貴女様はお父様の遺言に従って、もう女王候補でいらっしゃる。せっかくここまで来たんですから、マリアージュ様はもう少し頑張られたほうがいいと、思うことは思います。でも、それだけです」
マリアージュは唇を引き結んで沈黙していた。彼女の胡桃色の双眸は、ダイの真意をつかみかねているようだった。そこまで疑わずとも、とダイは苦笑する。本心を述べただけなのに。
頬を紅潮させて対面の席に腰掛けている少女を見返しながら、ダイは思う。
マリアージュは、自信を持てずにいるのだ。
だからこんなにも不安がる。彼女が頻繁に癇癪を起こすのも、その表れなのだろう。
冷めてしまった紅茶の入った茶器を握り締め、ダイはマリアージュに語りかけた。
「がんばらなければ、責める人もいるかもしれないですが、がんばったらきっと、選ばれなかったときは仕方ないって、みんな笑ってくださると思います。だって、ここの人たち皆さん、マリアージュ様が小さいときから、仕えてらっしゃるんでしょう?」
侍女頭のローラが、ここに仕えるほとんどの使用人は、親の代からミズウィーリ家に仕えているのだと口にしていた。マリアージュを、生まれる前から知っていることになる。
そんな、赤ん坊の頃から見ている主人に対して、彼女らはマリアージュが危惧するほどに厳しく当たるだろうか。
「あんたの考え方って、すごく楽観的ね」
眉をひそめたマリアージュが、呆れ顔で見返してくる。ダイは瞬いて、首を傾げた。
「そうですか?」
「そうよ」
「でも生まれついての立場とかは仕方がないですし、苦手なことは誰だってありますし。きっと……頑張れば、変わることも、あるでしょう」
化粧もその「努力」の一端だ。生まれついての顔立ちはどうしようもない。それを、肌の手入れと化粧で美点を引き出し、また美しさを損なうものを巧妙に隠す。そうすることで、女達は美しく変わることができるのだ。それが自信につながり、やがては化粧などなくとも彼女達は自分で輝いていく。
化粧だけではない。
自分の存在もまた、花街の人々の努力の結晶でもあるのだ。
彼女達の尽力なくしては、自分は今この場所に立っていなかった。
「皆がリヴォート様の味方になるとおっしゃっていましたが、それはきっと、あの人が一生懸命だからだと思います」
あの男は、真摯に、ダイに訴えたのだ。
彼の主を、真の、国の主に。
その必死さがなければ、いくら花街を出なければならなかったとはいえ、彼の申し出を受けることはなかっただろう。
「必死に貴女様を女王に押し上げようとしていらっしゃるから、皆味方になっているのだと」
「でもあの男が必死なのは結局、あの男もまた私が女王になることで権力を得たいからってことなんじゃないの?」
「……さぁ、それは私にもわかりませんが」
今のマリアージュには、仮に女王になったとしてもヒースの手助けが必要だろう。女王の側近ともなれば、確かに権力を手中に収めることができる。
見る限り、ヒースは権力に固執していなかったような気がするが、マリアージュの言葉もまた道理だった。
そもそも、だ。
「……なんであのひと、マリアージュ様を女王にしたいと思われてるんですか?」
マリアージュの父が生きているというのなら、あのように身を粉にして働くことも不思議ではない。が、長年の恩があるというだけならばともかく、ヒース本人と契約を交わしたものが故人となった今、良好な関係を保っているとは言いがたいマリアージュのためにあそこまで動き回るということは、多少不自然な気もする。
「あのね、そんなこと私が知りたいわ。でも権力欲しさ以外に考えられないの」
「……リヴォート様は、なんておっしゃってるんですか?」
「お父様の恩に報いるためですって。誰がそんな聖人君子の回答を信じるのよ」
マリアージュの言うことはもっともだった。権力を手に入れるため、という理由が一番しっくり来る。
けれど、どうしても――……。
「もういいわ」
考えあぐねて黙り込んだこちらに、マリアージュが大きく息をついた。
「あんたも結局、ヒースの味方ってことじゃない」
「え……え?」
彼女は億劫そうに立ち上がり、扉のほうを真っ直ぐ指差す。
「衣装合わせを再開するわ。ティティアンナを呼んできて」
話を突然打ち切り、彼女自身が追いやった侍女を呼ぶようにと命じるマリアージュに、ダイは当惑した。
「マリ、ア」
「ぐずぐずしない!」
「はいっ!」
だん、と足を踏み鳴らされ、ダイは直立して一礼し、慌てて外に飛び出した。廊下に踏み込んだところで振り返り、マリアージュの様子を窺う。扉の向こうでは無気力な眼差しで椅子に腰を下ろす少女の肩が揺れていた。
ゆっくりと扉を閉めて、嘆息する。
残像のように瞼の裏に残る彼女の様子が、あまりにも痛々しく、目に映ったからだった。