第二章 稀なる歓待者 4
レイナの父は八年ほど前に亡くなったとシーラから聞いた。
「市長になったのはね、お父様が亡くなられてからだけど、お仕事自体はその前からずっと手伝っていたの。でも、ダイと同じなのは年数だけだわ。レイナはね、市長っていっても肩書きだけなのよ」
「そんなことはないでしょう?」
「そんなことあるのよ。政治のことは、なぁんにもわからないし、していることといったら、お茶会とか晩餐会を開いて、たくさんのひとを招いて、楽しくなって帰っていただくようにするだけ。……マリアージュ様は、きちんと政治を見ていらっしゃるのでしょう?」
「えぇ……まぁ」
マリアージュ単独で政務を裁いているかと問われれば答えは否だ。正しくは宰相のロディマスが懸案を処理し、マリアージュが裁可の判と署名をしている。
ダイが明言を避けて肯定すれば、レイナは無邪気に手を叩いた。
「すごいわ! さすがマリアージュ様!」
ダイの主君がこの場にいれば、微妙な顔をしていただろう。
「もったいないお言葉、主君に代わって御礼申し上げます」
ダイは手を止めて、丁寧に礼をとった。レイナが面映ゆそうに肩をすくめる。
「いやですわ。ダイったら仰々しい」
「いえ、本当にありがたいお言葉です。……ただわたくしがこのように申し上げるのも不遜かと思いますが、レイナ様もすばらしい市長であらせられます……。レイナ様が行われていることは、立派な外交です」
花から花へと渡り飛ぶ蝶のように、飽きることなく人の輪を行き来する。彼女がひらりと身を寄せた場所から笑いが咲き、それがまた次の歓談の呼び水となる。
だれひとりとして飽きさせず、楽しませるには技量がいる。
それをレイナは持っている。
「昨日の会もわたくし含めて皆が楽しませていただきました。レイナ様のお力だと思います。レイナ様は、天性の社交家でいらっしゃる」
「まぁ……ありがとう」
「レイナ様から次のお誘いがあれば、どのような用事を押し退けても駆けつけたい。そんな気分になりましたよ。レイナ様を市長として戴くルグロワ市は幸せでしょう」
観察したかぎり、レイナの折衝能力は非常に高い。有能そうな政務官たちの手綱も握っているように見える。
(本当に羨ましい)
ダイは祖国の城内の軋んだ空気を思い返した。レイナに、ルグロワ市に、羨望を抱かずにはいられなかった。
「嬉しい……」
レイナが陶然とした響きで呟いた。
「ダイにそうおっしゃっていただいて、レイナ、本当に嬉しい。……このままじゃ駄目だって、レイナ、おじ様たちによく叱られてばかりだから」
「……おじさま?」
ダイは鸚鵡返しに問いながら、小瓶の整理をする手を止めた。レイナが慌てた様子で謝罪する。
「ごめんなさい。クランのほかの市長の方々のことなの。みんなお父様の友人だった……。レイナの小さい頃もご存知なの。心配してよくこのルグロワに遊びにきてくださるのよ」
「そうなんですか……」
ルグロワまでに通過した市長たちはとても若い市長を心配して遠路を旅するようには見えなかったが。
(まあ、外と身内じゃ扱い違って当然ですよね……)
気を取り直してダイは練粉や蜜紅の収まる色板を引き寄せた。
「それでは、お化粧のほうに移らせていただきますね」
「はぁい」
レイナの返事を待って椅子に腰を下ろす。レイナの椅子よりも座面の位置の高いちいさな椅子だ。せっかく用意されていたので使わせてもらう。
ダイは清めた己の手の甲に練粉を薄く延ばした。レイナの肌に合うかを定めながら彼女に問う。
「市長の方々ってけっこう交流されるんですか?」
「交流? ううん、どうなのかしら……。レイナはありますけれども、ほかの市長の方々については、よくわからないわ」
「レイナ様ご自身はほかの街によく出かけられます?」
「いいえ、あんまり」
その声音が思いがけず低く響いて、ダイはレイナをまじまじ見つめた。
彼女はあろうことか下唇を突きだして、不機嫌な子どものような顔をしていた。
「おじさまたちのところって、船じゃなくて馬車を使わなければならないのだもの。レイナ、埃っぽいのは大っ嫌い、なの!」
「レイナ様」
たしなめる言葉が壁際からかかる。その声の主をダイは一瞥した。これまで沈黙を保っていたシーラが苦笑いをしていた。
「もう少し違う言い方もありましょう。ダイ様は賓客のおひとりですよ」
「気にしないでください。大丈夫ですよ。……いまどきは流民も多くて危険ですから、レイナ様のような方は外出することを減らすに越したことはないと思いますよ」
「ダイ、やさしい……」
「レイナ様」
シーラが鋭く呼ばわい、レイナは首をすぼめた。シーラが、まったく、と嘆息して、ダイに微笑みかける。
「本当に、申し訳ございません……。ですが改めてその危険な道程を越え、遥々ルグロワまでお出でくださった皆様には、深く感謝しております。その積極性をわたくし共も見習わなければなりませんね」
「そういえば、ルグロワでは流民の方々をどの程度は受け入れているんですか?」
クラン・ハイヴの都市群はデルリゲイリアほど流民に危機感を覚えていない印象がある。浮浪の民は確かにこの近郊まで流れてきているはずなのだが。
「外のひとなんて入れたりしないわ。デルリゲイリアでは流民を受け入れていらっしゃるの?」
「え? ルグロワでは受け入れていないんですか?」
「街の出入りは制限しているの。きちんとしたところの方しか、ルグロワに入ることはできません」
ルグロワのみならずクラン・ハイヴの都市群は二重の外壁に守られている。砂嵐のみならず外敵の侵略に備えたその堅牢さはデルリゲイリアのそれを優に上回る。内から開かれないかぎり鼠一匹すら入る余地がないほどだ。
浮浪民対策の件でデルリゲイリア側とクラン・ハイヴ側にはかなりの温度差があった。市長たちの冷淡な態度は流民の実被害が都市内部で少ないことも理由の一端なのかもしれない。
「出入りの制限は一時的なものなんですか?」
目の詰まった海綿を銀盆から取り上げながらダイは疑問を口にした。
このご時世だ。どの国も入国に制限をかけている。しかし厳格の度が過ぎれば人の流れがよどんで経済的も精神的にも支障をきたす。
ダイの問いにレイナが首を横に振った。
「いいえ。レイナが市長になってからずっとよ。お父様から頂いたものをそのまま保つには、そうした方がいいと思ったの」
外から人を拒まないほうがよい気もする。だがそれを指摘できる立場ではない。そうですか、と相槌を打ち、ダイは大きな筆を取り上げた。やわらかな毛に白粉をふんだんに含ませてレイナの肌を刷く。
なめらかな肌が、輝きを増した。
「レイナはね、ルグロワを守らなければならなかった」
白粉の載り具合を確かめるように、頬に指先を這わせてレイナは言う。
「本当はね、ルグロワが大嫌い。せっかくダイに磨いてもらっても、砂のせいできっとすぐにぱさぱさになってしまうわ。それに市長って退屈なの。おじさまの接待ばっかりなんだもの」
「……それなのに、市長になったんですか?」
「えぇ」
彼女がその地位を得たときまだ十に届くか届かないかの少女だったはずだ。
「市長は世襲制? ……辞めたいって思ったことはありますか?」
「むりやり祭り上げられたのではありません。市長になることはレイナが決めたの。皆は協力してくれただけ。辞めたいって思ったこともね。ないのです。だって……」
レイナが正面に置かれた鏡に映る己に微笑んだ。
ダイはその静かな微笑を知っている。
覚悟を決めた者たちが浮かべるそれ。
「レイナは、ルグロワをだれの好きにもさせたくないのです」
レイナは決然と言った。
「レイナはルグロワが嫌いだけれど、お父様が大事にしていたルグロワを、レイナ以外のだれかが汚すのは許さない。お父様が大事にしていたときそのままのルグロワをレイナは守る。そう、決めたから」
ダイが見下ろす市長の顔は一国の君主のそれそのものだった。
「やはり、ルグロワ市の方々は幸せでしょうね」
ダイは色板を引き寄せながら告げた。
「ご自分にとって嫌なことを押し殺してでもルグロワ市を守ろうとされているレイナ様を長に戴くのです。……きっととても、幸せだと思います」
「……うれしいな」
ダイを見上げていたレイナがあどけなく笑った。
「そんな風に言ってくださってうれしい……。マリアージュ様こそ、ダイがいて、幸せに違いないわ。だってこんなに短い時間で、レイナをとても幸せな気持ちにしてくれるんですもの」
「それほど喜んでいただいて恐縮です」
「本当よ。レイナもダイを喜ばせることができればいいのだけれど」
「そのお気持ちをいただけるだけで充分ですよ」
「ダイは謙虚ですね。……あぁ、そうだわ。午後は予定を少し変えて遠出しましょうか」
「遠出?」
化粧の手を止めて尋ねたダイにレイナが首肯した。
「そうです。午後の予定は聞かれまして?」
「……視察とは伺っていますが」
ダイがこちらに赴いた時点では、予定地は決まっていなかった。
レイナはにこりと笑った。
「ルグロワが河を縦断する商船の拠点として発展したことはお話させていただきましたね。それでね、午後はデルリゲイリアの皆様に船に乗っていただくことにしたのです。マリアージュ様にはもうお報せいたしました」
引退した商船を市が買い取り所有しているらしい。それに乗船して遊覧する予定なのだとレイナは述べた。
「ですけれど、ただ町を眺めるだけではつまらないもの。少し河を遡って遠出をしましょう。ダイ……と、マリアージュ様への、お礼に」
「え、いえ、でも」
レイナの提案に対しての可否を決定する権限をダイは持たない。ダイは助けを求めてアッセを見た。シーラの横で壁になっていた彼は困惑の表情で首を横に振っただけだった。
「ダイ」
「はい」
ダイは慌ててレイナに視線を戻した。
彼女はダイの手を取り、もう決まったと言わんばかりの口調で、歌うように告げてくる。
「ぜひご覧にいれたい、めずらしいものがあるの。きっと喜んでいただけると思うわ」
終始上機嫌だったレイナの相手をした化粧師は昼を前に彼の主君の下へと戻った。それからしばらく下男たちが部屋の片づけに動いていたが、化粧の記録をとっていた侍女も今は下がり、部屋にはレイナとシーラのふたりだけだ。
レイナはずっと手鏡を覗き込んでいる。
化粧師を見送ってからずっと。
己の顔を様々な角度から眺めている。
部屋に射す光の角度があきらかに変わったころ、レイナはようやっとシーラを見て唇を動かした。
「ね、シーラ」
あまく響く、懇願の声色。
レイナが鏡を卓上に伏せ起き、ゆっくりと立ち上がった。
小鳥のように、小首を傾げる。
「レイナ、ダイが欲しい」
シーラは息をそろりと吐いた。
「……悪い虫をお出しにならないでください。先日のことをもうお忘れになったのですか?」
「あら、なんだったかしら」
「エスメル市長のことですよ」
「レイナ、無能のことなんて知らないわ」
グラハム・エスメル。哀れで矮小な男。野望だけ肥大化させて客観的に己を見ることをしなかった。
焚きつけられてそのまま出兵し、そして拘束された男に対して、寄せるべき情をシーラは持たない。
だが巻き込まれた者たちは気の毒だと思う。
シーラはレイナを見下ろした。
彼女の二重を控えめに彩る鮮やかな緑。形よいくちびるを濡らす青みを帯びた紅の蜜紅。頬に注した紅の色とその濃淡もまた絶妙だ。
うつくしくにおいたつような。
それでいて毒々しい華やかさ。
素人目にみても化粧師の技巧は見事だった。
(……あの方はレイナ様の本質をわかってされていた……?)
「シーラ」
レイナがシーラの腕に触れる。
シーラの主は嫣然と微笑んだ。
「お願いシーラ。レイナ、ダイが欲しい」
「……なぜあの化粧師を」
愚問だと知りながらシーラは尋ねずにはいられなかった。
「なぜ、ですって?」
案の定、レイナは失笑した。
「おかしなことを訊かないで? レイナは馬鹿な子は嫌いよ」
「申し訳ございません」
「でもいいわ。とっても気分がいいから教えてあげる。……ダイがいたら毎日を気持ちよく過ごせそうでしょう? ダイはレイナをうんときれいにしてくれるもの」
それにね、と、レイナが目を細める。その瞳は獲物を前にした猫のように爛々と輝いていた。
「ダイってばとってもきれいなんだもの」
シーラは化粧師の容貌を思い返した。
緑の黒髪、月色の目、白磁の肌。中性的な整った顔立ち。身体は小柄だが、芯のある立ち姿をしている。
いかにもレイナの好みそうな少年だ。
「ダイはレイナのことをいやらしい目で見たりしなかったわ。……そういう子は、特に好きなの」
ね、シーラ。
何度目かになる呼びかけにシーラは応じた。
「はい、レイナ様」
レイナがシーラの顔を覗き込みながら問う。
「レイナは、カワイイ?」
はい、と、シーラは首肯した。
「レイナは、キレイ?」
「はい」
「うつくしい?」
「はい」
これまで幾度となく繰り返した問答。
「キレイな子はキレイなレイナの傍にいるべきだわ。そうでしょう? シーラ」
「……はい」
レイナは満足そうに微笑んだ。
「レイナ、あの子がほしいな」
レイナが言いだしたことは覆らない。
それを嫌というほどに承知している。
シーラは承諾に頭を垂れた。
「かしこまりました。我が君」