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第二章 稀なる歓待者 3


 ルグロワ到着初日から一夜明けて間もない時分。
 目を通し終えた書類を傍に控えていた男に返却してマリアージュは命じた。
「先方に了承の旨を伝えなさい。それからその予定に添った支度を」
「かしこまりました」
 文官が丁寧に一礼する。エイレーネの代から王城に勤めている文官で、この旅の采配を受け持っている壮年の男である。国の外には初めて出たということで、旅の初期こそうろたえていたが、だいぶん物慣れてきた様子だった。
 用件を終えた男が退室していく姿を横目で眺め、マリアージュは腰掛ける椅子に深く沈み込んだ。
 まだ一日しか過ぎていないとはいえ、ルグロワ市長の振る舞いには疲れた。二日目も先が思いやられる。
 しかしそのレイナに与えられた迎賓の間はなかなか快適だった。いくつも配置された等身大の窓は中庭に面していて、外で煩わしかった粉塵もいっさい入らない。土壁を覆う織物も色彩ゆたかだが華美過ぎず、調度品も選び抜かれたものだとわかる――だらだらするだけの別宅であったならば申し分ないのだが。
 そうは言っていられないのが実情だ。行事ごとは詰まっていたし、次から次へとひとも来る。
 などと思っているうちに、だ。
「はぁい、陛下。ちょっといいかしら?」
 許可なく扉を開けて女が部屋にすたすた入ってきた。アルヴィナだ。傍近くで立ち止まった彼女は、ゆるく一本だけ編んだ三つ編みをぷらりと揺らして、マリアージュの顔を覗き込んだ。
「不機嫌ねぇ。だったらあの市長さんのとこにダイを行かせなきゃよかったのに」
「別に、そんなんじゃないわよ。早朝から働かされて眠いだけ」
「それはお疲れさま」
 砕けた口調でアルヴィナが労いの言葉を口にする。自分を除けば部屋にだれもいない状況で、アルヴィナはとりたてて敬意を示さない。マリアージュも腹を立てない。
 デルリゲイリアから連れてきた侍女はユマを含めて三人いるが、ひとりを隣室に残してこの時刻からもう出払っている。静かな部屋にため息を響かせて、マリアージュは身体を起こした。
「調査は終わったの?」
「えぇ。ひと通りね。マリアの読み通り、ほかの場所にも盗聴の術式が仕掛けられていたわ。数はそんなでもないし、術式自体もたいしたものじゃないけどねぇ……はい、これ。調査書」
 アルヴィナが手にしていた皮製の書類挟みを差し出す。受け取ったそれを開くと、収められていた迎賓区画の図面に細かく書き込みが成されていた。
「この部屋にしたように、だいたい無効化しておいたから。でも、注意してね」
「……全員に話したら、まずいかしらね……」
「怖がったり萎縮したりするひとは出るかもねぇ。アッセ君とかだけに話しておいたら?」
「そうするわ。じゃあこれをアッセが戻ってきたら見せておいて」
「彼が見たら処分する?」
「任せるわ」
「はぁい。……ふふ」
 書類挟みを引き取りながらアルヴィナが唐突に笑いだす。マリアージュは彼女を奇異の目で見上げた。
「何がおかしいの?」
「おかしくないわぁ。感心してるの。市長さんたちにほだされて、もう少し気を抜くかなぁって思ってたのよ」
「アルヴィナ、あなた知らなかったわけ?」
 思わず皮肉に口の端を持ち上げる。
「私は、疑り深いのよ」
 昔から人を素直に信じる性質ではなかった。だがその度合いには即位以来、磨きがかかっていると思う。
 少し優しくされた程度で暢気にはなれない。
「……そうね」
 アルヴィナが同意し、にっこりと笑った。
「私はあなたのそういうところを買っているわ、マリア」
「……私はあんたも信用してるわけじゃないわよ、アルヴィナ」
 マリアージュが睨めつけてもアルヴィナは笑ったままだ。むしろ上機嫌といっていいほどだった。
 息を吐いて、マリアージュは呻いた。
「あんた、いったい何のために、ダイに付き合ってんの?」
 答えを期待しているわけではない。疑問を口にせずにはいられなかっただけだ。
 アルヴィナの魔術の技術は腕利きの範疇を越えている。それをマリアージュももう理解していた。
 マリアージュはまだ忘れていなかった。あの、女王に選ばれた、雷雨の夜。マリアージュに差し向けられていた刺客を、この魔術師が青い焔で焼いた。その次の瞬間には空間から空間を渡って、離れたミズウィーリの庭にいた。
 転移の魔術はもう伝説とも呼べるほど遠い昔に失われた。百歩譲って術が廃れていなかったとしても、呪の詠唱も陣も、何もなしに行使することがどれほど困難か。ある程度の知見を得た今ならわかる。
 転移に限らない。アルヴィナはだれも知りえない数多くの術を呼吸するように扱う。女王である自分に対等に口を利くアルヴィナに難色を示す気にすらなれない理由はここにある。彼女が本気になればおそらくマリアージュを殺すどころか国を滅ぼすことすら容易い。
 そのような常軌を逸脱した魔術師が、なぜダイに肩入れするというのか。
 そしてそれは、いったい、いつまで。
「……わたしに、じゃなくて、ダイに付き合っているっていっちゃうマリアのそぉいう間違えないとこ、とっても好きだわぁ」
「真実でしょう」
 アルヴィナは笑みを絶やさない。
 けれどもその瞳は驚くほど冷えている。
 その奥に真の親しみが宿るときは、ダイを相手にしているときのみだ。
 だがそれでも信用ならない――冷えた瞳がダイ相手にやわらかく崩れるのはあの男も同じだ。
「アルヴィナ」
「なぁに、陛下」
「……あんたはダイの味方?」
 マリアージュはアルヴィナを見上げた。口元に薄い微笑を刷いてわずかに目線を伏せるその様は、大聖堂で仰ぐ聖女に通じる不思議な静謐さを湛えていた。
「……私はね、探しものをしているのよ、女王陛下」
「探しもの……?」
「そう。ダイの傍にいれば見つかるような気がしているの」
 アルヴィナは立てた人差し指を己のくちびるに押し当てて囁いた。なぁいしょ、だからね。
「……安心して、マリア。私はダイの味方だよ。そして、暗愚でないかぎりは、あなたの」
「……ならあんたが私の味方になる日は遠いでしょうね。私が暗愚でない日はないでしょうから」
「あらやだ自己卑下かわいくないよ」
「私も謙虚になったのよ」
「謙虚! マリアの口から! 成長したねぇ……」
「うるさいわよ」
 マリアージュは肘置きに頬杖を突いて呻いた。アルヴィナが、ふふっ、と吐息を漏らす。
「マリアったらほぉんと不機嫌さん。それでよくダイを市長さんのところに行かせたねぇ。エライエライ」
 あのね、とマリアージュはぬるい視線を魔術師に送った。
「ダイは私だけを化粧していればいいって立場じゃないのよ。動かなきゃなんないの、あの子は」
 そうして、働きぶりを内外に示す必要があった。
 こんこん。
 軽い音が響き、マリアージュはアルヴィナと揃って面を扉へ向けた。次の客が来たのだろう。
 おしゃべりの時間は終わりだ。
 既に出入り口へ歩き始めていたアルヴィナの背にマリアージュは問いかける。
「ダイにはアッセをつけたわ。……あんたの鳥だってダイを守るんでしょ?」
 歩みを止めたアルヴィナが顔だけで振り返って肯んじた。
「もちろん。……だから安心なさいな」
「……不安には思ってないわよ」
「あらぁ、そうなの?」
 アルヴィナが扉の取っ手に手を掛けて首をかしげる。
 マリアージュは卓の上に置かれた侍女を呼び出す鈴に手を伸ばしながら呻いた。
「なんでよりによってあの市長にダイを貸さなきゃいけないのかしらって思ってるだけよ」
 アルヴィナが、ぷは、と盛大に噴き出す。そのまま腹を抱えてけらけら笑いだす様子を、廊下で立ち竦む文官が、開いた扉の影から目を丸めて見つめていた。


 

 まだ日も昇りきらぬうちから迎えに来た男が案内した場所は、南東に面した正方形の居室だ。ルグロワ市の紋章が刻まれた絨毯が敷かれ、その中央には大きさ異なる椅子が一脚ずつ。姿見や、作業台を果たす円卓も用意されていた。
 その卓上に化粧鞄の中身を検品しながら並べていく。
 保湿用の薔薇水に、月桂樹の実の精油。蜂蜜。蜜蝋。乳清。ほかにも数品。
 加えて、レイナが日用的に使用しているという品々。
 それらの詰まった玻璃製の小瓶が卓の上で朝の弱い光を乱反射する。
 盥の中に水を注いで、用途多様な布を数え――道具類に欠けがないかを確かめながら、ダイは胸中で独りごちた。
(昔はマリアージュ様って、私がほかの方に化粧するの、嫌がられていたのになぁ)
 まだ女王として即位する前のことだ。その頃は侍女たちの顔で練習することもよく思っていなかったらしい。
(アリシュエル様のときもすっごく嫌がっていましたしね……)
 女王候補の筆頭であったアリシュエル・ガートルード。彼女の化粧をダイが引き受けたあと、マリアージュは癇癪を起して近づけたものではなかった。ずいぶんと苦心して宥めたのだ。
 ――……あれからまだ二年と経っていない。
 遠い昔のように、思えるのに。
「ダイ?」
 どうやら作業の手を止めてしまっていたらしい。
 レイナの問いかけにダイは我に返った。重量感のある椅子に深く身を預けて、レイナが訝しげにダイを仰いでいる。
「申し訳ございませんでした、レイナ様」
「いいえ、謝る必要はないわ。楽しそうにお仕事なさるのねって思っただけですもの。レイナの子たちもダイみたいににこにこしながらレイナにお化粧してほしいわ」
 みんなとっても口うるさいのよ、と口先を尖らせるレイナにダイはつい微苦笑を浮かべた。
「我が君と同じことをおっしゃいますね」
「マリアージュ様と?」
「はい。私など、それはそれは、口うるさいと」
「そうなの? でも、マリアージュ様はよき王でいらっしゃるのね。ダイたちに諫言を許しているのだもの。寛容であらせられるのだわ」
「それをいうのならレイナ様も同じでしょう。侍女の皆さまのお小言をお許しになるレイナ様。よいご主人でいらっしゃる」
「あら、上手に返されてしまいましたね」
 レイナはくちびるを指先で覆ってころころと笑った。
 曲がりなりにも一都市を治める地位に就いているとは思えぬほどに無邪気だ。
 ダイは改めてレイナを見下ろした。
 黄色がクラン・ハイヴの国色だと耳にしているが、それを意識しているのか、レイナはその小柄な鬱金色の衣装で包んでいた。高い切り替えしから足元にかけて、薄絹が幾層も重なりながら広がる衣装だ。豊かな胸元は蝶の形に結われた、幅広の繻子に覆われていた。その飾り結びを除けば、袖口と裾に縫い取られたつる草模様のほかに、装飾らしきものは何もなくすっきりとしている。だが彼女自身の資質か、不思議と華やかだった。
 ダイは準備を終わらせ、小卓を傍に引き寄せた。レイナに改めて一礼する。
「それでは始めて参ります」
「よろしくお願いいたします。ふふっ、楽しみ」
 ダイは粉除けの布をレイナの前に広げた。布の端をうなじで留めて、続けて卓から紙紐を取る。
「失礼いたします。御髪を」
 まとめるために襟足に手を差し入れる。小麦色の髪はやわらかで指通りなめらかだった。常に宙に漂う粉塵の影響を微塵も感じなかった。
 輪郭のあらわになったレイナのちいさな顔を、ダイは前に立てかけた姿見越しに見つめた。
 左右の狂いなく配された目。形のよい鼻。肉感的な唇。髪よりやや濃い色の肌も髪と同じくすべらかだった。
 今回は化粧のみならず手入れから行う。マリアージュから許可を取り、ダイ自らレイナに申し入れた。
 身体的接触は重ねれば重ねるほど相手との距離を縮めやすい。
 花街の芸妓たちは客たちからあらゆる情報を吸い上げる。それは彼女たちが話上手だからということもちろんだが、肌を重ねた客たちの口が軽くなることも理由の一端なのだ。
 手入れを通じてレイナに触れれば、同様の効果が多少とも期待できる。
(聞き上手かは自信ありませんけどね……)
 レイナの考えを読むことができないと、デルリゲイリアにここまで友好的な理由がわからないと。マリアージュは言う。幼い頃の憧れからという点だけでは充分でないとダイの主君は考えているのだ。
 ダイはそもそも政治向きの話などできない。
 しかしながらマリアージュとはまた違った視点で、レイナの人となりを知る糸口程度は拾えるだろう。
 ダイは精油を清めた手のひらに落とし、両手を擦り合わせた。レイナの背後に回り込んで、断りを入れる。
「失礼いたします」
 両手を伸ばしてレイナの顔に肩越しに触れる。首筋、耳の横、頬、こめかみ、額。順番に指の腹を滑らせていく。
 レイナが息を吐いた。
「きもちいい……」
「それはよかった」
 身を委ねるレイナに微笑みかけながら、彼女に抵抗はないのかとダイは訝った。ダイが暗殺者であれば急所をひと突きできる。
 ダイが化粧に加えて肌の手入れも提案したとき、レイナの側近たちは反対しなかったのだろうか。
 ダイは右の壁際を一瞥した。シーラが隙のない様子で控えている。彼女とダイたちの距離は護衛するにはやや離れすぎといえるほどだった。レイナ側の人間はこの部屋にはもうひとり。窓に接した書き物机でこちらの動きを書きとめている若い侍女のみだ。
 ダイの護衛はアッセが務めている。シーラと並んで立つ彼の肩にはのんびりと身づくろいする一羽の鳥。アルヴィナの使い魔だ。今も必ず連れて歩くように厳命されている。
「ねぇ、ダイ」
 ダイはレイナに意識を戻した。
「はい、市長」
「ダイは化粧の前にいつもこういう風にマリアージュ様に触れていらっしゃるの?」
「そうですね」
「なぜ?」
「お顔のむくみが取れますし、白粉の付きもよくなります。化粧の持ちもよくなりますし……。レイナ様は私のような専門の者をお持ちでないということでしたね」
「そうなの。毎晩お肌は磨いてもらうけれど、お化粧の直前までは。お化粧も、白粉を叩いて目元やくちびるに色を注すぐらいがせいぜいなのです」
 レイナが窓辺の机に視線を向けた。侍女がダイの手の動きを注視しながら筆記具を動かしている。
「ですから此度のことは彼女にとってとても勉強になりますわ。ダイは何年ぐらいこういうお仕事をしていらっしゃるの?」
 ダイは手を動かしたまま年数を計算した。
「十二年ほど、でしょうか」
「レイナと同じぐらいね」
「レイナ様と?」
「そう。レイナがね、この街を統治するお父様のお手伝いをしはじめてからと」


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