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第二章 稀なる歓待者 1


 ごとごとごとごと。
 規則正しい車輪の音を響かせる馬車の中は、墨色の紗を張り巡らせたかのようだった。暗く、渇いていて、時折だれかが零したため息が、塵芥と共に沈殿している。
 女王の為に設えられた箱馬車は寝台ともなる長椅子を備えた贅沢な造りだ。赤い天鵞絨を張ったその椅子に、気だるげに横たわるマリアージュの顔もまた、陰に沈んでいた。射し込む光を避けた位置から、眉間を寄せて外を見ている。その横顔をダイは従者向けに置かれた座席から眺めていた。
 ルディアたちと密かに話し合ってより一月半を過ぎてのち、ダイたちは西の国境を抜けてデルリゲイリアを発った。
 流民問題への協力を仰ぐに足る基盤を持つ国となると数は限られる。訪ねるべきは二国。デルリゲイリアの南西に位置する小国ひとつと、クラン・ハイヴだ。
 前者はデルリゲイリアの半分しか国土のない国だが歴史も古く、今の世にあってまだなお安定した基盤を維持していた。対してクラン・ハイヴは領土だけを見ればペルフィリアに匹敵か、それ以上。ただし、中央集権ではない。
 クラン・ハイヴは女王を戴かぬ国である。
 小規模な国として機能する六つの自治都市の繋がりから成り、連合国として扱われている。都市の長はそれぞれの領地の王であると同時にクラン・ハイヴを動かす議会の構成員だった。彼らとの友好的な関係は流民問題解決への布石となることはもちろん、ペルフィリアへの牽制ともなる。ダイたちは国境に近い都市から順番に訪ねて回った。
 しかし、結果は芳しくなかった。
 それが、この馬車の中の空気を重くしている。
 ダイは窓に頭を寄せて嘆息した。
(ひとりめ、は……)
 慇懃な態度で協力を約束することはできぬと冷やかな回答を寄越した。それでも検討の姿勢を見せていたのだからまだいい。
 ふたり目、三人目の市長は治める領地が国境から離れているせいか、流民問題には鈍感で取り合わなかった。加えて、化粧師に国章を与えたマリアージュを暗に非難した。彼女は無言を貫いたが、その表情には煮えくり返るような憤怒と苛立ちが滲んでいた。
 マリアージュがいつ癇癪を起こすかと気をもみながら四番目に訪れた都市では、市長に会うことすら叶わなかった。
 そしていま、ダイたちはクラン・ハイヴで五つ目の都市に向かっている。
 圧倒的に眩く広大な青の下、ひび割れた赤茶の大地を往く馬車の群れは、手ぶらで巣穴に戻る蟻の無様な列のように見えるだろう。
「……ダイ」
「はい、陛下」
「街が見えるわ」
 ダイは席を立ってマリアージュの傍らに膝を突いた。彼女の視線に添わせるかたちで外を見る。
 目を灼く白い日差しの向こう、粉塵をまとって屹立する尖塔群らしき影を顎で示し、マリアージュが尋ねてきた。
「あれがルグロワ?」
 クラン・ハイヴの中東部に位置する都市、ルグロワ。ダイたちが目指す五番目の都市だ。
「おそらく」
 ダイの返事にマリアージュは頷きすらしなかった。目を閉じて、着いたら起こしてと言った。
 腹部に重ねられた彼女の手の下には数枚の書き付けがある。ルグロワ市についてのものだ。デルリゲイリアで留守居をしているロディマスが、出立前にマリアージュに渡していたもので、クラン・ハイヴに入るまでは彼女も熱心に目を通していたのだ。
 しかしルグロワ市の分は手に取ったものの、きちんと読んでいるようには見えなかった。ダイも目を通したのかと確認を入れる気になれなかった。
 期待して、いなかったのだ。
 だから。
 驚いた。
「まりあーじゅっ、さまああああぁああああっ!!」
「――――っつ!?!?」
 ルグロワ市の正門を過ぎてすぐに待ち構えていた少女に、マリアージュが押し倒されたときは。
「きゃああ、本物だわ本物のマリアージュ様だわほかならない女王陛下ご自身にご足労いただけるなんてレイナ感激っ!」
 尻餅を突いたままのマリアージュに馬乗りになり、花を飛ばしながら身をくねらせる少女を、ダイは唖然としながら見下ろした。
 卵型の輪郭、長い睫に縁取られた大きな目、形よい小ぶりの鼻に、紅の刷かれた厚みある唇。結い上げられた小麦色の髪が光を浴びて黄金に輝いている。体躯は小柄で華奢ながらも肉付きよい。丸みを帯びた輪郭を浮き上がらせる衣装の裾がやわらかく広がっている。年はダイたちとそう変わらないだろう。あどけなさを残しつつも、あでやかな雰囲気を持つ少女だった。
「う、つっつ……た」
 少女の下敷きになって呻く主君の姿にダイは我に返った。理解の範疇を越えた出来事に思考が静止してしまっていた。ダイの隣ではアッセも剣の柄に手を掛けたまま硬直している。随行の官たちは似たり寄ったりの様子だ。
「だ、大丈夫ですか、マリアージュ様!」
「な、な、なな」
 ダイが助け起こされたマリアージュは少女を強く突き飛ばした。
「なんなのよっ、あんたはっ!?」
 一方の少女はマリアージュから離れ、きょとんと瞬いて小首をかしげる
「あら? ……きらわれちゃった?」
「嫌われちゃったじゃありませんっ!」
「きゃっ、いったぁあいっ! もぉ、なぁに、シーラ。ひっぱらないでよぉ」
「わたくしとてレイナ様の襟首を掴みたくはありませんよ! あぁもう、自己紹介もなく初対面の方に飛びつかれるだなんて、何を考えていらっしゃるんですかねこの方は!」
 仔猫を監督する母猫よろしく颯爽と現れた赤毛の女が、少女を捕獲したまま深々とため息を吐いてみせた。その背後では官吏の制服に身を包んだ老若男女たちが一様に青褪めている。額に手を当てて天を仰いでいる者もいた。赤毛の女に至っては怒り心頭の様子である。
 しかしながら少女に反省の色はまったく見られない。
「ごめんなさぁい」
 謝るにも軽薄にぺろりと舌を出す始末である。唖然を通り越して感心してしまった。
 だが、真に感心すべきはここからだった。
 ひらりと身をひるがえした少女は、座り込んだままのマリアージュから距離を取り、衣装の裾を両手で摘まみ上げて、先ほどまでとは別人のように優雅な所作で膝を折った。あどけなさをその顔から消し去り、ゆたかな髪を風に踊らせて、薄桃のくちびるに微笑を佩くさまは、万物を魅了する精霊さながらの妖艶さを有していた。
「わたくしはルグロワ市市長、レイナ・ルグロワ」
 彼女は深く頭を下げた官たちを背後に従え、聞き惚れるような朗とした声音で口上する。
「先の非礼、謹んでお詫び申し上げます。遠路遥々、ようこそおいでくださいました。ルグロワ市一同、皆々さまのご来訪を、心より歓待申し上げます」

 ルグロワの市長が女性であることは耳にしていた。
 が、初老の男が多い役職に就く彼女が自分たちと変わらない歳の、しかもあのように無邪気な少女であるとは想像していなかった。落ち着いた物腰のアリシュエルや、老獪さすら滲ませるセレネスティともまた異なっている。これまでに顔を合わせたことのない性質の少女だ。
「ご覧くださいな、皆さま! あちらがルグロワ河です」
 顔合わせを終えてそのまま城内を案内し始めたレイナが外を指し示す。乾いた風が程よく吹き込む円柱廊からは、ルグロワ市の街並みが一望できる。城と聖堂を中心として放射状に並ぶ褐色の集合住宅。どの角も漂う砂塵に削られて丸く、輪郭をどこか曖昧なものに見せている。
 それらの向こうに横たわる、遠目にもまばゆい光の帯。
 陽光を千々に浮かべた、ルグロワ河だ。
「大陸北部における商船基地として発達した街が、ルグロワですの。かつては大陸を縦断する船がおびただしく行き交っておりました。集めた荷をメイゼンブル公都へ送り届ける役目も請け負っていたといいますわ」
 往年の歴史を語るレイナの口調は滑らかだ。客人にもよるだろうが観光案内は彼女の役目なのかもしれない。
 明るい笑顔を振りまいて一同を先導する少女に、デルリゲイリアの官吏たちは緊張を解いたようだった。レイナにぞろぞろとついて歩きながら、彼女の発言を熱心に書きとめている。
 そのさらに後方で、ダイはマリアージュと連れだって歩いていた。
「絶対、罠だと思うんだけど」
 ダイにぴたりと寄り添いながら険しい表情でマリアージュが言った。
「罠よそうよ罠に決まってるわセレネスティみたいな女狐のにおいがする……」
「マリアージュ様、聞こえますよ」
「だって歓迎されるっておかしいでしょ!?」
「マリアージュっさま! そんな後ろにいらっしゃらないで、レイナの隣に来てくださいなっ!」
「きたあああああああああっ!!」
 上機嫌にも花を飛ばしながら駆けてくるレイナに、マリアージュがうわずった声音で悲鳴を上げる。その顔は真剣に強張っていて、レイナに腕を引きずられていく間も、ダイに目で必死に助けを求めている。
「レイナはマリアージュ様がいらっしゃると聞いてから、ずっとずっと楽しみにしていましたの。デルリゲイリアはレイナのあこがれの国でしたもの。ほら、ご覧になって、マリアージュ様。あそこの壁の絵でしょ。あそこの角の花瓶でしょ。それから天井の飾り照明でしょ、それから、あちらや、あそこのものや、あれも、みぃんなデルリゲイリア製でしてね」
「へえ……そうなの……」
「あぁ、マリアージュ様とこんなふうにお近づきになれて、レイナ、本当にうれしい!」
 訂正しよう。マリアージュの目は死んだ魚のようだった。
「だ、大丈夫なのかな……」
 嫌味には勝気になれるマリアージュも、好意を攻撃手段にされることは苦手らしい。げっそりとした顔色で列の先頭へ連行される主君にダイは同情した。
「本当に、わたくしの主のご無礼の数々、申し訳ございません」
 マリアージュに気を取られていたダイの横からふいに謝辞が入る。出迎えのときにレイナを叱り飛ばしていた女からのものだ。知らぬ間に左側を歩いていた彼女をダイは仰ぎ見た。
 年は三十前後。鮮やかな赤毛を後頭部で結い上げた女だ。体格はよく、しっかりとした拵えの長剣を腰に佩いている。
「シーラとお呼びください。レイナ様の近衛をしております」
「ダイです。マリアージュ様の……女王陛下の側近を勤めています」
「はい、存じております」
 シーラと名乗った女の目がダイの服の上を滑る。限りなく黒に近い赤の上着。着慣れて馴染んだそれが妙に重たく感じられて、ダイは自分の袖を反対の手で強く握った。
「レイナ様の行い……気を悪くなさらないでいただけると嬉しく思います。悪気はないのです。……はしゃぎ過ぎだとは思いますが」
 シーラが苦笑しながら弁解する。
「レイナ様は皆さまがおいでくださる日をかねてより楽しみにしておりました。……デルリゲイリアはレイナ様にとって、思い入れのあるお国なのですから」
「思い入れ?」
「元は先代の市長であらせられたレイナ様のお父上がデルリゲイリアの工芸品を好んでおられたのです。細工師や画家や歌い手……多くのひとを御国から招いておいでだったのです。レイナ様もお父上の膝の上でよく鑑賞を」
「先代の市長はもう引退されたんですか?」
「八年ほど前に、亡くなられました」
 事実のみを告げる淡白な声色だった。
「街を見舞った大規模な火災に巻き込まれたのです。……それからすぐにレイナ様はお父上の後を継がれ、市長となられました」
「それは……御気の毒でした……」
 言葉に詰まったダイを見下ろしてシーラが小さく笑った。懐古らしき感傷に目を細める。
「皆さまのお国は、レイナ様にとって懐かしい日々を思い起こさせるものなのです。皆さまがおいでくださると聞いてからのレイナ様のはしゃぎぶりはもう近年まれにみるものなのですよ」
「ちょっと、シーラ?」
 拗ねた声が会話に割り込み、ダイは正面に向き直った。いつの間にか先導役を辞めたレイナが腰に手を当てて頬を膨らませていた。
「レイナがちょっと目を離すとこれなんだから。あることないことを吹き込まないでちょうだいな」
「本当のことではございませんか。ここ数日、女王陛下がどんな方であらせられるのか、どんな演目をご準備してくださっているのか、そればかりでいらっしゃったのはどなたで?」
「どうせレイナよ! シーラなんてきらい!」
 レイナがマリアージュの腕を抱きしめたまま、べっ、とシーラに向けて舌を出す。マリアージュは苦笑いに口角を引き攣らせていた。ダイも笑うしかない。
 父親の跡を継いだとき、レイナの歳はまだ十前後のはずだ。その彼女を支え続けてきた存在がシーラなのだろう。主従というよりも姉妹のようなふたりだ。初対面のこちらに対してもう少し体裁を繕ってもいいとは思うが。
「仲がよろしいんですね」
 ダイの指摘に、違います、とレイナが即座に否定する。
「シーラはレイナがちいさくてかわいい頃からのお目付け役なのです。とっても口うるさいんだから」
「レイナ様がもう少し大人しくしてくださっていれば、口うるさくしなくてすむのですけれども」
「ダイ……この子さらっと自分のことかわいいって言ったわよ……」
「本当ですね……。シーラさんには激しく親近感が湧きますが」
「……ちょっと、どういう意味?」
「そうだわ。ねぇ、マリアージュ様! 晩餐会ではどなたが何をなさるの?」
 ダイの傍まで逃れていたマリアージュの腕をレイナが強く引き戻す。うえ、と低く呻いたマリアージュは、恨めしげにレイナを見上げた。
「晩餐会?」
「マリアージュ様、晩餐会の演目のことだと思います」
 訪問した先々で晩餐会が開かれた場合には、歓待の返礼に見世物を容易することが通例だ。メイゼンブルが崩壊する以前は、デルリゲイリアも芸技の国の銘にふさわしく、大規模な楽団や劇団を率いて外交に望んだという。
 デルリゲイリアに限った話ではないが、治安の悪化した昨今は伴う人員を削減する傾向にある。しかし演目を簡素化してでも、人目を楽しめる何かしがを準備することとなっていた。
「歌い手の方? それとも奇術師? レイナは何を準備すればよいのかしら」
「申し訳ないけれど、ご想像いただいているような趣向は用意できないわ、ルグロワ市長」
 え、と意外そうに瞬くレイナの身体をマリアージュは強引に押し返す。そして逃げてきた彼女は首をかしげるレイナの方へダイを押し出した。
「代わりに、この子がします」
 レイナとシーラの訝しげな視線がダイに突き刺さる。
「この子って……でも」
 国章持ちなのに、と、レイナのくちびるが動く。
 だが彼女たちの疑念を撥ね退けてマリアージュが宣言する。
「そうです。ダイが、します。私たちを歓迎してくださるルグロワの皆さまを、楽しませる演目を」
 ダイはため息を吐いて、愛想笑いを張り付けた。


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