第一章 自失する君主 3
「……それじゃあもう一回確認だよ、ダイ」
王城の居住区。入り組んだ回廊の突き当たり。壁に掛けられた大判の絵画の下で立ち止まったロディマスがダイを振り返る。ダイも足を止めた。頭上の薔薇窓によって彩色された月光が七色の花模様を床石に描いていた。
「女官長と相談して明日の夕方までに女官を選出しておくこと。そうだ、持って行くものの目録を……」
「私が提出するものは化粧の分だけでいいんですか?」
「そうだね。髪結いや衣装でダイが必要と思うものはそちらの係に申請して。打ち合わせの時間は調整がつき次第、報せるから」
「わかりました……。また、慌ただしくなりますね。国の外へ出るとなると」
ダイたちはマリアージュを諸外国への旅に出すことを決めた。彼女の精神の安定を狙っての話だが、理由はほかにもある。
流民の問題を解決するためには近隣諸国と協力体制を構築することが急務であったし、文官たちにも外交の場数を踏ませる必要性があった――いまは容易に和やかな関係を築ける時代ではないのだ。
ただの静養であれば城から離れることを拒むマリアージュも納得するはずだ。
日程は早ければ翌月。支度には速やかに取り掛からなければならない。
「君もいっそう忙しくなるね。……あまり根を詰め過ぎないようにね」
「ありがとうございます、ロディ。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
ロディマスが軽く手を振って自室へと引き上げていく。その背をしばらく見送ったのち、ダイは逆方向へと歩き始めた。
(……忙しくなる、か)
ロディマスの言葉を胸中で反芻する。口元は知れず浮かんだ自嘲の笑みに引き攣っていた。
急な予定に明日からの城内は俄かに忙しさを増すだろう。ダイにもまたするべきことはある。しかし多忙を極めることになるかと問われれば否だ。
文官の言葉がいまさらながらに突き刺さる。
『……化粧しかしないのであれば、お休みもさぞや取りやすいでしょう』
ダイは己の身を掻き抱いた。身に着ける国章入りの上着の袖口に爪を立てる。丈夫な布地がきしりと鳴いた。
魔術の灯りが点々と橙色の光をなげかける廊下を行き、ダイの向かうところはマリアージュの私室である。容体は落ち着いていると聞いてはいるが、ひと眠りの前に顔を見ておきたかった。
通常なら女王たるマリアージュを前触れなく訪うことは許されない。
けれどもダイにはそれが可能だった。それが、ダイの特権だった。
衛兵の手で開かれた扉から居室に身を滑り込ませ、応接用の長椅子の脇を通り抜けて寝室に踏み入ると、奥に設えられた寝台の傍で人影が動いた。看病に付き添っていた女官が椅子から立ち上がったのだ。
「ダイ?」
「はい。……ユマ、陛下のご様子はいかがですか?」
ダイは問いかけながら豪奢な寝台に歩み寄った。ダイの肩口から鳥が軽い羽音を立てて飛び立ち、寝台の天蓋の支柱に留まる。その装飾見事な覆いから降りる帳の向こうに、枕に埋もれるようにして眠り込むマリアージュの姿があった。
立ち止まったダイの隣でユマが微笑んだ。
「ぐっすり眠っておいでよ。ただ大事をとって明日はおやすみになられたほうがよろしいでしょうって御典医の方が」
「……それを聞き入れてくださればいいですけどね……」
マリアージュの顔は暗がりにあって墨色に塗り染められ、色つやを判別することは困難だった。ただ眉間にはしわが刻まれていて、安らかであるようには見えない。吐息は熱に潤み、額には前髪が張り付いている。
「ユマ、手ぬぐいはありますか? マリアージュ様の汗を拭きます」
「待って。濡らすわ」
卓の上には水の張られた盥がひとつ。ユマがその中に浸した手巾を堅く絞ってダイに差し出す。
ダイはユマと場所を入れ替わり、受け取った手巾を主君の額に押し当てた。頬や首筋も念入りに拭く。
マリアージュの汗と熱を吸った布はダイの手の中で不快なほどに生ぬるい。
「ダイ」
呼びかけに面を上げると、眼前に椀が差し出されていた。
「薬湯。疲れがとれるよ」
椀を手に固まるダイから素早く手巾を引き取り、ユマは椅子も勧めてくる。
「さ、座って」
「……ありがとうございます」
とろみのある椀の中身は、鼻をさす、独特の香りを湯気に乗せていた。けれど口をつけてみれば、その味はとても優しいものだった。舌先に甘く、じんわり指先までを温める。
ユマは椅子をもう一脚引き寄せて、その座面に腰を落とした。主君の眠りを妨げぬようにだろう。彼女は声量を落としてぼそぼそ問いかけてくる。
「……ダイも昨日は街まで降りてたんでしょ? 無理したらだめだよ」
大丈夫ですよ、とダイは微笑んだ。
「気分転換して、むしろ元気です」
「本当に?」
「……そう見えませんか?」
「見えないなあ。疲れて見えるし、それから、悩んでるようにも見えるけど」
ユマもまたペルフィリアへの旅を経て心境に変化のあったらしいひとりだ。マリアージュへの信頼を隠さず、ダイにはより親身になった。ダイの顔を覗き込む彼女は歯がゆげな表情を浮かべていた。
「……私は力になれない?」
「そんなことはないですよ」
心持ち強く否定して、ダイは薬湯に視線を落とした。続く言葉が上手く見つからない。
「……ユマが頼りないとかそういうわけではないんです。だけどこれは私が自分で見つけるべきこたえじゃないのかって……」
「答え……?」
「私はマリアージュ様のために何をしてあげられるだろうって」
ルディアに指摘されるまでもなかった。ペルフィリアから戻ってこっち、ずっと考え続けていたのだ。
自分には、何ができるのか。
たとえば、アルヴィナやアッセのように、マリアージュを危険から遠ざけられる力があればよかった。
あるいは、ロディマスのように、政策を敷く力。
もしくは――……。
男の影を脳裏から追いやり、ダイはため息を吐いた。
果たしてこの身に負う特権の分だけの働きをしているのか。
ユマが目に険を過ぎらせる。
「また文官の人たちが何か言ったのね? 気にしたら負けよ。あの人たち、ダイのことが羨ましいだけなんだから」
「うらやましがられるのももっともだと思います。……私があの人たちでも私を妬ましく思いますよ。……暇そうにふらふらしてるのに、こんなに特権を許されていれば」
ダイの本職としての仕事の時間は、衣装決めなどの打ち合わせを加味しても、そう長くない。
化粧という内容からして軽く見られがちなのだ。化粧は民の腹を膨らませるわけではないからだった。
その一方で、ダイは国章を身にまとう者として、数多くの特権を有する。城内で立ち入りを禁じられる場所はほぼ皆無だし、会議に出席すれば自由に意見を述べることができる。俸給も莫大だった――その額に恐ろしさを覚えても、規定だからと返上もできない。
「ダイはちゃんとしてるよ。陛下をちゃんと支えているじゃない。陛下のお傍にいることが、《国章持ち》のひとの一番大切なお仕事でしょう? ダイはその仕事をちゃんと務めてる。気にすることないわ」
ユマに限らない。ロディマスもアッセも同じように述べるだろう。お前の役割は女王の傍にいることだと。それが彼女を支えることに繋がると。
しかしルディアが示唆したように、それだけでは駄目なのだと思う。けれど、何をすればよいのか。
「……ありがとうございます」
取り繕った笑みをユマに向けて、ダイは再び薬湯に口を付けた。ゆっくりと、時間をかけて、啜っていく。
「ねぇユマ」
空になった椀を返却しながら、ダイは尋ねた。
「毛布を持ってきてもらうことってできますか?」
「毛布? ……ここで寝るつもり?」
「いえ、それはさすがに……居室の長椅子を使わせてもらおうと思っていますけど……」
言いさして、ダイは我に返った。女王の部屋で勝手に仮眠をとるなどと、いくらダイでも目に余る行為だろう。唖然とした様子の友人にダイは謝った。
「すみません。やっぱり駄目ですよね。あの、ユマたちの控えの部屋を借りることってできますか?」
「どこも駄目よ! ちゃんと自分の部屋に帰って寝て!」
「ユマ、お願いです」
ダイは友人の手首を掴んで揺さぶった。
「マリアージュ様がお呼びになったときに、すぐ顔を出せるようにしたいんです……」
実際のところ、もし彼女が夜中に目覚めてダイの顔を見ればとても嫌がるだろう。ユマたちと同様に、部屋で寝ろ、と言うに違いない。
それでも、主君の傍に付いていたかった。
片時も離れぬことが、今の自分にできる、唯一のことだというのなら。
「……控えの方がいいわ。仮眠用の、ちゃんとした寝台があるから」
ユマが諦めの表情で肩を落とす。
「ちょっと待っていて。支度するから」
「いえ、それは私がしますよ」
「いいから、ダイは私の代わりに陛下のことを見ていて」
椅子から立ち上がろうとしたダイの肩を、ユマは強く押し返す。
「もし薬が切れて目が覚めてしまっても、私より貴女の顔が見られたほうが陛下もお喜びになるわ」
「すみません」
ダイの謝辞にユマはいいのよと頭を振って笑った。そのまま踵を返して隣室に消える。
ダイは椅子に深く座り直し、マリアージュを見つめた。
その輪郭が白くぼやけて見えるまで時間はかからなかった。
だれかが名を呼んでいる。
失われた男の名を。
あのとき墓に刻んだ名を。
少女がーー……。
「ディ……」
「ディータ!」
肩を強く揺さぶられてディトラウトは覚醒した。眼前には見慣れた友人の顔がある。ゼノ・ファランクス――ディトラウトの護衛を務める男だ。
安堵の表情を浮かべた彼はディトラウトから手を離し、その場を退いた。
「なかなか起きないから心配したよ。よくそんな据わり心地の悪い椅子で眠れるなぁ。気分はどう?」
「背中が痛い」
「そりゃそうだろうね」
ゼノが揶揄に笑う。ディトラウトは壁から背を放して軽く首を回した。
腰掛けていたのは食糧の輸送に使う木箱だ。中身は既にない。部屋の脇に積まれていたそれを一つ拝借して、椅子代わりにしたところまで覚えている。まさかそのまま眠り込んでしまうとは思っていなかった。
「最近また寝てないだろ。だからそんなところで転寝するんだよ」
仮眠ならば寝室でしろ、と、ゼノは呆れ顔だ。ディトラウトは無言のまま立ち上がった。軽く襟元を正してからゼノに歩み寄る。
「現状は?」
「膠着してる。作業は終わったよ。人員は配置済み」
「天候は?」
ゼノが目で窓を示す。天井近い位置に設えられたその小窓の外は暗い。当然だ。夜半をとうに過ぎているのだから。
闇に塗り潰された窓は何も映さない。しかしそこから忍び入る湿り気のある冷気と、樋を叩く雨音が、ディトラウトの疑問に答えていた。
「降り出してどれぐらい経つ?」
「半刻ってところかな」
ディトラウトはゼノの隣から長机の上に広げられた地図を覗き込んだ。
薄汚れた紙面の中央にはこの砦の名が綴られている。タルターザ。クラン・ハイヴを眼前に望む、ペルフィリア南西部に据えられた砦である。国境視察の滞在先として選んだそこを、クラン・ハイヴの大隊に包囲されたのは、ディトラウトが到着した矢先のことだった。
大隊を率いるはクラン・ハイヴ連合国エスメル市市長グラハム・エスメル。
「相手の規模は五百。中央に約三百、西と東に百人規模の兵を伏せている。偵察からの報告によれば、こちらがやっこさんに気付いていることを悟られた様子はなし」
林、河、丘、等高線、兵たちの所在地を示す朱墨の印。ひとつひとつを起きぬけの頭に入れるディトラウトの傍らでゼノが説明を続ける。
「こっちの先発はトラッド弓兵長以下五名。陽動にサム、ミケーロ、ラムセスの隊だ。女子供は地下に移し終えた。貯水池は現在八分目。畑には水を引き終えているよ」
「皆の士気は?」
「上々」
ディトラウトは満足にひとつ頷いて、机上に倒れていた駒を手に取った。平時の兵たちが暇つぶしに興じる遊具のそれ。石を削りだした粗末なものだ。
人を象ったそれの頭部を何となしに撫でながら、ディトラウトは瞑目した。
タルターザの雨はひとたび降り出せば雷を伴う豪雨となる。この地の人々は灌漑を用い、水害と根気強く戦ってきた。
彼らの努力と研鑽を決して軽んじるわけではない。
それでもディトラウトは引けなかった。
自分は戦争をしているのだ。
「始めましょう」
ディトラウトの宣言に従って、友は微笑んで伝令を出した。
クラン・ハイヴと隣国ペルフィリアは年ごとに休戦協定を更新している。だがペルフィリアがクランの領土をかすめ取る機を窺っていることは明らかだ。権勢を日増しに強めるかの国は、いつか自国に優位な条文を、平然と協定に書き加えそうな按配である。
しかし女王唯一の肉親にして国の頭脳とも囁かれる宰相ディトラウトを捕虜とできればどうだろう。
(あやつがタルターザに来ておることは儂しか知らぬ)
タルターザをディトラウトが訪れる決定はあまりにも急になされ、かの国内ですら知る者はわずかであるらしい。グラハムは馬の手綱をとる手をこみ上げる笑いに震わせたーー今回の出兵を通じて忌々しい宰相を捉えることができれば、自分は荒野の部族(クラン)の英雄だ。
ディトラウトの伴う人数が僅かであることも斥候を使って確認済みである。加えてタルターザは要所とはいえ、森林に囲まれる天然の要塞という油断からか、大軍を常駐させていない。近郊から応援を呼んだとしてせいぜい中隊。グラハムがエスメル市から率いてきた大隊なら圧倒するに充分だろう。
「は、はははは……うぐっ」
哄笑しかけたグラハムは、ばしゃ、と口内に落下した雨水に顔をしかめた。顔に伝う水滴を乱暴に手で拭う。
「鬱陶しい雨だ……」
天を仰げばもつれ合う枝葉の隙間から絶え間なく雨だれが落ちてくる。増すばかりの勢いは今や桶水を流すかのようだ。
クラン・ハイヴは渇きの土地。降り始めのときこそ恵みの雨ぞとはやし立てたが、状況は悪くなる一方だ。
元より乾いた土しか知らぬグラハムたちにとって、森の中を進軍することは容易いことではないのだ。やわらかい腐葉土やうねりながらせり出した根が足をとる。そこに追い打ちをかけるように雨が小川を作って道を狭める。視界を塞ぐ。本来であれば煌々とした満月を拝めるはずの空も闇一色だ。
夜陰に紛れた奇襲を戦略としたことが裏目に出ている。
「市長」
先行していた隊から男がひとり下がってグラハムに並んだ。隊の指揮を執る男だ。夜襲もこの男の立案だった。
「撤退をご命じください。……このままでは危険です」
「撤退!? 何を言いだすか!」
「左翼と右翼に展開していた隊の先発班が中央と合流してしまいました……。我々は中央に集められています」
「何……? 単なる偶然だろう」
「いえ。増水している箇所ですが、人為的に溝を掘った形跡があります」
これは罠だというのだ。
「……やつらが奇襲を想定していたと?」
「その可能性が高いです。となれば、奇襲は失敗です」
「だがもうタルターザは目と鼻の先だぞ」
視界は悪くともタルターザの場所はわかる。水煙の彼方に砦の灯りが見て取れるからだ。
「だからです。雨もひどい。この状態で踏み込み過ぎるのは危険です。せめて、先に市長の隊だけでもお下がりください」
「儂を臆病ものにする気か」
「そうではありません。市長の身を案じればこそです!」
「うるさい。……結構だ! ならば奇襲されるまえに懐に斬り込めばいい。隊のものに伝えろ! 進軍を急げと!」
男は一拍の沈黙ののちに命令を了承して元の隊列へと戻って行った。
(ここまで来たからには引く気はない)
ぎり、と歯噛みして鼻を鳴らした。
その瞬間だった。
馬が悲鳴のように高く嘶いて、前足を勢いよく振り上げた。グラハムは手綱から手を離した。そのまま泥のなかに顔から突っ込む。
「市長!?」
「う、は、早く起こせ!」
雨で濡れそぼっていた服が泥水を吸ってさらに重く、腕や足にまとわりつく。グラハムはひとりもがきながら助けを呼ぶがしかし、差し伸べられる手はまったくの皆無だった。眉間に青筋を浮かべながらどうにか上半身を起こしたグラハムは、尻餅をついたまま見た。
横殴りの雨に紛れて幾条もの矢が自分たちに降り注ぐ様を。
「ぎゃああああああっ!」
「ああああああっ!」
「隊列を立て直せ! 敵襲だ!!」
怒号と悲鳴が錯綜する。泥しぶきをまとった馬の蹄が間近で跳ね、グラハムは思わず頭を抱えて身を伏せた。
「くそっ、あっちだ! あの光だ!!」
顔を覆う腕と腕の隙間から、ちらちらと瞬く光が見える。招力石の光だ。そこに弓を構える兵たちの影がおぼろげながら確認できる。彼らは弓を担ぎ直して夜陰に消えた。
「追え! 逃がすな!」
「ま、まて……待て! 儂を置いていくな!!」
グラハムは剣を杖代わりに立ち上がろうとし、再び転倒した。右脚があらぬ方向に曲がっている。
痛みと恐怖が、感覚を支配した。
グラハムは自身を顧みない兵たちに声を張り上げた。
「ひ、ま、待て!! 骨折した! 骨折した!! 儂を置いていくな! 儂は市長だぞ!!」
雨音に交じって怒号が響いている。馬が逆走してくる。続く、轟音。
そして男たちの、断末魔の叫び。
地鳴りが、近づいてくる。
「な、な……ん、ぐっ」
グラハムはすべてを知覚する前に、後頭部に衝撃を受けて昏倒した。
前方の兵を襲う荒れ狂った濁流を知る前に意識を失ったことは幸運といえなくもなかった。
「捕縛した市長は大人しくしてるって」
夜が明けて早々に執務室として借り受けている会議室を訪れたゼノが開口一番ディトラウトに告げた。
「……やっこさんが大元かねぇ」
「違うでしょう」
戦況の報告書から目を離してディトラウトは応じた。
「けしかけられただけですよ。蜥蜴のしっぽ切りも同然です。知らぬは本人ばかりでしょうがね」
グラハムがディトラウトの予定を知り得た理由は、彼が諜報に長けているからでは決してない。
こちらが故意に情報を漏らしたからである。
――昨年、デルリゲイリアの一団を取り逃がして以来、ディトラウトたちはペルフィリア国内に根を張った間者たちを洗い出すことに注力してきた。とりわけ王城と王都。国の中枢に食い込む者たちの飼い主は明らかにしておきたかったのだ。
首尾は上々。とはいえ、出自の確証の持てぬ者たちも二、三はいた。それらを知るべく張った罠が、今回のディトラウトの国境視察だったのだ。
ディトラウト自身をおとりとして、相手の反応を待つ。ディトラウトがタルターザに滞在すると知った者は自ら動かなかった。代わりに、グラハムを差し向けてきた。
兵を送り込まれることは想定外だった。こちらの手勢が少ない点を突かれたわけだ。
仕方なくぎりぎりまで相手を引き入れて、雨で満水になった貯水池の堰を切った。
ディトラウトは席から立ち上がった。窓辺に歩み寄り、陽光に温められた玻璃に触れる。
見下ろした先の農地は、ひどい有様だった。
いたるところに生乾きの枝葉が突きたち、ひっくり返った樹木の根が天に突き出ている。水を呼び込む導線として使った用水路の壁面は水圧ではじけ飛んでいた。沼地と化した一帯はとてもではないがそのままでは歩けない。簡易の歩道として敷かれた木材の上を往来しながら、兵を含む地元民たちが復旧作業に勤しんでいる。
あとひと月ほどで種を撒く季節だ。
しかしそれを可能にする為には、かなりの労力を要するだろう。
「後悔してる?」
間近で響いた問いにディトラウトは背後を振り返った。ゼノがいつの間にかすぐ傍にいた。
「ここを蜘蛛の巣に使ってさ」
タルターザを選んだ理由は立地だ。国内の反女王派にすれば暗殺しやすく、国外からも刺客を送り込みやすい。
ディトラウトは薄く嗤った。
「いまさらだ」
罠を張らなければよかったとは思わない。たとえ捕縛したグラハムは咬ませ犬だったとしても、クラン・ハイヴの市長に影響を及ぼせる人物が敵である点は明らかになったのだ。
散々これまで他人の命を駒として動かしてきた。悔やむぐらいならば初めからこの道を選んではいない。
毎日毎日、血が薫る。
手から。
腕から。
足元から。
この身の全てから。
「いきましょうか、ゼノ。……レニーが待ってるんでしょう?」
ディトラウトは窓辺を離れてゼノの肩を叩いた。その横をすり抜けて部屋を出る。石造りの砦内には負傷者たちの呻きが反響している。しかしそれらを気に留めている暇はなかった。すべきことは山積している。
自分たちは歩き続けなければならないのだ。
血の海から突き出た手に足を盗られぬように。
遠い呼び声に惑わされないように。