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第九章 忍ぶ懸想者 4


 ダイは耳から手を放して、ぼんやりと男を見上げた。
 無意識にくちびるが問いを紡ぐ。
「……わたしの化粧に……力はありますか?」
 ディトラウトが訝しげに眉をひそめた。
「あなたが女王の仮面を作っているのでしょう?」
「じょおうのかめん」
「……きかん気が強いばかりの脆く短気なあの娘を、忍耐強く物事を完遂せしめるしたたかな女王に見せているのは、あなたではないのですか?」
「それは……マリアージュ様ご自身の努力によるものです」
「中身はそうでしょう。私は外見の話をしています」
 ティトラウトは外を見た。玻璃の壁の向こうに沈む庭。ほのかな明かりが植え込みを照らしている。
 隙間なく連なる薔薇の木々は、ミズウィーリの庭を思わせる。
「女王になりたくないと言っていた娘をここまで引き出したのは、あなたの化粧でしょう? 汚れたものは清らかに。弱きものは強きものに。印象を塗り替えて結果を操作する。それを――力と呼ばずに何と言う?」
 ディトラウトがダイに向き直る。発言の確かさをかけらも疑っていない顔で。
 彼は苛立たしげな口調でなおも言い募った。
「化粧師というのは珍しいのでしょうが。女王の忠臣であることにはかわりない。あなたが動ける基盤を周囲が用意すべきでしょう」
 男の輪郭が、しろく、滲んでいく。
「どうしてあなたの力を削ぐ真似をする。なぜあなたにそこまで負担が掛かっているんだ。真なる国主を戴いているにもかかわらず……」
 ダイの頬を、しずくが伝って、落ちた。
 口を片手で覆いながら蹲る。嗚咽を止められない。
 ディトラウトの声が途切れる。
 彼の息を呑む気配がした。
 男の影が床の上に現れる。ダイはのろのろと顔を上げた。
 僅かに距離を縮めた男が、手巾を差し出していた。
 ダイは反射的に両手を伸ばして、ディトラウトの手を掴んでいた。
 その手を引き寄せ、縋るように、目元を押し当てる。
「どうして、だなんて、そんなの……」
 ダイは悲鳴じみた声で吐き出した。
 ずっと、ずっと、押し込めていたもの。
「そんなの! あなたがいなくなるから……!!」
 雷雨の夜。
 男が去って、二年になる。
 その別離は、最初から決まっていたことだったと、彼は言った。
 ダイにとっては違った。
 本当は、ふたりで、マリアージュを支えるはずだった。
 ふたりで支えるはずだったのだ。
 この半年で、気づかされた。
 マリアージュの基盤は脆弱だ。上級貴族落ちしかけ、元より後援の少ないミズウィーリ。それをヒース・リヴォートが支えていた。
彼の用いた手段には強引なものも少なくない。結果、時間が経つにつれて生まれるほころびは、彼が、数年かけて補強していくべきものだった。
 放置してしまったから、貴族からは不満が漏れ、城内にも伝播していた。
 マリアージュを貶める身とならぬためにも。彼女を真の国主とするためにも。
 方々との関係を厚くすることは必須で。
 欠けた穴の大きさを知って、それを埋めようと必死で。
 その努力が認められていくほど、化粧師として存在する意味が、どんどんちいさくなっていって。
 化粧は、女官に任せればいいと、皆言う。
 顔を作ることなど女官でもできると。
 化粧師として生きてきたわたしに。
 辛かった。
 とても、とても、辛かった。
『あなたの化粧には力がある』
(どうして、それを言うのが)
 ほかでもない、彼なのだろう。
 彼、だけ、なのだろう。
 男の手が引き抜かれる。
 頭上に差す影が離れた。
 ダイは膝の上に落ちたままだった手巾を取り上げ、目周りを押さえた。
 こんなに泣いて。化粧が落ちていなければよいが。
 弾みが一度ついた涙は止まらない。手巾はすぐ湿り気を帯びた。
 ダイの隣に、男が座った。
 ダイが男の顔を仰ぐより早く、その腕が背に回って肩を叩く。
 とん、とん、と。
 子どもをあやすように。
 不自然な距離を保ったまま。
 目頭が熱くなる。
 せっかく収まりを見せ始めていたのに。
(ひどい)
 ひどくて、ずるい。
 いつもそうだ。冷たくして、傷つけて。
 ぎりぎりで、甘やかす。
 昔、こんな風にあやされた。その後、ダイはこの男を拒絶した。
 以来、彼はダイと線引きするようになった。
 あのとき、彼を突き放さずにいたら、どうなっていたのだろう。
 彼は窓を見つめている。ダイの国の者たちを批判したことに悪びれた様子はない。ダイが泣き出したことに動揺したというふうでもない。
 にわかに苛立ちがこみ上げる。
 男の涼しげな横顔に。
 ダイはディトラウトの胸に頭突きした。どっ、と、鈍い衝撃が額越しに伝わる。
 不意を衝かれたらしい男は、くぐもった呻きを漏らし、唸るように問いを口にした。
「……何ですかいったい?」
「……鼻水を付けてあげようかと思いまして」
 衣服に口紅を付けてやろうかとも思ったが、マリアージュに怒られそうなので自重する。
 ディトラウトがダイの肩を掴み、力いっぱい引きはがしにかかる。ダイは頭をぐぐぐと押しつけて抵抗した。
 しばしの攻防ののち、唐突に男が手を放す。
 ダイは勢い余って彼の胸のなかに倒れ込んだ。
 ディトラウトがダイを抱き直し、頭に顎を付けてため息を吐く。
「好きにしてください」
 背中に回った手が、ダイを再びあやす。
 もがいて腕をふりほどくことは簡単だった。そうするべきだった。
 けれども、やわらかくダイを包む体温は、恐ろしく、心地よかった。
 男の手による律動が、耳を当てた胸から響く、心臓の鼓動と重なる。
「……ヒース」
 意図してこぼれたものではなかった。
 自分の声に我に返る。ダイは怖々と男を仰いだ。
 彼はことりと首をかしげた。
「うん?」
(……ヒースだ)
 ふたりで。
 笑っていたころの男がここにいる。
 気がつけばかなりの時が経っていた。涙もおさまりを見せ、呼吸も整い始める。
 ディトラウトの手が止まり、ダイは緩慢に身体を起こす。
 身体を絡めとる糸を引きちぎるような意気が必要だった。
 居住まいを正して、衣服の乱れを直す。
 ダイは隣の様子を横目で伺った。幸いにして男の衣服に化粧は移っていない。
 もしも汚していたら。
 状況を冷静に考えると怖い。サイアリーズたちへの弁明が思い浮かばない。絶対に見逃さないだろう。あの目敏いゼムナム宰相は。
「……おかしい」
 身体を捻って背後を確認していたディトラウトが呟く。
 手巾を返しながら、ダイは彼に尋ねた。
「……何がですか?」
「ゼノがこない」
 ダイは、はた、と気がついた。アッセたちもだ。
「……事件でも起きたんでしょうか」
「それはないと思いますがね……。何かあったなら知らせがあるはずだ」
 小スカナジア宮に刻まれた魔術は、有事や侵入者を感知すると、警笛を鳴らすと聞いている。
 流血沙汰は起こっていないだろうが――まさか。
 ダイは嫌な予感に呟いた。
「まだ……大騒ぎしているとか?」
「元凶が不在であることに気づかず? ……まぁ、近い状況ではあるかもしれません」
 ディトラウトがいっとき表情を暗く陰らせる。
 深刻な状況になっていることもありうるのか。
ダイが不安になる一方で、ディトラウトはその色を、顔からあっさり消した。
「そんな心配せずとも大丈夫でしょう。あなたは」
「わたしは?」
 ダイの問いにディトラウトは応じず、肩をすくめて立ち上がった。
「どうしますか? このまま迎えを待ちますか?」
 ディトラウトの問いは淡泊だった。
 判断に迷って、ダイは尋ねた。
「あなたはどうするんですか?」
「あなたがここにいると言うのなら、付き合いますが。……放置しておくとまた、厄介ごとを呼びそうですし」
 最後の一言は余計だ。
 ダイは口先を尖らせる。
「ひとを何だと思っているんですか」
「私は経験上の意見を述べたまでです。……それで、どうしますか?」
 待つか、戻るか。
 ディトラウトが手を差し出す。
ダイが戻ると告げれば、彼はまた先導するつもりなのだろう。律儀に。距離を空けて。
 お互いの立場。とるべき態度。ダイが泣き出すまでの、男の冷ややかさ。
 それらを思い出し、ダイは低く呻いた。
「……別に、先導したくないなら、しなくていいですけど」
「……そのようなこと、口にしてはいませんが」
「だって……あなた、私に近づきたくなさそうだったじゃありませんか」
「あなただってそうでしょう。……何なんですか、急に」
 困惑と苛立ちを滲ませて、ディトラウトが言い放つ。
「そもそも今の状況はあなたのせいでしょう。現状が嫌ならそんな格好をしてくるんじゃない」
 かちんと来る。
 ダイはディトラウトをにらみ据えた。
「悪かったですね、こんな格好をして! ご迷惑をおかけしました! 私、ひとりでアッセたちを待っていますから、どうぞお先にお帰りください!」
「……あなた、さっきの私の話を聞いていましたか?」
「ここから動きません! 迎えを待ちます! どうせ一緒に歩きたくないぐらい、変だとでも思っているんでしょう。最初っから褒め言葉ひとつなかったですものね!」
 珍しいとか。そんな格好とか。もう少し言い方というものがあるだろう。社交辞令として。
 ダイはそっぽを向いてディトラウトが立ち去るまで待った。
 しかし彼は動かなかった。
 呆気にとられた声でディトラウトは呟く。
「……褒めてほしかったんですか?」
「……っ、違います!」
 ダイは力強く反論した。
 違う。そんなこと、期待していなかった。
 ――ほんとうに?
 拳を握って訴えたダイに、男が目を細めてみせる。
 彼は再び隣に腰を落とした。
 膝の上で手を組み、思案する風に宙を見て、彼はダイに告げる。
「かわいいですよ」
「……とってつけたように褒めてくれなくてもいいです」
「正直な感想ですが」
「あなたの褒め言葉って嘘っぽいんですよ」
「否定はしませんけれどね。……かわいいですよ」
 淡々と繰り返さないでほしい。嘘くささが増す。
 男から顔を逸らす。
 苛立ちを通り越し、悲しくなってきた。
 何をしているのか。自分は。
 この男に対してはいつもそうだ。うまく、冷静になれない。
 沈黙を挟んで、ふいに、腕を強く引かれる。
 男が顔を耳に寄せて、掠れた声で囁いた。
「きれいだ」
 ぞっとするほど。
 熱を帯びた、あまやかな声だった。
 ディトラウトが腕から手を放す。
 息が継げず、胸が苦しい。
 顔が、熱い。
「うー」
 ダイは唸りながらディトラウトの胸をどんと叩いた。
 その拳をやんわり取り上げ、ディトラウトが繰り返す。
「きれいですよ」
「もういいですわかりました」
「……満足しました?」
「しました」
「なら……行きましょうか」
 ディトラウトがダイの手を引いて立ち上がらせる。
 さっきと話が違うではないか。ディトラウトの強引な行動にダイは当惑した。
「待ってください、わたし」
「来る気配のない迎えを待っていては、正餐に間に合わなくなる」
 来ているなら途中で合流するはずだ、と、ディトラウトは述べる。
「そろそろ、私たちは戻るべきだ」
 饗宴の会場へ。
 お互いの、主君の下へ。
 ダイは苦く笑った。
「そうですね」
 マリアージュも事情を聞いているころだ。きっと眉間にしわを刻んでいるに違いない。
 帰らなければ。
 自分は彼女を選んだ。
 男が先導に腕を差し出す。
 ダイが自分のそれを絡めると、彼はやや渋い声音で忠告した。
「あまりくっつかないように」
 ダイは既視感を覚えた。
 以前にも同じ台詞を言われた気がする。
 あれは――ガートルード家で行われた夜会のときだったか。
「歩きにくい?」
「……そうです」
 ディトラウトは肯定したが、その動きによどみはない。
 まるでひとりで踊るように。人を先導しながらもなお優美な所作。
 ダイは一歩を踏み出しながら言った。
「言い忘れていましたけど」
「何です?」
「あなたもすてきですよ」
 きょとんと目を丸めた男が、一拍おいて、複雑そうな顔で低く呻く。
「とってつけたように褒めずとも」
 揚げ足をとる男の腕を、ダイは無言でばしりと叩いた。


 ドンファンの女王たちから事情を聞き、ファーリルの女王からは謝罪され、青ざめたアッセたち三人を前にして、マリアージュの感想はただひとつ。
(かえりたい)
 固められた髪を解き、晩餐服からやわらかな夜着に着替え、寝室に籠もって葡萄酒を呷りながら、ダイに身体をほぐさせて――……問題は、彼女がここにいないことだ。
 マリアージュはアッセたちを睥睨する。この無能たち。衆目の中でなければ扇を叩きつけて怒鳴っていた。
 自分は命じたはずだ。ダイをしっかり見張れと。
 マリアージュの剣幕に野次馬たちは、蜘蛛の子を散らすように解散した。当事者と、ディトラウトにダイを連れて行くよう促した者のみが、マリアージュの前に残っている。
「申し訳ないわ、マリアージュ女王。わたくしの官が」
「どうか気になさらないで。こちらの官もまた未熟だったのです」
 国家間の大事にまで発展しなかった点が幸いだ。
 謝罪を再三繰り返すファーリルの女王に、これで終わりだと話を打ち切って、マリアージュはフォルトゥーナを睨んだ。
 ドッペルガムの女王が鼻白みながら抗弁する。
「その場の最善と思われる意見を述べただけだわ」
「最善? 護衛から引き離すことが? 何かあったらどう責任をとってくださるのかしら、フォルトゥーナ女王」
「マリアージュ女王陛下、どうか落ち着かれてほしい」
 サイアリーズが珍しく焦りを見せてたしなめる。マリアージュは冷たく笑った。ロディマスでさえ近づかないのに、諫言してくるとはいい度胸である。
 だがさすがの大国の宰相であっても、顔はこれまでになく引きつっていた。
「……賛同したわたくしが軽率ではありました。けれどもイェルニ宰相は、この場で陛下の国章持ちを傷つけるようなことはないでしょう。彼の冷静さはわたくしも存じていますし、軽率な真似はするまいと……」
 サイアリーズの語意が尻すぼまる。
 マリアージュはため息を吐いた。
「あの男はダイを傷つけたりはしないでしょうよ」
 傷物にする可能性はあるが。
 あのふたりは他人の目があると余所行きの仮面を容易くかぶる。
 問題はふたりきりになったときだ。マリアージュは彼らの理性を信用していない。
(あたまいたいし、かえりたいし、はやくきがえてねたい)
 現実逃避する自分をマリアージュは許した。
 覚悟を決めよう。何もないはずがない――というより、すでに起こっているのだ。
「あんたたち、何をしているの?」
 マリアージュは棒立ちのまま動かぬアッセたちに唸った。
「あの子をさっさと迎えに行くのよ」
「マリアージュ女王、お待ちくださいな」
 駆け出しかけていた男たちが蹈鞴を踏む。
 口を出したドンファンの女王は、会議場に続く扉を指し示した。
「イェルニ宰相の近衛がお戻りのようですけれど……」
 彼女が言葉に詰まった理由はすぐにわかった。
 ゼノ・ファランクス。マリアージュも知るペルフィリアの騎士は、主人を迎えに行ったはずが、ひとりだけだった。
 マリアージュに恐れを成して沈黙していたロディマスが、ゼノに歩み寄りながら問いかける。
「……ファランクス卿。イェルニ宰相はご一緒じゃないのかい?」
「テディウス宰相。あぁ、えっと、うちの宰相をお探しで?」
 ゼノのとぼけた返答に苛立って、マリアージュは彼に詰め寄った。
「私の化粧師はどこ?」
「失礼。ファランクス卿。どうしてひとりなんだ? イェルニ宰相たちはどこに?」
 サイアリーズも詰問する。彼女だけではない。ドンファンの女王たちも追いかけてきたようだ。
 ひと息に皆に囲まれ、ゼノが狼狽を見せる。
「いや……姿が見えなくて」
「は!? いなかったの!?」
「どこにも行けないだろう。一本道だぞ。外に出れば警報が……」
「よく探したの?」
「あーあー、ま、待ってください。確かに会議場へ行ったのかを、自分は訊きに……」
「行ったよ。間違いない」
「アッセ。早く行って。確認してきて」
 ファビアンの力強い断言を背後にマリアージュはアッセたちに命じた。彼が走り出し、ほかのふたりの騎士も後に続く。
「イスウィル。遊戯室を見て来てくれ。……マリアージュ陛下。案外、こちらに戻ってきているのかもしれません」
「そろそろ正餐だもの」
 ドンファンの女王が慰めるように言う。
「ひとも増えたし、見逃しているのかも。うちの官にも広間を見回るように言いました。……わたくしたちは先に、上に上がっていましょう」
 彼女に促されて中二階へ歩き出す。
「大丈夫。きっと少し行き違っただけでしょう……」
 皆から掛かる言葉を聞き流しながら、マリアージュは扇を強く握りしめた。
 たどり着いた中二階は賑わっていた。すでに広間からかなり移動しているようだ。
 彼らの中のひとりが、マリアージュを認め、ゆっくりと向き直る。
 美しく盛装したペルフィリア女王。
 それなりの距離を挟み、彼女の顔は紗に覆われていてさえ、マリアージュには見えた。
 あの男と同じ蒼の双眸を、彼女が鋭く細めるさまが。



 ――改めて、覚悟を決めよう。
 何も起こらぬはずは、ないのだから。


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