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第九章 忍ぶ懸想者 3


 ディトラウトがアクセリナの前に跪いて挨拶を述べる。
「アクセリナ女王陛下、先の会議、誠にありがとうございました。サイアリーズ宰相より数々の貴重なお言葉を賜ることとなりました」
「うぬ。わが国も、ペルフィリアよりたくさんの学びを得たぞ。えーるに宰相も、とってもすごかった」
「陛下、イェルニ宰相です」
 サイアリーズに指摘され、アクセリナが言い直す。
「……えーるに」
 言えてない。
 うぅ、と、アクセリナが悔しそうにくちびるを引き結んだ。
 ディトラウトが相好をやわらかく崩す。
「わたくしの姓は大人でも発音しづらいのです。お気になさらず、陛下」
 ペルフィリアの宰相からやさしく労られて、アクセリナは恥ずかしそうに顔を赤らめる。
 サイアリーズが、こつ、と、杖を鳴らし、ディトラウトの気を引いた。
「申し訳ないね」
「いいえ」
 謝罪するサイアリーズに否定を返してディトラウトが立ち上がる。
 ドンファンの女王が不思議そうに尋ねた。
「イェルニ宰相はおひとり? セレネスティ女王とご一緒ではないの?」
「我が君は気分がすぐれず、離れた場所で休んでおられます。皆さまには正餐の折に改めてご挨拶をと申しておりました。この場はわたくしひとり、お目通りすることをお許しください」
「あらまぁ、それは。のちほど、わたくしからもご挨拶に伺いますわ」
「感謝申し上げます、陛下」
 胸に右手を当てて一礼したディトラウトが、今度はダイへと向き直る。彼が礼を取り、ダイも衣装の裾を手に腰をかがめた。
「ごきげんよう、セトラ女史」
「ごきげんよう、イェルニ宰相。先の会議におかれましては、お疲れのことと存じます」
「それほどでもございません。……珍しいですね、あなたがそのような格好をなさるのは」
 言うに事欠いてそれか。珍獣を見たかのような物言いだ。
 ダイは微笑んだままぬるい目を、ペルフィリアの宰相へと向けた。
「最近はそうでもありません」
「そうですか」
 ディトラウトの笑みの冷ややかさが増す。
 どうやら彼は世辞のひとつすらダイにくれるつもりはないらしい。ほかの女性陣へはだらだら美辞麗句を並べるくせに、ひどい差である。
 ディトラウトの隣に立つゼノは瞠目してダイを見ている。混乱した顔だ。ダイは彼に黙礼した。
 ひと通りの挨拶がすむと、それで、と、フォルトゥーナが話題を蒸し返した。
「あそこの集まりは何なのでしょう。ご存知でいらっしゃいますか? ファリーヌ女王」
「えぇ、まぁ……」
 皆の視線がダイに集まる。
 フォルトゥーナが躊躇いがちに問いを述べた。
「あなたはダイ……よね? 何をなさったの?」
「わたくしは何も」
 ファーリルの官がアッセを無視し、ダイの手を取って踊りへと誘った。
 ことの発端をダイが述べると、どこからともなくため息が漏れた。
 サイアリーズが遠き人だかりを眺めて呟く。
「解散する気配がないな。どうなっている?」
「ゼノ、様子を見てきてください。……混ざらないように」
 ディトラウトから指示を受けて、ゼノがアッセたちの下へ向かう。
 彼は数人に声を掛け――そのまま、ひとの輪の中に引き込まれた。
 待ってもいっこうにゼノは姿を現さない。
 ディトラウトが集団を睨む。
 ドンファンの女王が、困ったわ、と、吐息した。
「これは……おとなしく、様子を見ていたほうがよさそうね」
「自然解散すればよいですが。あのままこちらに来られでもしたらやっかいだな……」
 サイアリーズが呟きながら、気遣わしげにダイを見やる。
 ダイは天井を仰いだ。どうしてこうなった。
「どこかに隠れたらよいのではないの?」
「そうさせて頂きたいのは山々ですが、相方も護衛もあちらにおりますので」
 ひとりで動くわけには参りません、と、ダイはフォルトゥーナに告げた。
 ほかの面々もそれぞれ広間から離れられぬ理由がある。ドンファンの女王の王配はアッセのところにいる。女王は夫を残してはいけない。アクセリナとサイアリーズも挨拶回りを終えていないらしい。ダイひとりには付き合えない。
 提案をダイに棄却されたフォルトゥーナが、俯いて思案するそぶりを見せる。
 しばしのち。
 彼女はぱっと面を上げ、コワイほどに輝く笑顔をダイへと向けた。
「イェルニ宰相に付き添って頂いて、ここを離れてはどうかしら!」
『……は?』
 思わず、素で呻いた。
 ディトラウトの声が重なって聞こえたことは気のせいではないだろう。
 表立ってはいないが、デルリゲイリアとペルフィリアの仲はよろしくない。表敬訪問時の件を、その場に居合わせたファビアンから、彼の主人たるフォルトゥーナが耳にしていないはずはない。
 これは、嫌がらせ、ではなかろうか。
「何なら僕がダイに付きそいだっ!」
 女王から肘を腹に食らってファビアンがよろめく。
 フォルトゥーナは何事もなかったかのように話を続けた。
「イェルニ宰相もこれでひと通り、挨拶回りを終えたことになるのでしょう?」
「私も護衛があちらにおります。勝手にここを離れるわけには」
「女性をおひとり、安全な場所にお連れするのよ」
 女性はひとりで彷徨いてはならないが、男性なら文句もない。それこそ大義名分があるのならなおさら。
 断る口実を封じられたディトラウトが笑みを深める。傍目にはたいへん麗しい。
「幸いにして今宵のイェルニ宰相には、お相手の方がいらっしゃらないようですもの」
「サイア、あなたはどう思って?」
「そうですね……」
 ドンファンの女王から問われ、サイアリーズがダイを見る。
 もちろんゼムナムの宰相は、デルリゲイリアとペルフィリアの間柄について知っている。
 険悪な二国の国章持ち同士がふたりきりになる。
 その避けるべき状況を打破してくれるかと思いきや。
 サイアリーズは斜め後ろでぶつぶつと発音の練習をする幼い女王を一瞥する。
 ダイたちに向き直った彼女は、にっこりと笑ってフォルトゥーナの意見に同調した。
「よろしいのではないですか?」
 裏切り者!
 ダイは胸中でサイアリーズを罵った。
 その思いが通じたのだろう。サイアリーズは苦笑して、言葉の続きを述べる。
「イェルニ宰相は実に紳士的過ぎると、ご婦人方に評判なほどですし……。ダイの美しさにも惑わされてはいらっしゃらないようですから。ほかの殿方とは違ってね」
 サイアリーズが周囲の男たちにさっと目を走らせる。
 彼らから空笑いが漏れた。
 ダイの前に手袋に包まれた男の手が差し出される。
 その手から腕、そして肩へと視線を伝わせ、ダイはペルフィリアの宰相を見上げた。
 ディトラウトは微かな笑みを口元にたたえている。
 目には諦念を宿していた。
 彼は言った。
「よろしければ、お手を」
『さもなくば、怪しまれる』
 他国の女王たちにここまで強く推されたのだ。拒絶もできない。
 この場から離れられればと、ダイ自身も口にしたのだ。
 ダイはぎこちなく笑みを取り繕い、ディトラウトの手を取った。
 ディトラウトがダイの手を握る。その力は弱くもなく、強くもなく。
 ただ、少しばかりの緊張を感じさせた。
 ディトラウトがサイアリーズを振り返る。
「カレスティア宰相、伝言を願いしても? 私の護衛と、彼女の護衛に。迎えにくるように、と」
「承った。……どちらへ向かわれる? 中二階?」
「いえ……」
 ディトラウトが黙考に言葉を句切ったのち、会議場に、と、答える。
「今なら人も少ないでしょうし、あそこまでは一本道だ。護衛たちも労せず、迎えに来られることでしょう」


 始まりは単純。美しい娘を連れた生真面目な男を遊び半分で揶揄した。それをからかわれた男が看過できなかっただけ。周囲の男たちが悪のりしただけ。
 皆、長旅に社交に密談に会議と、心身をすり減らしていた。鬱積の発散に、あわれデルリゲイリアの騎士は、利用されたというわけだ。輪の中心で渋面になっている男に、ゼノは心より同情する。
 集まった男たちは、デルリゲイリアの男を擁護する者、ファーリルの男と同調する者、彼らの成り行きを面白半分に見守る者、様々だった。傍からすると大事に見えるが、輪に交じれば、だれもが己を律しているということがわかる。決定的な国交問題には至っていない。後々、互いが外交する上での心象に響くかもしれないが。
 ことの原因となり、集まった男たちの口の端に、次々と上る娘は、確かに、格別うつくしかった。
 髪は黒絹のごとくつやめいて、肌は真珠の光沢を放っていた。細い首から胸にかけての華奢な線が、ぞっとするほどなまめかしく、愛らしい造りの顔にちょこんと乗るくちびるの、あの熟れた果実のようなみずみずしさ。蠱惑的の一言に尽きる。
 ゼノとて声を掛けていたかもしれない。
 あることが気に掛かりさえしなければ。
(あの子って……男の子じゃなかったっけ?)
 デルリゲイリアの国章持ちである化粧師は、少年だったはずだ。
 いや。
 はたして本当に、そうだったのか。
 ペルフィリア入国の際に上がっていた名簿を、ゼノは確認していなかった。化粧師の出で立ちや立ち振る舞いは、いずれも少年のものだった。
(だからてっきり、男だって、思っていたけど)
 ドッペルガムの女王は化粧師が女だと知っていた。
 その外見の変化に驚いていたが、性別を疑いはしていなかった。
 ディトラウトに至っては、驚くことすらしていない。
(やな、予感がするんだよなぁ)
 ゼノたちの主君はあの化粧師が男だと思っている。
 だというのにディトラウトは――。
『ごきげんよう、セトラ女史』
 あの娘が誰なのかを、きちんと認識していた。
「それ、まずくないか? ディータ」
 ゼノは独りごちながら、人の輪から抜け出した。観察は終わりだ。護衛すべき友人の下に戻り、ことの次第を早く追求しなければ。
 しかし先ほどまでいたディトラウトの姿は広間のどこにもない。
 慌てるゼノを、壁際の椅子に座すゼムナム宰相が手招いた。
「……会議場に?」
「迎えに来てくれと言付かっている」
 サイアリーズから経緯を説明され、ゼノは血の気の引く思いだった。
 女王たちから強引に化粧師を押しつけられた。そこまではいい。
 なにゆえその行く先が会議場なのか。
 中二階であれば、セレネスティがいた。
(いや、だからか?)
 歩き出しながら、ゼノは再び呟いた。
「まずくない? それ」


 複数の階段を昇降し、廊下を道なりに歩く。等間隔に設えられた燭台が、壁面を橙色に染め照らし、絨毯の赤色に光の輪を描く。
 静かだった。ひとの気配は少ない。戻る途中の数組の男女とすれ違っただけ。
 彼らとの挨拶を除いて、ディトラウトは無言だ。それでも彼の誘導は的確で、ダイは動きに迷うことはなかった。組んだ腕が決める方向に従い足を動かせば、目の前にするりと補助の手が差し出される。
(だれも見ていないんですから、放せばいいのに)
 ディトラウトに腕をほどく様子は見られない。一定の間合いを保ちつつ、彼はダイを先導し続けた。
 目的地の円形会議場にはだれもいないようだった。
 曲線を描いた広い通路に配される、いくつもの長椅子は沈黙している。その最奥。庭を一望できる位置の長椅子に、ディトラウトはダイを座らせた。
 ディトラウトは座らなかった。ダイと向かい合う形で柱に背を預けて立つ。
 そして招力石を点して早々、彼は盛大にため息を吐いた。
「……で、なんでそんな格好をしているんですか?」
 第一声がそれか。
 ダイは男を睨み、口先を尖らせる。
「悪かったですね。護衛の人数の関係です」
「あぁ、女性騎士がいなかったんですか」
「……よくおわかりで」
 正確には今回の晩餐会に出席できる、貴族階級出身の女性がいなかった。
 出席者には役職か出自を問われる。格式があるとはそういう部分も含む。
 ダイが女役を務めれば、護衛を三人配置できる。
「護衛を何人付けたところで、役目を放置するようでは、意味がまったくないですね」
 ディトラウトの言葉は辛辣だった。全面的に同意できてしまう点が悲しい。
 ディトラウトが腕を組んで毒づく。
「だいたい、女装する時点で、こういう騒ぎは予想できるでしょう? マリアージュは何を考えているんだ」
「陛下を悪く言わないでください。デルリゲイリアでは問題ありませんでした!」
「当たり前だ! 表立った場所で自国の国章持ちに、おいそれ手を出す阿呆がいるか!」
 ディトラウトの怒声にダイは身を固くした。
 それを認めたディトラウトが、気まずい表情で声量を落とす。
「……男側の出身身分は国内では盾になるでしょう。でもここには、同等の位のものしかいないんですよ」
「女装ひとつでこんな風になるだなんて、誰も思いません」
「……あなた、そもそもなぜ男として生きてきたか、忘れたんですか?」
 男から暗い声音で問われ、ダイははっと息を詰めた。
 ディトラウトは知っている。
 ダイの出自も、いびつさも。
 ダイは泣きたくなりながら尋ねた。
「わたし、やはり、きれいなんでしょうか?」
「……会場にいた皆があなたに贈った賛辞は、すべて本心からだと思いますよ」
 うつくしいと。
 皆が言った。
 単なる世辞であって欲しかった。
 女の装いで美しく着飾って、鏡の中をのぞき込むたびに、ダイは母の姿をそこに見る。
「やっぱり……母に、似ている?」
「……お父上の描かれた肖像画のご婦人に、似ているかと問われれば、そうですね」
 うつくしく、清らかに見え。
 ひどく淫蕩だった、天性の娼婦。
 本来であればダイもそう生きるはずだった。
 あの職を貶めるつもりはない。ダイは自分を育てた芸妓たちを愛している。彼女たちの矜恃も知っている。たとえ娼婦として育てられていたとしても、ダイもその生に誇りを持ったことだろう。
 だが、ダイは化粧師として生きてきた。
 それなのにその技能より、母譲りの才に、皆が驚嘆しているようで。
 ダイは下唇を噛んで俯いた。
 ディトラウトのため息が聞こえる。
「化粧師のあなたが、どうして貴族の令嬢のまねごとを?」
「男としてより女として顔を出した方が、受けがよいことだってたくさんあるんです」
「いつから?」
「どうしてそこまで話さなきゃいけないんですか?」
「では、推測しましょうか」
 ダイはゆっくりと面を上げた。
 ディトラウトが組んだ腕の上を、とんとんと指で叩きながら言う。
「女王が候補時代に取り立てた職人に、国章を与えることはままあったとはいえ、長年、軽んじられていた化粧を扱う人間。女王をこき下ろすための的として、これほど適した人間はいない。諸侯はいま、流民に端を発する諸処の問題に苛立っている。それらを解決できない女王は無能であると、彼らは断じる。その彼女が選んだのも納得な、国章持ちだと揶揄される」
 ダイは両耳をふさいだ。
 ディトラウトに言い止すつもりはないようだった。
「うるさい外野を黙らせるにはふたつにひとつ。圧倒的な技量を見せつけるか。よしみを結んでしまって関係を深め、口出しできなくさせるか。あなたの場合は後者でしょうね。デルリゲイリアの社交が本格的に始まるのは、四の月から……。ここ半年ほどですか? あなたがそんな真似をしているのは」
 ディトラウトは正確に状況を言い当てていた。
 まるで見てきたかのようだ。
「ここでの様子からして、完璧に女で通してはいないのでしょう? 男役と女役、使い分けて行動するなんて正気の沙汰じゃない。負担が倍だ。だから細部の詰めが甘くなる。こんな風になることも予想できない。――だれもかれも、本当に無能だ」
 ディトラウトが吐き捨てるように言う。
 ダイは反論した。
「そんなことない」
「いいや、無能ですよ」
 ディトラウトは断じきった。
「あなたの化粧には力がある」
 女王が確かに力を認めて国章を与えた、化粧師。
 それを守りも扱いきれもしない無能ばかりだと、男は言った。


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