第八章 討議する執政者 2
管弦楽団の奏でる優美な調べに、媚を含んだ娘の声が混じった。
「ディトラウト様」
広間を離れる足を止めて、ディトラウトは振り返る。
きらびやかな饗宴を背に、華やかな娘が佇んでいた。
「ルグロワ市長。何か御用で?」
「レイナ、お話の途中で離れてしまったでしょう? お詫びに参りましたの」
「それはご丁寧に」
ディトラウトの方へと早足で歩み寄る娘は、詫びのためだけに来たわけではないようだ。
ディトラウトは護衛たちに先へ行くよう顎で指示した。
案じ顔のゼノも追いやり、レイナに手を差し伸べる。レイナは嫣然と微笑んで、ディトラウトの左腕に、するりと腕を絡めてきた。
歩調を揃えて歩き出す。
レイナが囁いた。
「さきほどのお話、考えてくださいね。グラハムのおじさまが、繋いでくださったご縁ですもの。大事にしたいわ」
「戯言を。グラハム・エスメルを動かしているのは貴女でしょうに」
「あら。違いましてよ。レイナにおじさまを動かすなんて力はありません。とみに近頃のおじさまは、とっても精力的ですもの」
あなたのおかげで、と、レイナは微笑した。
「ねぇ、ディトラウト様。レイナはあなたが欲しがっているものを、ぜぇんぶ差し上げられると思うの。とっても素敵だと思わない?」
「私があなたを娶るとしましょう」
彼女の提案は、そういう話だ。
いまだディトラウト・イェルニは、適当な伴侶を見つけられずにいる。
それはペルフィリアが抱える最大の問題の現出でもある。
「それで……あなたが得るものは?」
分かれ道に差し掛かり、立ち止まって腕を解く。
「レイナが得るものはたくさんあるわ」
と、彼女は言った。
「まずは……あなた」
レイナの指先がディトラウトの左胸を撫でる。
「レイナ、きれいなひとが好きなの。あなたが旦那さまなら、レイナとっても幸せになれそう」
「光栄ですね。……それと?」
「すぐには思いつかないわ。たくさんよ」
「ルグロワ市のことはどうするおつもりで?」
「きっといまよりずっと大事にできるわ。だってレイナは、大国の宰相閣下の奥方になるのだもの」
「なれればね」
「本当に……よく、考えてくださいましね」
ディトラウトはレイナの傍を離れた。道の先に先行していたゼノが待っている。
レイナにも護衛の女が追いついた。
「私のことは陛下がお考えになりますよ」
ディトラウトの回答にレイナは不服そうだ。
彼女は憐憫の目でディトラウトを見る。
「ご自分のことをお決めになれないなんて。王を奉じるというのは、とても不幸なことね」
ディトラウトは冷笑をレイナに向けた。
「とても幸せなことですよ――王を定めるということはね」
セレネスティたちと別れたあと、女王の機嫌はすこぶる悪かった。
「お手柔らかにって……どの口が言うのよ」
「陛下。周囲に聞こえますよ」
「うるさいわよ私はいま機嫌が悪いの」
「いつだって悪いじゃないですかいだっ。もー、扇で叩かないでください」
ダイが口を尖らせて苦言を呈せば、マリアージュは憤然と鼻を鳴らす。
ダイは逆に心配になってきた。
「陛下、大丈夫ですか?」
「何がよ。別に倒れはしないわよ」
「そういう意味じゃないんですけど……」
気が立ちすぎではないのか。このままだと方々で失言しかねない。
(どうしましょうかね……)
気を揉むダイのもとに、明るい呼び声が響いた。
「ダイ! マリアージュ!」
ダイたちの方へ軽やかに駆け寄る、幼い女王と宰相の姿が目に入った。もちろんイスウィルも後を付いて歩いている。
「アクセリナ女王陛下、サイア」
「ごきげんうるわしく存じます、マリアージュ女王陛下。やぁ、ダイ。テディウス卿。いよいよ本番だねぇ、今日もまたよろしく」
慇懃さを抜きにしたサイアリーズの挨拶に、ダイは肩の力がどっと抜ける思いだった。
「マリア、マリア」
アクセリナがマリアージュの手を引く。彼女はまるい頬を上気させて主張した。
「朕はな、今日が、はじめての、かいぎ、なのだ。がんばるからな」
マリアージュが腰を落としてアクセリナの手を握る。
ダイの主君はこれ以上ない真剣な面持ちでアクセリナを諭した。
「いい、アクセリナ。あんたはそのまま真っ直ぐ育つのよ」
「う、うむ?」
「いいわね?」
「うむぅ……」
サイアリーズが笑い声を立て、真顔に戻ってダイに問う。
「面白いけど……何かあったのかな?」
「黙秘します」
ダイは肩をすくめて答えた。
茶番劇に伴う苦労など、話したくなかったのだ。
サイアが忍び笑いを漏らして言った。
「なんとなく想像はつくよ……。私も居合わせたかったな」
「カレスティア宰相は皆さま方とは面識がおありで?」
「えぇ。どの御仁とも最後にお会いしてからひさしいですが」
末端の官にまで知人のいるドンファン、ゼクスト、ファーリルを除けば、ルグロワ市長、ドッペルガム女王と宰相、ペルフィリア女王と宰相。
主要どころとはほぼ面識があると、サイアリーズはロディマスに答えた。
「イェルニ卿とは宰相の任に就いてお互い間もないころだったな。六年ぶりくらいか……。たいそう色男ぶりが上がったろうね」
「まだ会われておられないのですか?」
「広間に見当たらないのですよ」
サイアリーズが周囲に視線を走らせた。
挨拶回りを終えた幾人かの要人は退室している。
「どうやら時機を逃したようです。いずれ戻っては来られるでしょうが」
「サイアは遅い登場ですね。いま来られたんでしょう?」
「先に淡紅の方へ顔を出しに行っていた。さすがに陛下をあちらへお連れできないし、こちらで陛下をおひとりにもできない」
サイアリーズがロディマスからダイへと向き直って応じた。
今回の社交はアクセリナにとって初舞台だ。文官のみの補佐では心もとないらしい。
「淡紅にはアーダムが来ている」
「オースルンドさん? 商工協会の代表で?」
ダイの問いにサイアリーズは首肯した。
「南部のね。北部の代表にも引き合わされた。ここでの腹の探り合いよりかは面白いよ。みんな押しが強いから、護衛はしっかり連れたほうがいいけどね」
特に君の場合は、と、からかわれ、ダイは渋面になりながら、そうします、と低く呻いた。
ゼムナムの主従と別れてから、ダイもサイアリーズの薦めに従い、淡紅の広間へ赴くことにした。
マリアージュはゼクストの女王に呼ばれて歓談の席に着いた。同席してもよかっただろうが、アーダムと知人である以上、彼の方に顔を出して損はないと思ったのだ。
ランディとユベールと文官ひとりを連れて淡紅の広間を退出する。
ダイはロディマスに尋ねた。
「マリアージュ様をおひとり残して、大丈夫なでしょうか?」
ロディマスは本来ならマリアージュに付いているべきである。しかしどうしてもと言い張って、彼自身の護衛を引き連れて、煌々と明かりの灯った廊下をダイと共に歩いていた。
「大丈夫、とは、言いきれないけど……」
マリアージュを案じるそぶりを見せて、ロディマスは言う。
「僕の留守中のあれこれを聞くかぎり、君をひとりにする方がまずい気がする」
「反論できません……」
その危機の遭遇率たるや。
自分でも消沈する。
「アッセがかなり落ち込んでいてね」
「アッセが? 気にする必要ないと思うんですけど」
ヘラルド・アバスカルに捕縛されたとき以来、アッセが気落ちしていた点は承知している。
しかしあれは不可抗力だ。多勢に無勢だった。アッセひとりで切り抜けるには無理があった。
そう、何度も告げたつもりだったが。
「どうにもならないことだってあります。ロディからも言ってくださいませんか」
「言ったよ。それでも気にしてしまうんだろう。あいつは騎士だもの。守ろうと心したものが、目の前で奪われたんだ。無力感にだって苛まれる」
騎士の誇りを傷つけられたと、アッセは感じたのかもしれない。
「君には裏方に徹してもらうのがいいんだろうけどね……」
「それができないのは承知のことでしょう? 国章持ちへの評価はそのまま女王のものでもある。私は決めたんですよ――私が、マリアージュ様を、真の女王にする」
化粧師としての矜持を振り捨てても、何を利用しても。
マリアージュを。
だからダイは批判に耳を塞いで、顔を作ってばかりはいられない。
「それとも私は国章を返じた方がよろしいと? ただの傍仕えになれば陛下を貶めずにすむでしょうか」
「それは駄目だ」
ロディマスが慌てたように否定する。
「君は陛下にとって必要な人間だ。……一介の化粧師が女王の傍近くに侍るためには、国章という重みが必要なんだよ、ダイ」
「わかっていますよ。本気にとらないでください」
ダイはロディマスに微笑んだ。
「むずかしいですね。ひとの傍に、ずっとい続けるって」
到着した淡紅の広間は、緋のそれより倍ほど広かった。
集う人の数も多い。大多数は共同体の代表や商工協会の者たちだろうが、緋の広間で見た顔もちらほらと見える。立ち話に興じる彼らのあいだを給仕たちが、美酒の載った銀盆を片手に歩き回っていた。
アーダム・オースルンドはすぐに見つかった。数人と談笑していた彼は、ダイの姿を認めるや否や、足早にダイの方へ歩み寄った。
「セトラ様。こちらにまでお越しになるとは」
「サイアからあなたがいると聞きまして」
アーダムが瞠目してから破顔する。
「わざわざ私に会いに? それは光栄です。そうだ。ダダンもここにいるのですよ」
「え? ダダンが?」
「おま、ダイ」
頃合いよく聞き知った声がダイを呼ぶ。
老年の男を連れたダダンが酒を片手に、困惑の表情を浮かべて立っていた。
「セトラ様とお呼びしろ。だれが聞いているかわからんぞ」
「あぁ、悪い。セトラ様と……ご無沙汰しておりますね、テディウス宰相閣下」
慇懃に一礼するダダンに、ロディマスが苦笑する。息災そうで何よりだ、と、彼は控えめに呟いた。
「まさかダダンにまで会えるとは思っていませんでした。オースルンドさんに連れられて?」
「アーダムと、ベベルだな。……紹介する」
ダダンが軽く身を引き、隣に立つ男を示した。
よく日に焼けた大柄な男だ。よく日に焼けた肌。剃り上がった頭と顔の半分を、刺繍の施された布で覆っている。目尻に刻まれたしわは深く、濃い色の瞳には落ち着きが見られた。いくつもの死線を潜り抜けたと思わせる、迫力のようなものがにじみ出ている。
ダダンが述べる。
「ベベル・オスマンだ。商工協会の北部を纏めている。ベベル、こっちはデルリゲイリアの偉いさんと、宰相閣下だ」
「ダイです」
ダイはベベルに握手を求めた。その手を男はゆっくりと握り返す。
「国章持ちの方ですか」
ダイの衣裳にさっと視線を走らせてベベルは言った。
「お会いできて光栄ですな。ご紹介に預かりました、ベベル・オスマンと申します」
「ベベルはペルフィリアの王都で宿をやっている。一年前も色々と、世話になった」
「あぁ……」
含みを持たせたダダンの言葉にダイは頷いた。
ペルフィリアの表敬訪問時。王城に監禁されていたマリアージュたちを救うとき、ダダンは王都の知己に助力を請うていたようだった。ベベルがその相手だったようだ。
「こちらこそ。会えてうれしいです」
感謝の意をあらわしたいが、アーダムがどこまで事情に通じているか知れない。
ダイは会えた喜びを示すのみに留めた。
げんなりとした顔を見せてダダンが言った。
「俺はこのふたりに引き摺られてきたんだ。雑用を手伝えってな」
「実はダダンってすごいんですか? 協会の偉いひとふたりに呼び出されるぐらい親しいって」
「昔ちょっとばかり一緒に大陸回っただけだろ」
「あー、もしかしてオスマンさんも、ファビアンさんのご友人?」
「昔の仲間ですな」
あっさりとベベルが肯じる。
つまりこの三人はドッペルガム建国の立役者なわけだ。
事情を察して黙り込んだダイにベベルが苦笑する。
「まぁ、自由にやっております。ルゥナとも別れてから会っておりやしませんし」
「ペルフィリアに奉じている?」
アーダムがサイアリーズと繋がっているように。
ベベルは首を横に振った。
「格別な接触を持たれたことはありません。一顧客として来られれば、それなりの扱いはいたしますがね。ルゥナたちも同様です。別れてから手紙ひとつ寄越しやせんしな」
昨年ファビアンが久々に顔を見せただけらしい。やや憤慨した口調だった。
「長らく生死不明で気を揉ませたやつに比べりゃあマシですが」
「うるせぇよ。忙しくて気が回らなかったんだよ」
酒を干していたダダンが渋面でベベルに抗弁する。
というか、長らく生死不明だったのか。
あちこちに出没するこの男は。
「どうせルゥナたちだって似たようなもんだろ。為政者っつうのはくっそ忙しいやつらだ。そうだろ、ダイ」
「そうですね」
ダイは笑いながら肯定した。
アーダムに指摘されながらもダイへの態度を変えようとしない。相変わらずな男である。
「オスマン氏」
会話の区切りを見計らったかのように、数人の男女がベベルたちに声を掛けた。仲立ちを遠慮がちに要求しているようだ。
目で許可を求めるベベルに、ダイは肯定の意で頷き返す。
以後、淡紅の広間での社交にしばし、ダイは従事することとなった。
案内役はベベルとアーダムが交代に努めた。十一の共同体すべてではないが、かなりの人数とは顔を繋いだように思う。やはりベベルは北部の人間に、アーダムは南部に顔が利き、現状もよく理解していた。
その点をダイが賞賛すると、アーダムは面映ゆそうだった。
「商売柄でしょうね。……商隊を動かすには、方々の現状も知っておかなければなりませんし」
「自分ところは宿ですしね。色んな話が落ちてきます」
ベベルも説明した。
「うちの国はなんだかんだで大陸一、二を争う国になった。あんたがたには面白くない話やも知れませんが、うちの女王陛下と宰相閣下のご兄妹にも、褒められるべきところはあるとは思いますよ」
ふたりがいなければ、北部はもっと混乱していた。
北部のとある共同体の代表二名が、ダイの下を去ったのち、ベベルはイェルニ兄妹をそう評した。
その代表はセレネスティが即位した初期に、ペルフィリアに併合された国の上位貴族だ。国の再興を目指しながら方々を転々としているらしい。彼らはかの国への牽制をダイに願い出て去っていった。
「ペルフィリアは彼らの国を侵略したのに?」
「その通りですが、過去の栄華を求めて、恨みつらみばっかり募らせるやつらよりかぁ、よっぽど見どころがあるんじゃないか。そういう話です。ま、戦争はよしてほしいですがね」
ベベルが広間に集った者たちを見渡す。
「ここにいるのは未来と過去を求めるやつが半々って感じですな。それを滅びた帝国の残骸に突っ込むたぁ、企画したっていうクラン・ハイヴのだれかさんは、なかなかよろしい趣味だ」
「過ぎ去りしものを惜しむべからず。しからばこの地は真の獄とならん」
アーダムが酒に満ちた高杯を掲げて詠う。
「少なくとも緋の広間の皆様がたは、過去より未来をお求めのようです。セトラ様を含めてね。それを傍聴できる機会に恵まれたことは幸運と、私は思っております」
「渦中にぶっこまれたから足掻いてるに過ぎねぇやつらを高みの見物たぁ、お前は趣味が悪くなったな、アーダム」
ダダンが半眼でアーダムに呻く。
「そのツケはそのうち払うことになるぜ」
「高みの見物はしてないよ」
「さてな。けどそんな台詞はダイに言うもんじゃねぇよ」
杯の中身を干してダダンはダイをひたと見る。
「――大丈夫か?」
あらゆる意味の内包された響きだった。
大丈夫ですよ、と、ダイは答えた。
文官がそろそろとダイに耳打ちする。
緋の広間での活動もおろそかにはできない。ダダンたち三人をお目付け役にして、ロディマスはすでにこの場を辞していたが、ダイも戻るべきということだった。
「それじゃあ私はこの辺りで……」
三人に礼を述べ、辞去しかけたダイに、人の影が掛かる。
ダイは面を上げた。
ドッペルガムの魔術師が立っていた。
ユーグリッド・セイス。
彼は淡々とした声音で言った。
「こんにちは、みんな。お揃いで」