第六章 微睡む王母 6
室内に引き入れたサイアリーズとイスウィルを、ランディとユベールの騎士ふたりが確認していく。
イスウィルが腰に佩くふた振りの剣は無論、サイアリーズの杖も接収した。
「私から杖まで取り上げるのか?」
「どうぞ、お座りになってください。そうすれば必要ないでしょう?」
ダイは食卓の椅子を視線で示した。
サイアリーズが軽く眉を上げ、騎士の補助を受けて席に着く。
どん、と、体重を椅子に預けるなり、皮肉に口角を上げた彼女は、マリアージュに鋭い一瞥を飛ばした。
「これは何の真似でしょうかね、マリアージュ女王陛下」
「こちらが訊きたいわ、カレスティア宰相。……あなた、こちらの敷地で、何をなさろうとしていたのかしら?」
「こちらの敷地?」
「サイア。ここはデルリゲイリアの借地ですよ――ご存知でしょう?」
ダイたちが集うこの別宅は、デルリゲイリア側の敷地の最奥、隣との境界ぎりぎりにある。借地の正式な測量図をわざわざ小スカナジア宮から借りて確認したが、この別宅は間違いなく、こちら側の建物だ。
昼にアルヴィナが指摘した偽物の壁は、この別宅をゼムナム側に取り込むかたちで建造されていた。壁自体は昨日今日に建造されたものではない。しかしそれを利用して、このちいさな別宅と周辺の敷地を、完璧にゼムナムの借地のものにしてしまおうと、かの国の魔術師たちは動いているように見えた。
それをどう細工したのか。アルヴィナは正しく線引きし直したらしい。
就寝間際の夜半、はいお庭にしゅうごーう、と号令をかけた彼女に付いて歩き、説明を受けながら辿り着いた場所がここだ。
『ここで待ち伏せしましょう』
勝手に他領の別宅を無断使用し、借地を都合よく広げんと試みる、愚か者を。
『さぁて、誰が来るのか……楽しみね?』
(現れたのは三人)
ひとりはアッセの抱える子どもだ。ダイたちが一時的とはいえゼムナムに捕縛される切っ掛けをつくったあの。素性を追求しようとしたがひどく暴れるので気絶してもらっていた。
子どもが大人しくなったときに姿を見せたふたりが、サイアリーズとイスウィルだ。
サイアリーズの態度は不遜なものだった。彼女は椅子の背に重心を預け、さぁ、と、片手を上げた。
「何がなんだかさっぱりわからない」
「あらそぉ? じゃあ、敷地の境界を動かそうとしていた責任者は伯父さまの方?」
腕を組んだアルヴィナが口を挟む。ほかならぬサイアリーズが壁修復の図面を敷いたと、ゼムナムの魔術師たちからは言質をとっているのだ。彼らは嘘を吐いていたのね、と、追求するアルヴィナの声音は楽しげだ。
「伯父を呼ぼうか? それではっきりするなら」
「ここにいる時点で詰みだと、気付いたほうがよろしいのでは?」
アッセが抑揚を殺した声音でサイアリーズに通告する。
昨日の件。助けたように見せかけながら、お前が糸を引いていたのかと、静かな怒りをアッセから感じた。
「知らん。あなたたちも見たんだろう。この上には人をひとり養生させている。わたしは彼女を見舞いに来ただけだ」
ダイは二階の寝室で眠る婦人を思い返した。壮年から初老の年代と思しき女。身なりから下働きではないとわかる。髪や肌には艶がなく、病魔に長らく侵されていると見えた。
ダイは尋ねた。
「あのひとは誰なんですか?」
「私の親族だよ。国に残しておけないから連れてきた」
「ではこちらの子は?」
「彼女の娘だ」
「どうしてここにこの親子を?」
「ここに着いた初日に見つけて、丁度いい広さだと思ったからだよ」
「国に残しておけないほどの病人を、ご自分の目が届かないこのような場所に?」
しかも彼女にはたったひとりしか付き添っていなかった。その世話役らしき人物は二階で転がってもらっている。
「館は人の出入りが激しい。あなたがたのような他国からの客人も多い。煩わしい場から離れたところで静養させたかった。こちらが本当にそちら側の別宅だったなら、無断で使用したことを謝罪しよう」
サイアリーズの主張は筋の通ったものだ。けれどもひっかかる。
ダイはゼムナムに捕縛された際、子どもを追いかけた旨を告げた。尋問役の兵が報告書に書きこむさまも見た。報せを受けていないはずがないのに、サイアリーズは子どもについて、何ひとつ言及しようとしないのだ。
ダイはマリアージュに目配せを送った。ダイに視線を返した彼女もまたどうすべきか考えあぐねているようだった。
そういえば、と、ダイはイスウィルを見た。
(このひと、何も言わないな……)
サイアリーズの隣に着席するイスウィルは物言わぬ影のようだ。
主人が危機に陥ったなら、まずは従者が動くものだ。けれどもイスウィルは無言を貫いている。サイアリーズばかりが交渉の矢面に立ち、イスウィルは口を開こうともしない。
「イスウィルは何も話さんよ」
ダイが尋ねるよりも先にサイアリーズが言った。
「何も話せん」
サイアリーズに顎で促されたイスウィルは襟元をやおら解き始めた。ちいさな衣擦れの音。騎士のふたりが狼狽を見せる。
イスウィルが鎖骨まで前をくつろげて喉を逸らす。
そこには見るもおぞましい裂傷の痕があった。
「この通りだ。私も出逢ってこの方、イスウィルの声は聴いたことがない」
「もうよいわ。……直しなさい」
マリアージュが手を振ってイスウィルに喉を隠すよう促す。彼はマリアージュに微笑と目礼を返し、襟を元に戻し始めた。
「……それで、わたくしたちはどうすればよろしいでしょうか? 陛下」
サイアリーズがマリアージュに問う。
緊迫した空気が薄れて、困惑の気配が漂い始めた。アルヴィナがマリアージュに肩をすくめて見せる。仰せの通りにいたしますよ、との意思表示。
このまま解散するかと思われた。
その流れを、子どもの甲高い絶叫が途絶させた。
「わああああああああああああああっ!!」
アッセが顔を歪めて子どもを押さえつける。が、間合いの内側で力の限り暴れる子どもには苦慮していた。
「動くな! ふたりとも、そちらから目を離すな」
助け舟を出そうと動きかけたランディたちを制し、アッセが子どもを力付くで地に伏せさせる。
子どもの腰を臀部で、肩甲骨を肘で押さえ、空いた片手で喉を握る。
「静かに……大人しくしろ!」
「無礼だぞ! 離せ! おまえ……サイア!」
子どもがサイアの姿を認めて喜色を浮かべる。逆にサイアは渋面となった。
「サイア! ……ウィル! 助けろ! しんにゅーしゃだぞ! いたいいたいいたい!!」
アッセから力を加えられて子どもが悲鳴を上げる。
「サイア! 助けろ! サイア!」
涙を零す子どもに胸が痛む。無意識のうちに拳を握りしめながら、ダイはサイアリーズに呼びかけた。
「サイア」
子どもから目を上げるサイアリーズの顔はここにきて初めて歪んでいる。
「あなたに命令するこの子どもは……この方は、いったいどなたですか?」
サイアリーズは子どもを己の親族だと述べた。が、貴族の子ならなおさら礼儀は徹底して躾けられる。
サイアリーズは宰相。ゼムナムで第二位の権力を有する為政者。
彼女に命令できる人間の存在は、常識で考えればたったひとりだ。
「――陛下」
サイアリーズが子どもに呼びかける。ダイの問いに応じる代わりに。
「アクセリナ女王陛下。気をお鎮めください」
アッセが目を剥いて子どもを見下ろした。
「女王!?」
「そちらの御方を解放していただきたい」
どうか、と、苦い口調でサイアリーズが懇願する。それを聞き入れたというより、力が抜けてしまったのだろう。アッセの腕から抜け出したアクセリナはサイアリーズに縋りついた。そのまま振り返ってマリアージュを睨む。
「あなたがたにどうしていただきたいかは、もう少し話を伺ってからにいたしましょう」
憤怒の視線を受け止めながら、マリアージュが静かに告げる。
「色々と事情もおありのようですから……。えぇ、話してくださると思っているわ。仲良くしたいと、おっしゃってくださいましたものね?」
サイアリーズが天井を仰いで、わかりました、と、ちいさな声音で了承を示した。
アクセリナ・バレーラ・ゼムナム。御年は六。
ゼムナムの女王は臥せって長いと聞いていた。代替わりはいつかと訊けば、今年の初めだと回答される。
「国内でも公には知らせていない。いろいろ……問題がある」
場所を二階の寝室に移動し、説明を要求したダイたちに、サイアリーズはそう言った。
アクセリナ女王当人とイスウィルは階下でアッセたちに見張らせている。この場に集う人数は計五人。サイアリーズ、マリアージュ、ダイ、アルヴィナ、そして寝台で眠る婦人である。
「アバスカル卿とは主張が違うだけじゃなくて」
椅子に腰掛けるマリアージュの傍らで話を聞いていたダイは、サイアリーズに憶測を述べた。
「もしかしてアクセリナ女王の件も含めて対立しているんですか?」
「……あなたに伯父との確執の理由を教えたかな?」
「あなた、わたくしとわたくしの《国章持ち》が、情報を共有しないと思われるの?」
心外そうにマリアージュが呻く。サイアリーズは即座に謝罪した。
「失礼した」
サイアリーズの反応は無理もない。彼女の見せた反応はデルリゲイリア国内でも珍しくない。どうやら皆、化粧師には、無知であって欲しいらしい。
ペルフィリアで起きたあの男との件を、マリアージュに話してから、ダイは自然と隠し事をしなくなった。マリアージュもいつしか同様になった。以後、自分たちは離れていた間の出来事を、常に共有するようにしている。どれほど些細なことであっても。
「……問題とは、こちらの御方が理由ですか?」
「ダイは……なかなか鋭いね」
寝台で眠り続ける婦人を示したダイに、サイアリーズが微苦笑を浮かべる。
「こちらの御方は……アクセリナ女王陛下のご母堂?」
「アタラクシア様だ。見られたからには言ってしまうが、もう何年もこのままでね」
「起きないの?」
「目は覚めます。けれども外に反応を示さない。常に夢と現のあわいで微睡んでいるような状態です」
「どういった理由で?」
追求するマリアージュにサイアリーズが薄く笑う。
「お答えすればこちらの事情にあなたがたを巻き込むでしょう。……よろしいのですか?」
マリアージュが眉間を揉む。ダイは思わず呻いていた。
「あとでロディから叱られちゃいそうな案件ですね」
「もういいわよ。予想していたわよ。……話しなさいよ、全部」
「毒を食らわば皿まで。わたくしの陛下への好意は右肩上がりですよ」
「好意は態度で示して頂きたいものね、カレスティア宰相」
サイアリーズが微笑んだ。そうさせて頂きます、と、前置いて話し始める。
「我が国は現在、公にはアタラクシア様を国主として戴いている。しかしご自身に即位なさった御自覚はない。《朱の海嘯》時に弑された王家、ただひとりの生き残りとして、わたくしたちが助け出したとき、アタラクシア様の御心は既にまぼろばの地にあった」
目の前で両親と姉弟、家族同然の近習たちを虐殺され、自身は囚われて心身をいたぶられ続けた。生きていたことが不思議なほどだったそうだ。
「……ちょっと待って。助け出したときにはもうこの状態だったのよね? ……アクセリナ女王を出産なさったのは内乱の最中?」
「内乱終結のあとです。わたくしが出産に立ち会いました」
「王家襲撃って《朱の海嘯》の発端じゃありませんでした?」
アタラクシアが王家の敵対者の手に落ちた時期は《朱の海嘯》の初期。内乱自体は一年半続いた。
それが意味するところは。
「陛下のご尊父はアタラクシア様を救出した折に落命した一貴族、と、いうことになっております」
おそらくその場にいた全員が苦虫を噛み潰した表情を浮かべていたに違いない。
胸の悪くなる話だ。自分たちがサイアリーズに話させたとはいえ聞きたくなかった。
「アタラクシア様がご健勝なら、堕胎の方向もありました。けれどもそれはできない話だった」
「アタラクシア様の命にかかわっていたから?」
「国の命にかかわっていたから」
ダイの問いにサイアリーズはため息交じりに答えた。
「内乱の関係で我が国は多くの貴族を失いました。正確には王位継承権を持てる人間を、です。ゼムナムは王家との血縁三親等以内に王位継承の権利があり、緊急時には五親等まで繰り下げることもできる。平時なら中級、下級の家から養子縁組してもいい。けれどもあの内乱を収めるためには、どうしても、王家の血を引く人間が旗印として即位しなければならず、アタラクシア様があの状態だからこそ、継嗣となられる王女が必要だった」
魔力判定で王女が生まれるとわかったからこそ堕胎させなかったのだ。
「サイアが女王になるのでは、駄目だったんですか?」
ダイは疑問をサイアリーズに投げかけた。彼女がアタラクシアを親族と称しても嘘ではない。カレスティア家は王家と多く縁組する上位貴族だと、調べさせた文官たちから報告を得ている。
サイアリーズはダイに微笑んだ。
「私は子を孕めない」
健常な歩行能力と共にそれを失ったのだと彼女は言った。
「次代に繋がらぬ女を王にはできない。……いまはまだその時代ではない」
「それで……アバスカル卿の対立がその件とどう関係があるのかしら?」
沈みかけた空気を払うように、マリアージュが質問を飛ばす。
サイアリーズは安堵らしき表情を見せて答えた。
「伯父アバスカルはアクセリナ様を女王として認めておりません」
「父親がわからないから?」
「メイゼンブル公家の血が薄いからです。……アタラクシア様は女王の直系であらせられますが、ご尊父は女王の正王配ではありません。第二位のご夫君です」
女王の王配は複数人いた。一位はメイゼンブル公家の公子だったが二位、三位以下は国内貴族だった。
「伯父はこの大陸が聖女の下にまたひとつになると信じている。伯父の信仰をとやかく言うつもりはありません。が、それをいまも国政に持ち出そうとされるのは困る。……また国を二分させたいのか」
サイアリーズが忌々しげに呻く。飄々とした彼女には珍しい態度だった。
「アバスカル卿は……アクセリナ女王の命を狙っているの?」
マリアージュの問いにサイアリーズが首を横に振る。
「伯父の狙いは玉座の譲位です。……伯父には姪がいます。メイゼンブル上位貴族の生き残り……聖女の血筋の傍系です。伯父は王位を伯父の姪に譲ると陛下におっしゃらせたいのです」
アクセリナはまだ幼い。取り込める、と、アバスカルは考えているようだった。
いまのところ女王殺害を実行する気配はない。しかしそうならない保証もない。
「私の目の届かないところに陛下たちを置いておくわけにはいかなかった」
「かといって館で世話するにも不安が残った。……だから、ここに?」
「アタラクシア様だけね。……君には悪かったと思っている、ダイ。ここを探す伯父に私の手の者と間違えられたせいで、少々嫌な思いをさせてしまった」
捕縛されてからも相手が聞く耳を持たなかった理由はそれか、と、ダイは得心した。
「……で、これからどうするの?」
これまで壁際に控えていたアルヴィナが挙手して口を挟む。
「ダイが襲われた理由もわかったし、結局、借地の線引きの件も、そこのお嬢さんを守りたかった、宰相さまのご指示だったってことでいいのよね? でもなぁんか、ややこしいことになっちゃったよねぇ」
アルヴィナの顔には面倒の文字がありありと浮かぶ。
「今日、領地の線引きは正したから、このおうちはうちの国の借地に含まれちゃうんだけど」
「……できればアタラクシア様を預かっていただけると、助かる」
「あら宰相さま。よろしいの? 大切なお方を他国に預けることになりません?」
面白がるようなアルヴィナの問いに、サイアリーズは殊勝な態度だった。
「正直なところ本館に引き取っても危険度はそう変わらない。むしろあなたがたに預けたほうが安全そうだ」
「そんなにわたくしたちは甘ったるく見えるのかしらね?」
「流民まで気に掛けておられる陛下は、国外にまでご慈悲をくださると評判ですよ」
ため息を吐くマリアージュにサイアリーズがにっこり笑う。ダイは呆れて突っ込んだ。
「サイア、それは賞賛になってないです」
「よろしいでしょう」
膝の上で弄んでいた扇を乱暴に閉じ、マリアージュが椅子から立ち上がる。
「あなたの願いを聞き入れましょう」
「ありがとうございます、マリアージュ女王陛下」
「サイアリーズ・カレスティア宰相」
マリアージュが微笑む。
まったくもってあくどい笑みだ。彼女がそれを誰から学んだのか、ダイはあえて考えぬようにした。
マリアージュがサイアリーズに問う。
「あなたと仲良くした場合の見返りの話……今日はまだ、していなかったわよね?」