第六章 微睡む王母 5
議論はマリアージュが口火を切った。
「あなたはわたくしたちにペルフィリアとどう闘ってほしいのかしら?」
「……直球ですね」
目を丸めて呻くサイアリーズに、そこまで驚くことか、と、マリアージュは胸中で呻く。言質取りを避けるべく用いられる政治的比喩表現を、少々すっとばした程度ではないか。
「まどろっこしいのは嫌いなの。短気だとよく言われるわ。ダイにね」
「それは陛下のご不興を買わぬよう、気を付けなければなりませんね」
サイアリーズは軽やかに笑った。余裕ある態度を崩さない女だとマリアージュは感想を抱いた。
サイアリーズ・カレスティアは傑物と名高い為政者のひとりだ。ペルフィリアの女王セレネスティとよく並び称される。ゼムナムの女王は《朱の海嘯》のさなかに即位した女だが、かの内乱による心労で臥せっているとのうわさだ。そのせいだろう。サイアリーズの名のほうがよく知れている。
マリアージュは詰問を続けた。
「それで、うちに何を求めているの? 情報の共有? 何かの物的支援? 派兵はあてにされても無理よ。言っておくけれど」
「戦争をするつもりは毛頭ありません、とは、申し上げなければなりませんね」
サイアリーズがマリアージュの思考に訂正を入れる。そして苦笑を収めて姿勢を正した。
お願い申し上げることはひとつです――低い声音でサイアリーズがささやく。
「大陸会議において、ペルフィリアの意見に賛同しないでいただきたい」
マリアージュは眉をひそめた。その反応に解説が必要と判じたのだろう。サイアリーズが口を開く。
「大陸会議はこの大陸の今後を定める指針となるでしょう。……ただその方向は多数決の論理で決められる」
「大陸の今後についての考え方が、あなたのお国とペルフィリアでは、まったく違うということかしら?」
「そう思っていただいて結構です」
「ではぜひとも伺いたいわ。二国の方向性の違いを」
それを知れなければ、賛同もしようがない。
サイアリーズの回答は明朗だった。
「我が国ゼムナムはこの西大陸をゆくゆくは、ひとつの経済圏にまとめたいと考えています」
「ゼムナムに下れということ?」
マリアージュは眉をひそめて問いかけた。ゼムナム宰相の答えはメイゼンブル時代の統治の有り方を希望しているように聞こえる。
サイアリーズは否定に首を振った。
「各国の自治と尊厳を持ち得たまま、金銭と人材の流れのみを、条約によって流動化させるのです。市井の単位で各国の交流を深める。相互理解が深まれば殺し合いは抑制される。……つい昨日まで親しくしていたものには剣を向けないものでしょう?」
(……なるほどね……)
サイアリーズの弁は理に適っている。
しかしすべてはそのように上手くいかぬことをマリアージュは知っている。
「親しくしていたからこそ憎さ極まれりってこともあるかもしれなくてよ?」
マリアージュの指摘にサイアリーズはひととき瞠目した。
彼女は微苦笑を浮かべて頷く。
「なかにはそういうこともありましょう」
「あなたの主義はわかったわ。ペルフィリアはどういう考えを持っていると考えておいでなの?」
「ペルフィリアも大陸をひとつにとの考えなのでしょう。けれどかの国は武力でそれを成そうとしている」
「その根拠は?」
即座に追求したマリアージュをサイアリーズが訝しげに見る。
「セレネスティ女王は即位の折に周辺諸国を併合し、いまなおクラン・ハイヴとは休戦状態にあります。終戦の宣言を出していない。これこそが根拠となりはしませんか?」
「私が訊いている部分はそこではないわ。ペルフィリアが大陸統一を試みていると考える、その根拠は、と尋ねています」
ペルフィリアの表敬訪問の折だったか。ロディマスもマリアージュに述べた。ペルフィリアは覇者の座を狙っていると。けれどもその点が、マリアージュにはどうしても引っかかる。
ペルフィリアは本当に魔の公国になり替わることを求めているのだろうか。
即位の直後にセレネスティはペルフィリアの領土を一気に広げた。ならばデルリゲイリアに対しても同様に軍を以て攻め込めばよかったのだ。デルリゲイリアの軍備は厚くない。そう時間をかけずに陥落していただろう。
一個大隊の代わりにセレネスティはひとりの男を送り込んだ。
彼は三年もの時間をかけて女王を擁立すべく働いた。
結果――ペルフィリアは、デルリゲイリアを手に入れ損ねている。
セレネスティはデルリゲイリアを寄越せとは言った。
しかし覇者になりたいなどとはひと言も口にしていない。
(大陸の全部を手に入れようと思っていたとしてもよ。……何のために?)
幾度となく繰り返した自問だ。
マリアージュはかの国の宰相のひととなりを知っている。決して無意味なことをする男ではない。
自身の主君が意味なく力を欲するだけならば、あの男は逆に諌めるだろう。
「サイアリーズ宰相。ペルフィリアが大陸を統一しようとしていると考えるに至る根拠を、お持ちなのでしょう?」
それは、何だ。
マリアージュの追求にサイアリーズは初めて困惑らしき表情を見せる。
「わたくしは少々、安易に考えていたようです。はきとした根拠はございません」
そう、と、応答して、マリアージュは瞼を伏せた。
「……あなたのお国とペルフィリアの望むものが、同一でないとは、わたくしも思っています」
茶器を取り上げながらマリアージュは告げた。
「かといってゼムナムの目指すものと、我が国のそれが同じとも思わない」
「そうでしょうか? マリアージュ女王陛下。端から崩れる土くれのように、大陸の安寧が日に日に失われていくさまを憂い、流民救済をクランに呼びかけた。あなたの考えは、この大陸に戦なき日々をという私のものと根幹が同じでは?」
「いいえ。私はあなたがおっしゃったような大義は掲げてはいません」
「さようですか?」
サイアリーズが意外だといわんばかりの反応を見せる。
マリアージュは茶器の縁からくちびるを離した。茶器を皿に載せる。かつ、と、鋭い音が響く。
マリアージュはサイアリーズに告げた。
「カレスティア宰相。デルリゲイリアは小国。大陸全土の平穏について考えられるほどの余裕を持つわけではない。確かにわたくしは周辺国……クラン・ハイヴに流民救済について呼びかけた。けれどそれは、わたくしの国のためです」
昨年、国がひとつ斃れた。
焼け出された人々がデルリゲイリアに流れ込んだ。
国境沿いの村落はかなりの被害を被っている。大きな街や王都にもその影が差している。正直、限界が近い。
ダイの養母たちが流民たちに職を与え、土地に定着させる方法が一定の効果をもたらしたこともあり、倣った方策もいくつか打ち出した。農作物や家畜に被害を出す土地には見舞金も出している。国境の警備も強化した。
それでも問題の根源を解決せねば――際限がない。
「お国のことをよく考えられてのことでしたか」
「わたくしがわたくしの国のことを考えるのはおかしいかしら?」
「まさか。けれど陛下の目は外に向いておられるように見えましたので。即位以来、国の外によくお出でだったようですし」
サイアリーズの指摘は正しいかもしれない。
不本意ながらマリアージュは玉座に居つかない傾向のある女王だ。即位から半年ほどでペルフィリアに赴き、戻ってからは視察のために国内を渡り歩いた。
そのまま腰を玉座にじっくり据えていれば、サイアリーズが述べたような見解は聞かれなかったかもしれない。
二年目、マリアージュは再び国境を跨いだ。クラン・ハイヴには長居してしまった。
国内で力を入れた社交は、ようやっとか、と、囁かれるほどだった。
いままた国から遠く離れた大陸東部へ、大陸会議出席のために繰り出している。
「わたくしは陛下の行動は当然とも思っておりましたので」
「そう思われる?」
「えぇ。……お隣はあのペルフィリアです。それに即位した直後は内が落ちつかず、往々にして外への対応を薄いものにしがちです。けれど陛下は素早く外に気を払われたようでしたので。……不遜を承知で申し上げますと、うらやましく思いました」
サイアリーズが言葉を終えて冷めた紅茶を啜る。
マリアージュは鸚鵡返しに呟いた。
「うらやましい……?」
サイアリーズは茶器から顔を上げて首肯した。
「多くの国が覇者と共倒れしました。それでも少なくない数の国がこの大陸には残っていました。……ウェイズやザーリハはちいさくとも基盤がしっかりしていた。コルト、アリアンシェにいたっては、我が国よりも豊かだった。しかしいまはもう存在しません」
新王として立った折に国内に注力し過ぎて、対応を疎かにしていた外に呑みこまれたか。
もしくは君主として認められることなく、即位一年を待たずに内部から崩壊したか。
「外へすぐ意識を向けられるということは、国の基盤がゆるぎないものなのでしょう。うらやましく思いますよ」
サイアリーズの言葉は、血で血を洗う内乱を駆け抜けた為政者ならではの、本心だったのだろう。
マリアージュからしてみれば皮肉以外の何物でもない。
マリアージュは膝の上に載せている扇の縁を指で叩いた。
「……それらの国はどうしていればよかったのかしらね? 国内が不安定な状態で、外からも圧力を掛けられていたとして……」
茶器を卓上に置きながらサイアリーズが唸る。
「難問ですね。状況によって方策が異なるでしょうから。しかし……姿勢を見せることは、重要と思われますよ」
「姿勢?」
「外にはお前たちからは目を離していないという姿勢。内には自分の行動は臣下たちの、国のためであるという姿勢」
「仮面を被れということね」
「わたくしたちのお家芸ですよ。明白な仮面を被っていなければ味方は不安になり、狡猾な仮面を被っていなければ敵は勢いづく。仮面の付け替えに失敗する。ないし、外されてしまったならば」
「足元をすくわれる」
マリアージュがささやくと、サイアリーズはにこりと笑った。
王とは――それに準ずる為政者たちとは、綱渡りをしているようなものだ。
気が休まる暇もない。
「わかりやすい仮面を被りすぎていたせいで、国が割れることもありますけれどね」
茶菓子をマリアージュに手振りで勧めながらサイアリーズが呟いた。
「身近におありなの?」
「わたくしが直面していることこそまさにそれです。主義が違うことが明らかになった。それで伯父と反目しております」
サイアリーズが苦笑して焼き菓子を手で割る。国の二分を示すように。
「先も申しました通り、わたくしは人と金の流れを変えて国を豊かにしていきたい」
「伯父上は違われるの? ……アバスカル卿とおっしゃったかしら」
「伯父は長くメイゼンブルにおりました。熱心な宗教家です。聖女の下に大陸はひとつになるべきだと言ってはばからない」
聖女は市井の末端まで日々の支えとなっている。デルリゲイリアでは冠婚葬祭、いずれのときにも主神と聖女に祈る。メイゼンブルの影響が強かった土地ではむしろ聖女のほうに。
聞けば他大陸では主神のみに祈るか、祈りを口にしないこともあるようだ。
「聖女の否定は民人を大きく混乱させる。しかし、メイゼンブルが滅びてもう十五年を過ぎます。祈りばかりでは救われない。皆、それをわかってもいいころです」
「だから人と財で、と、おっしゃるの」
「伯父はわたくしが商人たちから影響を受けすぎなのだといいます。事実、その通りなのでしょう。ですが他大陸は……特に東は、もっと合理主義ですよ。そして豊かです」
東大陸はアリシュエルが名を変えて生きる土地だ。
王都の壁の外で別れて最後の娘の顔を、マリアージュはふと思い出した。
「わたくしはゼムナムを確実に生き残る国にしたい。……過去の威光に縋るでもなく、主神や聖女に祈りを捧げて平らかなる世を待つでもない。己れの足で未来を切り開いて生きられる、豊かな国に」
ゼムナムの宰相が決意を口にする。
遠い未来を見据えたその顔を眺めるマリアージュの脳裏に、いつだったか耳にした元女王候補の問いかけがよみがえる。
――貴女は女王になれたとしたら、どんな国を作っていきたい?
闇の濃い夜。
イスウィルを伴って林の中を歩きつつ、サイアリーズは今日の一日を振り返る。
(……思ったより、暗愚ではなかったな……)
デルリゲイリアが女王、マリアージュという女は。
先代の女王が崩御したと耳にしたとき、あの国もとうとう亡びるのだと思った。
とるにたらぬ小国の仮面を被った、けれどメイゼンブルから畏怖を抱かれ続けたあの国が。
芸技の国と平和呆けた二つ名を魔の公国から許されたあの国が、女王選出の儀を始めたときには、マリアージュという娘は無名もいいところだった。ガートルードという家の娘が次期女王に確定であると、商人たちはこぞって口にしていた。
それが蓋を開けてみればその有力候補は生死不明。マリアージュが即位した。どんな女かと耳を澄ませば、あろうことか化粧師を《国章持ち》にするという前代未聞さだ。有力候補が消えたことで玉座が転がり込んだ、運がよいだけの女かと見ていれば、デルリゲイリアは斃(たお)れない。
ペルフィリアでは捕えかけられながら迎賓館を占拠して、あの女狐――紗の奥で冷笑を浮かべる小娘――を出し抜いて脱出したらしい。それを潜ませていた間諜たちから聞いたときには拍手喝采した。ただその影響か、彼らを女狐に幾人か狩られてしまい、盛大に舌打ちしたが。
マリアージュに密かに接触した理由は色々ある。その中で好奇心がおおきな比率を占めることは否めない。
今日の半日を使って対話したマリアージュへの印象は、悪くなかった。
自らの伯父に対するものよりよほどよい。
(一番は……あれだな。ペルフィリアに対する考え方だ)
ゼムナムが親しくしている国々。たとえば、大陸会議にも出席する大陸西岸の三か国は、ペルフィリアがこの大陸の征服を試みていると認識している。ドッペルガムも同様のようだ。睨み合っているクラン・ハイヴの市長たちはいわずもがなだろう。
けれどもあの芸技の国の女王は、そうは思っていないようなのだ。
あの女狐と対立して、襲われたというのに。
執拗に根拠を求めるマリアージュの姿勢に、サイアリーズは感嘆した。
思ったように懐柔はできなかったが、種は撒いた。
大陸会議でペルフィリアがもしもな考えを持ちだしたとしても、マリアージュはおそらくゼムナムの意見に同調してくれる。
間諜が命と引き換えに差し出したものを、サイアリーズは無駄にしたくはなかった。
イスウィルがサイアリーズの手を強く握る。サイアリーズが面を上げれば、青年の案じるような眼差し。林の中は足場が不安定だ。思考に没頭し過ぎるな、ということだろう。
「今日はなかなか面白かったんだよ、イスウィル」
彼に手を引かれながらサイアリーズは告げた。
「マリアージュ女王とは出来れば今後も、仲良くしていきたいね……」
目的地に辿り着く。木々に隠されてある、二階建てのちいさな別館。銀樹の根に押されて奇妙に歪んだ壁が周囲を取り巻いている。
イスウィルが扉の前で立ち止まり、腰に提げた鍵を取り上げる。金属のこすれる音が夜の静寂を揺らす。
彼が錠穴に鍵を差し込むさまを見つめながら、サイアリーズはふたたび思考にふけった。
(あの化粧師もよかったな)
見目がきれいなだけではない。サイアリーズの下手な部下より頭が回るように見える。
『むしろ、化粧師のほうが曲者だと思いますよ……』
帰国したブルーノはあの化粧師のことを、そのように評したのだ……。
ふいにイスウィルから背に庇われ、サイアリーズは軽くよろめいた。
「……どうした?」
開かれた扉の向こうをイスウィルが凝視している。
彼は腰の得物の柄に手を掛けたまま、じりじりと後退していた。
館の中から聞き覚えのある声が響く。
「アルヴィー」
「はぁい」
刹那、背後に光の壁が現出した。別館を中心に広がる円形の、魔術防壁。
その内側に取り込まれたことを悟って、サイアリーズは歯噛みした。
目が次第に慣れるにつれて、内部の様子が明らかとなる。
田舎の民家を思わせる造りだ。壁沿いに水場。木製の床の上には毛織物。中央には椅子と食卓。奥には階段。
その影から染み出すように、数人の男女が姿を見せた。
騎士が三人。そのうちのひとりは、子どもを抱きかかえている。
彼らの前には魔術師が立つ。赤い髪を三つ編みにした柔和な笑みをたたえる女だ。
最後のふたりは、女王と――化粧師。
「動かないでください、サイア。イスウィルさんも」
化粧師は言った。
感情も、性別も読みにくい、涼しげな顔で。
「といっても、動けないでしょうけれど」
化粧師の確信を持った囁きに、サイアリーズはぞくぞくした。
してやられたという悔しさと、危機をどう切り抜けるべきかという高揚感。
アーダムが述べた化粧師への評価を再度、思い出す。
『あのダダンがかなり気に掛けている時点で、気付くべきだった。……あれは自分を手に入れたあなたと同じです、サイアお嬢さま』
強運は、女王ではない。
化粧師(あちら)の方かもしれません。