第五章 舞踏する漂寓者 3
大道芸の一座が間借りする借家に、ルゥナと共に呼び出されたダイは、聞かされた話を鸚鵡返しに尋ねた。
「え? このまま引き上げるんですか?」
「そうだ。二、三日中にな」
一座を束ねる男が首肯を返し、気だるげに煙管をふかす。
「こんなことになっちまったし、ここにいたって何ができるってわけでもない。それに集会場の騒ぎだよ。ダイはその場にいたんだろう? 俺たちが賊を呼んだなんてとんだ濡れ衣だ。……うちだって若いのが何人も怪我してる。……荷だってひでぇ有様だ。正直、やってられんさ」
紫煙を吐き出す初老の男のたるんだ下まぶたにはひときわ濃い陰。常ならばきれいに撫でつけている前髪は額に張り付いている。白と黒の無精ひげも目立った。彼はたったの一日でひどくやつれていた。
村を襲撃していた賊の掃討も終わり、一夜が明けた。セイスとアルヴィナ、そしてふたりに協力していた村の若衆たちの尽力あって、家屋や家畜には目立った被害は出なかったという。
だが、無傷というわけにはいかなかった。
死者こそ出なかったものの、負傷者の数は少なくはない。そのうち幾人かは現在セイスから魔術的な治療を受けている最中である。最大の被害者は村の敷地の外に停泊していた大道芸の一座の馬車だ。ダイも朝方に幌馬車の片づけを手伝ったが、その内部は惨憺たる有様だった。
木箱は軒並みこじ開けられて、その中身を引き出されていた。衣装の大部分は窃盗に遭い、残りも踏みにじられて、生地の裂けたものもある。装飾品も散乱していた。布で作られた花。玻璃玉を繋ぎ合わせて作られた首飾り。腕輪代わりや衣服の装飾などに用いられる組み紐も。そのなかで売買に足る品はすべて盗難の憂き目に遭っていた。
宝玉や銀を用いた高価な装飾具や、薪や招力石の屑石のような生活必需品は、借家に移していて無事だった。馬も厩で難を逃れた。しかし一座が大きな痛手を受けたことには変わりない。
「片づけにある程度の目途がつき次第、村を発つ。そのつもりでいてくれ。……ここに残るならかまわんが」
「いえ……連れていっていただけるとありがたいです」
座長が示唆した可能性をダイは首を振って否定した。
「……正直なところ、心残りではありますけれど」
昨夜まで村の皆はダイたちによくしてくれた。その恩義を彼らが困難に直面しているいまこそ返したい。だが、物事には優先順位があることも、ダイは理解していた。
ダイたちは一刻も早く仲間たちのもとに戻らなければならない。
「おたくらはどうするんだ?」
ダイに深く頷いたのち、座長はルゥナに尋ねた。
マリアージュとの口論の件が尾を曳いているのか。ダイと初めに挨拶を交わしたのち、ルゥナは沈黙したまま俯いている。話を振られても彼女はしばし黙考する様子を見せていた。
「……もちろん、一緒に行くよ」
ようやっと面を上げてルゥナが男の問いに答える。
「でも、このまま何もせずに、ハイサヨウナラっていうのはよくないと思う」
「何をしろっていうんだ?」
「劇だよ! 演劇! 短いのでいいの。苦しいときだからこそ、劇で皆を幸せにするの……!」
「……そりゃあ、やりたいのはやまやまだが」
名案だろうと目を輝かせて訴えるルゥナに、やや気圧された様子で一座の長が抗弁する。
「皆が無事なら賛同したかもな。けど、主役を張れるやつは怪我で舞台を踏める容体じゃない」
続けて彼は指折りながら役者の名を上げていった。マルクス、ミーシェ、ララ、ホブ……。台本を覚えている年の者はおしなべて負傷していた。
「聖女さまのお話は? 聖女さまたちの働きが認められて、スカーレットから叙勲されるときの。あれならナヴル公と騎士さまと聖女さま、三人でできる」
「肝心の聖女役が駄目なの、知ってるだろう」
男が苛立った様子でルゥナに言い放つ。ルゥナは微苦笑を浮かべて視線を伏せた。
「そう……だったね。……ごめんなさい」
昨日の舞台で主役を張ったふたりは傷が深く臥せっている。特に聖女役を務めた少女の方が精神的な深手を負い、寝台から起きることができないようだ。
彼女たちの負傷は村人たちによるものだ。それが村を速やかに離れようとするもっとも大きな理由なのだろう。
たった一日前だった。村人たちはこの一座の劇に胸を躍らせていた。今は互いの手伝いの手すら拒む。それをルゥナが惜しむ気持ちは、ダイにもわかる。
ダイはちいさく息を吐いて言った。
「聖女役ならルゥナさんができるんじゃないですか?」
「えっ、わたし?」
「台詞全部覚えているって言ってましたよね、確か」
ルゥナは熱心に台本を読み込んでいた。諳んじることもできると聞いた。声も張りがあってよく通る。
「うん……うん! できる。聖女なら、私ができる。わたしがぜんぶ、台詞を覚えてるよ!」
ダイの助け舟に明るさを取り戻したルゥナが拳を握って主張する。
一座の長は困惑の表情を浮かべた。
「いや、だが、な。台本なしで話せたところで、衣装も何にもないんだ。昨日のでやられちまった。台詞を全部覚えていたって、衣装も何もないなかでそれらしくみせるにゃあ、技量がいる」
「そんなに難しく考えなくてもいいと思うの。一座の皆がね、みんなを楽しませるために来たんだって、みんなが思い出せればそれでいいんだよ。……それに、衣装ぐらいならなんとかなると思う」
「終わったよ」
ルゥナの話し終わりに被るかたちで響いた声はセイスのものだった。借家の奥から居室に現れた彼は、表情の乏しい端整な顔に汗を滲ませている。
「傷は全部ふさいである。でも魔術で無理に糊付けしているみたいな状態だから、できれば二、三日動かさないで」
セイスは賊の襲撃が収束してから、ひたすら怪我人を治療し続けている。村の住人たちも含めると決して少なくない数だ。疲れ切っても無理はない。
水を酌んで歩み寄るセイスに、座長は席から立って一礼した。
「ありがとう……恩に着る」
「礼を言うべきは僕じゃないよ。ルゥナだ。彼女が助けてって僕に言った」
セイスの指摘に座長が瞬いてルゥナを見る。彼は告ぐべき言葉を考えあぐねた様子で口を動かし、最後にはルゥナに深々と頭を下げた。
「い、いいよ。いいんだよ。だって私いっぱいお世話になってたし……」
「いや……。セイスが魔術師でよかった。感謝する。……ルゥナ、あんたの助言も、聞き入れたほうがよさそうだ」
「やっ。無理はしなくていいんだよ。ホント! ただ私は無断でさようならっていうのもどうかなって、思っただけで……」
「いったい、何の話?」
「劇をしようって話ですよ」
ルゥナに代わってダイはセイスに答えた。
「黙ってここを離れるより、最後にいっぽん明るい劇でもしたほうがいいんじゃないか、って、ルゥナさんが」
「ねね、セイス。役者のひとの衣装を舞台衣装に上塗りできる?」
「衣装がどんなものかわかればできるけど」
(うわぬり……?)
ルゥナとセイスの会話に耳をそばだてていたダイは身をこわばらせた。楽しくない記憶を思い出したのだ。
昨年のペルフィリアで邂逅した魔術師の青年。彼はユマの姿を魔術師で自身に《上塗り》し、ダイをかどわかした。
まさか、それと。
「上塗り? なんだそれは」
「衣装や装飾品を身に着けているように見せかける魔術です。絵を、上から描き直すみたいに」
――やはり、同じだったようだ。
「そんな術があるのか。便利だな……」
「これで、衣装の件は解決です」
ルゥナが座長へにっこりと笑う。
「無理ならいいの。でもしたほうが、私はいいと思うんだぁ」
ね、と、彼女は念押しした。
座長は腕を組むと低く唸った。
そして彼は皆に相談すると言って、ダイたちに解散を促したのだった。
「……結局のところ、よ」
集会場に設えられた観客席の最後尾で、マリアージュがため息を吐いて言った。
「あの女、自分が舞台に立ってみたいだけだったんじゃないの?」
「かもしれないですけど」
マリアージュの隣の席でダイは身じろぎした。
「台詞を覚えているって口を挟んでしまったの、私ですし」
「あんたはほんとーに余計なひとこと多すぎんのよなんで改まらないの」
「まりあひゃま、いひゃい、いひゃい」
両頬を力いっぱいに引っ張るマリアージュにダイは訴えた。マリアージュの暴力こそいつになったら収まるのか。不服があるたびにダイの頬を弄ばないでほしいものである。
マリアージュから解放された頬を擦りながらダイは正面に向き直った。一座の最後の公演が行われる集会場の舞台では、緊張した面持ちのルゥナが代役を務めている。
一座はルゥナの意見を採用した。出立の前日に一度だけ。聖女に関する短い劇だ。演目は、『旅の終焉』。
ひとびとを癒しながら大陸中を旅した聖女シンシアとその一行が、学術大国であったスカーレットに国民として迎えられる。シンシアの恋人アーノルドは正式にスカーレットの騎士として叙勲され、聖女自身もまたスカーレットにて大陸の平和の象徴としての道を歩み出す。
『……生まれた土地、親、兄弟、子、そして友……私たちは、これまで多くのかけがえのないものたちを失って、それでも光を求めて駆け抜けてきました』
聖女は言う。彼女を慕って過酷な旅に添い続けた仲間たち、そしてひとたび聖女を目にせんと集まった民人に向かって。
『たくさんの苦しみを経ましたね。その中で私は理解しました。日々のささいな営みを積み重ねていくことこそ愛おしい。そしてそれがもっとも困難であると。愛しいひとたちの喪失をいつまでも嘆き悲しまずに、前へ歩き出さなければならない。……いまこそ、そう、歩き出すときです』
聖女たちは暗黒の時代を覆すために旅した。それは愛しいものを奪った時代への復讐とも呼べた。
それはもう終わり。
これからは自らの幸せを求めよう。新たに祖国となった大地に根を張って。それこそが自分たちの新しい使命。
そう訴えてのち聖女は旅の終焉を宣言する。
「それにしても……たいしたものね、上塗りっていうのは」
聖女を演じるルゥナを眺めながら、マリアージュが苦い口調で述べた。そうですね、と、ダイは同意した。
ルゥナとセイスが宣言した通りに衣装は魔術によって用意された。縁に金銀の糸で祝福の紋様を刺繍した白の長衣――……魔術の方が失われた衣装よりもっともらしく見える。セイスいわく、実体を伴わぬ単なる幻影らしい。
(まぁ、遣い魔もそうですもんね……)
見分けがつかないという点は同じだ。
「……セイスさんも、別人に成り替われるんでしょうか」
ペルフィリアでダイをかどわかした女王の側近はユマになりきってみせた。その《上塗り》は完璧だった。間近にいたダイでさえ時間を置かなければ別人であると気付かなかったほどに。
「それができないから化粧はあんたに頼んだんでしょ」
マリアージュが気だるげに言う。ダイは嬉しくなって口元を緩めた。ダイの独白にわざわざ応じてくれたようだ。
「マリアージュ様が私の化粧を許可なさるとは思いませんでした」
今回の舞台でも役者たちへの化粧はダイがした。ルゥナもその対象に含まれる。
ダイの主君は売られた喧嘩を忘れない。座長からの依頼をダイが伝えたとき、マリアージュは倦厭の表情を隠さなかった。断れ、と、命じられるとダイは密かに思っていたのだ。
「普通だったら許しはしないわ」
マリアージュは口先を尖らせて呻いた。
「一座のことがあったから、仕方なく、よ」
「……本当に成長されましたねぇ。感動しました」
ダイは心から賛辞を送った。主君の成長をぜひ遠き地のアリシュエルにも見てもらいたい。
「しみじみ言うのはやめて頂戴」
マリアージュが露骨に顔をしかめる。
「……それに、気になったのよね。アルヴィナの一言が」
『ダイが化粧しなかったら、あの子たちは上塗りで済ますんでしょうねぇ』
裏方の手伝いを打診されたとき、アルヴィナが口を挟んだのだ。
『……それって良くないと思うなぁ』
彼女が理由を述べはしなかったものの敢えて忠告めいたことを口にした。その点はダイも引っかかる部分だった。
「あとで理由を訊いてみましょうか。……使い方さえ間違えなければ、上塗りって便利そうですけどね」
衣装や装飾品を高い水準で再現できるのなら汎用性は高い。
たとえば以前のペルフィリアでも今回でも、衣装や装飾品を多く揃えて旅している。そのために馬車数台を用意し、管理の係を数人は連れなければならない。それが《上塗り》のできる魔術師がひとりいるだけで不要になるのだ。
ダイは改めてルゥナたちを注視した。
彼女たちの纏う衣装は風を孕む裾の膨らみ方まで現実味あふれる。ダイの施した化粧はそのきらびやかな衣装によく馴染んでいた。鮮やかな頬紅がルゥナの白い頬を際立たせている――……。
ダイは違和感を覚えて眉をひそめた。
(あんなに頬紅、注してないのに)
緊張で上気している可能性を差し引いてもルゥナの顔がやけに赤い。
「ねぇ、ダイ。あの女、やけにふらふらしていない?」
ルゥナの異変にマリアージュも気が付いたらしい。彼女の指摘通り、ルゥナの足取りはかなりおぼつかないものとなっている。
舞台は、もうまもなく跳ねる。
ダイは立ち上がった。
「ちょっと、裏に回って様子を見てきます」
「待ちなさい。……私も行くわ」
マリアージュもまた衣服の裾を摘まみ上げて席を立った。
集会所に以前のような賑わいはない。男衆は村の柵の補に忙しい。家畜の放牧地を見回りに行ったものもいる。怪我人や老人、幼い子ども。お役御免を言い渡された者たちだけが集っている。
劇を見つめる彼らの目が、娯楽に浸る者たちのそれだということが、救いであるように思えた。
ルゥナの様子に疑問を抱いた者もいないようだ。劇はつつがなく終わりへと収束している。
ダイはマリアージュと連れだって外へと出た。壁沿いに裏口へ回り、再び建物の中へ入る。楽屋として使用している小部屋の前を歩き、舞台の袖に。
そこで下がってきたルゥナとかち合った。
「ルゥナさん、大丈夫ですか?」
ダイは彼女に思わず駆け寄った。遠目で見たときよりもさらに顔色が悪い。赤を通り越して、紫に近いのだ。
「あ、うーん。ちょっと」
壁を支えにして立ちどまったルゥナが弱々しい笑みを返す。
「あはは、緊張してたのかもねぇ。少し、疲れて……」
「そんな感じじゃないですよ。ちょっと横にならないと……」
「ダイ、ルゥナさんを頼んでいいか。俺は姉さんたちを呼んでくる」
騎士役を務めていた青年がルゥナの顔色を覗き込んで素早く踵を返す。劇は終わったらしい。座長の挨拶が舞台から聞こえる。
「ルゥナ」
青年と入れ替わりにセイスが姿を見せた。アルヴィナも一緒だ。
ダイたちとの距離を急ぎ足で詰め、セイスがルゥナを腕の中に抱き取る。ルゥナは気が抜けたらしい。膝からその場に崩れ落ちた。
「セイス……ごめん。力が入らなくて……」
セイスに謝るルゥナの目はうつろだ。額には脂汗が滲んでいる。
セイスが狼狽した様子で呻いた。
「朝は何もなかったのに」
「それはそうでしょおねぇ。上塗りしていなかったんだもの」
ふたりを頭上から覗き込み、アルヴィナがため息を吐く。彼女は両腰に手を当ててあきれ果てた様子だ。
「アルヴィー、どういう意味ですか?」
「ダイ、この子たちはね。控えめにしておいたほうがいいよっていう私の忠告を聞き流して、ちょっとこってりめに姿を上塗りしちゃったの」
仕方がないなぁ、と、アルヴィナは眉間に皺を寄せた。
「……セイス君、はやく楽屋にルゥナちゃんを運んで。ダイは馬車に行って玻璃玉を借りて来てちょうだいな」
「は、玻璃玉ですか?」
「うん。何でもいいの。腕輪とか首輪とか耳飾りとか」
肩を上下に揺らしていたルゥナの呼吸はいつの間にか虫の息に転じている。
言葉を区切ったアルヴィナがルゥナを一瞥してダイを急かした。
「早く」