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98 髪飾り

 小さなきっかけはそう。
 食料品の買出しの帰り、なんとなく目に留まった、ビロードの上で光を照り返す、彫金が見事な髪飾りだった。



 自分の倍ある体格の男でも、コツさえつかめば容易く放り投げることは出来る。それが自分よりうんと小柄な少女の身体ならなおのこと容易い。叩きつける力を加減することすら出来てしまうのだ。
地面に少女の身体が衝突する寸前、腕に力を込めて、少女の背中にかかるであろう負担を軽減してやる。どさ、と柔らかな草の生える土の上に落としてやると、大の字に寝そべったまま少女が不満そうに口を尖らせた。
「ジン、今加減しただろう?」
「あ、ばれた?」
「ばれるよ!」
 呼吸をすぐに整え身を起こしてきた少女は、眉間に皺を寄せながら声を張り上げてきた。この少女はすぐに難しい顔をしがちなので、常にそんな顔をしていると本当に皺が刻まれたままになるよと、いつも忠告しているのに。
「だって背中あざになったら痛くない?」
「それも覚悟で組み手頼んでるんだから、もっとちゃんとやってよ!」
「ちゃんとやったらシファカちゃんあっさり気絶しちゃうじゃん」
「するか!」
「とかいいながらこの間、頭打ってしばらく意識なかっいだ!」
 憤怒にだろう頬を紅潮させた少女は拳でジンの脛を力強く叩いてきた。もう一度振り上げられた拳に思わず一歩その場から退く。ふい、と視線をそらした少女は、拗ねた声音で低く呻いた。
「また今日も負けた」



 湖の王国ロプノール。またの名を不毛の王国。北大陸の南西部、山麓と海に周囲を覆われた褐色の大地に存在する唯一の王国である。その交通の不便さから、他国との国交も少なく、行商人―-キャラバンたちのみが世界の窓ともいえる小さな国に、自分が流れ着いて早一月が経とうとしている。
 不毛と名が付くものの、湖と隣接して建築されている街はそれなりににぎやかだ。むしろ国としては健康であると思う。キャラバンが運んでくる様々な乾物や果物が市場に並び、風鈴と思わしき金属製の飾り物が窓の外で涼やかな音を立てる。血が濃いためか、子供たちの数は多くはないが健康に育っているように見受けられる。政治も安定している。国王とその皇太子、そして宰相の手腕は、悪くないようだった。
 そういった諸々のことはすでに観察し終えていて、ならば自分は次の国に旅立つべきだった。そうであるのにずるずると居続けているのは、目の前で眉間に皺を寄せたまま唸っている、少女のせいだ。否定したくても、否定できない。
 その少女、シファカ・メレンディーナは、この国の次期皇太子妃の、双子の姉である。
 黒髪に日に焼けた浅黒い肌、小柄な体に、紫金の瞳。金茶の髪と褐色の肌の人間が大半を占めるこの国で、少女の容姿はあまりにも浮いている。加えて剣使い。女剣士はジン自身幾度も見たことはあるが、女の役割が固定されているこの国での女の剣士はかなり稀有である。王の保護を受けているとは言えども、身寄りのないらしい少女が剣一本を恃んで自分で居場所を掴むその行為がどれほど困難か、ジンは知っているつもりだった。彼女が異人の血を引いた少女で、異物は排除される傾向にある、このような閉鎖的な場所ならなおさら。
 一目見て、とても窮屈そうに生きている娘だと思った。
 二目見て、ともすれば砕けそうな精神的弱さを抱えていることが判った。
 そして、自分でその弱さに気づかず、けれども必死に一人で立とうとしていることも。
 ジンはすぐに、この少女にちょっかいを出すことを決めた。
「ジン?ちょっと聞いてるのか?」
「え?」
「……このやろう」
「うわ御免。何何?」
「……それで、このときはどうしたらいいのかって」
 土の上に枝で絵を描いて動きを簡単に説明している最中であったのだ。ここ数日、十日ほど経ったか。シファカを伴って湖畔の広場に赴き、武術剣術の指南を行うことがジンの日課の一つとなっていて、簡単な身体慣らしの組み手に始まり、講義、そして復習の組み手と続く。シファカの体技は決して悪くはなく、いい運動になるのも確かだ。が、真剣に自分の言葉に耳を傾け、復習に精を出す少女が正直いって可愛くて仕方がなく、稽古をつけることよりもむしろ様子を眺めるのが楽しみなのだ。妹が居たらこんな風なのだろう、とジンは思った。
「よし。じゃぁ次は」
 簡単な刀の打ち合い。そう宣言して立ち上がった少女にジンは笑いながら身体を起こした。



 贔屓目を差し引いても、少女は可愛らしい顔立ちをしている。
 自分で別嬪であることを少女は自覚していないらしい。稽古を一通り終えて、土埃だらけになった髪を無造作に湖の水ですすいだ少女は、ため息をつきながら言った。
「男に生まれたかったなぁ」
 その声音が妙に真剣であったので、ジンは思わず噴出してしまった。
「笑わないでよ!失礼だな!」
「あはははっごめ、だて、あははは、むちゃくちゃ真剣に何をいうのかと思ったら、男にって」
「だって真剣なんだから……いい加減に笑うのやめろ!殴り飛ばされたいか!」
「やだーシファカちゃんってば乱暴あっつごめんなさい!」
 少女の手に握られていたのは、拳大ある石ころだ。ぶつけられてはたまらない。諸手をあげて降参を示すと、少女は眉根を寄せたまま石を置いて舌打ちした。

……本気で投げるつもりだったんですかね?

 どことなく名残惜しそうに石に添えられた手を見やりながら、ジンは苦笑した。
 傍らに腰を下ろす。水面には不機嫌そうな面持ちの少女の顔が映っている。
「どうして男に生まれてきたかったの?」
「……男に生まれていれば、もう少し……」
「もう少し?」
「……なんでもない」
 きゅ、と髪の水分を絞って、シファカは髪を軽く結わえようとする。ろくろく梳かないまま無造作に束ねられる髪を見て、ちょっかいだしたさにむずむずする手をどうにか押さえ、微笑みながら尋ねた。
「髪長いね」
「ん?あぁコレね。切らせてもらえないんだ。エイネイも王陛下も殿下も周囲が揃って反対して」
 エイネイ、という少女はシファカの双子の妹だ。シファカのたった一人の肉親。彼女が絶対切ってはいけないと主張するのだ、と髪の毛をくるくると指でもてあそびながら、シファカが呻く。
 剣を握る少女の手は硬く、骨ばっている。けれども指は細く長く、綺麗な爪が飾っている。その指に絡めとられる髪は艶やかで、黒の絹糸のようだった。
「綺麗だしね」
「何が?」
「シファカちゃんの髪」
「冗談。ばっさばさのごわごわだよ」
「それはきちんと梳かないからだよ」
 ジンはシファカの背後に回って、ひょい、とその身体を抱き上げた。うわ、という狼狽の声が上がる。暴れる少女を嗜めながら木陰の荷物の傍まで歩み寄ると、腰を下ろして背後から抱えるような形で少女を足の間に座らせた。
「ジン!いい加減にしないと怒るぞ!」
「はいはーいシファカちゃんが怒ってるのはいつものことでしょ。ほら、前向いて。髪の毛結ってあげる」
 荷物から櫛を引きずり出す。ぎょっと目を見張った少女は、狼狽に上ずった声をあげた。
「ななな、何で櫛なんか持ち歩いてんの男の癖に」
今日はもともと、髪を結ってやるつもりだった。今朝買い求めた綺麗な髪飾り。それをこの髪に挿したくてうずうずしていた。
 それはまだ、内緒だ。こんなのもらえないよ、似合わない、ととても困った表情をして付き返してくる少女の顔が思い浮かんでジンは笑った。
「今日はたまたまでーす。丁度いいね。ほらーまぇむく」
「いやちょっとそれよか離せ馬鹿」
「そしたら髪の毛ゆえないじゃん?」
「結わなくていい!というかジン、髪結いまでできるのか?」
「俺女の子の髪の毛結うの大得意よ?」
「……嫌味の塊みたいな男だな」
 眉根をさらにきつく寄せるその間に指を乗せてぐりぐり引き伸ばしてやる。シファカは鬱陶しげにその手を払いのけたが、逃げることはしなかった。この少女は結局口では嫌がっても、かまわれることに対してはさほど嫌悪を見せない。
 それどころか、愛情に飢えている節がある。
 おかしなことだ。ナドゥ――自分が今住み込みで働いている鍛冶師――の様子、シファカ自身から語られる双子の妹、この国の王、その息子、誰の様子を聞いてとっても、シファカが愛されていないということはない。けれど、この少女は愛情にとても飢えていて、優しくしてやれば嫌がり戸惑いつつも、最後にはきちんと反応を返してくれる。不機嫌そうなのは、変わらなかったが。
 笑ってくれたらいいのにな、といつも思う。
 少女はいつも口元を引き結んで、難しそうな顔をしている。特に自分の前では。みなの前ではへたくそな空笑い。何を考えているのやら。それほど難しく考えなくても、もう少しいい加減に生きたらいいのだ。
 でないと、人の生はとても辛いものだから。
 考えれば考えるほど、深みにはまってしまうものだから。
 少女の手で結わえられた髪は少し曲がっている。シファカは手先が器用ではなかった。驚くほど不器用だ。そして自分は、自画自賛するわけではないがなんでもあらかたそつなくこなすことが出来る。家事手伝いも学んだのはここ数年のことだが、料理だってちょっとしたものだ、と自分でも思う。そしてそんなジンの器用さを見るたびに、シファカは不公平だといわんばかりの表情を見せるのだ。
 その表情、ふてくされる仕草一つ一つが愛らしい。
(相当はまってるよねぇ俺)
 少女の髪を梳いてやりながらジンは苦笑した。シファカは、ジンの足で固定されているため逃げ場がない。そもそも逃げる意志も最初から失せているのか、じっと大人しい。
 ちょっとずつ、猫を手なずけている気分だ。
 毛を逆立てて警戒心あらわな子猫を、手なずけている気分。本当はちょっとは擦り寄ってきて欲しいけれども、こうやって大人しく撫でられていることを許しているだけでも、かなりの進歩だ。
 ふと、髪の毛を梳く手を止めて少女を見た。うっとりと瞼を閉じて、浅い呼吸を繰り返している。眠っていないのはわかっていたが、それでもかなり夢の世界に近いと見える。
「疲れた?」
「……ちょっとね」
「眠っちゃっていいよ」
「ヤダよ。だってジンは城まで連れ帰ってくれないんだ」
「えーちゃんとつれて帰るよ」
「それでもヤダ」
 さらりと即答され、ふられたか、と再び苦笑。櫛を口にくわえて、梳き終わった髪を指に絡める。絹糸のよう、と思ったのは間違いではない。触れた髪は柔らかく、濡らしたばかりのせいもあってしっとりと重い。どんな結い方がいいだろうと思案する。せっかく長いのだから一部分だけ結って垂らしてもいいが、おそらく後々勤めがあるだろう少女は、あっさりと結いなおしてしまうだろう。うーんと唸った後、綺麗に全部編みこんで結い上げることに決めた。邪魔にならないし、見た目も豪奢だ。決めれば後は早い。
(久しぶりだなぁ。こんな風に触るの)
 最後にしたのは何時だっただろう。確か最初に長居した国の、世話になっていた家の孫娘。年端の行かない舌足らずな言葉遣いで、後を付いて来てくれるのがうれしかった。膝にしがみついてせがんでくるものだから、毎日何回も結ってやったものだ。
 その前は。
 もう、十年以上も前だった。
 どうしてだろう。もう前ほど胸が痛まない。
 ただあの頃があって、こうやって目の前の少女の髪に触れていられることに、どこか感謝すらしている。
 シファカの髪は柔らかく、滑ってなかなか上手くまとまらない。苦心して綺麗にして、最後に、用意していたもので髪を止める。金の髪飾りは簪に似て、目の覚める様な澄んだ蒼色の石がはめ込まれている。派手なものではないし、無名の彫金師によって作られたものであったが、かなりいいものだ。ものを見る目には、自信があるつもりだった。青珠の周りを飾る深い金は、黒髪と少女の紫金の目に映える。
 綺麗な品でしょう。そいつをつくった男は、腕のいい西の細工師だったんですが、なんでも曰くつきの品物ばかり作るって言うんで。
 そういっていた小物屋の店主。じゃぁこの簪にはどんな曰くが、と尋ねたジンに、店主は笑っていったのだ。
 人の心を引きずり出すそうですよ。
 何を考えているのか何に苦しんでいるのか、いまいち判らない少女に、ぴったりだと思った。
 弱音を、吐いてくれたら。
 この少女を助けてやることができる。
 ためしに髪飾りを手に持ってみたが悪い魔力は感じられない。綺麗なもので、怨念とも縁遠い。むしろどこかで一度使われて、大事にされていた様子がある。これならシファカに与えても害はないだろうと判断して、買い求めたのだ。
 髪飾りは美しく少女の黒髪を飾り、崩れたところがないか具合を確かめ、そのできばえにジンは満足した。
「シファカちゃん。出来たよ」
 シファカは沈黙したままで、もう一度声をかけようと口を開くその前に、華奢な肩がぐらりと揺れた。慌てて抱きとめると、穏やかな寝息を立てている。気配が、ほとんど寝ている人のそれにちかいと思っていたら、本格的に眠っていたようだった。
 昨晩も、宮勤めであまり寝ていないようだった。今日の稽古はかなり厳しい組み手をしたから、疲れるのも当然だ。
「あはは。役得役得」
 おどけて呟いてみるものの、少女の身体の柔らかさに、当惑しているのは自分だった。初めてあったとき、背中に負ぶっていったときはそれほど感じなかったのに。寝ている人特有の体温は高くて、腕の中に簡単に閉じ込めることの出来る体は、抱きしめれば文字通り壊れてしまうのではないかと思うほど華奢だ。襟に隠れる、ほっそりとした鎖骨の窪みがなまめかしい。
 きちんと胡坐の上に抱えなおして。しばらく顔をそらしていたが、ほんの少し、何かが甘く薫った。
(香、かな)
この少女が、香水を首筋に垂らすようなことをするとは、思えなかったが。
匂いに釣られてつい見てしまった白い頚動脈の上は、抗いがたいほどに魅力的だった。髪を結い上げてしまっているので、なおのことそこがはっきりと見える。
 すん、と顔を寄せて匂いを嗅ぐ。何かの、移り香かもしれないやはり甘い。
 汗が引いたばかりのそこに、戯れのようにそっと唇を近づけてみる。
 予想外にその肌の味まで甘かった。
 砂糖でも振り掛けたようだと思った。そのままつい舌で肌をなぞってしまう。すこし触れただけなのに、舌先が甘さに痺れ、判断力を鈍らせる。もっと、ほしい。もっと。
 衣服の襟をほんの少しだけ指で寛げて、隠れる部位をきつく吸った。細い腰を抱く腕に、力が篭った。
 すると苦しかったのか、腕の中の少女は身じろぎして小さく呻きをあげた。弾かれたように、顔を上げた。ばつの悪さが、身体を支配する。
「うー……あ、う。ヤダもしかして寝てた?」
 首をかしげた少女に、ジンは慌てて笑顔を取り繕った。少女は首をぐるりと回したが、ジンが唇で愛したあとには全く気づいていないらしかった。その鈍感さに、今だけ感謝する。どうしてそんなことをした、と問い詰められたら、今の自分は答えられない。
 自分でも判らなかったから。
 ただ、とても甘かったので。
 とてもとても甘かったので。
 自分がしでかしてしまった行為を自覚すればするほどひやひやした。だが幸いにも、それを面に出さず、表情を取り繕うのはなれたことだった。
「残念。せっかく姫を城までお届けしようと思いましたのに」
 おどけて軽く抱きしめると、手を思いっきりつねられた。



 妹や猫のよう、と思ったのは、ついさっき。
 なのに、組み敷いて自分のものにしたいと。
 この腕で抱き潰して、その心を全て自分の存在で塗り替えてしまいたいと。
 馬鹿な、と思った。
 自分は一つの国には留まれない。この国もいずれは出て行く。情はあっても必要以上はいけないのだ。すぐに、切り捨てられる距離感が丁度いい。

 それなのに。

 人の心を引きずり出すそうですよ。

「……引きずり出されたのは俺の方ですか」

 身支度を整える少女の頭、髪飾りがにやりと笑うように光を照り返した。