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84 マイブラザー!

「ユトちゃんってさぁ、音羽とえっちしてんの?」
 ぼちゃんっ
 遊は取り落とした食器を、あー…と眺めた。水を張ったシリコン製の桶の中に落としてよかった。ぶくぶくと水泡を纏う皿に溜息を吐き、遊は食卓に頬杖を突く妹尾家末っ子を振り返る。
「叶クン、下ネタ禁止」
「えっ、これって下ネタなの!? 下品なからかいとかじゃなくて真剣に訊いてるんだけどっ!?」
「ゴーホーム」
「うっわユトちゃんこわい。般若の顔しないで怖い」
 コワイヨーと棒読みする弟分から、遊はダイニングの端に置かれている、メタリックイエローのスーツケースに視線を移した。小ぶりなそれは叶の荷物だ。彼は交通のアクセスいいこのマンションから、明日の早朝フランスに向けて出発する。目的は無論、みちるに会うため。
「だってここに住んでるのかっていうぐらいに勝手知ってる感じだからさぁー。何回泊まってんのって感じじゃん? それでお預けくらってたらお兄様超絶かわいそうじゃん」
「その話やめないと刺すよ」
 洗っていた包丁を電燈にきらっとかざす。叶は諸手を上げると強張った笑顔を浮かべ、こくこく首を上下に振った。
 叶の言う通り、ここは音羽のマンションだ。ちなみに家主は急な出張で留守にしている。叶を泊めることは前々から決まっていたので、遊が音羽の代わりに鍵を空けることになったのだ。
 叶はぺしゃりと天板に頬を付けると、だってさ、と唇を尖らせた。
「僕としてもお兄様が心配なわけですよ」
 遊は無言でコーヒーの入ったマグカップを彼の顔の真横に置いた。ごん、と音を立てた丈夫な耐熱マグに、叶はふうっと息を吹きかけた。
「人の心配するまえに、自分のこと心配しときなよ、叶クン」
「はいはい。コーヒーありがと」
「ん」
 遊は椅子を引いていつもの席に腰かけた。自分の分のコーヒー――ミルクをたっぷり入れてカフェオレにした――に口を啜る。叶も身体を起こして、マグカップに口を付けていた。
「ユトちゃんって、人のことにはがんがんに首突っ込む癖に、自分のことは放っておけっていうよね。そういうところさぁ、音羽にそっくし」
「げげっ、やめてよ。私が音羽に似てるとかって」
 叶は楽しげに喉を鳴らした。愉快そうな顔。天使の顔をしているくせに、背には悪魔の翼が生えているように見える。
 子供の頃は頬ふくよかなまさしく天使のようだった。あの頃の愛らしさは今も変わらない。成長した今でも、おそろしく端整な顔なのに、音羽や棗に見られるような冷たさを、一切宿さない雰囲気が叶の特徴だった。ただし、中身は妹尾家兄弟の中で一番、シビアだ。
「僕、あんまり人のことに首突っ込むの嫌いなんだけどさぁ」
「うんそうでしょうね……」
 人一倍さみしがり屋で、交友関係も広いのに、叶は去る者追わずの体現者だ。彼が執着する人間はそう多くなかった。したがって、彼が他人の行動に口を挟む相手も限られる。
「でもユトちゃんは別だから」
 にっこりと笑って、彼は言った。
「念のためにゆっておくと、音羽がユトちゃんとどうにかなっても、僕はユトちゃんの弟をやめる気はないよ」
「……どうにかって?」
「んー……」
 淡い茶色の瞳が、天井を見つめてぐるりと回る。
「ユトちゃんが音羽から逃げたくなってもって、ことかなぁ」
「ナニソレ」
「僕さ、子供の頃は置き去りにされても、泣くことしかできなかったじゃん?」
 半分減ったマグカップを置いて、叶はひたりと遊を見据えた。口調も軽く、表情も明るい。知ってるものからすれば、彼の口にする事柄は、とても重いものなのに。
「けど、今はちゃんと追いかけられるから。地の果てまで追いかけるよ」
 僕だけじゃない。妹尾の誰もが。
「ユトちゃん。僕はアナタの、弟だよ」

 家族だよ。
 誰も貴女を置いていなくなったりしない。
 貴女を捨てたりしない。
 貴女が傷つけば迎え入れて、貴女が幸せであることを祈る。

「僕はユトちゃんの愚痴を聞く権利があるし、相談を受ける権利があるし、一緒にユトちゃんの幸せを考える権利があるってわけ」
 いい話でしょ、と叶は笑った。
「それで、最初に戻るけど、実際のところどうなの? 我が兄上は苦労性のままなの?」
「それとこれとは話が別だよ」
 遊はげんなりとしながら、絆で繋がれた弟の額を軽く小突いた。