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83 アンチクロックワイズ

 水の帝国の皇宮には、様々なものが残されている。
 世界でもっとも古い国に恥じない、本当に、ありとあらゆるものが。

「シファカ、それに触ったらだめだ!」
「えっ」
 奥の離宮の裏手にある納屋で、ジンや女官たちと共に探し物をしていたシファカは、夫の切迫した声に飛び上がった。
 と、彼が目にも留まらぬ速さで、シファカの手にあった箱を叩き落とす。
 組木細工のきれいな小箱だ。保持の魔術のかかる納屋の中は埃ひとつなく、何もかもが整然と並んでいた。そんななかでその小箱の棚の一角にぽんと置き去りにされた様が目に付いたのである。
 こん、と、床の上で跳ねた小箱が、組木の狭間から光を放つ。
 ジンがシファカを庇って前に出た。
 燐光が吹雪いて視界を染める。
 そして光が落ち着いたころ、シファカの目の前には、ぶかぶかの服の中に埋もれた、子ども姿の夫がいたのだった。


 年齢は五、六歳、だろうか。いつもは筋肉に覆われた手足がふくふくと柔らかい。まるみのある頬。亜麻色の髪は金色に近く、妖精か何かのようである。
 場所は移って奥の離宮。実に愛らしい夫を抱きかかえたシファカは、報告を聞いてやって来たラルトの説明を鸚鵡返しに訊きなおした。
「時間退行の魔術具?」
「そう。いや、もう呪具の部類だな」
 畳の上に胡坐をかいた皇帝は、小箱を弄びながら首肯した。
「うんと昔のものなんだ。おそらく神代に近い時代に作られたものだといわれている。何でも、玩具の一種らしいぞ」
「玩具!? 時間退行させてしまうものが!?」
「便宜上、時間退行の道具と俺やジンが呼んでいるだけで実際は違う理屈なのかもしれないしな。前回は何事もなく三日程度で戻ったし、そう心配することはないと思う」
「前回は……」
「この箱が納屋にぽんと放置されていた理由だ。なぁ、ジン?」
「めちゃくちゃ忘れてた。全力で忘れてた」
 ラルトの声掛けにジンが渋面で呻く。
「昔、本宮の地下で見つけてさー。それのおかげで、暗殺から逃げられて、助かったんだけど」
 唐突に物騒な話となり、シファカは追及したい気持ちをぐっとこらえた。
「……それで?」
「あー、うん。ほら、ここの離宮って、地下の抜け道とかもあるじゃん。俺とラルトにとって、逃げ道でもあったからさぁ。またなんか急に襲撃されたとき、この辺りに置いておけば便利だよなって、納屋に入れたんだよね。あそこ、あんまり使わないし。で、忘れてた」
 ちなみに納屋の中は安全なものしか置いていないという話だったのだ。だからシファカも何の気もなしに触れてしまったのである。
「……何でわたしを庇ったんだ?」
「え、いや、咄嗟だったから」
「もとに戻れないかもしれないって、考えていたからじゃないのか?」
 さらっと誤魔化そうとするジンの身体をしっかり抱いて、シファカはにこやかに問いかけた。
 ジンの視線が少し泳ぐ。
「まぁ、そんな可能性も、ないことは、ないかな?」
 何せ神代に近い呪具となれば現代では仕組みを解明すらできない。ただ子どもになって戻るだけなら構わないが、下手をすると生まれる前の姿、などまで遡ったり、人ではないものに変化することもありえたはずだ。
 シファカはぐっとジンの腹に腕を食い込ませ、彼に怒声を浴びせた。
「ばっかじゃないのか!?」
「ぐ、ぐえっ、シファカちゃん、息、息できな」
「そんなものを納屋に置くな! 放置するな! 忘れるな! そしてわたしを庇うな!」
 ジンとシファカ、この国にとってどちらが重要人物かとなれば、それは紛れもなく前者。皇帝の唯一無二、乳兄弟、幼馴染にして宰相のジン・ストナー・シオファムエンの方である。
 シファカは拳を渾身の力でジンのこめかみにぐりぐりした。細く華奢な手足をばたつかせてジンが悲鳴を上げる。
「いたっ、いだだだだだっ、ラルト助けて!」
「はははははは」
 対面のラルトがさわやかに笑ってジンに告げる。
「反省しろよ」
 皇帝の低く冷たい声音にシファカの胃すらひゅっとなる。
 何のことはない。彼もまたジンの無謀さに怒っているようだった。
「シファカさんの言う通りだからな。放置しておくな。そんなもの。俺は元の場所に戻しておけよって言ったよな、昔」
「……言われたね……」
「もとに戻れなかったら、真っ当に成長して俺が死んだあとお前が帝位を継げよ」
「ええぇえええええそれはヤダ……」
「あと、エイとイルバが来たら謝れ。お前のせいであいつらの休み潰れるんだからな」
「……反省します……」
「書類はあとでこっちに運ばせる。しばらくシファカさんに遊ばれてろ。……ということでシファカさん」
「はい」
「書類とかの目途が付くまで、そいつで存分に遊んでいいから」
「わかりました!」
「うえええぇえええええ!!」
 幼い悲鳴が奥の離宮に響き渡る。
 女官長たちが保管されていた子ども用の衣服を抱えて訪れ、着せ替え遊びの準備を始めたのはそれから程なくのことである。
 体力のない身体を散々もてあそばれた宰相は、その後、過去の己の軽率さを、実に深く反省したという。