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75 ぎんいろと鴉

  北の森は魔女の森。誰も立ち入らぬ奥深くに、鴉色の魔女が住んでいるとの謂れがある。だが、近隣住人はその姿をみたことがない。やわらかな腐葉土が深く積もった獣道、視界を閉ざす乳白色の濃い霧と、不意に突き出た根。鳥の嘲笑にも似た鳴き声が、いつも来訪者を冷たく拒むからだ。
 その昔、魔女の森はみのりと彩り豊かな、生きとし生けるものの祝福の地だったという。
 いま、そこを訪ねる者はいない――ただひとり、銀の魔女を除いて。
 白鳥から人型に転変し、アンテノーラは枯れ積もった黄金の葉を踏みしめた。
 北の森の奥深く、ぽかりと日の差す四方を楡に囲まれた墓に、携えてきた花を手向ける。ところどころ琥珀化した黒い枯木の墓石には、アンテノーラただひとりの友だった、黒の魔女の名が刻まれている。
「千年が経ちました、クロムヒルデ」
 真珠色の長い髪が滝のようにおちてアンテノーラの顔を隠す。その表情を見ることができるのは、大地に還って久しい黒の魔女の墓標たる琥珀楡だけだった。
 アンテノーラは繰り返した。
「千年が、経ちました……」
 クロムヒルデの命が人間(ノルマン)に奪われてから千年。
 それからアンテノーラはずっとひとりぽっちだ――いまのアンテノーラを知るものは、決してそんな風には思わないだろうけれど。
 アンテノーラは銀の姫と呼ばれている。
 銀の姫は、栄光と富を手にしたあらゆる男たちの傍らでたおやかに微笑むうつくしい女の称号だ。将軍、英雄、勇者、大商人、王、皇帝、聖人。時代は異なれども、彼らの傍らにはうつくしい姫がいる。それが世界の約束だとでもいうように。
 英雄の傍には清らかな姫。真珠の髪に白ばらの花弁の肌。庇護欲をそそる常に潤んだ白紫の瞳。華奢な手と、宝石のように澄んだ爪先。アンテノーラはうつくしい魔女だった。栄誉や黄金の次に、皆はアンテノーラを欲しがったのだ。
 ある時は奴隷の娘として、あるいは酒宿の看板娘として、もしくは敗戦した小国の生き残りの王女を名乗って、アンテノーラは数々のノルマンと出会い、その頂きを駆け上がる日々に寄り添った。苦楽をともにし、手を差し伸べ、転落するまでを見つめ続けて一千年を経た。
 アンテノーラは墓の前に膝をつき、友人の琥珀楡にしなだれかかって呟いた。
「これほどの時を経ても、ノルマンたちは何も変わりませんでした。あなたを聖女として崇め、救いを求め、施しが与えられなくなると、裏切られたと正義を振りかざしてかつて自分が愛したものを討つのです」
 クロムヒルデはこの実りゆたかな北の森の腐葉土から生まれた小さな魔女。大地母神の眷属は、この世のすべての黒色をうつくしく宿し、ゆたかな実りを司るが、同時に死や虫や腐敗もその手の内にある。その矮躯も相まった醜い容姿から、ただそこにいるだけで、ノルマンから迫害された。
 けれどクロムヒルデは、くじけない魔女だった。大地母神の眷属らしいおおらかさで、ノルマンを愛し、傍で暮らす人々の安寧と豊穣に尽くし、あらゆる困窮に手を差し伸べようとした。その中でクロムヒルデは、ひと柱の魔女と出会い、願った。
「アンテノーラ、どうかわたしにか変わって、ノルマンたちに五穀を授けてあげてほしいの。彼らは森で生きるには弱すぎるから。外に旅立とうとしているから。実りのない森の外でも生きられるように」
「わたしでよいのですか? このような奇跡を、わたしがノルマンに授けたことになってしまいます」
「わたしが彼らの前に現れたら怯えさせてしまうから。どうか、美しいアンテノーラ。わたしのお友だち」
 本当はクロムヒルデ自身が五穀をノルマンに届けたいのだ。しかしノルマンに拒絶されてしまうかもしれない。森から出られない友人に変わって、アンテノーラはクロムヒルデの願いを叶えることにした。
 アンテノーラはクロムヒルデに代わって世界を旅した。クロムヒルデの名で。クロムヒルデの名は救済の乙女としてノルマン世界の隅々まで行き渡った。アンテノーラはクロムヒルデの名が高まることに喜びを覚えた。旅した出来事を都度、友に報告した。アンテノーラとクロムヒルデはふたりでひとりだった。
 はじめはよかった。ノルマンたちとする旅も。毎日、クロムヒルデと大地を通じて日々のことを語らう星降る夜も。しかし五穀が富として貯蔵できるようになると、ノルマンたちは富を奪いあった。奪われたものも、奪ったものも、クロムヒルデに手を伸ばす。
 あぁ、あぁ、救いの乙女よ。聖なる神に連なる娘よ。
 どうか我らにさらなる麦を。他者も羨む富を。黄金を……!!

 ――もう、ノルマンたちに魔女の助けはいらなかった。クロムヒルデは引き下がり、アンテノーラも彼女のもとに還ることにした。

 ノルマンたちは手ひどい裏切りだと、クロムヒルデの名を借りたアンテノーラを罵り、そして森を焼いたのだ。
 ノルマンたちの生誕の地でもあるはずの。
 クロムヒルデの北の森を、業火でやきつくし、その実りを、麦畑を得るための糧として奪ったのだ。
 森と命をともにするクロムヒルデは、それでもアンテノーラとノルマンの前途を祝福して逝ったのだった。

「クロム。わたしは千年、ノルマンの営みを見てきました。これぞと思う人々の傍に寄り添っただけ。けれども皆、最後はもっとと救いを、富を求めるのです」
 与えられている祝福に気づかぬまま、不足ばかりに目をやって、堕していく。その責で、アンテノーラを糾弾する。
 ――おまえが、王を堕落させたのだ!!

「ごめんなさいクロムヒルデ。千年待ちました。でもわたしは、やはり、あなたを奪ったノルマンたちを、愛せなかったのです」
 アンテノーラは琥珀に口づけた。ノルマンが何人も入りこまぬよう念入りに守りを構築し、千年をかけて蘇った木々と獣たちにクロムヒルデの墓守を頼む。

 そうして、アンテノーラは。

 悪逆の限りを尽くした女帝を、やがてとある英雄が討つことになる。
 その女帝の過去を、人はだれも知らない。