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53 おねがいごと

将軍は無断でいなくなる。
 国から離れる旨をわざわざ里に寄って報告する義務など彼にはない。ヤヨイにもそれぐらいわかっていた。が、落胆は隠せなかった。ひとことぐらい、挨拶に立ち寄ってくれてもいいではないか。
 将軍はひとたび雲隠れしてしまうと軽く半年は姿を見せない。彼にとっては一日か二日ほど留守にする感覚なのだろう。
 それでも将軍が里に顔を出す感覚は徐々に短くなっているのだという。かつては一年、二年、それ以上戻ってこないこともざらだったのだ。
 ヤヨイが初めて将軍と出逢った日。母が、十年ぶりですね、と将軍に声を掛けていた。母の声色は悲しみを帯びていた。彼女もまた、将軍に恋をした女のひとりだったのだから。
 里の女たちは一度は将軍に恋情を抱く。しかしその想いが育ちきることはほとんどない。会いたいときに会えない男を愛することなど不毛だ。しかも、決して寄り添えない男に。決して自分を愛してくれることもない男に。女たちの恋情はやがて薄れて枯れていく。
 ヤヨイはそうではなかった。
 ヤヨイは今でも願っていた。
 願わずにはいられなかった。
 

「ヤヨイ、久しぶりだなぁ」
 ヤヨイが子どもの頃から見目も中身もまったく変わるところのない男は、ヤヨイの腕から洗濯かごを取り上げながら、ちっとも久しい感じのしない朗らかな挨拶をした。
「将軍? いつお戻りになられたんですか?」
「ついさっき」
 笑って答えた将軍は籠を抱えたまますたすたと歩きだした。洗濯物がぎゅうぎゅうに詰め込まれているというのに落とす様子は見られない。その抱え方が妙に様になっていて、笑えばいいやら感心すればいいやら。気が付いたときには彼の背はかなり小さくなっており、ヤヨイは慌てて追いかけた。隣に並んで問いかける。
「今回はどちらへ?」
「南大陸」
やや置いてから、彼は捕捉した。
「アハカーフがどうなってるだろうって思ってさ。西はついこのあいだ見て回っただろ?」
「ついこのあいだって……二年も前のことですよ」
 そう口にしてから、ヤヨイはしまったと唇を指先で押さえた。ヤヨイからすれば二年は長い。しかし将軍からするとおそらく、違うのだ。
 将軍は気にした様子もなく、楽しげに笑っただけだった。
「あぁそうそう。二年も前だった。南も面白いことになってたぞ。また今度、遊びに行こうなぁ」
 将軍は気軽にそういうが、実際、ヤヨイと彼が連れだって“遊びに出かける”ことはない。将軍がヤヨイを里から連れ出すときは常に仕事を伴う。それでもいいと思う。彼と共にいられる時間は、短い。
「またどこかへすぐ出かけられるのですか?」
 ヤヨイの問いに将軍は首を横に振った。
「いいや。しばらくは骨休めするよ」
「それはよろしいことですね。あまり放っておかれると、姫様も不機嫌になられるのではありませんか?」
「はは、それは困るなぁ」
 ちっとも困っていない口調だった。ヤヨイは物干し竿の前で立ち止まって諫言した。
「本当に、少しは落ち着かれたほうがよいのではないですか。知りませんよ、そっぽを向かれても」
「大丈夫。ありがとうな。ヤヨイ」
 洗濯籠を足元に置いた彼はヤヨイの頭をくしゃりと撫でた。
「将軍、わたくし、もうすぐ十七になるのですけれど」
 頭をかき混ぜられながらヤヨイは訴えた。まったく、こちらを幾つだと思っているのか。頭を撫でられて喜ぶことも時代は終わったのだ――多分。
「そうだっけ?」
「そうです!」
 あと一月もすれば生まれ月だ。早いものだと自分でも思う。
 先日、同じ年の娘が夫を得た。複雑な気分だった。
「早いなぁ」
 将軍は感慨深げに頷いた。眩しそうに目を細めてヤヨイを見降ろしてくる。
「そっか。きれいになるはずだ」
 ヤヨイは年を取る。対して、男は永遠にこのまま。
 それがとても残酷に思え、ヤヨイは目を伏せた。
 将軍と二人でする洗濯はすぐに終わった。将軍は手伝いを惜しまない。里に寄れば家屋の修理から野良仕事、炊事に子守まで嫌な顔ひとつせず手伝うことが常である。
 竿に掛けられた最後の一枚が青空の下で風にはためく姿を認め、よし、と頷いたヤヨイの横で将軍がぽんと手を打った。
「そうだ。何か俺にしてほしいことはある?」
「どうなさったのですか藪から棒に。……お洗濯のお手伝いだけで充分ですけれども?」
「手伝いはふつーにいつもしてるだろ。そうじゃなくてさ。せっかく誕生日なんだ。何かひとつ、欲しいものがあれば買ってやるし、してほしいことがあったらしてやるよ」
 将軍は素晴らしいことを思いついたと言わんばかりに目を輝かせている。わくわくとヤヨイに期待の目を向ける彼はまるで子どものようだった。ヤヨイは唖然として将軍を見返した。
「そんなこと……他の皆にはどういうのですか?」
「内緒にしておけばいいだろ? お堅いなぁヤヨイは」
 せっかくの申し出を窺ってかかるヤヨイに将軍は初めて不快そうに眉をひそめた。ヤヨイは慌てて囁くように謝罪した。
「申し訳ございません」
 しかし、だ。
 将軍は里のものたちに平等に接してきた。誕生日をまもなく迎えるからといって誰かに贈り物をすることはこれまで皆無だったはずだ。
 ヤヨイは俯き加減のまま将軍の顔色を窺った。彼はヤヨイの返答を待っていた。
「何でもいいよ。俺が叶えられる範疇なら。ヤヨイには、世話になってるからさ」
 では。
 ヤヨイは笑って、思った。
 ひとばんだけでいい。
 ――わたしを、あいして。
 自分がいまだ見知らぬ誰か他の男のものとなるまえに。
 馬鹿げた願望は喉の奥に引っかかり、声となることはなかった。ヤヨイは自嘲に嗤った。本当に、馬鹿馬鹿しい世迷言だった。
「……ヤヨイ?」
 黙りこくったまま俯くヤヨイの顔を将軍が訝しげに覗き込む。
 ヤヨイは面を上げて微笑んだ。
「ではこれからは、国をしばらく離れられるなら私に教えてください」
 顔を出して、これから行くと、告げてくれるだけでいい。
 将軍はやや拍子抜けした面持ちだった。
「そんなことでいいのか?」
「えぇ。だって、突然いなくなられてしまっては、旅の安全も祈れませんもの」
 唇を尖らせてヤヨイは主張した。本当に、いつもいつも突然いなくなる将軍には少々腹の立つところがあったのだ。
「わかった。そうする」
 将軍は苦笑してヤヨイの頭を再びかき混ぜた。せっかく纏めていた髪が鳥の巣のようになってしまう。もう、と眉間にしわを寄せ、ヤヨイは鼻息荒く拳を振り回した。
「前言を撤回いたします! 私を子ども扱いするのやめてください!」
 そのうちな、と、将軍は朗らかに笑い声を立てた。


 願わずには、いられない。
 この恋が片恋で終わることなどわかりきっているのだから。
 せめて。
 せめて少しでも長く。
 傍に、いられますようにと。