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48 愛の肖像

「一番美しい娼婦は誰だね?」
 娼婦を捕まえてする質問ではない。館に仕える女たちは皆、己が一番美しいと思っている。だがまるで無垢な子供のような目をするその男に、アスマは正直に答えていた。
「リヴだね」
 男は微笑んだ。
「では、その娘を買おう」


 エムルはどこから流れてきたのかもわからぬ、いつの間にかこの国で名を馳せていた画家だった。黒髪に月色の瞳、白磁の肌。顔立ちからリオールの民なのではと憶測するものもいたが、定かではない。生粋の西大陸生まれでないことは確かだった。
 男が買うといったリヴは、天性の娼婦だ。何人もの客が彼女を求めて館に押し掛ける。売れっ子の娼婦ともなれば、徐々に値を釣り上げて身を売らなくなっていくものだが、リヴは違った。リヴは才がなかった。芸事の覚えも今一つ。頭が少し弱かった。結果、リヴは人の欲に晒され続けた。
 男たちが彼女の柔肌に食らいつく度、彼女は正気を失っていくようだった。
 子供のようなリヴ。
 けれど、男に抱かれる姿も、もの憂げに夜明けを見つめる姿も、壊れたように泣く姿も、阿呆のように笑う姿も。
 ただ、うつくしかった。
 絵になる女だった。その女を額縁の中に収めるために、エムルは現れたのだ。


 エムルが訪れたリヴの部屋は静かで、ことりともいわぬあまりの静寂を案じて、アスマはしばしば中を覗き見た。薄い紗の帳の向こう、微動だにせぬ影がふたつ、月明かりの中に落ち、その様相は侵し難い神聖さに満ちていて、黒檀が布の上を走る音にうっとりと目を閉じるリヴは、礼拝堂で慈愛の微笑を湛える聖女によく似ていた。


 リヴはエムルを愛した。
 それは恋情というよりは、幼子が寄る辺に縋るかのような強烈な執着だった。


「ただ同情で優しくするのはやめといておくれ」
 アスマはエムルに釘を打った。あまりに陳腐なその言を、自らが口にすることがあるなどと、どうして過去の自分は思えただろう。
 恋をした娼婦たちは使い物にならなくなる。リヴのエムルへの想いは拙いものであったとしても、結果的に恋着とそう変わりなく。彼女をなだめすかし他の男のもとへ送ることは徐々に困難になりつつあった。
「あの子は身体を売ることでしか生きていられないんだよ」
 彼女の頭の弱さでは――あの美貌と身体がなければ、もっと早くに路肩で屍となっていただろう。
「あんたは流れ者だ。やはりあんたはリオールなんだろう? どこかへ行くんだろう? そうすればもう、リヴは死ぬしかない」
「死は恐れるものではないよ、アスマ。誰にでも平等に訪れ、その魔は朽ちた身体より放出されて世界の一部として循環する」
「あんたたちの教義をきいているわけじゃないよ、エムル。わたしは……」
「わかっているよ。アスマ、君はリヴに生きていてほしいんだね」
 それは、あの子を愛しているのだね、と問うているに等しい響きを持っていた。アスマはそうだよ、と言った。
 そうか、とエムルは微笑んだ。
「私もなんだ」


 その日を境に、エムルは数か月姿を消した。
 そして再び現れたとき、彼は文字通り、黄金を積んだのだ。
 リヴを妻とするために。
 彼女を娼婦のくびきから解き放つために。


「あの金、どうしたんだい?」
「絵を一枚描いて寄贈した。前々から依頼を受けていたものでね」
「どんな絵を?」
「宗教画。まさか私が聖女の誕生を描くことになるとは」
「宗教画一枚であんな金になるものか」
「なるさ。ほかの国ではどうか知らないが、この国は芸技の国だろう?」
「芸技の国だからこそ、絵にはひときわ厳しい審美眼を持ってるんだよ」
 リヴの部屋へと向かいながら、アスマはひたすら男に食って掛かっていた。
 アスマは昔からリヴを助け続けてきた。リヴに頼られること、彼女を助けることができるということ。それがアスマの存在意義であり誇りだった。しかしその役目をエムルが奪った。こんな、何を考えているかわからない男に。
 負けることが、悔しかった。
 ふたりで迎えに行ったのに、リヴの細い腕が迷わずエムルに伸ばされたことも。
 リヴに求められぬ自分は生きられない。


「エムル。どうしてリヴを助けたんだい?」
 アスマの問いに、エムルは自虐的に嗤う。
「君と同じ理由だ。アスマ」


 エムルは絵描きだ。その全てに生を捧げた、狂気的な。けれどその筆はいつしか迷い、エムルは何も描けなくなっていた。
 リヴの無垢な美しさが、エムルに描くことを思い出させた。エムルの筆は、リヴという被写体を望んだ。
 だからエムルは金を積んだ。
 リヴを失うことで、もう描けなくなることを恐れた。
 リヴを失うことで、生き延びる意味を見いだせなくなるのではと、慄いたアスマと同じように。
 彼のリヴへの愛は、アスマのそれととてもよく似ている。


 描かれた幾枚もの裸婦像は、エムルの歪んだ愛の形でできている。