
47 クラッシュ 後編
煉瓦の腰壁にダマスク模様のグリーンの壁。飴色のガラスシェードが、ダークブラウンの丸テーブルに、やわらかな光を投げかける、少しレトロな店内の奥。
色の入った眼鏡をかけた男の人が、読んでいた本から面を上げて、店内の入り口に立ったわたしに手を振った。
「天宮さん」
わたしは慣れつつある顔にほっとして、席へと歩いた。
「すみません、待たせましたか?」
「勝手に早く来ただけだから気にしないで。こういうゆったりできるゼイタク、好きなんだ、僕」
対面の席に着くわたしを見つめながら三村さんは微笑んだ。
彼――三村斗真さんの車にわたしが追突事故を起こしてしまってはやひと月。現場検証やら保険会社を通じたあれこれのやり取りも無事に終了。最後にもう一度会おう、となったのは、端的に言って、気があったのだ、と、思う。
事故当日、わたしは三村さんとともに病院にいった。彼いわく、わたしはひとりにしていられないほど冷静さを失って見えた、とのことだった。否定はできない。でも、婦警さんや看護婦さんの優しい労いの言葉や、診察を待つ間、わたしの愚痴を興味深そう聞いてくれた三村さん。彼らの存在に救われた。
いや、正直に言って、男性蔑視ともとれるわたしの愚痴を黙って聞き続け、大変だったね、の一言で済ませてくれた三村さんには頭が上がりません。その節は本当にすみませんでした。
三村さんは自営業とのことで、わたしの勤め人生活の話が面白かったらしい。逆にわたしも三村さんの自営業ならではの自由で多様な、一方で逃げ場のない話が興味深かった。
「常に存在をアピールする必要があるんだ」
と、三村さんは語った。
「声を上げるだけだと埋もれてしまう。愚痴るだけなら誰にでもできる。そうならないように、自分がフィットする場所を求めてあがいて――毎日は、常に衝突の連続だ」
三村さんのそのスタンスは、非常に共感するところがあった。だから最後にランチでも、と誘われたとき、頷いたんだと思う。
車で追突事故を起こすなんて初めてで、一時は本当にパニックになってしまったけれど、いまはこうやって美味しいホットサンドとコーヒーを挟んで雑談している。人生なにがあるかわからない。
「紙でも本を読むんですね」
アイスコーヒーの氷をからからかき混ぜながらわたしは尋ねた。
三村さんはよく本を読むという(自営業は常に勉強しないとすぐ捨てられるんだ、と彼は笑っていた)。でも読書はデジタル派だといっていたのだ。紙のハードカバーも読むんだな、とタイトルを見つめる。『月帰葬』――今度、舞台か何かになるんだったような。
「貰い物だよ」
「あぁ、だから紙なんですね。中華風舞台のファンタジーでしたっけ?」
「よく知ってるね。本はよく読むの?」
「一冊で完結するものばっかりですけど」
昔は小説も漫画も長編を好んだ。でも最近はまとまった時間を取ることが難しくて、内容を覚えきれるような短いものか、ビジネス本ばかりだ。
わたしの説明に三村さんが納得の顔で頷く。
「それでテレビも見ないんだ?」
「あれ、話しましたっけ? そうです。映画とか、舞台なら、半日時間を取ればどうにかなりますし、そこで完結するから見れるんですが、ドラマは長くて……」
と、言いつつも、このところ、舞台や映画も見に行っていない。
「部署が代わって、忙しいんだったね」
「勉強不足を痛感してばかりなんです」
三村さんが言及した部署は、知財法務課ではない。追突事故を起こして一週間と経たず、わたしはまた別の部署に移動になったのだ。
移動先は海外営業の新設された一係。わたし含めて四人の小さな課だけれど、とんでもなく美形で仕事のできる上司と、同じくイケメンさんで仕事のできる先輩と、モデルか? と見紛うギャルながら、多言語べらべらの才女に囲まれて、なぜわたしが配属になったのかわからないすごいでいる。
「前の部署ではがんばりきれなかったから、今度はもっと、課題にぶつかって行きたいなって思いまして」
三村さんと出会えてよかったことは、課題にはぶつかっていかなければならないんだ、と思えたことだった。
知財法務部ではわたしがいいように扱われていたのは確かだった。
でもそれを往なす力を、わたしはそこでつけなければならなかった。疲弊しきってどうにもならなかったのかもしれないけれど、せっかくの未知の部署、もっと学べばよかった。
会社っていう後ろ盾のない状況で、自分のオリジナリティを探して色んな体験をしている三村さんの話を聞いて、そう思えた。
だから、今度の部署ではがんばりたい。
そんなわたしの話を三村さんは聞いて、応援するよ、と、いってくれた。心からの声援だと信じられる彼の朗らかな笑顔を見て、この人はきっと女性にモテるぞ、と、わたしは思った。
「わたしも三村さんのこと、応援しますよ」
ぐっと拳を握り、わたしは言った。
この人とまた会えたら楽しいだろう。でもきっと大変だろう。
わたしには友人が少ない。わたしから誘わないと遊んでもらえないタイプの人間だ。一方の三村さんはきっと真逆で、付き合いが深くなればなるほど、彼の交友関係の広さに嫉妬することになるだろうな、というのは、今日までの度々感じた。
なので、会うのは今日でおしまい。
今日は事故の諸々の処理、お疲れ様でした、のちょっとしたねぎらい。
わたしと三村さんは、友人ですらない。
おいしいホットサンドとコーヒーを挟んで、数時間、色々な話をしたあと、わたしたちは店を出た。
最寄り駅前のスクランブル交差点までふたりで雑談しながら歩く。信号が青になり、わたしは事故のことのお詫びと、今日のお礼を述べて、三村さんと別れた。ここまでで何か彼からアクションがあれば友人になれたのかもしれないけれど、きっともう会うことはないだろうな。
と、思っていた矢先、携帯が鳴る。画面表示には三村さんの名前。わたしは慌てて通話を押した。
「はい、すみません何かわたし忘れましたか……」
『僕は自惚れていたんだ』
「……ハイ?」
携帯電話から響く、くぐもった三村さんの声。わたしは彼を探した。
車が行き交うスクランブル交差点の向こうに、彼は立ったままだった。
彼はわたしを見てゆっくり話す。
『僕を知らない人はもう日本にはいないよ――マネージャーの言葉を真に受けるのもほどほどにするべきだって、君に会えて気づいたし、まだまだ挑戦すべきフィールドはたくさんある』
「三村さん、何の話……」
『里帆さん(••••)、上を見て』
と、彼は腕を伸ばし、いっぽん指で天を真っ直ぐに示す。
初めて名前を呼ばれたことに驚きながら、わたしは言われるがまま、彼が示す方向を見た。
交差点を囲むビルには、液晶の大画面広告がある。
午後三時。画面が切り替わる。
水墨画で映し出される、中華の山奥と思しき風景。地上へ急降下する鳥の視点ですべる景色。徐々に色づき、アップになる東屋と、鷹を腕に止める、湾曲した剣を腰に提げた、唐風衣装の貴人男性。
その顔に、わたしは目を見開いた。
「み、むら、さ……」
『ブロードウェイを感動の渦に巻き込み、その年のトニー賞で十二部門で最優秀賞を受賞した、月帰葬が再び日本へ』
画面上に映し出されるテロップ。
続く文字に、わたしは立ちすくんだ。
『主演: 三村斗真』
「………はい?」
まってまってまって。
えっと、さっき三村さんが読んでいた本が海外でヒットしていた舞台で、それがまた日本で舞台化されて、その主役が三村さんで、わたしが追突事故を起こした相手も同姓同名の三村斗真さんでしかも大画面と同じ顔で……?
『……里帆さん』
携帯から、笑いを含んだ三村さんの声が聞こえる。
『またね』
と言い残し、彼は雑踏に消えた。
わたしは愕然と呻く。
「うそでしょ……」
人生とは、衝突の連続である。
そしてその結果、もたらされるものは。
――これはわたしが思いがけず追突した恋愛の、その始まりのはなし。