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35 亡骸は夢を見る

「昔のことはいつも鮮やかに思い出せる。特に最後のひと月は。あんなにひとに愛を語ったことはなかったし、愛を感じたことはなかった。奇妙なことだけれど、あの半年は……最後のひと月は、生きている、気がした」
 独白の声は部屋を満たす暗闇に吸い込まれるようにして溶けていった。
 山林に囲まれた広大な敷地の一角に、学生寮はある。月のない夜、灯りを吹き消した後の部屋は静寂で満ちている。隣室の同窓生たちの声も聞こえない。穏やかな夜だった。
 わたしたちはふたりで眠っている。狭い寝台にそれぞれの寝具を持ち寄って。枕を並べて包まって。
 わたしは懐古する。
 おそらく墓場まで持って行くだろう秘密を打ち明けてくれた友人に、誠実を返すため。
 わたしの罪を告解するため。


 わたしは西大陸の北西部の小国デルリゲイリアで生まれた。芸妓たち流れ者たちを祖に持つという芸技の国。中央から外れていたことで、魔女の災禍を経てなお生き残った国。
 爵位という概念はあるにはあるものの、それより上中下という区分と野ばらの家紋でその血筋を表す国。
 わたしはその上級貴族ガートルード家の長子として生まれた。祖母にメイゼンブル公家の姫君を持つ。父は国主エイレーネの兄。上の上。多くの家臣を持つ家柄の、継嗣がわたし。
 わたしの国では男女の別なく長子が家長だ。わたしもそのように育てられた。わたしの生を一変させたのは王女と女王の相次ぐ死だった。西の覇者であったメイゼンブルが滅ぶという災禍を乗り越えたかのように見えたわたしの国は、その実、危うい綱の上で均衡をとっているにすぎなかった。外の国は荒れていた。外の病が蔓延し、多くの子女が死んだのだ。不思議だったのは壁向こうの城下より貴族に多くの被害が出たこと。発症がわたしたちの側であったから、外から支援を申し入れにやってきた外交の使者が病を持ちこんだとみられている。実際はどうなのか。すべては闇のなか。重要なのは病の源ではなく、国の後継ぎと、女王自身が身まかられたこと――祭りが、始まった。
 わたしの国では女王の継嗣が隠れると、上級貴族の女子から五人の候補を立てて、次期女王の座を競い合わせる。わたしも先の女王に最も近しい存在として、最有力の座に置かれた。父は躍起となってわたしを女王に付けるべく奔走する。母はその座につくことが将来、あなたを幸福にすると説く。わたしにはわからなかった。その幸福の意味が。

 候補になってわたしを喜ばせたことはひとつ。マリアージュが同じく候補にその名が挙がったことだった。上級貴族の中では底辺に近い順位の彼女は、社交の場に滅多に姿を現さない。彼女の母は病がちで、その難病への薬を求めて、時の当主は西へ東へと奔走し、方々に借金の申し入れまでした。それを恥じ知らずととった他の貴族たちから蔑まれ、マリアージュの影は社交会で薄かった。
 けれどわたしは彼女のことがとても好きだった。苛烈な炎のように佇むあなた。未来を睨み据えるあなた。あなたの周りは誰もあなたを甘やかさない。あなたに曖昧に未来を解かない。女王になれば幸せになれるのよ。わたしたち候補の誰もが砂糖菓子のように曖昧模糊とした言葉を鵜呑みにする中、あなただけは異なった。父の期待に応えるために女王の座を目指したあなた。いずれ、あなた自身の手で生きるためにその座を目指し始めたあなた。
 マリアージュ、あなたはわたしにとって眩しい光のようだった。
 その光を眩しく思う一方で、わたしは恋をしていた。

 それはわたしにとって、一世一代の恋だった。

 ロウエンと出逢うまでわたしはガートルード家の長子という器に過ぎなかった。わたしはロウエンと出逢って血と肉を持った。これまで内に巣食っていた感情を自覚した。
 ロウエンは医者だった。城下での顔見世の際に体調を崩したわたしをたまたま介抱した町医者。わたしは恋をした。わたしたちは恋をした。女王になれば幸せになれる? いいえわたしは幸せになれない。わたしの幸せはロウエン、彼と共にあるのだから。

 わたしは国を捨てることを考えた。ロウエンはそのことに反対だった。わたしはいつもロウエンの国でロウエンと共に生きることを夢見ていたのに。彼はそれをよしと考えなかった。家族を安易に捨ててはいけない、と、彼は言った。
 結局、わたしは捨ててしまった。
 
 ねぇロウエン。わたしはどうしたらよかったの。教えて欲しい。わたしはあなたに恋していた。あなたを愛していた。あなたと共に居られたら幸せだった。あれほど笑ったり怒ったりしたことはなかった。

 最後のひと月。ロウエンの恋に身を焦がしながら、わたしは次期女王の座をマリアージュと争った。わたしは生きていた。女王というものの意味を真剣に考え、その未来とロウエンを天秤にかけ、マリアージュと幾度も言葉を重ね。 

 そしてロウエンと共にすべてを失ったわたしは、ここに流れ着いた。
 わたしの罪はロウエンと関わったこと。あのひとを愛したこと。わたしの幸せを求めたこと。

「それの何が罪?」
 長い話を聞いて友人はわたしの頬をその手で挟む。香草の薫りがする。濃い緑の目がわたしの姿を映し出す。
「あなたの恋は、誰かを不幸にした? あなたのロウエンは、何といっていたの?」
 青の花の咲き乱れる丘の上で、父に負わされた深手に苦しみながら、彼はわたしに囁いた。

 あいしてる。

 ――きみにあえて、よかった。

 それを聞いて、友人は微笑んだ。
「ならあなたは人を幸せにしたのよ、アリシュエル。あなたの過去は罪じゃない」
 ロウエン。わたしはあなたの皮を被る。あなたの口調を真似て、あなたの志した路を歩く。わたしはあなたと共に死んだので。わたしの亡きがらはあなたの亡霊を被って今を生きる。あなたを愛している人々の空虚をせめて埋められないかともがいている。
 わたしの亡きがらは、まだ記憶している。あの忘れ得ぬ時を。最後のひと月を。今わの際、あなたがわたしに囁いた言葉を。
 わたしも愛してる。
 そうしてわたしは密やかな夜、友人と共に眠りに就いた。幸せな過去を夢見て。